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日航機123便墜落24年目の追悼<21.8.14記>

 日航機が、群馬県多野郡上野村にある、高天原山(たかまがはらやま1,978.6m)山系に属する、無名の尾根に墜落したのは、昭和60年(1985年)8月12日である。
 墜落現場はその尾根の標高1,565m付近であるが、多くの報道が未確認のまま、「御巣鷹山に墜落」と伝えてしまった。
 しかし場所を示す何らかの名称が必要だったことは確かで、当時の上野村の村長だった黒沢丈夫氏が、苦肉の策として「御巣鷹の尾根」と命名した。これはあくまでも日航機墜落事故の報道に限定した便宜上の名称である。

 この事故によって、乗員乗客524名のうち死亡者は520名、生存者は4名であった。固唾を呑んでテレビを見守っていた当時の様子を、僕は鮮明に憶えている。あの惨事から今年は24年目になる。

 いままで現地に慰霊の登山をしたいと思っていたのだが、実現していなかった。なんとなく犠牲者への冒涜になりはしないかと恐れていたのである。現地の上野村でも「観光地化しない」との方針のもとに、ホームページで積極的な情報は提供していない。ひたすら遺族の便宜をはかるべく、登山道の整備をし、温かく遺族を迎える立場に徹している。併せて二度と惨事を起さないようにとの願いを込めて、数々の資料の整備保存に努めている。悲惨な事故の事実を、風化させてはならないとの想いからである。

 僕は麓にある"慰霊の園"にはお参りしたことはあるが、やはり事故にあった現地を訪れるべきかと、当初の迷いをふっ切って、ついにお盆の14日、慰霊登山を決行した。遺族の高齢化が進んだために、上野村は登山道の延伸を行なってくれた。終点の駐車場から現地の”昇魂之碑”まで800mの距離に縮まった。墜落防止の柵も設けてくれてある。このところ不順な天候が続いていただけに、線香とマッチを防水袋に入れて山に登ったのであるが、現地には、線香もチャッカマンも用意されていた。ここにも上野村の心遣いが感じられる。

 事故から24年目を考えてみると、子を亡くした親たちの中には、故人となっている人もいるだろう。老いて慰霊登山を諦めた人もいよう。夫や妻を亡くした連れ合いの嘆きはいまだ続いているのではないか。親を亡くした遺児の中には、現在も辛い人生の途上にいる人もいるに違いない。運よく幸せな家庭人となった遺児が、自分の子供とともに慰霊登山をして、祖父母の墓標に手を合わせている映像を見ると、ほっとする思いがする。

 舗装された林道の終端には駐車場がある。登山道の入口には記帳所があり、案内図には御巣鷹の尾根にある”昇魂之碑”の標高1,539m、そこまでの高低差180mとある。登る程に勾配がきつくなるため、杖も用意されている。沢の出会いを右手の”すげの沢”に導かれてすぐに、水呑み場が設けられている。


登山口

急坂を登る

 墜落現場の直下には、ご遺族休息所と管理用の山小屋があり、右手にトイレがある。登山道添いには、休憩用のベンチもある。

 急斜面の道は直登が困難のため、つづら折りになる。すでに墓標があちこちに見える。墓標は、遺体が発見された場所に設置されている。登山道からそれらの墓標に、ほぼ水平の枝道が分かれている。遺族の方々が墓前で佇む場所を確保するための配慮である。道の分岐点には、地名標識が設置されている。遺族の方々は、手にした「御巣鷹の尾根-案内図B6版」と地名標識とを見比べて、目的とする墓標区域に向かう。


上段ーご遺族休息所

現地の地名標識

 墓標区域に近づくと、墓標の案内標識がある。言ってみれば番地である。墓標があちこちに立っているが、その一つひとつの墓標に番号札が掲げられているので、遺族は亡き人との対面を果たせるのである。


墓標の識別標識

登山道入口付近の墓標

 墓標は520体分あるが、他に数々の供養塔や碑文等が建てられている。木製の墓標が朽ちていくに従い、石製の墓標に換えていくのは遺族の意思に違いない。すげの沢では、4人の生存者が救助されている。


急斜面の墓標

すげの沢の墓標

 毎年、墜落事故のあった8月12日には、御巣鷹の尾根で式典が行なわれる。昇魂之碑の前で遺族・日本航空・上野村をはじめ、ゆかりの人びとが、この広場に集う。亡き人を追悼し、航空安全を誓う。まさにこの場所が激突した地点であり、式典の場所にふさわしい。後方の高みには、観音像が設置されていて、犠牲者の眠る地を見守っている。観音様のお顔は遺族の人々に安らぎの眼差しを向ける一方で、正面の谷を挟んだ南東側に厳しい目を向けている。


昇魂之碑

観音像

 菩薩像が睨んでいるのは、日航の事故機が飛んできた方向である。直線距離620m程の尾根筋である。標高はおよそ1,610mで、こちらの場所より70mほど高い。その尾根の稜線を、機体がほぼ直角に飛来し、機体が尾根筋をえぐりとって、なお滑空した。しかし機首は反動で下降し、この御巣鷹の尾根に激突したのであろう。そのえぐり取られた稜線は「U字溝」と名付けられている。


稜線中央-U字溝

 昇魂之碑の背後には、事故の概要を刻んだ碑がある。墜落時刻の18時56分26秒は日本中が、行方を案じてニュースに聞き耳を立てていた夕刻である。もうじき機影の目撃情報が得られなくなる絶望感にとらわれていた。そして山深い上信の山中に機影は消えたのである。

 今でこそ御巣鷹の尾根に向かって、800mの地点まで道路が延びた。しかし事故当時はまさに深山幽谷、村人の手の及ばない自然林であった。村人が入山する地域であるならば、目立つ山や尾根や滝、さらには大岩など、仲間同士が場所を特定できる名前を付けている筈だからである。ところが、この山域には名前の付いている地名が極めて少ない。谷筋の違う御巣鷹の山名が持ち出されてもやむを得なかったのである。


事故の概要を刻んだ碑文

遭難者遺品埋設の場所

 尾根筋には黒焦げの大木があちこちある。表面が炭化しているから、今後も腐らずにこの形を維持するであろう。負の遺産として残したい。その脇には代替わりの木が生長している。


黒焦げの大木

黒焦げの根っこ

 尾根の南面は日当たりが良い。植生はかなり自然回復し、墓標周囲に涼しさと安らぎをもたらせているようにも見える。


自然回復した植生

墓標を緑が包み込んでいる

 8月12日の式典には、山野草も遺族の方々を迎えて、多少なりとも手向けの助けになったかもしれない。


ヨツバヒヨドリ

キオン

 御巣鷹の尾根から下山し、”慰霊の園”を訪ねる。ここは山へ登れない遺族だけでなく、遺体識別がつかなかった遺族にとっては、唯一供養できる123の壷に収めた納骨堂がある。合掌をイメージした慰霊塔も背後にある納骨堂も、墜落した御巣鷹の尾根の方向を向いている。

 お亡くなりになった犠牲者よ、安らかにお眠りを


慰霊の園

納骨堂

<参照>

  1. 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便:飯塚訓/講談社1998年6月

  2. 国土地理院地図閲覧サービスー 御巣鷹の尾根

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