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上信鉱山(ろうせき山)の廃墟<18.12.1/20.1.10加筆訂正> <はじめに> 群馬県の北西部に、嬬恋村(つまごいむら)というロマンチックな名前の村がある。実際、そのとおりだと思う。草津白根山から浅間山にかけて、悠久の火山活動を経て、雄大な景観が生まれた。尾根のどこに立っても、上信(群馬・長野)の大分水嶺に囲まれた展望に圧倒される。江戸時代から昭和中期にかけては、豊富な鉱物資源を与えてくれた時代であった。現在は、広い裾野がキャベツの一大生産地にかわっている。 この村に、ろう石山と呼ばれる山がある。国土地理院の地形図には記されていないが、かつて、ろう石を産出したということから、そう呼ばれた。今では廃墟となって、ほとんど人が訪れないこの山に、当時ろう石を焼いたという焼成炉が、深い森のなかに静かに佇んでいる。 僕は何年か前に地元の新聞を読んで、その存在を知った。面白い物があるんだな〜と思いつつも、訪れる機会を掴めないでいた。あえて理由をいえば、その場所を明確に示す情報が得られなかったということだろうか。当時は勤めの身で、それを調べるには、かなりのエネルギーを要するので手をつけられなかったのだ。リタイヤした今では、それが可能となった。何よりもインターネットで何でも知り得る時代になったことが、訪問を可能にしてくれたのである。 しかし、検索サイトで情報を得ようと思っても、キーワードが思いつかなかった。この時点では、新聞記事にあった「何かの鉱石を焼いた溶鉱炉*1が、群馬県嬬恋村の山中にある。」というフレーズがあいまいな記憶として残っており、ろう石という文字は頭から消えていたのである。
そこで群馬県立図書館に調査を依頼した。同館のホームページに「調査相談」のコーナーがある。レファレンスフォームに質問事項を書き込んで送信すると、翌日返信をいただいた。嬬恋村誌の抜粋と、関連サイトが記されていた。その結果、焼成したものはろう石*2であるという。
しかし、その場所を特定できる情報は得られなかった。そこで嬬恋村に問い合わせたところ、国有林につき、森林管理者に聞いて欲しいとのことであった。結局、関東森林管理局吾妻森林管理署の好意によって、その場所が特定できたのである。入林手続きとルートとの注意事項についても、懇切丁寧なアドバイスも頂いた。そんなわけで、僕たち夫婦による廃墟への探検が可能となったのである。 実は、関連サイトから得た情報に、焼成炉の築造工事を請け負ったご本人が判明した。以外にも、僕の家からそう遠くはなかった。電話をすると、一通り説明をしてくれた上で、浅間山ミュージアムの飯田さんに頼めば現地を案内してくれるというのである。何日か躊躇していたが、思い切ってメールを送ったところ、快く引き受けてくださり、日を決めて現地に赴いた。しかし連日降り続いていた雨はやむ気配がなく、嬬恋村役場の待合室をお借りして、机上のレクチャーを受けるにとどまった。これには役場の課長補佐Sさんも加わって、現地の状況がかなりイメージ化できたのである。 <ろう石とは> ろう石について予備知識を得ると、おおむね次のとおりである。 18世紀末の近代製鉄業の発達とともに、耐火物原料として使用され、その後は各種工業原料として用途が拡大した。古いデータであるが、1992年には、日本は世界最大のろう石生産国であったというのだ。 僕の実家は雑貨屋で、子供の頃には、石筆(せきひつ)という呼び名で売っていた。コンクリートの床に、絵や文字を描いて遊んだ頃が懐かしく思い出される。村の鍛冶屋さんも確か寸法取りに使っていたような記憶がある。 <現地に入る> 森林管理署からいただいた資料から、国土地理院の1/25000地形図に必要事項をプロットし、現地図を作成した。入山に当たっては、森林管理署の出先機関である大前森林事務所の許可を得た。標識は一切なく、僅かな踏み跡を外れないように地図を頼りに辿った。 僕達は探検の時期を、落葉樹がすべて葉を落とした頃が最適であろうと決めた。これだと森林の中でも見通しがよいからである。かつ週間天気予報でお日様マークのときとした。それが12月1日となったのだ。 ここで気掛かりだったのは、ハンターに熊と間違われて撃たれないようにすることだった。11月15日が解禁日になっている。森林事務所からは、24人のハンターが登録されているので、目立つ服装で入林するようにとのアドバイスを頂いた。僕たちは上着を赤いものにし、サバイバルホイッスルを首にぶら提げて現地に向かった。 現地の干俣(ほしまた)はよく晴れていた。キャベツ畑はすでに収穫が終わって、黒々とした大地が本白根山(もとしらねさん)を控えて冬の到来を待っている。山の頂が白くなる日も近い。
県道112号を北上し、干俣川に架かる橋をいくつか渡って支流に入る。農家の出小屋を最後に、なだらかな林道を奥へと進む。紅葉も終り、まだ枯葉をつけた広葉樹が多い。
しばらくは車も通れる道が続くが、そのうちに笹が生い茂る道に変る。両側に山の斜面が迫ってくると、倒木と蔓性のブッシュのために、ところどころ迂回を強いられる。そのようなところには、白い布きれが付けられていた。地元の有志が道しるべとして付けたのだろうか。
湿潤している道になった。湧き水のようだ。ところどころぬかるみを避けるために、あえてブッシュのなかに足を踏み入れなければならない箇所もある。ブッシュが密生していて見通しが利かない箇所は、熊に遭遇しないように何度かホイッスルを鳴らした。 間もなく右手にせせらぎが聞こえ、小さな沢に出た。酸性の水でなければ岩魚が棲んでいるかもしれない。昔ここには橋が架かっていたであろう。
沢を左岸に渡ると、斜面は緩い傾斜の広がりを見せて、葉の落ちた林間が遠くまで見通せる景観となった。青空の下に山の頂が見える。道の脇に四角のレンガ積みと運搬車の車軸があった。これがろう石採掘と関係するのかは不明であるが、たぶんそうではないかと思えた。あとで分かったことであるが、レンガ積みは当時のろう石作業場の門柱であるという。その先には、国有林の管理標があった。「熊四郎山国有林・・・」とある。
笹の背丈が高くなり、葉が目の高さになって視界の邪魔をするので、しばらくは道から外れて林の中を歩いた。これは夏山と違って、葉の落ちた冬期間の醍醐味である。遠くまで見通せて、しかも樹木の姿形の美を堪能できるからだ。晩秋の森林は小鳥の姿も声もなく、静寂を保っている。 気が付いたら林間を透かして、陽光を浴びた焼成炉が遂にその姿を現した。時間は10時02分、その雄姿を屹立させて燦然と輝いている。圧倒されたように、しばし茫然と見とれていた。あたかも2本の特大ビール瓶を並べたモニュメントのようにも見える。
漸く我に返り、焼成炉の観察を開始した。2基とも煉瓦積みは、ひび割れもなくしっかりしている。川上側が1号炉、川下側が2号炉である。2号炉には首輪のようにレンガのリングが施されている。他にも細部に亘ってデザインの違いが見て取れる。炉の周囲は、鋼鉄製の箍(たが=バンド)が巻かれている。鉱石の投入口と同じ高さで、山の斜面に道がある。・・・ということは、投入口と道との間は、桟橋で結ばれていたであろうことは、容易に想像がつく。
取出口は谷側を向いている。投入口と反対側にすることが安全上、利に叶っているし、作業広場も確保できる。平断面の中心点振り分け120度の側面に、取出口も含めて三つの開口部がある。吸気口を兼ねているのであろう。 取出口をよく見ると、煉瓦積みは二重になっていて、外側の赤煉瓦に対して内側は白い。耐火煉瓦を採用しているのだ。取出口にはクリンカーが残されていた。
取出口の前は、作業広場を確保するために、沢に沿ってコンクリート製の擁壁が設けられている。かつ、排水目的の為だろうか、トレンチを設けた構造になっている。僕は少年時代によく遊びに行った石灰工場を想いだした。竪型焼成炉の上から石灰石を投げ込み、コークスを燃やして焼いていた。その取り出し口と作業場は、小屋掛けになっていて、どこもかしこも真っ白に蔽われていた。たぶん、ここも作業小屋があったのだろう。 商標らしきものと文字が刻印された、レンガのかけらが落ちていていた。製造者は品川白煉瓦会社ではないかと思われる。菱形にSSのロゴ、文字はSHINAGAWAの赤字の部分が見てとれる。
採掘場はこの上方にあると聞く。沢に沿って歩くことにした。蔓性のブッシュが密生しているが、それを踏みつけて前進する。石垣を築いた箇所が沢に沿って点在する。石垣と沢の間に並行して歩行路らしきものがある。石垣上部の土塁は採石の集荷広場であろうか。採掘場と焼成炉の間を行き来するトロッコの情景が浮かんでくる。
もう山には木の実はなくなって、動物が食べるものは少なくなった。突然、石垣の上の方にテンが現れた。黒や褐色ばかりの山の斜面を、黄色い冬毛が派手に見える。テンは果実やネズミ類などを捕食するそうだ。長い身体をくねらせて、何かを探すように動き回っている。地中の虫でも捕らえているのだろうか。それにしても、しなやかな身のこなしである。どうも僕たちには気づいていないらしい。カメラを出そうと思っているうちに、斜面の向うに消えてしまった。近くにはカモシカの糞もあった。日本鹿は糞をばら撒くが、一箇所にまとめてするのはカモシカである。木の枝を透かして、遠くに畑地が見える。葉の落ちた季節だからこその展望である。
更に先へ進むと、2本の木杭があった。これも当時のものだろうか。左側の奥には崩れた洞穴が見えるが、いったい、この場所が何に使われたのか、見当がつかない。沢の縁に残っている鉄管は、水道管のように思われる。採掘場よりも上流側から焼成炉まで、水道管を敷設したのだろう。
更に登るとまた石垣だった。その上にあがってみると、かなり大きな広場になっている。いよいよ採掘場に近づいたらしい。
土塁の先端まで行くと、前方が開けて、すり鉢状の地形になっている。どうやら、ここを採掘場と断定してよさそうだ。山側の急斜面は裸地状態になっている。ところどころに木は生えているが、褐色の地層であったり、白色の地層であったりする。それにしても斜面の状態は明らかに人の手によって削られた感じがする。右手に滝が落ちているが、自然に侵食されたというものではなく、削られた斜面を流れ落ちているという感じである。
滝から落ちる水は僅かな水量であり、すり鉢の低い方にチョロチョロと流れている。直ぐ下が沢の出会いである。ここが露天掘りによって山の斜面が削られた廃鉱なのだ。 <上信鉱山(ろう石山)の歴史> 嬬恋村誌を要約すると次のようになる。昭和15年(1940)、干俣集落の北西部の山中において、炭がまを造ろうとしていた炭焼き夫が、ろう石を見つけたことに端を発する。初めは有志何人かで試掘を行ない、この場所は、ろう石山と呼ばれるようになった。 そもそも、嬬恋村は草津白根火山帯に属しており、硫黄の採掘が早くから行なわれていた。ろう石は、火山活動に伴う変質帯が発達して生成したものであろうと考えられた。 昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発した。伝えられたところによると、ろう石山の鉱石にアルミナが含まれていることから、金属アルミニウムを製造する目的で、昭和18年(1943)、軍需産業に指定され、軍部の強い要請を受けて、大阪窯業・日窒鉱業・昭和電工の三社が協力し、資本金100万円で上信鉱山が設立された。社長には、大阪窯業の山田馨が就任した。しかし諸設備を建設中、昭和20年(1945)の終戦によって、実際の稼動は出来ないまま、会社は解散となった。その後この鉱山の鉱石に着目し、幾人かによって再建が計画されたが、いずれも成功しなかった。 話が変わり、そのころ埼玉県草加市にあった大阪窯業東京工場に、満州から引き上げてきた福井哲(さとし)という技術者がいた。福井は、東京工業大学窯業科を昭和14年に卒業し、満州国の昭和製鋼所で耐火物の製造に従事していて終戦を迎えた。昭和20年8月8日、日ソ中立条約を破棄したソ連が満州に侵略、ソ連軍が昭和製鋼所の主な施設を撤去運搬する為、福井は中華民国政府により、強制的に残された。中国人とその作業に従事した後、シベリア送りされそうになったが、運良く逃避、昭和22年(1947)8月に引き上げてきた。恩師の山内先生の紹介で大阪窯業に入社したのは、同年10月である。 当時、大阪窯業東京工場は、戦後の復興期であるから、時代の要請に応えて、赤レンガ製造から耐火レンガ製造を手掛けようとしていた。福井はここに工場次長として赴任したのである。 東京工場の庭に、福井の目にとまったものがあった。山積みにされた、250tの耐火物原料である。聞いてみると、「上信鉱山のろう石で、研究はしたが役に立たず邪魔になっている。」というのである。 福井は分析してみた。耐火性・焼成収縮率・気孔率を調べ、スラグテスト等を行なった。その上で、この鉱石は、ろう石ではなく粘土系統の鉱石であると判断した。 ちなみに、ろう石の代表的なパイロフィライトと、分析によって判明した上信鉱山のハロイサイトの鉱物組成を下表に示す。パイロフィライトは生鉱で耐火物原料として使えるが、加水ハロイサイトは水分(層間水)があるので、それ自体では耐火物原料にはなり得ず、焼成しないと使えない。
福井は上信ハロイサイトによるシャモットを作った。シャモットというのは、生鉱石を加熱したもので、耐火物の原料になる。福井はこのシャモットを主原料とした耐火レンガの試験片を作り、特性試験を行なった。耐火物が軟化変形する加熱の度合いを示す指標として、耐火度(SK)があり、SKが高いほど熱変化に強い優秀な材料であることが確認できる。試験の結果は、SK34(1,750℃)以上であり、良質鉱であった。 昭和23年(1948)4月、福井ら大阪窯業関係者3人で、上信鉱山を視察した。現地には嬬恋村長も加わった。踏査の結果、可採鉱量は多くないが、鉱石の優秀性を考慮すると、粘土質鉱山として、開発する価値があると判断された。 昭和28年(1953)10月、大阪窯業東京工場の福井を訪ねてきた二人の男がいる。群馬県吾妻郡中之条町の実業家-小渕光平(おぶちみつへい-元代議士)と、光山電化工業(株)社長-小渕浪次(なみじ)の兄弟である。ちなみに小渕光平の長男は、元中之条町の町長-小渕光平(二代目)、次男は元内閣総理大臣-小渕恵三である。 そして、紆余曲折がありながらも、大阪窯業(株)と同東京工場長-福井哲(さとし)の技術援助により、昭和29年(1954)、光山電化工業-上信鉱業所を開設し、専ら耐火レンガの原料として採掘の再興計画がスタートした。 事業の基本計画で述べた販売の開拓については、日本鋼管(株)が最大のターゲットとなった。しかし、「上信鉱山のろう石は、耐火物原料として不適当」という既成概念が拭えなかった。そこで、前述した「シャモットを主原料とした耐火レンガの特性試験」の結果を得々と説明し、既成概念を解いたのである。これで売れない要因は解消した。 昭和31年(1956)、上信鉱業所にハロイサイトを焼くために、焼成炉の建設工事が始まった。焼成は、生(なま)鉱石中の結晶水を放出し、収縮の変化を防ぐためのものである。設計は、大阪窯業(株)東京工場長の福井哲(さとし)。シャフトキルンと呼ばれる竪型焼成炉で、高さ14m、直径4m。昭和32年(1957)に1号炉が運転開始された。一方、納入ターゲットの日本鋼管に対しては、富士炉材(株)社長-小泉善之助が仲立ちをして、光山電化工業社長-小渕浪次の要請により、福井が技術的説明を行なった。上信鉱山の歴史・鉱物組成・シャモットの特性・原料調合比・利用範囲等である。 昭和33年(1958)8月26日、代議士であった小渕光平が東京で脳梗塞によって急死した。弟の小渕浪次は、焼成炉建設のために多額の借金を抱えており、経営は道遠しであった。兄の死で追い討ちをかけられ悲嘆にくれた。この時点では、福井はそのことをまだ知らなかった。 昭和33年(1958)10月、小渕浪次から福井へ連絡が入った。上信シャモットを鋼管鉱業を通じて、日本鋼管炉材部に納入する注文書が届いたという喜びの声である。焼成炉の2基目も近々稼動する予定であるという。天の助けとはこのことか。福井は安堵して浪次に再会した。このとき初めて小渕光平の死を知らされたのである。経営が苦しくて報せる気持ちにはなれなかったという。漸くの受注に明るい兆しが見えて、やっと最悪時だった状況を語れる余裕ができたのであろう。 この年、焼成炉はフル稼働。鋼管鉱業(株)を通じて、日本鋼管(株)に出荷するなど活況を呈した。焼成作業は三交代勤務で行なわれた。ハロイサイトを選別したり運んだりしたのは女性達である。 光山電化工業から築造を請け負ったのは、高崎市の株式会社-小林タイルである。1号炉は祖父と孫の合作、2号炉は孫が作ったという。そのお孫さんである小林弘氏にお会いし、当時のお話をうかがうことができた。氏は同社の会長として多方面に活躍しておられるが、当時のことを語れる生き証人として、報道機関や地元関係者からの要請に応えて、何度か現地説明を行なっている。 昭和35年(1960)1月、福井哲は大阪窯業を退社。同年7月1日、東京都中央区八重洲に不定形耐火材の製造販売を目的として関東窯業(株)を設立。代表取締役社長-福井哲、取締役-小渕浪次(光山電化工業社長)、同-小泉善之助(富士炉材社長)等が名を連ね、強力な援軍のもとに、上信鉱山の経営はゆるぎないものとなった。 このため、需要に応じきれない状況となり、日本鋼管と協議して、前橋市に設置されていた日本鋼管所有の小型ロータリーキルンを利用することになった。そのキルンに供給する鉱石は、上信鉱山のキルンの篩(ふるい)にかけられた残渣の中・小粒の鉱石を活用することにした。この篩下(ふるいした)鉱石は、上信鉱山に残留物として多量に保管されていたので、これを有効利用できたことで、大きな経済効果をあげた。 しかし、昭和38年(1963)に火災が発生し、鉱山事務所や宿舎が焼失した。たまたま鉱脈も尽きかけていて、労務者も4〜5人に減っていたことでもあり、これを機に、鉱山再開発後9年間の短い生涯を終えて上信鉱山は閉山し、光山電化工業(株)は現在休社中である。最盛期間は4ヵ年、その間に高収益をあげて、鉱山開発会社としては奇跡的な成功例だと福井哲は述懐している。 焼け落ちた跡には、山林が自然回復した。当時を物語るものは、僅か6年の短命であったとはいえ、今となってはシンボル的存在となったシャフトキルンだけが残った。 福井哲(さとし)が設立した関東窯業(株)は、昭和41年(1966)9月1日、時代の変遷にあわせて、関東ミネラル工業(株)と改称。その後、平成12年(2000)6月14日、本店を群馬県へ移し、ご子息の福井清氏が事業を引き継いでいる。 福井哲は、昭和23年(1948)に耐火物技術協会の設立に参画し、協会発展に尽力した。昭和51年(1976)には、耐火物技術協会功労賞を受けたのを手始めに、黄綬褒章・勳四等瑞宝章・日本セラミックス協会功労賞の栄誉に輝き、94歳で他界した。 なお、福井哲氏の論文に次のようなものがある。しかし論文執筆の2年前に閉山した”上信鉱山”の名は見当たらない。上信鉱山は閉山していたが、世界的に上信ハロイサイトは、耐火物としての性能が優れていたため、その特性を記録に留めておくべく、論文を起稿したと聞く。
これは純然たる学術論文であり、化学式の羅列と分析の叙述で、僕の理解能力をはるかに超えている。福井哲という人物が、耐火物の技術者として、応用化学の実践者であることのみが感じ取れる。 <おわりに> それにしても、子供の頃に遊んだ、石筆(せきひつ)と呼ばれる、あのろう石を連想したのであるが、それは組成式がMg3Si4O10(OH)2の滑石(かっせき)とよばれるものであり、上信のろう石山には、それは最初からなかったのである。採掘場の滝から本流までの細い流れの中間に、大きな岩がある。その岩肌はもろく、短冊状に手でもげるが、茶褐色の切片の表面に蝋感がある。たぶん、これがハロイサイトではないかと勝手に思い込んでいる。ついでのことに、ろう石山の場所は、今まで報道機関や現地の人たちが明かした範囲を超えて記述することは控えた。今後、関係機関で、貴重な産業遺産として公開していただければ幸いである。 僕たちの探検は、ろう石山のロマンに端を発して、上信鉱山に情熱を燃やした人びとの群像に迫りつつ、充実感のうちに終了した。 今回の取材で一番知りたかったのは、上信鉱山の開発に当たった事業者側の情報であった。思い当たるルートを探って辿りついたのが、関東ミネラル工業(株)の福井清社長である。福井氏は快く対応してくださり、貴重な資料もいただき、上信鉱山の時代的背景などを知ることができた。深く感謝し、お礼を申しあげる。 最後に、このページにおける記述責任は私にあるが、関係者が多数おられるなかで、もしご迷惑をお掛けしたり、事実に反する記述があれば訂正したい。ご指摘をいただければ幸いである。 <参考文献> 1)嬬恋村誌 上 嬬恋村役場/発行 昭和52年3月刊行 |
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