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藪塚石切場跡<2017.5.7記>

<はじめに>
 藪塚石切場跡の所在地は群馬県太田市藪塚町(ヤブヅカチョウ)で、番地はない。2005年3月28日に、同郡の尾島町・新田町・旧太田市と共に新設合併した。それまでは新田郡藪塚本町(ニッタグンヤブヅカホンマチ)という人口19,000程の町であった。

<現地見学> 
 藪塚石切場跡の場所に番地がないのは、事業所が無くなって廃墟になっているからである。Google Mapには藪塚石切場跡と表示されているから、カーナビで難なくその場所に行ける。訪問者が少ないので、車道の脇に4〜5台は停められる。

 石切り場へは山道になる。入口左側に道標と説明板が立っている。


道標


説明板

 説明板にはこう書いてある。

石切り場 所在地 新田郡藪塚本町大字藪塚字湯ノ入西地内

 今から凡そ二千万年位前に多くの火山活動によって堆積された軽石凝灰岩が地殻の変動で隆起し各地に露出して藪塚石となった。この藪塚石は明治の中頃から小規模に採掘をしていたが、明治三十六年に藪塚石材株式会社が創立され盛んになり始めた。質はやわらかく細工がしやすく価格も安かったので建築物の土台や塀、熱に極めて強かったのでカマドとして発売された。
 大正二年に東武鉄道が布設されると、販路も関東諸府県から長野県に至るまで藪塚石の名は広まった。当時労務者は三五〇人位であった。しかし藪塚石の最大の欠点は水に弱く、中に小石がある事、層に割れ目が多い事などで、同質の大谷石と比べ多くの人件費がかかった。質に於いてだんだん嫌われていった。そして現在各所にこの様な大きい採掘跡を残して昭和三〇年頃閉山のやむなきに至ったのである。

 藪塚本町は平成大合併前の町名で、湯ノ入は当時の字名である。湯ノ入は八王子丘陵に属している。丘陵の名前は、東部に位置する八王子山が標高273.4mで最も高いことから名付けられた。凝灰岩を主体として構成されている八王子丘陵南西部は北から京之入・北之入・滝之入・湯之入など浅い放射地が発達している。つまり入りとは谷へ入ることを意味する。

 閉山してから、六十余年の歳月がたっている。いつしかその存在も忘れ去られて、近在の住民やマニアしか知らない存在になっていたのだろう。それが昨今のスマホの普及によって、津々浦々に知れ渡り、再び廃墟ブームが到来したと思われる。

 説明板の近くに道標と注意看板がある。石切場跡0.1km、勝負沼0.4km(灌漑用の溜池)、滝野神社0.4kmとあるから石切場跡は極めて近い。
 注意看板には、木道から出ての見学、たばこの投げ捨て、サバイバルゲームなどの危険な遊びをしないことと書かれている。 


入口右側の道標


注意看板

 山道を左に巻くと前方に直立した石柱が見えた。その上部には草木の生えた地山が張り付いている。前を歩く人物と比べればその大きさが分る。垂直にくり抜いた石柱が屹立している。


石柱に向かう人


接近写真

 注意看板の隣りに変った看板がある。「やぶ塚駅から4,416m、230.5kcal 消費しました。やぶ塚温泉郷注意看板ハイキングコース」とある。



 そしてもう1枚、この周辺のハイキングコースの案内図もある。


案内図

 屹立した石柱があちこちに拡がり、迷路ような雰囲気を醸し出している。仲間がいれば別行動は危険である。

 巨大な床の間のような形をした切り跡がある。左手の暗い空洞は運搬路と思われる。タラップのようなものが突き出している。その真上の天井部分には赤い文字が書かれている。下から眺めると小さくて読めないが、拡大してみた結果はご覧のとおりである。当時の石切職人が書いたものと思われる。


天井に赤い文字


藤生石材



カクタ        ○菊?

 床の部分は周りよりも若干低くなっており、枯木と泥水に覆われている。近づくとピチャンと何かが跳ねて直ぐに静寂になった。なんとなく不気味だ。別の方角に目を向けると、石柱の隙間から屋外の新緑が鮮やかに見えた。泥沼と美林との対照的な風景である。

 陽射しに映える不思議な景色は当時を偲ばせる。


 他にも見学者がいて、大きさの比較ができる。トンネルも掘られていて、それを潜って向こう側に出ると、断崖絶壁の下に緑の谷が広がっていた。


見学者二人

削岩されたトンネル

 沢山の石柱が天井の重みを支える奇妙な風景。外の光が差し込む部屋もあれば、不気味な暗闇の部屋もある。


陽射しの部屋

暗闇の部屋

 石を切り出す権利を持つ者を元締めという。半田辰蔵氏に始まり、大沢・室田・環の諸氏が続く。半田忠二氏は浅草に販売店を設けて手広く販売した。最盛期は大正時代であるが、関東大震災で籔塚石は弱いという風評が広がって一時さびれた。太平洋戦争時に復活し昭和28年頃まで採掘が盛んに行なわれた。水には弱いが石質が柔らかく、釘を使うことも出来るので家屋の土台・かまど・塀・倉庫などに需要が多かった。

 元締めの下で石きり職人を束ねる親方を山先といった。伊豆・愛知辺りの人が多く、栃木県の大谷で石切りをしていた経歴者が多かった。

 最盛期の石屋は羽振りがよく、博打・喧嘩・芸者遊びなどに明け暮れる職人も多く、土地の娘と一緒になって土着した職人もいた。

 切り出した石は馬車で熊谷辺りまで運んだ。大正2年に東武鉄道が布設されると、藪塚駅までトロッコ鉄道を敷き、馬でトロッコを引いた。

(以下のモノクロ写真は藪塚本町誌から引用させていただいた)


藪塚石の切り出し作業(大正期)



トロッコ軌道による積み出し風景(大正期)



石切り道具

 藪塚温泉の入口には「籔塚石材之碑」が建っている。

 石切り場を見終わって、そのまま斜面を這い登ると尾根道に出た。道標には滝野神社と勝負沼がどちらも0.4kmとある。峠を超えると落葉樹の森にウグイス・シジュウカラ・メジロなどの囀りが盛んで、フィトンチッドと共に爽やかなハイキングが楽しめた。



 麓に着いたところに小さな溜池があり、そのほとりに滝野神社が建っていた。近隣ではない車があって若者が釣りをしていた。


滝野神社

<おわりに>
 湯之入の藪塚温泉の入口、藪塚の踏切を渡った真正面の丘陵端に「藪塚石材之碑」が建てられている。渋澤榮一篆額・葉住利蔵撰・高野野光書・石井翠竹鐫・高さ262×幅122の立派なものである。大正10年12月に建てられたもので、当時、渋澤は財界の顧問格、葉住は藪塚石材会社の社長、高野は元笠懸村長である。


藪塚石材之碑

<参考文献>
1.藪塚本町誌上巻H3.3.31
2.藪塚本町誌下巻H7.3.1

<名所旧跡>
1. 藪塚温泉
2. 三日月村
3. ジャパンスネークセンター

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