このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
藪塚石切場跡<2017.5.7記> <はじめに> <現地見学> 石切り場へは山道になる。入口左側に道標と説明板が立っている。
説明板にはこう書いてある。
藪塚本町は平成大合併前の町名で、湯ノ入は当時の字名である。湯ノ入は八王子丘陵に属している。丘陵の名前は、東部に位置する八王子山が標高273.4mで最も高いことから名付けられた。凝灰岩を主体として構成されている八王子丘陵南西部は北から京之入・北之入・滝之入・湯之入など浅い放射地が発達している。つまり入りとは谷へ入ることを意味する。 閉山してから、六十余年の歳月がたっている。いつしかその存在も忘れ去られて、近在の住民やマニアしか知らない存在になっていたのだろう。それが昨今のスマホの普及によって、津々浦々に知れ渡り、再び廃墟ブームが到来したと思われる。 説明板の近くに道標と注意看板がある。石切場跡0.1km、勝負沼0.4km(灌漑用の溜池)、滝野神社0.4kmとあるから石切場跡は極めて近い。
山道を左に巻くと前方に直立した石柱が見えた。その上部には草木の生えた地山が張り付いている。前を歩く人物と比べればその大きさが分る。垂直にくり抜いた石柱が屹立している。
注意看板の隣りに変った看板がある。「やぶ塚駅から4,416m、230.5kcal 消費しました。やぶ塚温泉郷注意看板ハイキングコース」とある。 そしてもう1枚、この周辺のハイキングコースの案内図もある。
屹立した石柱があちこちに拡がり、迷路ような雰囲気を醸し出している。仲間がいれば別行動は危険である。 巨大な床の間のような形をした切り跡がある。左手の暗い空洞は運搬路と思われる。タラップのようなものが突き出している。その真上の天井部分には赤い文字が書かれている。下から眺めると小さくて読めないが、拡大してみた結果はご覧のとおりである。当時の石切職人が書いたものと思われる。
床の部分は周りよりも若干低くなっており、枯木と泥水に覆われている。近づくとピチャンと何かが跳ねて直ぐに静寂になった。なんとなく不気味だ。別の方角に目を向けると、石柱の隙間から屋外の新緑が鮮やかに見えた。泥沼と美林との対照的な風景である。 陽射しに映える不思議な景色は当時を偲ばせる。 他にも見学者がいて、大きさの比較ができる。トンネルも掘られていて、それを潜って向こう側に出ると、断崖絶壁の下に緑の谷が広がっていた。
沢山の石柱が天井の重みを支える奇妙な風景。外の光が差し込む部屋もあれば、不気味な暗闇の部屋もある。
石を切り出す権利を持つ者を元締めという。半田辰蔵氏に始まり、大沢・室田・環の諸氏が続く。半田忠二氏は浅草に販売店を設けて手広く販売した。最盛期は大正時代であるが、関東大震災で籔塚石は弱いという風評が広がって一時さびれた。太平洋戦争時に復活し昭和28年頃まで採掘が盛んに行なわれた。水には弱いが石質が柔らかく、釘を使うことも出来るので家屋の土台・かまど・塀・倉庫などに需要が多かった。 元締めの下で石きり職人を束ねる親方を山先といった。伊豆・愛知辺りの人が多く、栃木県の大谷で石切りをしていた経歴者が多かった。 最盛期の石屋は羽振りがよく、博打・喧嘩・芸者遊びなどに明け暮れる職人も多く、土地の娘と一緒になって土着した職人もいた。 切り出した石は馬車で熊谷辺りまで運んだ。大正2年に東武鉄道が布設されると、藪塚駅までトロッコ鉄道を敷き、馬でトロッコを引いた。 (以下のモノクロ写真は藪塚本町誌から引用させていただいた)
藪塚温泉の入口には「籔塚石材之碑」が建っている。 石切り場を見終わって、そのまま斜面を這い登ると尾根道に出た。道標には滝野神社と勝負沼がどちらも0.4kmとある。峠を超えると落葉樹の森にウグイス・シジュウカラ・メジロなどの囀りが盛んで、フィトンチッドと共に爽やかなハイキングが楽しめた。 麓に着いたところに小さな溜池があり、そのほとりに滝野神社が建っていた。近隣ではない車があって若者が釣りをしていた。
<おわりに>
<参考文献> <名所旧跡> |
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