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赤城大沼用水<18.12.11記> <富士見村> 前橋市の市街地から富士見村を通って、赤城山に向かう県道4号がある。この辺りは火山麓扇状地で、車を走らせても左右に遮る尾根がなく、広大な展望を提供してくれる。緩やかな勾配の裾野を真直ぐに上に向かって走って行く。しかし、それは長く続かず、田園から畑地へ、そして森林帯へと変って、生活圏から山岳地に入る。
間もなく道路の両側が広く、白線のゼブラゾーンがやたらに多い場所が現れる。ここは以前、有料道路の料金所があった場所なのだ。ここへ車を止めて、直ぐ上の大河原橋に立って見る。河原を見下ろすと、水が流れていないことが確認できる。赤城山の大きさからすると、常時、水が流れていていいと思うのだが、川床はブッシュに蔽われた涸沢である。とは言っても、赤城白川という、立派な名前が付いている。
実は、赤城白川は流路が変えられて、よほどの雨が降らない限り、普段は全く水が流れていない。しかし流路を変える以前から、伏流地帯のため、水無川の様相を呈していたのである。 <赤城大沼用水建設の概要> 題名から察しがつくように、これから始める物語は、田園の水を求めて赤城山の大沼というカルデラ湖から水を引いた感動の実話である。 その悲願を実現させた物語は、富士見村内の小学校で採用している、副読本の参考資料「赤城の沼に水を求めて〜赤城大沼用水を作った人々〜」に詳しく紹介されている。それをホームページで公開しているのが、 農業用水副読本 である。先ずは、このサイトに訪問していただきたい。このページでは、物語の重複は避け、探訪リポートをまじえて、概要を記すに留める。 江戸時代に3,000万人程度であった日本の人口は、明治維新を境に急激に増加した。当然のことながら、農作物の増産が強いられ、稲作が強力に推し進められた。長い裾野を持つ赤城山も有力な開田対象になった。
しかし火山の特性として、伏流のため水には恵まれず、各村々で水争いが絶えなかった。赤城山の南面にある現富士見村。幕末から明治の初期にかけて名主を務めた船津傳次平なる人物がいた。赤城大沼から水を引こうと計画し、有志を集めたが、具体化には至らなかった。傳次平が、国家事業である地租改正の仕事を任されたこと、それが終わると、後の東京大学農学部となる駒場農学校の教師として東京へ赴任したことによる。 傳次平が用水の計画をしていた頃、熱心にこの話を聞いていた木村與作なる若者がいた。傳次平が居なくなった後、與作は繰り返される水争いに、遂に発奮し、建設の悲願を抱いた。明治6年(1873)23歳のときである。與作自身は営農家ではなかった。熊手などを造り、村内を売り歩いて、細々と暮らすやもめの身であった。にもかかわらず、村人に建設の必要性を説き廻った。あまりのしつこさに、実現不可能な夢のような話と思いながらも、願書に同意者として署名を許した者もいた。しかし役場や県をはじめ、関係役所に願書を出しても、具体性に欠けるとして却下され続けた。徒労の年月を重ねた末、悲痛な訴えも周囲から気違い扱いされ、牢屋に入れられ、大正15年(1926)4月、遂に牢内で75歳の生涯を閉じたのである。死ぬ前に與作は、自分が出来なかった悲願は、必ずあの男が達成してくれるだろうと、口癖のように言っていたという。その男とは、樺澤政吉なる人物である。 樺澤政吉は、大正7,8年頃、食料増産に関連する官有林の払い下げの立法に、直ちに反応した人物。耕地整理組合を設立して、自作農創設運動を起こし、開墾移住者の募集あるいは、二,三男の分家入植に努めた。昭和に入っては、村会議員を務め、数々の土木事業に実績を残している。 大正13,4年頃、政吉は赤城大沼用水に奮闘する與作に賛意を表し、積極的に協力することになる。幾多の曲折を経て、昭和16年(1941)6月、用水のほとんどを県事業として認可、同年10月に着工となった。とき恰も太平洋戦争が勃発した年である。働き手と資材と食料が不足していた。それらを調達することに難儀し、しかもトンネル工事は、湧水と崩れやすい火山灰に悩まされた。終戦後も工事は続き、セメントミルクを注入する工法を採用したが、工事は遅々として進まず、健康を崩して、昭和25年(1950)工事現場で倒れて病床の人となり、翌昭和26年(1951)8月、65歳で永眠。 樺澤政吉の死によって、後を継いだのは、須田惇一である。須田は樺澤政吉のもとで事業のまとめ役をしていた。工事は更に難攻し、セメントミルクも効果なく、圧気工法を採用して湧水を押さえ、昭和32年(1957)6月、両方から掘り進んでいたトンネルは遂に中間点で貫通した。工事認可から16年、木村與作が建設の悲願を抱いてから、84年の歳月を要していた。 それぞれの主要人物たちが活動した期間を、分かりやすくビジュアル的に示すと次のとおりである。 <赤城大沼用水探訪> 赤城白川は、赤城山の火山活動と、その後の地震活動による岩なだれにより、水が伏流する構造になっている。火山麓扇状地の上部にあたる大河原橋付近は、まさに伏流の場所であり、これより少し下流域で漸く地表水が見られるようになるが、その量とて、決して多いものではない。
このため富士見村の山麓に住む原之郷の農民達は、水田の維持が極めて困難だった。水さえあれば、干ばつのたびに水争いを繰り返さずに済む、水さえあれば、広い裾野にさらに田圃を開拓できるのだ。 何とか水が欲しいという切なる願いに、何とかしなければと思う人達が、赤城山のカルデラ湖-大沼を水源とした導水路を敷設した。84年間のバトンタッチによって、遂に悲願を実らせたのだ。 20数年前、群馬県人となった僕は、たまたま赤城山を訪れたときに、県道の脇に妙なものを見つけた。妙なものとは道路脇の急斜面から水が噴き出ているトンネルである。この水はいったいどこから来るのだろうかとの素朴な疑問を持っていた。・・・がその時は調べる手段を持たなかった。と言うよりも、現役の社会人として調べる時間的余裕がなかったのである。そのことはいつしか忘れていたが、現役をリタイヤして改めてその疑問が再燃した。 今年(平成18年)になって、僕は再びその場所を訪ねた。水の噴出するトンネルは、様相が一変していた。どうもリニューアルしたらしい。トンネルの上に、2枚のプレートが貼られていた。上のプレートには「赤城大沼用水-平成九年五月」、下のプレートには「天人讃其功-須田惇一書」とある。「天も人もその功をたたえる」という意味であろう。
赤城大沼用水とあるから、赤城大沼から導水されていることは分かった。そして、取水口は、沼尻であることも判断できた。大沼の西側から沼尾川が流れ出ている。ためらわずにその場所に行ってみた。 沼尾川への流出ゲートに並んで、赤城大沼用水の大沼取水口が設置されている。周辺は小広くなっていて、顕彰碑がある。常日頃、車で通っているのに、降りて見ることをしなかったのは不覚であった。
ここに樺澤政吉の顕彰碑が建てられている。樺澤政吉の死によって、後を継いで工事を完成させた須田惇一が揮毫したものである。 さて、ここまでは僕自身で探訪できたのであるが、用水ルートについてはよく分からない。そこで、インターネットによって「赤城大沼用水」のキーワードで検索してみた。その結果、前述した副読本のサイトが見つかり、用水を管理しているのが、赤城大沼土地改良区であることも分かった。メールを送ると、資料の提供と現地の案内までしてくれるとのご好意である。 群馬県に「上毛かるた」という郷土かるたがある。「す」の札に「裾野は長し赤城山」と詠われている。その長大な裾野は、火山麓扇状地であり、岩なだれの堆積帯が伏流地帯を形成している。
縦断面図は標高が強調されているので、急な山に見えるが、実際の展望図を見てもらうと分かるとおり、まさに裾野の長い赤城山である。 黒桧山が赤城山塊の最高峰である。富士見村の村域は、鈴ケ岳から利根川近くまで細長い。赤城山の南面にあって、太陽の恵みをたっぷり浴びる肥沃の大地である。関東平野の展望台ともいうべくロケーションは、羨ましい限りだ。右端に関東平野の地平線が見える。
伏流の開始地点は、扇状地よりも上のほうである。農業用水を得るには、水を伏流させないようにしなければならない。そのために、伏流地帯の上流側で堰を設けて取水する。これが白川取水口だ。
この取水口で、灌漑に必要な水量を調節する。流量調節ゲートには、決められた水量しか流れない。何日も日照りのときは、すべての水が用水路に導かれ、本来の赤城白川は空っぽになる。大雨の場合は、余分な水は赤城白川の越流堰をこえて、そのまま赤城白川を流れ落ちていくのである。
さて、流量調節ゲートを通過した水は、導水開渠を流れて赤城白川よりも高みを流すのである。県道の西側をほぼ並行して長い距離を下っていく。途中、3箇所ほど余水吐口があって、余分な水を赤城白川に放流する。雨が降った場合に、途中で流入して増水するからである。
扇状地に近づいて、導水路は大河原橋に到達する。県道はここで赤城白川を右岸から左岸に渡るが、導水路も同様に横断する。導水路が常に県道と寄り添うのは、メンテナンスの、し易さを考慮してのことである。導水路は余水吐口を設けた上で、川床の地下に埋設されたヒューム管によって横断する。
扇状地の上部には分水槽を設ける。受益地区には小さな沢が流れているが、赤城大沼用水から、それぞれの沢に分配するのである。分水槽は2箇所あるが、まず1号分水槽から始まる。水槽は2段になっていて、1段目はゲート式である。ここで分水量を決めて、西側の細ケ沢川(こまかざわがわ)に分水する。2段目は、サイフォン式分水槽によって、東側の竜の口川へ分水する。この2段階方式によって、合わせて3分水になるという訳だ。
配水先がどうなっているかであるが、範囲が広すぎて今回は全部を探検できなかった。いつの日か、また訪れたい。竜の口川への合流点だけをご紹介しよう。この合流点を下流に辿ると、養鱒場などもあって、ここでも水の受益を得ている。夏はファミリーで釣堀は賑やかだ。
1号分水槽を県道に沿って少し下ると、2号分水槽がある。サイフォン式分水槽による2分水だ。分水されて、竜の口川よりも更に東へ横走りし、藤沢川へ合流する。もう一つの分水された水路は、そのまま県道に沿って下りつつ、細かく枝分かれして、この地区の田圃を潤すのである。2号分水槽の敷地の一角には、赤城大沼用水の改修事業を行なった記念碑が建てられている。
赤城大沼からトンネルで流域を越え、伏流地帯を用水路で切り抜け、扇状地一帯に水の恵みをもたらす赤城大沼用水の一部を垣間見ることができた。しかし細部の姿を浮き彫りにするには、僕には甚だ荷が重過ぎる。ここに紹介したのは、副読本に沿って偉業を成し遂げた、先人たちを偲ぶ探索リポートに過ぎない。 ところで、用水は生き物である。日常の管理が行き届かないと、美田は育たない。赤城大沼用水もしかりである。この取材で訪れたときも、軽トラで巡回している二名の男性作業員に行き会った。折りしも落葉の季節、水槽に流れ着いた落ち葉を盛んに掬い上げていた。別の日に、現地を案内してくれた赤城大沼用水土地改良区の女性も、事務職と思いきや、用水のメンテナンスも行なっている現場ウーメンと知り、僕は恐縮してしまったのである。 赤城大沼用水を建設しようと悲願し、それを訴え、事業化に情熱を燃やした3人の中心人物は、いま静かに墓石の下に眠っている。
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