幕末の生糸輸出
安政6年(1859)、幕府は外圧によって横浜・長崎・箱館を開港した。横浜には外国商社と国内の売り込み問屋が軒を並べ、貿易が盛んになった。
特に主力輸出品になったのは生糸である。たまたま、ヨーロッパで蚕の病死が蔓延したこともあって、日本での買い付けが多くなったのである。輸出総額に対する蚕糸類(注1)の輸出額は、8割を超える勢いだった。
しかし、それをいいことに粗製濫造や不正な製品が絶えなかった。上質の生糸の中に不良の糸を混ぜたり、目方を重くするために束糸の巻紙を幾重にも巻いたりした。生糸業者の風上にも置けない奸商が横行したのである。その結果たちまち信用は地に落ちてしまったのである。
イギリスの外交書記官アーネスト・サトウ(注2)は、この不正を看過できずに幕府に指摘した。危機感を持った幕府は取締りを強化したが、効果を上げられないまま明治維新を迎えたのである。
注2:アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)は、イギリスの外交官。日本人の血が流れていたわけではないが、親日家であったため「Satow」に漢字を当てて「薩道」という日本名を名乗った。 |
一方、外国商人の不満は、横浜商業会議所にも寄せられた。同会議所はこの旨を文書にして生産地の関係者に配布したのであるが、是正するまでに至らなかった。
業を煮やしたイギリス公使館は、アダムス書記官に蚕糸業地域の現地視察をさせることとなった。視察チームには、輸出生糸の検査技師三人と明治政府の護衛及び案内人十人、それに通訳を帯同させた。検査技師の中には、後に富岡製糸場の建設に大きく係わったポール・ブリュナなる人物(後述)がいた。
1869年(明治2年)6月22日から7月6日まで、武州・上州・信州・甲州の生産地を視察した。その結果は、問題点の指摘および提言として報告書にまとめた。公使のパークスはこれをイギリス本国に送ると共に、横浜商業会議所や、明治政府へも伝達した。その要旨は次のとおりである。
- 生糸の生産が停滞しているのは、輸出用の蚕種の生産に廻されているためである。
- ヨーロッパの製糸器械と生産方式を取り入れるべきである。
- 大規模な工場建設には多額の資本が必要である。日本の現状では資本の調達は困難である(外資投入を匂わせている)。
- 仮に建設可能となったとした場合に、年間操業に足る原料繭の備蓄が必要である。
- 建設地は養蚕業の盛んな上州か信州が気候的に恵まれていて、繭を損なうことなく貯蔵できる。
|
アダムスは、翌1870年1月に第二次の報告書をパークスに提出しているが、洋式器械の導入を強調しつつ次のように提言している。
- 洋式器械の導入のために、蚕糸業地域の資産家がその実現に向けて努力すること。
- 器械の規模を日本人向けに改良すること。
- 日本人に新技術を指導するために、一定数のヨーロッパの製糸工を雇うべきこと。
|
第一次報告書では、工場建設に外資導入を匂わせていたが、第二次報告書では、出来る限り日本人の努力で建設するよう提言を変えている。
これには理由がある。安政5年(1858)に締結された修好通商条約に、外資導入が抵触するからだった。
アダムスは、さらに2回目の現地視察を武州・上州・信州・越後の生糸生産地で行なった。1870年の6月6日から7月14日までの40日間である。そして8月に第三次の報告書をパークス公使に提出した。
この視察には、日本政府が全面的に協力している。政府の随行者はもとより、行く先々の視察地で疎漏のないようにと、丁寧な出迎えさえ行なわせているのである。
ところで、このときには生糸の検査技師はイギリス人一人のみで、前述のポール・ブリュナと、もう一人のフランス人技師は随行していない。
このことが極めて意味深長な気がするのである。というのはアダムスの現地視察は6月である。ところがこれより早い3月に、政府は全額政府の出資で製糸場の建設を決定していたのである。アダムスが現地視察を始めた同じ6月に、政府は建設実現の責任者として、ブリュナと仮契約を結んだのである。
ブリュナは、製糸場候補地を視察のため、アダムスとほぼ同時期に信州・上州・武州を旅している。
言わば、政府は片やブリュナと契約し、片やイギリス公使の現地視察にも協力しているのである。現在の感覚からすると、一つの懸案事項で二股外交をしているような気がする。それだけ未知なる大事業に対する不安が、そうさせたのではないだろうか。
もっとも日本政府は、イギリス側の一連の調査には敬意を表し、イギリス政府は丁重な扱いに対する礼を述べるなど、友好的なムードの書簡が交わされている。