このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

  (目次に戻る)

牛伏川フランス式階段流路

 長野県松本市の南東側、岡谷市との境界付近に鉢伏山(はちぶせやま1,928.5m)がある。なだらかな稜線の高原だ。
 その鉢伏山の西側中腹に、牛伏寺(ごふくじ)という名刹がある。古くから修験道の寺として知られ、長野県下では屈指の規模と文化財を誇っている。地元周辺の住民からは、厄除け祈願などで格別に親しまれている寺である。急峻な斜面に伽藍が建ち並び、それぞれの段上の境内は石段によって連結されている。その南側は深い谷が刻まれており、木の間越しに砂防ダムが見える。

 天気が良ければ水量は少ないが、ひとたび豪雨があると奔流となる。この川は国土地理院の地形図によれば牛伏川(うしぶせがわ)という。牛伏寺が名前の由来であることに疑いはない。鉢伏山から派生する横峰(1,670m)を水源としており、流れ下って平野部のJR中央西線-南松本駅の東側で田川に合流する信濃川水系である。

 牛伏川の延長は9kmと短いが、活断層の牛伏寺断層に沿って刻まれた川のせいか、昔から氾濫が多く扇状地(扇頂部から扇端部まで約3km)が形成されている。江戸中期からの乱伐や度重なる山火事によって山は荒廃した。豪雨があるたびに土石流が発生し、慶応4年(1868)には、下流の水田に大被害を与えた。明治時代の新潟県下における水害について、土砂供給源の最たる要因は、牛伏川にあると槍玉に挙げられたという。

 このため、明治18年(1885)に、内務省土木局の直轄工事により砂防工事が開始された。明治31年(1898)からは長野県が事業を受け継いだ。明治44年(1911)には、内務省技師の池田圓男(いけだのぶお)*1がヨーロッパへ派遣され、入手したオーストリアの砂防教科書に実施例として、フランスのサニエル渓の階段工法が掲載されていた。これを参考にして大正5年(1916)に牛伏川に導入して、大正7年(1918)にいわゆる「牛伏川フランス階段流路」が完成した。水路張石工は、流水の浸食による河床の低下を抑制するための工法で、他の地には見られない美観的要素を醸し出している。

*1:同一人物であるかどうかは不明であるが、鳥取県出身の東邦コンクリート株式会社取締役で、元内務省や愛知県等の技師として、砂防研究に携わった池田圓男(いけだまるお)なる人物がいた。 

 荒れた山には植林を行ったりしたが、当時は成長の早いニセアカシアも植えられた。しかしその後、ニセアカシアの弱点も見えてきた。周囲の植生を駆逐し、高木になると下草が絶えて、自分自身も倒れやすくなり、返って土壌を軟弱にするというのである。このため、ナラやクリなどの在来種に植えかえる林相転換を進めている。昔の自然林に回帰させようとの考えである。

 現在この一帯は「牛伏川砂防学習ゾーン」として整備され、生きたミュージアムという感がある。気軽に見学できると同時に、憩いの場としても市民に親しまれている。

 僕がこのことを知ったのは、平成18年に女房筋の兄弟会を新穂高温泉でやったときのことである。そこに流れる蒲田川は、活火山焼岳の火砕流や泥流による地質のため山肌が崩れやすく、昔から氾濫が繰り返されていた。そこに大規模な砂防堰堤を何重にも構築して、氾濫を防いだ歴史がある。その様子は神通砂防資料館(現在は奥飛騨さぼう塾)で学ぶことができる。

 そんな話を松本市在住の義兄としたときに、義兄が松本市の牛伏寺川には「フランス式階段流路」というのがあるよと教えてくれたのである。そんなことが記憶の片隅にあって、たまたま19回目にして、高齢化のため最後となった兄弟会を松本市の美ヶ原温泉で行うことになった。そこでチャンス到来とばかりに「牛伏川砂防学習ゾーン」を訪ねることにしたのである。

 カーナビの目的地を牛伏川に設定し、群馬県から一気にひた走った。城下町特有の複雑な松本市街地を難なく通過して、前述の砂防ダムに到着した。「牛伏寺砂防堰堤」というが、これはありふれたコンクリート製である。ほぼ土砂が埋まって、水生植物が生えている。


牛伏川砂防学習ゾーン案内図


 川の右岸に沿って舗装道路が延びており、ゆっくりと車を走らせながら流れを見ることができる。ほどなく橋が現れ左岸に渡ると駐車場があった。ここが学習ゾーンの中心地である。橋の上から上流側を眺めると、若葉まぶしい景観の中に、沢の流れが石積みの階段を駆け下りている。清冽な流れと広葉樹の新緑が目に染みる。川底は芸術的ともいえる石畳である。石積みによる砂防堰堤は自然と調和した芸術作品とも見える。説明版を見ると、これが「フランス式階段流路」であった。延長141mの石張りの水路で、19段の段差で構築されている。明治31年(1898)起工、大正7年(1918)竣工、平成14年に国の登録有形文化財に登録されたとある。


フランス式階段流路-全容


 ほかに見学者は皆無に見えたので、急な砂利道に車を乗り入れることにした。流れのあらゆる箇所に石積み工法が採られている。左右の急斜面から流れ落ちる小さな沢もそうだし、出合いもすべて石積みである。沢に飛び出た樹木の根巻き部分までが石積みなのには感心した。


フランス式階段流路-アップ


 他にも様々な工法が採用された。石堰堤工・土堰堤工・木工沈床・護岸石積工・柵止工・谷止工・水通工・水路張石工・種苗工などである。


水路張石工

根まわりの石積み



空石積みの堰堤

明治19年完成の堰堤



橋梁部の石積み

支流出合いの歩道橋



牛伏寺-牛のブロンズ像


 さてここで、いささか面倒な話をしたい。「牛伏川フランス式階段流路」とあるから、この川は疑いなく牛伏川であると思っていたのだが、義兄のいうにはそれは違うというのである。一瞬なにが何だか分からずポカンとしてしまった。現に学習ゾーンのあちこちにある説明板には、そう書いてあるではないか。しかし義兄は「牛伏寺川(ごふくじがわ)」だと言って譲らない。教育者だったもう一人の義兄も同じことをいう。僕は取り敢えず素直に聞き置くことにした。これは何か曰くがあるに違いないと考え、むしろ新たな疑問の解き明かしの楽しみができたなどと、考え直したのである。

 帰宅後さっそく調べてみると興味深いことが分かってきた。いくつかそれをご紹介しよう。

 平成19年のことである。いわゆるご当地検定と言われる、第1回松本検定が行われたときのことである。その際に提出された問題を再掲する。

問題88 次の地名の読み方が間違っているものは?

1 梓水苑(しすいえん)
2 王ヶ頭(おうがとう)
3 牛伏川(ごふくがわ)
4 稲倉峠(しなぐらとうげ)

 設問の答えとしては"3"である。正しい読み方は「うしぶせがわ」である。ところが、さっそく異論が起こったようだ。とりわけ流域住民からの反論が多かったのではないかと考えられる。混乱に輪をかけたのは、当時インターネットで人気のあるWikipedia(フリー百科事典)が、牛伏川(ごふくがわ)となっていたことである。結局は全員正解の処置がとられたという逸話となった。その後Wikipediaは「うしぶせがわ」と訂正された。Wikipediaは誰でも記事の編集や作成に参加できるから、穿った見方をすれば、記事を書いた人は承知の上で「ごふくがわ」としたかもしれない。本当は「牛伏寺川」としたいところだが、すでに「牛伏川」と公式な名称になっているために、せめて読み方だけでも本来の呼称に近い読み方であるべきとの反骨心だったのではなかろうか。

 他にもこんなのがある。流域の並柳(なみやなぎ)小学校の校歌3番である。

ときは移り 人は変われど 変わることなき牛伏寺川

清き流れの源たどり あしたを開く道のりよ ああここに 並柳小学校

 作詞者の山本茂実は並柳の生まれであるから、地域ではそう呼んでいたのであろう。因みに山本茂実といえば、『あゝ野麦峠—ある製糸工女哀史—』の作家として有名である。

 まだある。文末の<参考資料>に関連サイトを示したが、要約はこうである。

 牛伏川の砂防工事は、明治18年から内務省が着手したが、明治30年度から長野県が施工した。それにかかわったオランダ人のヨハニス・デ・レーケなるお雇いの内務省土木技師がいた。明治23年(1890)7月、長野県知事は、その技師を長野県に招聘した。目的は信濃川と天竜川の改良工事の設計依頼である。
 明治23年12月、内務省土木局長から県知事にデ・レーケからの報告書の訳書が届いた。「長野県河川道路踏査報告書」というものである。調査個所を次に示す。

1.飛騨街道筋天竜川四支川ニ架スル橋梁
2.犀川河邊ノ新道
3.長野町近傍犀川ノ改修
4.平地ニ於ケル梓川ノ下流
5.松本平以下犀川
6.牛伏寺川
7.上田松本間道路
8.鳥居峠
9.梓川水源ト改修ノ方法

 内務省はこのとき、はっきりと牛伏寺川という名称を用いているのである。
 ついでのことに、ヨハニス・デ・レーケ報告書の和約されたもののうち、「牛伏寺川」の記述概要を次に示す。

 私(デ・レーケ)は河上氏(注:同行技師)と奈良井の一支流で松本の右山間より発する牛伏寺川を遡った。

 小流と言えども流れが甚だ急で、その上流は山腹が所々崩壊し、岩石は弱く割れ易い。滑落崖は高さ約15Mに達している。山間に石塊(土砂)が堆積しているため洪水の時は、(土石流となって)平地の河川断面では飲み切れず田畑に被害を与えことが少なくない。

 崩壊している山岳の麓に5箇所石堰堤がある。いずれも高く、それらの石堰堤相互の距離は良好である。それらの基礎は岩盤に設置しすべて完全である。急流な渓流を階段状に設けた形になり、河床勾配が緩やかになり流速を低減して好結果を生んでいる。また堰堤には土石が一杯で左右の斜面崩壊の防止が図られている。堰堤の上流は崩壊は少ないが、更に上流は崩壊が避けられない状態なので、河上氏に緊急に十数箇所の堰堤を築造するように指示した。

 この辺の岩石は湿気(水分)により岩石が極めて早く分解し易い状況にあるので、堰堤が載っている岩盤も分解を受け易い。また堰堤に堆積した岩石にも水がたまり堰堤を加圧する。時々堰堤の下流基礎部を検査して、少しでも弱点が見つかれば、その補強対策をしっかり行い強固にしなければならない。もし怠って豪雨が来て堰堤が破壊するようなことになれば、堰堤を設けない時より、被害は甚大である。

デ・レーケ謹白

 この報告書から分かるとおり、デ・レーケが牛伏寺川の調査に入ったときには、すでに石堰堤は5箇所施工済になっていた。しかし更なる施工が必要であることを、同行の河上技師に具体的に指示しているのである。

 ヨハニス・デ・レーケは、日本の砂防や治山の工事を体系づけ、「砂防の父」とも言われた。明治6年(1873)に明治政府の内務省土木局に招かれ、河川や港の改修、砂防や治山の工事体系づけを行った。

 後に、工科大学校(現・東京大学工学部)を始め、明治24年(1891)、内務省勅任官技術顧問(内務省事務次官に相当する)の扱いになる。都合30年以上日本に滞在し、明治36年(1903)離日。

 というわけで、むかし牛伏寺川であったのに、いつ牛伏川になってしまったのだろうか。全国に例えば「善福寺川」などと寺の字が付く河川はいくらでもあるから、廃仏毀釈にも関係なさそうである。この事情は、国土交通省で調べれば簡単に分かりそうな気がする。

 ところで地名の呼称における、わが群馬県での事例を二つ挙げる。

 一つ目は赤城山の呼称であるが、以前、国土地理院の地図には「あかぎさん」と記載されていた。これは当時の規則により「山」を「さん」と読むと規定されていたからだが、地元群馬県民などの長年の陳情の結果「あかぎやま」と改称されている。数年前だったと思う。

 二つ目は、「八ッ場ダム」ですっかり有名になった「やんば」の呼称である。以前は群馬県民でも読めない人が多かった。不自然に感じる人が多かろう。政治的なことは抜きにして、もしダムが完成したら「八ッ場ダム」の名称になるのかどうか、気になるところである。

<google map> 牛伏川砂防学習ゾーン

<参考資料>

  1. 現地説明板

  2. 関連サイト: 牛伏川砂防工事とヨハネス・デ・レーケ 長野県ホームページ

(目次に戻る)  

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください