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木曽山用水<21.5.21記>
ーその存在を知らぬ木曽の人たちー

<プロローグ>

 ”木曽山用水”の存在を知ったのは、まったくの偶然である。生まれ故郷の旧楢川村(現塩尻市)について、インターネットで調べているうちに、”木曽山用水”という文言に引っかかった。いままで聞いたこともない、いわくありげなキーワードに思えたからだ。「木曽山」という古風な言い方が先に立ち、「用水」という水路を意味する文字の組み合わせである。現代的な要素が感じられず、これは何かあるなと直感した。インターネットでさらに検索した結果、「伊那谷の農民が、大分水嶺を越えた木曽の白川から、農業用水を取水した」ということが判った。

 その白川は、茶臼山(2,652.7m)を水源とし、黒川と合流して奈良井川となる。日本海へ流れる信濃川水系である。この村は中仙道。木曽街道の北端に位置する。”是より南 木曽路”の碑から南下すると、史跡”贄川関所”があり、”漆器工芸の木曽平沢”を通り、”奈良井宿”まで、街道筋はけっこう風情がある。


旧楢川村 水源図

 ”木曽山用水”の存在については、村人の話題になったこともないようだ。ちなみに故郷の何人かに訊いてみたが、いずれも知らなかった。「ならば、ここは一つ調べてみようか」と、単純な動機によって、しかし興味津々首を突っ込むことになったのである。

<人口増加と新田開発>

 日本の人口は、江戸時代の1600年代、1,227万人であった。関ヶ原の合戦後、人口が増加し、享保改革にいたるまでの100年間に3,128万人と2.5倍を超える勢いを示した。徳川吉宗は幕府中興の祖と言われるが、農民収奪の張本人でもあったという。新田開発を奨励し、年貢増徴を計ったため、農民は苦しむばかりで子供も産めず、そのために人口が減ったとも言われる。人口減の原因には不運な出来事もあった。享保16年(1731)西日本が冷害に見舞われ、翌年まで続いた。このため稲作に大被害を受けた。”享保の大飢饉”と言われる。このとき吉宗は、サツマイモの栽培を奨励したという。そして明治維新後、人口はふたたび増加を続けて現在の数字になった。


人口の超長期推移 -本川裕氏のサイトより

 人口が増加するたびに当然のことながら、新田開発は焦眉の急となる。それには農業用水路の開削が重要課題であった。しかし開拓地は山裾の高みにあり、大きな河川は下を流れている。低きところから水を引くことはできないのである。ほとんどは山から流れる沢水を引いた。開田地に見合った水量が得られず、干ばつが続くと、細々とした水を求めて部落間の”水争い”が絶えなかったのである。

<伊那・西箕輪の水争い>

 現在、長野県伊那市の西部に、”西箕輪地区”がある。木曽山脈の東側に複合扇状地が形成されて、その扇頂部に位置している。江戸時代から明治にかけて、与地・中条・上戸(あがっと)・大萱の”4ケ村”があった。現在でもその地名は、地図上で確認できる。

 南側には”小沢川(おざわがわ)”が流れている。”小沢”という地名から名付けた川名と思われる。扇頂部に出合いがあって、”南沢”と”北沢”が合流している。

 実は、この北沢の水をめぐって、江戸時代から壮絶な争いが繰り返されてきた。扇端部の下流側では、早くから小沢川の水を引いて稲作を行なってきた。4ケ村には徐々に入植者が増えていったが、扇頂部のため、水は地下深く伏流し、飲み水にも事欠く状態だった。開墾地もおよそ開田などは高嶺の花で、雑穀を作るしかなかった。小沢川上流の北沢から水を引こうにも、水利の既得権を持つ下流部落がこれを許さず、”水争い”は明治時代まで続いたのである。

 4ケ村の住民は大きな不満を抱いた。「地理的に考えれば、上流域から水を引く権利があってもいい筈だ。」と思ったに違いない。これには当時の藩政にも関連があると思われる。

 当時、4ケ村は幕府直轄であり、松本藩の預かり領として、飛地のような村落だった。それだけに住民の願いを聞き入れられるような、きめの細かい政治が及ばなかったと思われえる。それに対して下流の村々は高遠領であり、南信濃を熟知している領主が、領民の利益誘導を考えない筈はなかったと思われる。

 しかし4ケ村は諦めず、弘化3年(1846)、結託して松本藩に請願し、下流域と10年以上も争った揚句、江戸評定所へ訴えた。4ケ村のうち与地が主導した目論見の骨子はこうである。「元来、北沢は箕輪領で、高遠領で使うのは筋違い。下流域では余水を天竜川へ放水するほど水を充分に使っている。それに4ケ村が新田開発をすれば国益が増大する。」というものであった。下流側はすぐさま反論した。「水利権はすでに下流が持っている。水量も日照りのときは干ばつにとなり、上流で取水されると下流の田圃が涸れて駄目になってしまう。それこそ国益を損するというものだ。水は一滴たりともやれない。」という。

 この手の訴訟には、双方とも尤もな道理があり、役人も迂闊な裁きができない。結局は却下し、「両者で話し合って示談せよ」と政治決着を避けるばかりだ。

 4ケ村は、下流域の青々とした田圃を恨めしげに見ながら、自分達は粟や稗(ひえ)などの雑穀を作るしかなかった。史実で知る限り、引水の訴えは、享保15年(1730)頃から明治2年(1869)頃まで、140年の長きに渡って、9回にも及んでいる。

 やがて時代は、徳川幕府から明治政府にかわった。チャンス到来とばかりに、4ケ村は、奇抜なアイデアの計画を立案して、江戸奉行所へ願い出ている。「木曽山の場広(ばびろ)から権兵衛峠まで1里の水路を引き、北沢支流の後沢(うしろざわ)に水を落とす。その”替え水”を下流の”棚あらし”から取水する」という計画であった。このアイデアを発案したのは、与地村である。しかし、またしても、下流の農民の猛反対により阻止されてしまった。

 明治3年(1870)、信濃の国は伊那県となり、薩摩藩士の永山盛輝(ながやませいき)が参事(現在の県知事)となった。この下に、属官(下級役人)の本山盛徳*(もとやませいとく)なる人物がいた。本山も同じ薩摩藩士で、国土開発が任務である。

 明治4年(1871)、伊那県が廃止され、長野県と筑摩県の2県体制になった。筑摩県には、旧藩の松本・高遠・飯田・高島・飛騨高山が所属した。県庁は松本に置かれ、トップの人事は変らない。これによって高遠藩の有利性はなくなった。今まで不利益を受けてきた各地の農村が機を逃さず、改めて引水事業の請願をした。本山は4ケ村の悲壮な請願に応え、今までの事情を覆すような、引水事業を次々と認めることになった。

<与地井筋=平岩井堰>

 先駆けとなったのは与地村である。長年4ケ村で協同作戦をとってきたが、いまや戦局は変った。明治4年(1871)、与地は単独で新たな引水計画を請願した。単独の方が速攻しやすいと踏んだのであろう。首尾よく認可を勝ち取った。このときから、密かに贈収賄の影が見え隠れすることになる。明治5年(1872)、北沢上流の平岩から8kmの水路が完成した。この工事は県費でまかなわれ、人夫まで下流域の反対派から出させている。本山盛徳の強引な施政の表れである。これにより17hrが開田された。その後も取水口の水舛の構造をめぐって、下流域との争いは絶えず、協定書が交わされたのは、実に84年後の昭和31年(1956)であった。

<大萱井筋=赤岩井堰>

 4ケ村のうち、2番手で請願したのは大萱である。運よく下流の西町地区から、小沢川の水利権を譲って貰ったのである。西町地区が水利を天竜川に変更することになって、そちらの利権料を大萱村が肩代わりする条件を受け入れたのである。このときも本山盛徳の権力が絶大だったという。明治5年(1872)、北沢の赤岩から分水する計画が認可され、8kmの水路が完成した。これにより14hrが開田された。その後も水舛口をめぐる下流域との争いがくり返され、沈静化したのは明治40年代であった。

<木曽山用水⇒上戸・中条井筋>

 4ケ村のうち、遅れをとったのは、上戸・中条の2村である。かつて同士であった与地村と大萱村が北沢からの引水を先に決めている。後に残った自分達の取り分は、もう北沢にはないに等しい。残る手はただ一つ、かつて4ケ村で請願したことのある計画である。「山を越えた木曽側から水を引く」ことであった。

 ここに”木曽山用水”と呼ばれる悲願のプロジェクトが立ち上がった。


木曽山用水概念図

赤線

:明治8年に開削した水路

—紫線

:昭和44年に開削した隧道

白抜き○

:水枡

カシミール3D にて作成

*本山盛徳:元薩摩藩士。本山は、行く先々で権力を振り回し、賄賂を取って、明治8年(1875)免職。出身地の佐賀県伊万里へ送られて、終身禁固の刑を受けた。西箕輪の請願に当たった有力者数十人も贈賄の処分を受けたが、村人の本山に対する尊崇の念は強い。
 島崎藤村の小説”夜明け前”には「筑摩県の権中属(ごんちゅうぞく)本山盛徳」が何回も登場する。例えば『本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分』とか『地租改正のおりにも大いに暴威を振るった』などと書かれている。

 木曽山用水を開削するには、山稜の標高が最も低い権兵衛峠(1,522m)が基点となる。権兵衛峠から僅かな水勾配を保ちつつ水路を開削すると、その位置は奈良井川源流の白川となる。⇒(その形跡は国土地理院の地形図を見ると、ほぼ等高線に添って水路跡が確認できる。)

 プロジェクトは立ち上がったが、この計画に対して、水を取られる奈良井川の水利権を持つ村々(現塩尻市の広丘辺りが多い)から強い抗議があった。小沢川下流の村々からも同様で、まさに挟み撃ちである。しかし目的を貫徹しようとする、上戸・中条の農民たちは怯まなかった。相手を説き伏せる智恵がここで発揮されたのである。その打開策はこうだ。先ず奈良井川の水利権者に対して、取水量を厳守する方法を説明した。権兵衛峠の近くに水枡を設置し、枡から溢れた水は奈良井川へ戻し、規定の水量のみ取水するというしくみである。

 一方、地元下流域の水権者に対しては、権兵衛峠と同型の水枡を北沢の取水口に設置する。その場所は”牛蒡沢”と呼ばれる支流の出合い地点である。そうすれば、北沢本来の流量に影響を及ぼすことはなく、下流域の水利権を侵さないという論法である。

 かくして明治5年(1872)、二つの水争いは解決した。このときにも本山盛徳が、既得権を持っている反対派を抑え付けたことはいうまでもない。

 平成21年5月21日、木曽山用水を探訪した。以下、”木曽山用水路”の歴史と現地探訪記録を織り交ぜてご紹介する。

 先ずは用水路の流れに添う形で白川取水口を目指す。あらかじめ木曽森林管理署に入林許可を頂いており、奈良井森林事務所の森林官が同行してくださった。”キャンプ場”と呼ばれる場所に、ゲートが設けられており、一般車は入れないが、許可車なら鎖の錠を外して進入できる。キャンプ場は57年前にテントを張った記憶がある。林道は砂利道ながら、轍もなく、極めて良好。昔、伐木運搬の森林軌道の跡である。しばらく走って右側の斜面が開けた辺りまで来たとき、森林官が言った。「来年は贄川の御柱の年で、今年はこの右手の山から樅の木を切り出すことになっている。」という。奈良井川につかず離れずして、遡上する。新緑の広葉樹林の中からさかんに小鳥の囀りがする。


林道を白川へ向かう


 明治6年(1873)、白川から取水する工事が開始された。測量はメンパ(弁当箱)のような箱に水を入れて勾配を測ったり、夜は提灯の明りで作業をしたこともあった。農民達は、ツルハシやジョレン、大ハンマーなどを使って開削作業に奮闘した。


白川取水口


 白川の水は美味かった。すでに無人の領域であるから安心して飲める。写真の右手斜面は、平成4年に台風23号で押し出されもので、そのときに水路が被害を受けたらしい。ここから少し上には砂防ダムが設けられていて、上方には川名の由来となった花崗岩の累積が水源に向けて白く輝いている。侵食活動が激ししいようだ。稜線の雪山は茶臼山の稜線かとみたが、あとからカシミール(山岳風景の地図ソフト)で確認したら、茶臼山の肩で、頂上と分水嶺はその向こう側に隠れていることが分かった。

 取水口から自然流下させる為に、ほぼ等高線に添って開渠にしている。その後の改良工事では、大きく迂回していたところは、蛇腹管を埋め込んでショートカットを図った。


暗渠と開渠で導水


 少し下ると、「駒ケ岳登山道入口」の標識があったが、道はブッシュで蔽われているので、近頃は登山者もほとんどいないと思われる。
 ほどなく林道の分かれ道になる。案内標識がないから、うっかり見逃すおそれがある。今日は森林官が同行してくれていて、躊躇なくその別れ道に入って行った。直ぐのところに”木曽山用水路管理小屋”があった。その下を回りこむと、トンネルを抜けた水が、急斜面の水路を駆け下っていた。


木曽山用水路管理小屋

水舛の設置場所


 沢の窪みに水舛が設置されており、雨が降れば沢の水も枡に落ちるようだ。どっちみち規定以上の水量は、オーバーフローして奈良井川に戻る構造になっている。


切れ込みから溢水させる水舛

木曽山隧道-入口


 水舛の直下に”木曽山隧道”が連結されている。トンネル入口の内部側壁に赤いペイントで、「944.4m」と手書きされている。

 このトンネルは、昭和44年(1969)に改良工事で新設されたものだ。分水嶺の下を伊那側の南沢へ抜けている。当初の木曽山用水が権兵衛峠まで12kmもあり、土砂崩れで被害が絶えなかったのでそれを廃し、このトンネル水路に替えたのだ。当初の水路は”旧木曽山用水”と呼んでいるが、トンネルの入口前を左側へ素通りしている。ブッシュに蔽われて、権兵衛峠まで辿るのは困難であろう。


木曽山隧道-出口


 白川の調査を終えて林道を下り、権兵衛峠へ向かう。昔の権兵衛街道は人道であり、時間さえあれば、それを歩いて昔を偲ぶのも一興であるが、今日は旧国道361号を車で向かう。そのまま走れば、尾根を越えた先で道路は閉鎖されている。平成18年に権兵衛トンネルが供用されて、旧道は不要となったのだ。権兵衛峠は尾根の直前に車を止めて、歩行距離100mもない。


権兵衛街道・米の道

権兵衛峠分水嶺の碑


 権兵衛街道は、近代交通機関のない頃は重要な街道であった。伊那から木曽へ米を運んだ”米の道”と呼ばれる。木曽谷は今でもそうだが、米はほとんど取れない。広大な伊那谷で生産された米は、この街道を馬で運んだ。元禄のころ、権兵衛峠にもっとも近い伊那の与地村では、米を運ぶ馬子たちが伊那節の元歌である”おんたけやま”を歌ったという。その一節を引用しよう。

木曽へ木曽へとつけ出す米は

伊那や高遠のあまり米

 水が不足している伊那へ木曽から水を送り、できた米を木曽へ送って貰うという関係が、”木曽山用水”と重なり、何か因縁めいたものを感ずる。

 明治8年(1875)白川から権兵衛峠まで12kmの”木曽山用水”が完成。遂に分水嶺を越えて、伊那側へ水を落とすことができた。権兵衛峠から300mほど上流側には、復元された水枡が、当時の歴史を静かに物語っている。分水嶺の伊那側落とし口は、ブッシュの中にその存在を窺い知ることができる。


復元された水枡

分水嶺の伊那側落とし口

 少し離れた高みから、伊那谷の人たちにとって、心の古里ともいえる南アルプスの仙丈ケ岳が望見できる。眼下には、木曽山用水の受益地が霞んで見える。


東に仙丈ケ岳


 落とした水は、北沢本流に合流し、300mほど下った地点の牛蒡沢に達する。ここに取水口と水舛が設置されている。今でこそ、砂防ダムができているが、当時は石で囲われた素朴なもので、大水で流されるたびに修復されたことであろう。もしかしたら下流側の水利権者との間で争いがあったかもしれない。

 貯水槽の左側に取水口が見える。上部にあるのは仕切弁のハンドルだ。その下流側に設置されている水舛は、権兵衛峠のものと同型である。枡の左側から余水が溢水して、規定量が導水される。


牛蒡沢取水口

牛蒡沢水舛


 上戸・中条への開田地までは、開渠と5本のトンネルよって導水される。すでに扇状地の様相を呈した広がりのある景観は、伊那谷の米どころを象徴している。


トンネル導水路

受益地分水槽


 広大な開田地を目前にすると、木曽山用水の受益地がどの範囲なのか判然としない。水路がどうめぐらされているのか見当がつかない。


受益地までの開渠


 受益地には、”ため池”も造られている。日照りが続いて北沢の水が細くなっても、ため池に貯水して置けば、水田には安定供給できる。ちなみに長野県上田市の塩田平も、ため池が沢山あることで有名である。その景観は豊かな田園風景を醸し出している。


ため池

受益地の田園


 明治9年(1876)、ここに壮大な一大プロジェクトの悲願が実り、これにより、22.5hrの水田を潤すこととなった。


受益地の後方が木曽山


 前述した”木曽山隧道”を抜けて南沢へ落ちた水は、下流で北沢と合流し小沢川となる。すなわち白川から取水した水は、そっくり小沢川の下流へ供給される。下流側の水利権を侵すことなく、自分たちも受益するこの仕組みは、「別の所へ水を入れ、別の所から水を引く」ということから”為替水”と呼んでいる。

 ところで、木曽山用水という名称の元になった「木曽山」であるが、十五世紀半ばの京都南禅寺の文書に登場しているという。その後の近世初頭における、城や城下町が形成される空前の都市建設の時代になっても、「木曽山」の名は盛んに使われた。全国各地の豊富な森林資源が略奪的な伐採作業の荒波にさらされ、急速に荒廃していった。そんな時代に、森林資源の供給地を単に、「木曽山」・「伊那山」・「飛騨山」などと呼んでいた。

<エピローグ>

 江戸時代から”水争い”は、各地に見られる。用水路の開削には公費も投入されずに、農民達が自らの手によって農業基盤を作ってきた史実が多い。今回の物語は、まさに「水の一滴は血の一滴」の好例として、取材にも力が入った。

 木曽山用水の特徴は、大分水嶺(日本海と太平洋に水を分ける分水嶺)を越えて水を引き、その水量と同量の水を補償する水舛のしくみを考えたことにある。取水口から開田地まで、用水路の全線を開削するのではなく、中間は既存の沢を有効利用したことも見逃せない。

 毎年、水利権者ならびに行政機関立会いのもと、水量計測を目的として水舛検査が行なわれている。今年は伊那側が5月9日に行なわれ、木曽側については、6月1日に予定されている。

 奈良井川の源流-白川が属する村は、旧楢川村である。その村の人達が”木曽山用水”の存在をほとんど知らないのはなぜであろうか。つらつら考えてみるに、奈良井川の水を必要としなかったからではないだろうか。V 字谷で水田がほとんどなく、飲み水も居住地の背後の沢から引水している。奈良井川は、魚を取るぐらいが関の山で、水利権を主張するほど奈良井川の恩恵がない。ところが松本平に達すると、がぜん話が違ってくる。稲作の穀倉地帯に入るからである。奈良井川の受益中心地は塩尻市の広丘辺りで、木曽山用水の開削に反対した地域である。楢川村の人達にとって、木曽山用水は無縁であったのだ。

 当初、現地には単独行を考えた。しかし資料による下調べをしていくうちに、しだいに自信がなくなってきた。結局、白川と権兵衛峠については、奈良井森林事務所のS森林官に、北沢と開田地については、上戸・中条水利組合のA組合長にご同行をお願いする結果となった。お二人にはお忙しい中を、現地のガイドをして下さり、質問に対して明快なご回答をいただいた。心から感謝申し上げる。

 奈良井川上流へは、調査等の目的で車両乗り入れしたい場合は、3週間ほど前に木曽森林管理署へ申請すると、入林許可が得られる。登山目的などの場合は許可されない。

 2008年9月1日、西箕輪地区は長野県より「景観育成特定地区」に指定された。単独の自治体内の住民から発案された景観計画が指定されたのは全国唯一のものらしい。権兵衛トンネルができたことにより、乱開発が行なわれる可能性があることから、現在の景観を守ろうと住民たちが危惧を感じたからだという。山地、田園、市街地が織りなす典型的な景観を大切にしていくことを主眼にしている。

<参考文献>

  1. 西箕輪誌 西箕輪誌編集委員会/著 伊那: 西箕輪誌刊行委員会 2005年11月
  2. 伊那市史 歴史編 昭和59年9月27日発行/伊那市史編纂委員会-伊那市史刊行会
  3. 同上    現代編 昭和57年11月1日発行/同上
  4. 権兵衛街道 2006年2月4日発行/権兵衛トンネル開通記念誌刊行会-新葉社
  5. 伊那・木曽谷と塩の道 2003年6月20日発行/編者:高木俊輔-吉川弘文館
  6. 木曽山用水物語 昭和57年7月/奥原修 著
  7. いのちの水を求めて(権兵衛峠をこえた木曽山用水) 1990年/有賀義公 著

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