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ハンセン病療養所-栗生楽泉園(くりうらくせんえん)
<26.10.18記/27.9.23追記/28.4.26追記/30.8.7追記> <始めに>
それは群馬県吾妻郡草津町草津647にある。国立のハンセン病患者の療養施設である。以前から見学したいと思っていたのであるが、個人的に行くのは何となくはばかられた。そんなとき県や大学などの公共機関が行なう、見学の参加者募集の機会が与えられ、そのつど参加する事ができた。 栗生楽泉園とともに、ハンセン病に関する史跡が草津町には沢山あり、それについては独自に訪ねて歩いた。このページでは、それらの史跡を導入的に先に記述した。そして栗生楽泉園の記述に移り、最後にハンセン病で社会から虐げられた時代的背景を記述した。 <なぜ草津町か>
草津温泉は酸性が強く、PHが2前後で、昔から療養温泉地として知られている。建久8年(1197)、源頼朝が浅間山麓で鷹狩をした時に不思議な童子の示現によって湧き出る湯を見つけたという伝説がある。元禄年間に書かれた『吾妻郡略記』には庶民が利用した共同浴場五湯が記され、そのうち、頼朝ゆかりの「御座の湯」が特に癩病(らいびょう)に効能があるとされていて、訪れる人が多く定住する人もいた。特に、東京帝国大学のエルウィン・ベルツ博士が明治17年(1884)に発表した医学論文『結節癩の治療せる一例』が、大きな影響をもたらした。草津の湯の治療効果を指摘したことによって、草津を訪れる癩患者が多くなったのである。
その患者達に思いを致す「湯之沢部落」を見下ろす場所には、「草津八十八霊場創開碑」が建っている。大正13年に建立されたものであるが、読み解くのは困難だ。脇には解説板が建っているのでそれを記す。 草津新四国八十八ケ所霊場
大正九年(1920)草津町湯之沢部落の大師講信者がキリスト教に改宗、護持していた大師像を湯川に投げ捨てんとせるを聞き、信者これを制して落合の林中に小堂を建立して安置、教会所を開いた。
その後某氏、湯之沢のハンセン病患者のため、草津に四国八十八ケ所の霊場を発願して土地を教会所に寄付し、光泉寺住職中村林盛、その大願成就の為高野山に登り、更に四国に渡り、八十八ケ所霊場を巡礼、札所の土を一すくいづつ奉持して帰った。
湯之沢の信者、草津町の篤志、また一般入湯客の篤志が一体づつ寄進した八十八体の石仏の下に、奉持した聖地の土を埋没し、草津新四国八十八ケ所霊場の開山となった。
以来、病に悩み草津温泉に入湯する人々、病気平癒祈願の霊場巡礼所として参詣する人は後を絶たない。
草津町教育委員会 |
草津八十八霊場創開碑
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<ハンセン病とは>
明治6年(1873)、ノルウェーのハンセンという医者が癩菌を発見するまでは癩病と呼ばれていた。癩病は、末梢神経を冒し、病状が進行するほど身体に強い障害を惹き起こす。全国で人々はこの病気を恐れ、癩患者を徹底的に差別した。癩菌が発見されても、特効薬の開発には結びつかなかったため、依然として患者は苦しみが続いた。 <草津温泉での療養>
草津町では、癩患者が温泉街に居住・逗留することによって、温泉街発展に支障をきたすという意見が強まり、明治19年(1886)、温泉街中心部から癩患者を締め出すことになった。そして癩患者の居住区を「湯之沢部落」と呼ばれる地域に限定し、囲い込みをしたのである。さながらイスラエルから追い出されたパレスチナのガザ地区のような話である。その場所は、湯畑から流れる湯川下流沿いで、現在の「大滝乃湯」周辺がそれである。このときから公的に偏見・差別・弾圧が始まった。
しかし締め出されたといっても、実態は一般の人たちも住んでいたし、患者の生業として作った物を部落外に売りに行ったりはしたという。町当局も湯之沢における区長や町議会議員の選出まで認めていた。
明治40年(1907)、「癩予防に関する件」という法律が制定された。病の程度が重い「浮浪癩」と呼ばれる患者を、療養所へ入所させるための法律。浮浪癩の割合は癩病患者全体の5%程度であるが、強制的に隔離政策が始まった。 <キリスト教宣教師による救済>
明治40年(1907)、イギリスから来日し、東京を拠点に伝道活動をしていたコンウォール・リーという女性宣教師がいた。リー女史は、湯之沢部落で大正5年(1916)から昭和16年(1941)にかけて患者救済事業を展開している。
聖バルナバ教会(旧教会:現存せず)を設立し、女性患者の救済のために、キリスト教の信仰に基づいて共同生活を営むための婦人ホーム聖マリア館を設立した。必要に応じて、男子ホーム、夫婦ホームなども設立している。これらのホームは総称して聖バルナバ・ホームと呼ばれ、総数36にもおよんだ。
さらに聖愛幼稚園、草津町立小学校湯之沢分校に位置付けられた聖望小学校、そして聖バルナバ医院も開いた。こうした女史の努力によって、湯之沢では患者の自立した生活が営まれたのである。 草津温泉の湯畑から東へ300m程のところに、移転した草津聖バルナバ教会と軒を連ねてリーかあさま記念館がある。リー女史の支援を受ける人々から「かあさま」と慕われていたことが分かる。記念館は無料であるが、所狭しと遺品が展示されリー女史の優しい人柄と使命感がひしひしと伝わってくる。
左:リーかあさま記念館
右:草津聖バルナバ教会 ⇒ |
礼拝堂
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教会のすぐ東側には、聖バルナバ・ホームの一つ「聖マーガレット舘」がある。数多いホームのうち、唯一の現存施設である。かつてはハンセン病患者の親を持つ、健康な子供達が共同生活を送っていた建物である。
聖マーガレット舘の東側には、「コンウォール・リー頌徳公園」がある。この公園はリー女史の所有であったが、後に町に寄附された。
聖マーガレット舘
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頌徳公園
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公園の一角には、リー女史の偉業を称える顕彰碑と、胸像が建っている。
顕彰碑
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胸像
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後述するが、昭和16年(1941)、栗生楽泉園が開設し、湯之沢部落は解散した。このことによって、リー女史のミッションが終わったのである。そして知人の住む兵庫県の明石に隠退した。84歳という年齢で心身ともに衰え、同年12月84歳でこの世を去った。
生前の遺言により遺骨は草津へ帰り、町営公園墓地に隣接した聖バルナバ納骨堂に、多くの人々の遺骨とともに眠っている。納骨堂は栗生楽泉園へ行く途中の墓所にある。
国道入口の墓所案内碑
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聖バルナバ納骨堂
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そこから少し先に行くと、リー女史が手掛けた旧保育所の跡地がある。しかし草木に覆われていて立看板があるのみ。当時を偲ぶよすがもない。
立看板にあるように、ここはすでに栗生楽泉園の敷地になっている。車をほんの少し進めると楽泉園の正門がある。 実は、平成29年11月、栗生楽泉園の全景写真が入所者自治会の資料倉庫から見つかった。西側の丘陵から撮影したもので、その時期は1949年から52年と推定されるという。3枚の組写真を合成して写真パネルを作り、平成30年5月30日から一般公開された。
栗生楽泉園の全景写真
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旧保育所の跡地 立看板
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楽泉園の正門
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昭和6年(1931)、法律強化により「癩予防法」制定。前述の「癩予防に関する件」を作り直して、さらに厳しくした。隔離の対象となる患者の範囲を広げて、日本中のすべてのハンセン病患者を、療養所に収容することになった。
この法律に前後して行なわれた「無らい県運動」により、ハンセン病を全てなくそうという強制隔離政策が広まる。 <栗生楽泉園の開設>
昭和7年(1932)11月16日、栗生楽泉園が開設された。草津温泉街の患者自由療養地「湯之沢部落」から、すべての患者を楽泉園に移転することになった。しかし全患者移転はスムーズに進まなかった。強制隔離政策に強く反発したからである。それでも移転政策は段階的に進められ、昭和15年(1940)度には入所者数は971人となった。
一方、宣教師のリー女史が昭和11年(1936)から老齢と過労のため、兵庫県明石で静養しており、情勢の変化に対応できなくなった。
そして昭和16年(1941)、太平洋戦争勃発直後に、リー女史は同地で逝去した。イギリスと日本は敵対国であり、群馬県は湯之沢支援ができないため解散命令を発した。ここに栗生楽泉園の閉鎖された暗黒時代が始まる。 <特別病室という名の重監房>
栗生楽泉園の正門を入ってすぐ右に細道を辿ると、暗黒の象徴とも言える重監房の跡地がある。上屋が撤去されてコンクリート基礎しか残っていない。 重監房は昭和13年(1938)に全国で唯一楽泉園に建てられ、昭和22年(1947)まで使われていた。谷沿いの山地を切り拓き、108㎡を高さ4mのコンクリート塀で囲い、中に同じ構造で8箇所の区切りを設け、木造平屋建ての監房を造った。
重監房跡の碑
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基礎部分
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この重監房は昭和22年(1947)に廃止となり、上屋が解体撤去されたのは、昭和28年(1953)である(後述)。 <重監房資料館>
重監房の上屋が撤去されたために、負の歴史が闇に葬り去られることに危機感を覚えた人物がいる。栗生楽泉園入所者の谺(こだま)雄二さんである。谺さんはハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会(全原協)の会長を務めていた。「重監房資料館」を創設し、撤去された重監房を再現したうえで、重監房跡地から掘り出された遺品を展示し、後世に伝えなければ成らないと訴えた。
そして今年、平成26年(2014)5月1日に「重監房資料館」が開館した。会館記念式典には、この日を待ち侘びていた谺(こだま)さんが病床から車椅子で列席した。無念の思いで亡くなった人たちに対して、谺さんは万感の思いで悼んだことであろう。それを見届けるように、今年5月1日82歳で他界した。 重監房資料館には、学芸員がスライドを併用して解説をしてくれた。再現された重監房の内部が赤裸々に当時を物語る。
映像による説明
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ジオラマによる説明
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では、ここにどういう患者を収容したのだろうか。当時、全国の療養所長には「懲戒検束権」という患者を処罰する権利が与えられていた。所長の意に反抗的とされた患者が、正式な裁判によらず、特別病室への入室と称して、重監房に送り込まれた。収容理由は盗みや喧嘩など軽微な犯罪であったという。一例を揚げれば、東京都-東村山市の多磨全生園で、昭和16年(1979)6月6日に起きた事件。山田道太郎なる患者は洗濯係主任だった。数人の作業員に支給されていた長靴が痛んだので、新たに支給を要求したが無視された。そのため『仕事が出来ない』と休んでしまった。これを「騒擾罪」として草津送りになり、重監房に投獄された。7月18日出所、9月1日死亡。
収監された人達には、1日2回わずかな麦飯や具の無い味噌汁などしか与えられなかった。電灯も暖房もない4畳半ほどの板張りの監禁室は、厳冬期に布団が凍り付き、凍死した人もいる。重監房に収監された人は延べ93名、そのうち23名が亡くなった。 正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていた。
薄縁のような寝床
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楽泉園に特別病室と名付けて、実態はリンチを目的とした重監房があることを、長いこと部外者は知らずにいた。 それを知ることが出来たのには、意外な事情があった。昭和22年(1947)8月、参議院群馬地方区の補欠選挙である。共産党員が選挙運動で楽泉園を訪れた。そのとき、入所者から重監房の存在を知らされたのである。それが発端となり党として、入所者自治会に重監房撤廃闘争を呼びかけた。これを受けた自治会は入所者大会を開いて総決起し、行動を起こしたのである。 その結果、ついに国会議員調査団までも来所し、その撤廃が実現した。同時に所長は休職を命じられ、庶務課長・看護長・関係職員2名は懲戒免職となった。 そして重監房は、国の隔離政策の象徴として、入所者の意思により、現地保存された。ところが、昭和28年(1953)、「らい予防法」闘争の最中に突然取り壊された。おそらく国の指示により、証拠隠滅を図ったのだろうと、入所者は見ている。 <社会交流会館>
楽泉園の中心部に社会交流会館があり、ここに各施設の概要を知る手がかりを得られる。学生さんの説明で、病気治療に用いた手術用具や、薬品、生活用品、その他が展示されていて、痛ましい当時の状況が見て取れる。園内で生活するには、まず自ら働くことが求めれれた。ありとあらゆる仕事が分業されており、前述した洗濯係もその一つである。
社会交流会館
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展示品を見る
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<納骨堂>
園内で亡くなった人の納骨堂である。お堂前の向かって右側には強制堕胎で亡くなった胎児の恨みを刻んだ石碑が建っている。
納骨堂
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「命カエシテ」の碑
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堕胎児之碑
1932年設立の当栗生楽泉園において強制堕胎された児のうちこの事実が判明した加藤順一桜井真理子の両氏ら二十六人にわたる堕胎児のその命奪われた無念を遺族と共に衷心より悼み茲に「命カエシテ」の一念刻む碑を建立する 2007年3月28日
国立ハンセン病療養所
栗生楽泉園入園者自治会 |
納骨堂から斜面を下ると、火葬場跡地である。そこには供養碑と観音像が建っている。
供養碑
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観音像
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更に、斜面を下り敷地の縁に立つと、フェンス越しに急峻な谷があり、鬱蒼とした森が繁っている。火葬場で燃やす樹を切り倒し、それを手渡しで引き上げる。それらの作業は入所者の仕事であった。この谷を地獄谷という。
地獄谷
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<特効薬の開発>
話の時系列を戻す。昭和18年(1943)、アメリカで待望の特効薬が遂に開発された。プロミンという薬である。欧米諸国は隔離政策をやめて、在宅治療に切り替えた。かつ、ハンセン病に対する国民の理解を深める啓蒙に努めた。
しかし日本では太平洋戦争に突入しており、この福音を知らなかった。導入してプロミン注射が一般化したのは戦後の昭和24年(1949)4月からである。 <らい予防法成立>
昭和28年(1953)8月15日、「癩予防法」が廃止されて、ひらがな文字の「らい予防法」が制定された。これは後々まで禍根を残す極めて重大な汚点となった。新法の「らい予防法」は旧法の「癩予防法」よりも、さらに厳しいものとなったのである。前述したようにプロミンの使用が開始されてから4年以上を経過している。その間にプロミンの有効性が確認できた筈である。欧米諸国と同様の処置がなぜ取れなかったのか。
このころ、厚生省はハンセン病に対して、欧米の行政をそれなりに調査し、あるべき方向を考察していたようだ。
しかし治療の実務である日本らい学会が実権を握っていた。学会は療養所の医師が中心になっており、その運営に影響を及ぼす人物に、光田健輔なる人物がいた。主な経歴を挙げてみる。 明治31年(1898) | 東大病理特科を卒業し、ハンセン病の医療に取り組む。 | 大正3年(1914) | ハンセン病予防事務視察のため欧米に渡航。 | 大正4年(1915) | 患者間に子供が生まれたとき、通い婚を認める代わりに男性に対して断種手術を施す。以後、女性が妊娠した場合の堕胎施術にも波及。 | 4大正12年(1923) | ストラスブールで行なわれた、国際らい学会に出席。 | 昭和6年(1931) | 国立長島愛生園(岡山県)の初代園長に就任。 | 昭和26年(1951) | 「救らいの父」として文化勲章を受章。 | 昭和32年(1957) | 3月退官し、長島愛生園名誉園長に就任。 | 昭和36年(1961) | Damien賞-Dutton賞を受賞 | 昭和39年(1964) | 死去。叙・正三位、勲一等瑞宝章を追贈される。 |
「らい予防法」の成立には、光田健輔が深く関わっている。強制隔離政策が継続され、患者の人間としての権利回復はもとより、国民への啓蒙も手付かずの状態が続いたのだ。これを以て光田の文化勲章は剥奪すべきとの声が出た。現在でも光田は、ハンセン病政策の明暗を象徴する人物とされている。 <らい予防法廃止>
平成8年(1996)らい予防法廃止。同時に、らい病という名称が、公式にハンセン病と改称された。隔離政策は漸く終りを告げた。しかしハンセン病が完治したにも関わらず、療養所に留まる人が多かった。なぜなら、一般社会に戻れるだけの生活基盤が整っていない。一般社会の偏見と忌避は依然として続いている。すでに家族との縁も切れている人が多い。これらの諸問題が社会復帰を不可能にしているのだ。しかも入所者は高齢化し、ひっそりと療養所で余生をおくるしかないのである。 <熊本国家賠償訴訟判決>
平成10年(1998)7月31日、らい予防法違憲国家賠償訴訟が熊本地裁に提訴され、平成13年(2001)5月11日、原告全面勝訴の判決が下された。小泉純一郎首相が談話を発表して判決は確定、衆議院・参議院で謝罪決議採択、同年6月22日、ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律が施行された。 平成21年(2009)4月1日、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律が施行された。概略は次のとおり。 1 | 療養所において入所者の療養を行い、意思に反して退所させないこと。 | 2 | 療養所の医療及び介護の体制整備を行なうこと。 | 3 | 入所者の生活環境を図るため、療養所の土地・建物・設備等を地方公共団体または地域住民の利用に供することができるものとすること。 | 4 | ハンセン病患者であった方々の名誉回復を図るため、ハンセン病資料館の設置・歴史的建造物の保存等、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発等を講じ、死没者に対する追悼の意を表するため、必要な措置を講ずること。 |
法律の施行が遅きに失した感はあるが、しかし4項に「正しい知識の普及啓発」とあり、その知識を得るのが、私達国民の義務だとすれば、はばかることなく、是非栗生楽泉園を訪ねたいと思う。 <入所者数の推移>
栗生楽泉園の入所者が一番多かったのは、昭和19年(1944)の1,335人、平成30年8月7日現在で67人、高齢化が進んで平均年齢は85歳を過ぎているという。 <ハンセン病の現状>
現在ハンセン病は、遺伝病が否定されて、感染しても発病するとは限らず、年に数名程度と言われる。万が一発症しても、急激に症状が進むことはない。初期症状は皮疹と知覚麻痺である。
治療薬がない時代には変形を起こすことや、治っても重い後遺症を残すことがあった。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきた。現在では有効な治療薬があり、病気そのものは早期発見と適切な治療で確実に治る病気である。 <終りに>
同行の見学者は約40人、往復のバス車内では映像機器を用いて解説、現地においては学芸員や解説ボランティアの解説に、無言で聞き入るのみ。ジオラマ・ビデオ・パネルなどを食い入るように見詰めた。機会があれば再訪し、香華を手向けたい。 奇しくもこの日の夕方、最高裁が過去に行なわれたハンセン病患者の隔離施設などで開いた「特別法廷」に対する検証を開始したとのニュースが報じられた。差別的な手続きだった疑いがあるとのことである。
国の最高機関である三権分立のうち、立法府と行政府は元患者に対する謝罪を表明していた。
一方の司法府は腰が重く、漸く調査に入ったのが2014年10月。その結果、調査報告書を公開し、特別法定の違法性を認め、最高裁が謝罪したのは2016年4月25日である。しかしその内容たるや元患者達を満足させるものではなく、さらに不信感が増したものと思われる。
遅れて最高検が謝罪したのは2017年3月31日である。 <主な文献> 1.ハンセン病スタディーツアー資料H26.10ー群馬大学社会情報学部
2.国立療養所栗生楽泉園ー厚生労働省
3.国立療養所栗生楽泉園ガイドブックH25.2ー栗生楽泉園入所者自治会
4.昭和30年代初めの国立療養所栗生楽泉園の模型による再現H19.7ー同上
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