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坂東大橋-今昔<19.2.23記>

 <旧橋から新橋へ>

 群馬県の伊勢崎市と埼玉県の本庄市とを結ぶ、利根川にかかる坂東大橋。平成16年に旧橋から新橋にバトンタッチされた。


位置図 Mapion

 ところで、なぜ坂東大橋という名前をつけたのだろうか・・・。まず坂東という名称は、関東地方の古名である。東海道のうち、駿河国から相模国に越える足柄路が主街道であり、足柄峠の坂を越えた東域の意味で、「坂東」と呼ばれていた。
 この足柄路が800-802年に発生した、いわゆる富士山の「延暦噴火」によって使用中断になった時期がある。そのため箱根路が整備され、足柄峠と同様に国境であることから、坂東の名称は尚も続く。

 江戸時代になって、主街道は箱根に変わった。坂東の名称はそのままに、地域の明確化を示す必要が生じたためなのか、「関八州」とも呼ばれるようになった。八州とは上野国(上州)・下野国(野州)・常陸国(常州)・安房国(房州)・上総国(総州)・下総国(総州)・相模国(相州)・武蔵国(武州)である。足柄峠と箱根峠の関所の東という意味で、今日の関東地方の名前の由来となった。

 そんな訳で、その坂東に流れる大河-利根川を、人間の兄弟に例えて坂東太郎と呼ぶようになった。ちなみに九州の筑後川が「筑紫次郎」、四国の吉野川が「四国三郎」と呼ばれる。

 橋の建設は群馬県側の悲願によるものであった。それに対して埼玉県側はそれほど積極的ではなかった。それはそうであろう、埼玉県は東京地方との行き来に橋は関係ないからだ。それに対して群馬県は、舟を浮かべて繋いだ船橋が頼りであったから、何が何でも橋を必要としたのである。


埼玉県側設置の解説板より

 大正時代から伊勢崎銘仙が黄金時代を迎え、その仕事に携わる労働力を埼玉県の本庄、岡部、深谷あたりまで求めていた。架橋は悲願であったのだ。

 架橋の機運が高まってきたその頃、上毛電鉄が赤城山麓の大胡町から、埼玉県寄居町までの鉄道敷設計画を発表した。このタイミングは必然のごとく、鉄道併設の架橋とすべく利害が一致した。設計は木橋から鉄橋に設計変更し、建設費は120万円とはじかれた。群馬県・埼玉県・上毛電鉄が40万円づつ出すことで決まり、地元の受益者負担として10万円が見込まれた。町村自治体と、織物業者等が対象である。しかし8万円しか集まらなかったという。これには腑に落ちない現象があった。埼玉県の本庄町が2万5千円出しているのに、伊勢崎町が3千円しか出していないのである。織物組合でさえ、3千円出しているのにである。「当時の伊勢崎町長が、坂東大橋ができることによって、伊勢崎市の繁栄が阻害されると考えたらしい。」と関係筋で語られている。

 ともあれ昭和4年(1929)2月着工、昭和6年(1931)6月に落成した。主径間部が鋼曲弦ワーレントラス構造の6連橋である。しかし完成直後、世界恐慌等のあおりを受けて、上毛電鉄は資金難におちいり、鉄道橋は使用されないまま無用の長物となった。幸いにして、その後の自動車交通の増加によって道路橋に転用された。

 73年間、幾多の歴史を刻んだ旧橋も、老朽化と慢性的な交通渋滞に悩まされ、平成16年2004)に新橋にバトンを渡し、交通渋滞は一挙に解消された。新橋は、利根川から白鳥が飛び立つ姿をイメージ したという斜張橋。橋長:936m、塔の高さ:45m、最大径間:200mである。

 旧橋は河川管理上の問題から徐々に解体されて、3年後には完全にその姿を消した。

<橋の風景>

坂東大橋旧橋
旧橋-下流埼玉県側から

旧橋-下流群馬県側から

新旧並ぶ-上流から

海から182.0km標識
坂東大橋新橋
白鳥が飛び立つ姿の新橋

新橋の供用なる

旧橋解体始まる

解体のため川を堰きとめる

最後の一径間

埼玉県側の橋脚

埼玉県側河川敷

橋脚解体中

 新橋の供用によって、渋滞は解消した。幅広の歩道は、人も自転車も安心して景色を眺めながら利用できる。利根川と烏川の合流点は直ぐ上流側にあり、河川の草原は野鳥の棲みかである。北方には雄大な赤城山の裾野が広がる。


埼玉県側下流より

光線の角度によって右側のケーブルが見えない

 群馬県側の橋のたもとには、小公園ができて、旧橋の小さなモニュメントが設置された。僕は旧橋そのものを解体せずに、橋上公園として残して欲しいと提案したことがある。しかし維持費のかかることと河川管理上の問題から、撤去せざるを得ないとの回答だった。


解説板

旧橋のモニュメント

 公園の一角には、旧橋が架設されていた方向に向けて、記念碑が建っている。旧橋の橋詰に建てられていたものを、公園に移設したのである。当時の架橋の悲願が熱っぽく刻まれている。板碑の裏面には、「坂東大橋架設関係者」と、「寄附者芳名」が刻まれている。


旧橋建設時の記念碑

 碑文を写し取ったものを下に示す。旧かなづかいの旧字体、しかも現代では使われなくなった文言が多いが、あえて訳さないことにした。判読しながらも、当時の悲願の想いが充分に伝わってくると思う。なお、字体が漢字ソフトにないものについては、同義の新字体に置きかえた。

<参考文献>

  1. 伊勢崎史話10巻・合冊版P141-144/昭和42年(1967)7月/伊勢崎史談会

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