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天明の浅間焼け

<16.9.25記>
 浅間山は太古より噴火を繰り返して現在に至っている。近年の大爆発は江戸時代後期の天明3年(1783)の7月8日(新暦8月5日)である。

浅間山位置図
浅間山位置図 Mapfan Web

 火砕流は北麓を三方に流れ、速度を増すことによって中腹の表層を抉り取り、土石流に拡大した。沢水は蒸気と化し、熱泥流が村々を襲った。最大の被害をこうむったのは、鎌原村(かんばらむら-現嬬恋村)である。高台の観音堂に逃げ延びた僅かな人々を残して、集落は消滅した。泥流に巻き込また者もいれば、地下深くに埋没した者もいた。

鎌原村位置図
鎌原村位置図 Mapfan Web

 鎌原村には、現在と同じように街道が発達していて、農業にいそしむ人々が生活を営んでいた。土石流は集落を襲い、人馬をさらって怒涛の如く吾妻川に流れ落ちたのである。さらに沿岸の被害を増幅させ、現渋川市において利根川に合流する。やがて関東平野にいたり、膨大な土石が灌漑用の水路になだれ込み、田畑を埋め尽くしたのである。やがて水が引きはじめたとき、あちこちの浅瀬には人馬の死体が残され、遠くは江戸湾まで達したという。遺体の姿は、まともな人体を留めたものは少なく、石にもまれて切断されたものが多かったという。このときの大噴火を、当時の人は浅間焼けと呼んだ。


火砕流概念図( カシミール3D にて作成)
群馬・新潟・長野県境、白砂山上空20,000mより俯瞰

 鎌原村の直撃もさりながら、下流河川の被害も甚大であった。このときの状況をシミュレーション的に思い浮かべてみる。・・・膨大な土石によって吾妻川は流れを阻止された。そこに自然のダムが形成されようとする。やがて堆積された土石の頂部に達する。満水になったときが運命の分かれ目である。堤頂をオーバーフローしてもダムが決壊しなければ、堰止湖が出現していずれは景勝の地に変る筈である。しかしダムは決壊した。上から流れ崩れるという悠長なものではなく、水圧に耐えかねて、底部から一気に押し流されたというのが本当だろう。

 これによって、どうなるかは自明の理である。大量の水が爆発的に奔流し、群馬・埼玉両県の利根川広河原までを洪水の餌食としたのである。例えば、渋川市の南隣に吉岡町がある。利根川右岸の河川敷に緑地運動公園があって、その入口にある記念碑がそれを物語っている。


漆原耕地開拓の碑


直耕安食の碑

 この辺りは、鎌倉時代に漆原村落を形成し、荒地を拓き田畑に変えた豊穣の土地である。この耕作地が天明の浅間噴火によって埋没した。復旧に40年を要したと、碑に刻まれている。
 隣接してあるは、江戸時代の思想家、安藤昌益(あんどうしょうえき)の古文から引用した「直耕安食」の碑である。農耕を本道として、人間生活における基本的重要性を力説した書物の一節であるという。

 さらに下流にいたると、利根川と烏側が合流する。ここでは、おびただしい人馬の死体が打ち寄せられた。五体満足なものは少なく、身元確認の不可能なものが多かったという。


慰霊碑位置図 Mapfan Web

 現伊勢崎市の戸谷塚村(とやづかむら)では、700遺体を収容し野辺に葬った。そして夜な夜な泣き声が聞こえたので、翌-天明4年、戸谷塚村民によって石地藏尊を建立した。人よんで夜泣き地蔵という。大正2年の耕地整理に伴って、元々あった村の観音堂と共に現在地に移設したのである。
 さらに後年、慰霊碑を建てて、旧鎌原村と旧戸谷塚村の子孫が毎年双方を訪ね、慰霊祭を行なっている。
(真ん中が地蔵、左端の板碑が慰霊碑、その上に観音堂の庇が見える)


戸谷塚村の石地藏尊

 慰霊碑の碑文をPDFで示す。 

慰霊碑の碑文(PDF)

<2017.11.26-追補>合同慰霊祭
 たまたま今夏、戸谷塚村の郷土史家である飯島氏の知遇を得た。詳しい資料も頂き、合同慰霊祭の様子を取材したいとの申し入れも快諾して頂いた。旧鎌原村の人たちは草軽バス1台を仕立ててお越しになった。正面には真ん中に地蔵尊が鎮座し、左側に長野原町、右側に嬬恋村の赤い供養提灯が立てられている。式典は何の前触れもなく、鎌原の和讃が詠じられ、次に戸谷塚村の和讃へと続いた。このあと、近くの戸谷塚町住民センターで交流会が催されるだろうから、僕はここで引き上げた。


合同慰霊祭

 ところで 利根川水系で、なぜここだけが突出して遺体が多かったのだろうか。これについて郷土史家-飯島氏の説明はこうだ。
 図1・図2とも東西南北は現在とほぼ同じ。上の太い流れが利根川、下の細い流れが烏川である。
 図1の利根川は真ん中辺りで分流し、細い流れが玉村町を南東に流れて烏川に合流している。 一方、分流点の利根川はすぐ下流側で北東に蛇行し、こぶのように大きく湾曲した頂点で再び分流している。
 その分流は徳川幕府の河川政策によるもので、真東に3割の水を流し、南東側に7割の水を流したのである。それぞれ三分川・七分川と呼ばれている。

 大きく湾曲した七分川と三分川には、元々漂流物が留まりやすい構造だったというべきか。泥流が押寄せてきたとき、遺体のみならず、あらゆる物が漂着したに違いない。そして洪水が治まってみれば、三分川・七分川とも消滅し、図1の玉村を烏川に合流する細い川が利根川本流に変ってしまったのである。 



図1.変流前


図2.変流後

 戸谷塚から少し下流の八斗島にも1基の慰霊碑がある。


八斗島墓地

真ん中の角柱が慰霊碑

 さらに下流の中島村(現伊勢崎市境中島)では、流死者36体を拾い上げて葬ったという。


境中島345の墓地入口

流死霊魂位

 結局、利根川流域まで含めた23ヵ村の全死者は1,377人、流失家屋は1,265戸という被災数字がまとめられた。このうち土石流の直撃を受けた鎌原村は、村民597人のうち466人が死亡している。生存率は22%に過ぎず、無傷の者は極めて少なかったろうと思われる。馬は大半の170頭が死に、家屋93軒が全滅した。
 このころ関東平野は、農業用水路がかなり開鑿されていた。利根川の幹流から沢山の枝川が田畑を潤していたのである。これらの用水路も泥流によって通水を遮断され、当然のことながら農産物は不作となった。

 現在この周辺を訪ねてみると、浅間山から流れて来た熔岩が、あちこちの神社や寺院に石積みとして利用されているのが分かる。養蚕造りの古民家の塀の石垣にも使われている。


熔岩の石塚(旧戸谷塚村)

 もう一つ気になることがある。死体の収容が江戸川沿いにはあったのに、銚子までの利根川では死体を収容したという報告がないのである。
 利根川の河口を江戸湾から銚子に移した「利根川の東遷事業」は、徳川家康の構想によるものである。事業のはじまりは第二代将軍秀忠のときで元和7年(1621)、事業の終了は第四代将軍家綱のときで承応3年(1654)である。浅間焼けは、天明3年(1783)であるから、129年も前に完成している。それなのに銚子側に遺体の収容がなかったのは、どういうことなのだろうか。
 もしかしたら河川構造によるものかもしれない。茨城県・千葉県は両岸に葦が繁茂して、人の眼に触れないまま海に流れ出てしまったのだろうか。

江戸川の分かれ
江戸川の分かれ Mapfan Web

 浅間山の噴火による被害状況が、これ程までに世に知られているのには理由がある。郷土史研究家の萩原進氏と、松島榮治氏の功績が大きいからだ。
 萩原氏は1913年、嬬恋村の東に接した長野原町応桑の生まれ。群馬大学に学び、天明三年浅間山噴火の資料収集をライフワークとした。各地に埋もれている古文書を捜し歩き、「浅間山天明噴火史料集成1〜5」を著している。
 松島榮治氏は1930年、勢多郡東村の生まれ。群馬大学に学び、浅間山麓埋没村落総合調査会の一員として発掘調査に当たり、地下に眠る生々しい災害の数々を明らかにした。現在、嬬恋郷土資料館館長として活躍中である。

<19.6.22追補>群馬県内
 
平成16年の記事から三年近くが過ぎた。その間あちこちを調べているうちに、吾妻川利根川沿いの慰霊碑や浅間石の史跡を訪ねることができた。そこで追補として、ここにご紹介する。慰霊碑については、石碑の風化が甚だしく、刻字を読み取るのが極めて困難である。その点については、各市町村の教育委員会の文化財保護課のお世話になった。現地調査に際しては、周辺住民の皆さんに言い伝えなどを聞くことができた。中には軽トラに乗せて一緒にさがしてくれる人もいた。

石の塔の浅間石
 
中之条町大字中之条町452。吾妻川の狭い所で一時せき止められ、これが決壊して大洪水になり、溶岩は川の曲折部などに打ち上げられた。以前は川沿いに浅間石が多く見られたが、農耕の妨げとなることや造園ブームなどによって大部分が消えてしまった。


石の塔の浅間石

青山の浅間石
 
中之条町大字青山234-1。宮崎庄司宅の南側、田圃の一角にある。大きさは南北が7.8m、東西が3.2m、高さ3m。青山地内には、近年まで、同程度の大きさの浅間石が他にもあったが、造園ブームなどによって大部分が消えてしまった。背後の住宅が宮崎家で、ご主人の話によると、今はないが文明三年のとき、西隣に新宅があり、耳が不自由なため異変を報せる音声が聞こえずに一人亡くなったという。それ以来、低いところにあった家は、高いほうへ移転したそうだ。田圃に面した部分の岩が、植わっていた山桜の幹によって分断された片割れを、造園屋が買っていったという。


青山の浅間石

善導寺門前供養塔
 
東吾妻町原町、県道28号に沿った門前にある。このあたりは、吾妻川が中之条盆地に出て扇形に広がる位置にある。原町村の犠牲者はいなかったが、吾妻川を流れ下った死者に対する供養が刻まれている。石段に向かって左側に天明八年(六回忌)・文化十二年(三十三回忌)・昭和七年(百五十回忌)、右側に文化二年(二十三回忌)・天保三年(五十回忌)と、交互に五基の供養塔が建てられた。


門前の供養塔

林昌寺門前供養記念碑
 中之条町大字伊勢町1002。明治15年に噴災百年を記念して「災民修法碑」が建てられ、さらに昭和58年に、噴災二百年を記念して「災変受難供養碑」が建てられた。両碑とも噴火被害の全体像について言及し供養している。


山門前両側



左側-災変受難供養碑

右側-災民修法碑

小野子の供養塔
 
渋川市小野子字木の間。国道353号沿いの上り坂を50mほど登ると、飯塚大学の墓と同じ墓地にある。「流死萬霊等」と刻まれている。等は誤字ではなく、馬その他の動物を意味しているのだろうか。


国道の直ぐ上

流死萬霊等

金島(かなしま)の浅間石
 
渋川市川島596、上越新幹線橋梁直下吾妻川右岸。川島村が浅間押しの泥流で流され、113人の死者、54haの田畑を失った。集落は西の山際に移動して今はない。浅間石の大きさ、東西15.8m、南北10m、高さ4.4m。この地域の畑には浅間石が点在している。


金島の浅間石

上毛北牧村賑貸感恩(しんたいかんのん)の碑
 渋川市北牧1149、国道353号から郵便局の標識の交差点を北に少し入ると興福寺がある。その入口にある記念碑。被災の様子が刻まれている。天明の浅間焼けから46年目の文政12年(1829)に建てられた。


上毛北牧村賑貸感恩碑

人助け榧(へだま)の碑
 
渋川市北牧753。榧(へだま)とはカヤの木をいう。吾妻川が氾濫し人家が多数埋没。このとき数十名の人が木にのぼって命を救われた。木の高さは地上9m、埋没部分が地下6mという。落雷により幹が黒く焼けている。


人助け榧

金井の流死者墓
 渋川市金井南町953-2、渡部昭一氏宅地入口にある。流死者墓と刻まれている。


流死者墓

真光寺流死万霊塔
 渋川市並木町、大門参道中間左手にある。


大門参道

流死万霊塔

中村の浅間石
 渋川市中村835、市民ゴルフ場の駐車場にある。浅間山大噴火の際、中村の低地に67軒の集落があった。その全部が浅間押しの泥流で流され、24人の死者、約51haの田畑を失った。ここは、吾妻川が利根川に合流して、1kmほど下流に当たる。昭和7〜8年の耕地整理で約30haの田を再生し、その際、約800m南にあった浅間石を現在位置に移築復元した。大きさ東西11m、南北10m、高さ4.6m。


渋川市民ゴルフ場の駐車場

元景寺供養碑
 前橋市総社町植野150。一周忌の命日に建立された。この供養塔は利根川河畔に建てられていたものを、流出の危険があるために現在地に移された。


山門参道奥の右手

供養塔

藤岡市緑埜164斎藤四家墓地-供養碑
 藤岡市緑埜164。浅間山大爆発の模様と、その被害状況を刻んだ供養塔である。


千部供養碑

長沼町の供養塔
 伊勢崎市長沼町には、供養塔が2箇所ある。一つは埼玉県本庄市の県境に接した長沼町2520の墓地。供養塔の位置は群馬県であるが、一歩その前は埼玉県である。明治後半の改修工事で、蛇行をなくして真直ぐに改修された。そのため流域の随所にわたって、県境が分断されたというわけである。
 そんな訳で、天明三年には広河原のこの辺は、あちこちに農村集落があり、田畑を耕していたのであろう。


墓地は群馬、撮影位置は埼玉

川流れ供養塔

 もう一つは、北に1.5kmほどの長沼町小字本郷。浅間山(せんげんやま)と呼ばれる小さな塚である。その塚の上に川流れ供養塔がある。


浅間山

川流れ供養塔

圓福寺の供養碑
 千代田町舞木。門に向かって右側にいくつかの石碑が並ぶその中間に、「為水死男女菩提也」がある。舞木村に流れ着いた遺骸を収容して供養する為に建てられた。泥流が堤防を破壊し、死体とともに低地に流れ込み田畑を埋没した。 


圓福寺-利根川堤防より撮影

為水死男女菩提也

倉渕三ノ倉の浅間山噴火祈念碑
 高崎市三ノ倉町字温井。国道406号の郵便局角の林道を榛名山側に入る。300m程行くと、左側に鋭角に上る舗装された細い林道がある。しかし車は登り口の草地に置くのが無難。この細道を200mほど行くと、木造の祠がひっそりと建っている。浅間山噴火祈念碑は、一番手前に据えられている。風化して文字は読み取れないが、萩原文献によれば大噴火の前日の7月7日と刻まれており、石砂が降り耕作物の甚大な被害を記したものだという。 


生活区から離れた山中

祠入口に安置

松井田町坂本・水神砂除供養塔
 安中市松井田町坂本字水谷山口。ゴルフ場に入る道に沿う、小さな用水路の脇にある。倉渕三ノ倉と同じであるが、大噴火の前々日の7月6日夜と刻まれている。天下泰平と五穀成就を祈願して建てられたものと思われる。かなりの降灰があったのであろう。 


当時飲み水を求めた場所?
石垣は後年のもの

水神砂除供養塔

<20.2.29追補>葛飾区・江戸川区・墨田区
題経寺・浅間山噴火川流溺死者供養碑
 葛飾区柴又5-8。寺院は柴又帝釈天として賑わっている。墓地は南の方に800mほど離れている。「老若男女・魚畜」と刻まれ、江戸川(古利根川)の魚の豊富さが読み取れる。当時の柴又村の人びとが遺体を収容し、早くも7月18日に造立している。


墓地の門を入ってすぐ左側

高さ2mを越えている



江戸川、矢切の渡しの向うは千葉県

善養寺・浅間山噴火犠牲者供養碑
 江戸川区東小岩2-24-2。題経寺の下流側で、江戸川の中洲に流れ着いた遺体を、下小岩村の人びとが収容し、寛政7年(1795)の13回忌に供養塔を建てた。


境内入口右側

供養塔

善照寺・石造六地像塔
 
江戸川区東小松川3-3-19。6体の石地蔵が横一列に配置されている。善照寺の直ぐ脇には、中川が荒川と寄り添うように流れている。中川は、江戸川(古利根川)から分岐して、4km程上流で荒川に合流していた。住職の説明では、今は現存しないが、別の場所にあった「地蔵堂」からここに移設されたのだという。天保13年の60回忌に造立供養されたという。


境内入口右側⇒


後から2列目

両国回向院・供養碑
 墨田区両国2-8-10。「信州上州地変横死之諸霊魂等の碑」が天明5年、「浅間嶽大火震死者供養の碑」が天明8年。いずれも風化がなく、刻んだ字が鮮明。石の肌がいままで見たこともない色をしている。この一角は同様の供養塔が多い。


参道を進み左に折れた奥


真ん中の2基

正福寺(しょうふくじ)・義賑窮餓之碑
 埼玉県幸手市北1-10-3。浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生した。翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けた。このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と名主の里正(りせい)は、陣屋に呼ばれて褒賞を受けた。この善行を讃え、後世に伝えようとこの碑が建てられた。


正福寺


門を入った右手

<24.11.9-追補>常林寺・天明浅間押し二百年記念碑
 
群馬県吾妻郡長野原町応桑547。新しい碑を紹介する。タイトルにあるように、200年後の1983年に建立したものである。鎌原とは尾根一筋東に越えた小菅川の左岸にある。吾妻川から浅間泥流が逆流して被害を受けた。住職と僧職の二人はたまたま出向中であったが、留守居役6人と対岸にあった堂宇一切を奪い去り、全村流失の小代・小宿両村と命運を共にした。明治43年になって水害後の川原畑の吾妻川底に龍頭を失った光る梵鐘が発見されて発掘し、それが唯一の災害物證となった。


石段下右手

<28.8.3-追補>常楽寺・野川家墓碑
 群馬県玉村町五料1074。常楽寺は利根川の右岸にある。くだんの墓碑はかつてここの墓地に有ったのだが、野川家没落のため現存しない。資料は玉村町教育委員会のご好意により、提供していただいた。
ー玉村町埋蔵文化財発掘調査報告書 第10集 1993ーのP147に墓碑の写真と碑文があり、現代語に意訳した。


常楽寺・野川家墓碑

天明三年(一七八三)七月三日より八日の午前十時ごろ迄、信州の浅間山が噴火し、砂降りその丈一尺余。同日午後二時ごろ泥涌き押して埋まる事一丈余り。そのため墓地の石塔は全部埋まってしまった。翌年(一七八四)三月墓地を掘り尋ねて、漸くその半数を掘り出した。之に依って発見できなかった石塔と合わせた供養の碑を立てることにした。そして文化元年(一八〇四)野川傳五右エ門盛興これを造補する。

<28.9.12-追補>東吾妻町厚田・土地改良竣工記念碑
 群馬県の旧吾妻町田中地区が土地改良総合整備事業を行なったときの記念碑で、平成五年三月に建立した。『・・・天明三年 浅間山の大噴火による泥流によって荒廃したが 先祖の苦労により再び耕地化され・・・』と刻まれている。平成27年に上信自動車道の建設工事に伴い、記念碑は元の場所から太田神社参道入口の高みに移設された。
 吾妻川の左岸から右岸の浸食崖と拠水林の向うに黄色く稔り始めた田んぼが見える。そこまで浅間の泥流が押寄せたという。写真の右下が吾妻川の流れ。


土地改良竣工記念碑


万年橋から右岸側を見る

<28.12.31-追補>玉村町・天明3年利根川変流絵図
 群馬県玉村町歴史資料館に当時を物語る絵図が展示されている。ガラスショーケースに覆われて近づくことが出来ないので、玉村町教育委員会のご好意により、コピーを戴いた。文字は判読困難だが、川の変流に注目していただきたい。


図1−天明3年被災前の利根川

 図1は天明3年被災前の利根川の様子を描いている。方位は現在とほぼ同じである。茶色で示した上の太いのが利根川。左が上流で右が下流。途中で細い川が分流して南側の烏川に合流。一方、本流は北側に大きく蛇行して更に分流し、太いのが七分川と称して南東に流れ、細いのが三分川と称して東に流れている。
 図2は天明3年、被災後の利根川である。図1と比較すると、七分川と三分川が消滅し、玉村町を流れる細い川が本流と化した利根川である。


図2−天明3年被災後の利根川

 このような変流は珍しいことではない。現代のように大規模の堤防や、洪水調節のダムを築く技術がなかった時代である。洪水のたびに変流し扇状地が発達していったものと考えられる。次のリンク「川流れ史跡図」で現在の姿と対比していただきたい。

<参考>
1)浅間山天明噴火史料集成1〜5/萩原進
2)嬬恋・日本のポンペイ/1998.9東京新聞出版局
3) 嬬恋郷土資料館
4) 玉村町埋蔵文化財発掘調査報告書 第10集/1993玉村町教育委員会
5) 東吾妻町・中之条町域における天明泥流到達範囲/公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団 研究紀要 34/2016.3.10

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