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旧楢川村<19.10.26記> <平成の大合併> 木曽郡楢川村(ならかわむら)は、僕が生まれ育った村である。その楢川村が、2005年4月1日塩尻市に編入合併し、村名は消えて住所表示は次のとおりにかわった。
旧楢川村は、信濃川を南に遡って、どん詰まりのところにある。川の名前もいくつか変って、生活圏は奈良井川であるが、最後の水源は白川と呼ぶ。 ちなみに木曽街道には11宿ある。その一番目は贄川宿、最後の11番目は馬籠宿(旧山口村)である。街道の入口には、それぞれ「是より南木曽路」、「是より北木曽路」の碑がある。面白いことに平成の大合併で、両端の村が隣りの市に編入合併をして村名が消滅した。しかも山口村は、岐阜県の中津川市に越県合併をしている。だからと言って木曽街道の歴史が消えたわけではない。 話を元に戻すが、旧楢川村には冒頭に述べたように、三つの大字がある。奈良井と贄川は木曽街道の宿場であり、両宿に挟まれて木曽平沢がある。さらに言えば、重要伝統的建造物群保存地区として選定されているのが、”宿場町”の奈良井と、”漆工町”の木曽平沢である。 僕が生まれた贄川は、残念ながら、大正7年の大火で昔の面影は少なく、せめてもの慰めは、”贄川関所”が復元されたことである。そこで働く女性ボランティアの解説は、見学者の興味をそそり中々のものだ。2006年に放映された、NHKの総合テレビ「街道てくてく旅-中山道-」の旅人-勅使川原郁恵さんに、贄川宿を案内してくれたのも彼女たちである。 この旧楢川村における子供の頃の想い出は、あるものは記憶が薄れ、あるものは鮮明に覚えている。それらについては” 子供の頃 ”に記述してあるが、風習・暮らし等の民俗の分野に属するものである。 <分水嶺-太平洋と日本海を分ける-> 子供の頃の想い出を、民俗の面でしか捉えられなかった僕が、ふとしたきっかけで、別の視点から吾が楢川村をみつめることに目覚めたのは、5年ほど前のことである。その「ふとしたこと」と言うのは、2002年ころだったろうか、前橋市立図書館でリサイクルブックフェアがあって、そこで見つけた本によってである。題名は「日本の分水嶺」、副題が-地図で旅する列島縦断6000キロ-とある。これを貰ってきて、読み出したら実に興味深い内容だった。北海道の宗谷岬から、鹿児島県の佐多岬まで、太平洋と日本海を分ける大分水嶺が一本の線でつながるというものである。この大分水嶺に沿うすべての市町村について、著者は余すところなく興味深い解説を加えている。この連続線のほぼ中心に吾が楢川村があった。僕の知的好奇心は、この一本の線にとりつかれて離れなかった。日本列島を縦断する”大分水嶺”という概念を持ち合わせていなかった僕にとっては、ある種の驚きを覚えるとともに、今までそれを知らなかった自分に腹が立ってしまったのである。 そこで、今まで考えもしなかった”大分水嶺に囲まれた村”という視点に立って、吾が楢川村をみつめてみた。平成の大合併によって、「楢川村」の文字が消え、同時に村の歴史の密度が極めて薄くなったこの時期である。 村の人たちは、もちろん楢川村が信濃川の源流の一つであることは知っている。村界が分水嶺でその嶺を越えると、そちら側は太平洋の流域であることも知っている。しかし、日本列島を縦断する連続線の一端を担っている”大分水嶺”に囲まれているという意識は、ほとんどの村民にはなく、小学校でも習った記憶がない。そこで、認識を改める意味で、この問題を考えてみた。 先ず、大分水嶺の全体図を見てみよう。ここで採用する図は、国土地理院編の「日本国勢地図」に基づいている。津軽海峡を太平洋とみるか日本海とみるかで線引きは違ってくるが、国土庁は下北半島ルートを採り、国土地理院は津軽半島ルートを採用している。僕の場合は二つの理由で、国土地理院の考え方を指示する。理由の1:大陸棚の縁を考えると、下北半島よりも、津軽半島の方が顕著である。氷河期に海の水位が下がったとしたら、北海道と本州とが津軽半島において陸続きになり、大分水嶺が浮上する可能性を重視した。理由の2:若いころ、山に登り始めて、国土地理院の5万分の一地形図に慣れ親しんだ愛着からのひいき目という単純理由。 いずれにしても、これから進める話には影響がない。
上の図で、本州中央部で下向きに尖っている赤丸部分が、旧楢川村。拡大図を次に示す。信濃川を南に遡ると奈良井川。中央アルプス山塊の北部が水源である。奈良井川が流れ出す村の北部を除いて、残りのほとんどが大分水嶺によって囲まれている。
楢川村は南北26.8kmと細長く、最南端は中央アルプスの最高峰-駒ケ岳(2,956m)に迫っている。ところが、東側の分水嶺を南下していくと、駒ケ岳に達すると思いきや、派生尾根のコブ山で西側に折り返し、最高峰-行者岩(2,658m)へ向かっていく。しかし、村界は行者岩の東側を巻いている。すぐ北隣の茶臼山(2,652.7m)が旧楢川村の最高峰であり、奈良井側の水源になっている。ほぼ180度反転した分水嶺は、深い谷の反対側に己の姿を見るように北上する。南北方向の中間点、ちょうど坊主岳(1960.6m)あたりが最もくびれた狭い地点である。わずかに2.4kmであるから、まさに指呼の間である。
このような大分水嶺に囲まれた市町村は他にはない。その成因について一言で説明することは難しい。木曽山脈(中央アルプス)の北端において、流れ下る水が、木曽川か天竜川のどちらかに流れ下りそうなものだと思う。しかしそうならずに、両河川の間に無理やり割り込んで、たもとを分かつように独自の流れを北にとった。
大分水嶺に囲まれた楢川村は、交通不便な寒村であった。奈良井川下流の開口部をのぞき、村外との交流はすべて峠越えだったのである。現在、国道19号には鳥居トンネル、国道361号には権兵衛トンネルと姥神トンネルが貫通している。大分水嶺を越える他県とのアクセスは、かなり便利になっている。 <大分水嶺探検のこつ>
<参考文献>
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