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桃ノ木川源流を探る(前橋市民向け)<24.1.17記>

<桃ノ木川と広瀬川>

 群馬県前橋市、その中央部に桃ノ木川が流れている。一見、赤城山を源流とする自然河川と錯覚するが、実は利根川を分流する農業用水路である。その水源は昭和村の綾戸ダムであり、渋川市の佐久発電所に導水して電気を起し、その放流水を桃ノ木川と広瀬川に取り入れている。

 したがって広瀬川も桃ノ木川と同じ兄弟川である。この二つの川は、前橋市の北部で「広桃用水制水門」のゲートで分流されて、それぞれの役目を果たす旅に出る。それぞれの特徴を考えてみよう。まず桃ノ木川は最初から農業用水として前橋市東部の広大な田園を潤し、両毛線の駒形駅近くで広瀬川に合流する。川の長 さはたったの15kmにもかかわらず、その間、幾筋もの分水・合流を繰り返し、赤城山からの自然河川をもあわせて、その存在感は侮れない。一方の広瀬川は、前橋市街地にある4箇所の発電所で電力を生み出し、市街地を離れて前橋市南西部の田園を潤す。桃ノ木川と合流してから尚、下流域を網の目のように分流合流を繰り返して農業用水の使命を果たし、最終的には伊勢崎市境平塚で利根川に帰還する。


鶴舞う形の群馬県
桃ノ木川源流マップ
図ー1:桃ノ木川源流付近
(zenrin地図を基に作成)

 さて、その桃ノ木川であるが、広瀬川との合流点が僕たちの生活圏にある。二つの橋があり、桃ノ木川にかかる橋を簗瀬橋、広瀬川にかかる橋を落合橋という。親水公園の趣があり、用水堰は格好のカヌー練習場であり、グラウンドゴルフ場には高齢者がゲームに勤しんでいる。河川敷のサイクリング道路には園児・学童・学生などが様々な目的をもって集っている。それほどに多様な楽しみ方の多い河川であり、僕も女房と共に自転車を走らせることが多い。


カヌーの訓練


用水取水堰



園児の散歩


中学生の写生風景

<源流を探検>

 あるとき桃ノ木川の源流を探ろうと思い立ち、自転車を走らせた。川沿いを順調に走っていたのだが、国道17号線に達したあと、サイクリングロードが無くなってしまった。国道を渡ってからは、住宅の建てこんだ生活道路を走るしかない。狭いタテヨコの道を迷子になりながら徘徊しているうちに、遊歩道を伴う綺麗な芝生に囲まれた小川が見える小さな橋に出くわした。建てこんだ住宅街から急に視界の開けた景観に驚くとともに、ここも親水公園の趣があることの意外性に不意をくらったのである。

 橋のたもとに標柱があり、「田口町自治会・桃の木川を守る会平成十二年」と書かれている。橋の下を覗くと、チョロチョロと心もとない少量の水が流れている。後で分かったことだが、この小さい橋の名は「大橋」という。下流側の手摺はデザイン的に優れているのに、上流側は白色のパイプ手摺で美的センスはまるでない。推測するに、学童通学の安全対策のために上流側の手摺を撤去し道路を拡幅をしたものと思われる。安普請で済ませた感じで、橋名板も外してしまったらしい。”大橋”の概念にそぐわない小橋なのに、あえてそう名付けたのは何故だろうか。もしかしたら昔は滔々と流れており、大きな橋が架かっていたのかもしれない。ネット地図の拡大図を見ると、「大橋」も「田口町 桃の木川を守る会」も載っている。どちらも住民の環境活動に対する心意気としての象徴なのだろう。


桃の木川を守る会標識


橋からの景観

 遊歩道に誘われて水際に下りると、ミゾソバが群生し、ハグロトンボが群舞している。川辺に建てられている広報ショーケースには、写真も貼られていて、「カワセミにハヤが食べられてしまった」という記事がある。ほかにも親水公園のトピック記事が貼られている。前橋市長からの感謝状も掲示されていた。「桃 木川守る会様 あなたは”すばらしい前橋”の創造をめざす市民活動を積極的に実践し、より住みよい前橋づくりに奉仕されました。この功績は市民の模範として私たちの誇りとするところであります。よってここにその功労をたたえた感謝の意を表します。平成14年5月9日 前橋市長 萩原弥惣治」というものだ。


ハグロトンボ

 親水公園の長さはおよそ400m。さらに上流を探ってみると、変哲のないありふれた景観で、U字溝のある田園風景である。その先は田口発電所の地下を潜って、佐久発電所の放水路に達する。


U字溝が上流に続く

 再び最前の大橋の所に戻った。

 大橋から改めて下流側を見ると、拠水林に覆われて暗鬱としている。橋から15mほどの左側から、法華沢川(ほっけざわがわ)という 富士見町からの自然河川が合流している。さらに50mほど下流の右手から、かなりの水量が合流している。その先は民家に遮られて見えないので、ぐるりと反対側に回り込んで確認すると、宅地の地下が暗渠になって
いるらしい。その延長線上に目を転じてみると、滔々と水を湛えた開渠が見えた。


桃ノ木川源流と用水の合流点

 そして拠水林の梢越しに、水門らしき頭部が見えた。畠を横切り、藪を漕いで辿りついた所に制水門があった。つまりは親水公園の小川が桃ノ木川の源流であり、農業用水としての機能は、制水門からの用水路が果たしているのである。源流の方は、今や記念碑的な存在になっているのである。
 制水門は三分水のゲートになっている。左手(東側)は桃ノ木川、真直ぐ(南側)は広瀬川、右手(西側)は余水を利根川へ放流する広瀬川放水路である。これが冒頭に記述した「広桃制水門」である。


広桃制水門

  制水門の上流は、田口発電所の放水路である。田口発電所の水源は佐久発電所の放水路である。ところで、佐久発電所は渋川市街地の東方、利根川左岸の断崖上に巨大な円柱の構造物が見えるのがそれだ。その円柱は高落差水力発電所に必要なもので、水車に水圧ショックを与えないようにするための調圧水槽(サージタンク)である。佐久発電所は関東水力電気株式会社が、昭和3年(1928)年に運転開始した。社長夫人の佐久さんの名前が発電所名になったという。現在は 東京電力の所有である。

 「田口町自治会・桃の木川を守る会」の会長さんの話によると、汚い川が景観のよい親水公園になったのは、国土交通省に掛け合った結果であるという。草刈りは土木事務所が年 2回行い、あとは「守る会」を中心に地域住民が行っているという。群馬県の助成制度で「花と緑のクリーン大作戦」による助成金2万円を受けての活動は厳しいとぼやいていた。

<利根川取水の歴史>

 桃ノ木川と広瀬川は前橋市民にとって母なる川だ。その源流が坂東太郎と呼ばれる父なる川から取水されたものである。では昔はどうだったのだろうか。結論からいうと、昔からそうだったのである。セメントが登場してからはコンクリートの用水路となり、大洪水があっても川筋が変わることはなくなった。それ以前の江戸時代においては、木製の杭や石積み等による堰を設けて取水していた。土木工事の重機のない時代であるから大洪水に耐えきれずに、しばしば流されたり埋められ、川筋が変わったりした。

 国道17号が渋川市南部で、利根川を横断する坂東橋から上流を眺めてみよう。右側左岸の赤城山麓が浸食されて、垂直断崖を形成している。左側右岸の榛名山麓は緩やかで、堤防に添って工業団地が発達し、その背後に市街地が広がっている。
  さて視線を反転させて、下流側を見てみよう。川幅は広がり扇状地の様相が見て取れる。歴史的な時間スケールを短縮して、低速度撮影した映像を想像するといい。大洪水のたびに乱流する様相が想像できる。大量の土砂が運ばれ、低きを求めて川筋を変える氾濫原だ。ここは広大な扇状地の扇頂部に当たる。
 人が住み始めたことによって、利根川の氾濫原に幾筋かの川筋ができたとしたら、人間はその水を農業用水として利用するのは自明の理だ。田畑を広げ、さらに水路を枝状に開削するだろう。しかし人間の手で川筋を固定化することはできなかった。大洪水のたびに利根川は変流し、その都度、用水路の再構築を余儀な くされた。

 歴史上、利根川の河道が大きく移動したのはいつの時代であろうか。このことについては多くの研究者が論文を出している。説明の都合上、先に” 図ー2”を示す。利根川から広瀬川と桃ノ木川が分流し、伊勢崎市において広瀬川が合流するまでの説明図である。

古利根川地図
図ー2:利根川筋の変遷(前橋〜伊勢崎)

  利根川の変流時期に対する、研究者の論文の根拠となるものは、口碑と呼ばれるものから始まる。それぞれの地域に代を重ねて言い伝えられたものを拾い上げ、変流時期を史実として採用する。次に古文書の旅行記に渡河の記述があり、旅行ルート上、先に川を渡ったか、後に渡ったかが重要な証言となる。もう一つの古文書に大雨が降り続いた被害の記録が同時期にあっちの寺、こっちの寺で見つかり、それが変流の口碑を裏付けることなどがある。現代になると学術的な地質の 調査も加わって、先達の論文を補強することにもなった。

 今までの研究から、利根川の変流時期は応永34年(1427室町時代)の大洪水が有力視されている。それまでの利根川は、現在の広瀬川と桃ノ木川が本流であったらしい。この地帯を”広瀬川低地”と 呼んでいる。広瀬川低地の右岸はもっと昔に堆積した”前橋台地”と呼ばれる地帯、そして広瀬川低地の左岸は赤城山麓崖である。低地の幅はおよそ3km、利根川が現在の位置に変流した後は、坂東橋の河流地点に堰を設けて、桃ノ木川と広瀬川を用水路とした。低地に田園を開拓し、今日の穀倉地帯へと変貌した。

 「天明三年卯七月(広瀬桃木)両堰絵図面御普請箇所」 なる図面がある。天明3年(1783)といえば浅間山が大爆発を起こし、土石流が吾妻川をかけ下った年である。これによって用水の取水口が土石によって塞がれ、下流への流水が不能となったのである。伊勢崎農地へ至るまで灌漑が阻害された。幕府からも復旧要員が動員されて、川さらいに奔走した。このときは玉村の福島集落や御料の渡しも大被害を受けている。

 普請絵図には利根川左岸から桃ノ木川取入口、少し下流に広瀬川取入口を設けている。桃ノ木川から分水して四箇村用水、また少し下って大泉堰を設け、余水を広瀬川へ放流している。ほぼ被災前の状態に復旧している。

 ところで、その絵図は漢字で書かれており、仮名は一切使われていない。”桃木川”という表記になっているが、そのためか、現在いろいろな文書で様々な書き方をしている。たぶん「もものきがわ」であったろうと思われる。ちなみに国土地理院は”桃ノ木川”としている。

 その「桃ノ木川」の名前の由来であるが、近くに橘山があって、古来から桃の木が繁茂していたことによると、「広瀬川流域史考1978」のP33にある。一方、広瀬川という名前は、ずばり広い瀬の川の意であろう。

 現在、広瀬川も桃ノ木川も前橋市街地の部分は完全な人工川になっている。広瀬川は市街地において合流する枝川はなく、低落差の水力発電所が4箇所もある。一方、桃ノ木川は国道17号を斜めに横切ってから、牧歌的な風景となり、何箇所かの枝川を合わせて全長15kmをもって駒形駅のすぐ東地点で、広瀬川に合流する。広瀬川はその後、赤城山からの合流を得て、全長27kmをもって伊勢崎市境平塚において利根川に帰還する。

 こ こに忘れてならないのが”韮川(にらかわ)”の存在だ。広瀬川から分流するが、その位置は前橋市下大島町パチンコ-コスモスの近くである。ここで分流し、韮川は前橋台地に沿って南東に流れ、最終的には伊勢崎市の韮塚町を通って広瀬川に合流する。韮川の名称もそこから来たのだろう。

 前橋台地と韮川との崖線は、前橋市から伊勢崎市に入ると次第に低くなり収束する。そこまでの台地上の縁には天川二子山(あまがわふたごやま)古墳・八幡山古墳・天神山古墳などが点在している。往古の人々が、高台に居を構え、農業・漁業両面の幸を得たのであろう。

 <主な文献>

  1. 利根川の歴史1997ー著者:金井忠夫/日本図書刊行会

  2. 広桃用水史1994ー広桃用水史編さん委員会編

  3. 前橋の川と橋1983ー著者:岩佐徹道

  4. 他14篇

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