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国民学校
- 太平洋戦争真っ只中である。昭和19年、長野県西筑摩郡楢川村贄川の国民学校1年生になった。7歳である。
昭和10年当時(贄川小学校沿革誌)
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- 正門で制帽を脱いで一礼する。玄関までの通路右側に奉安殿がある。奉安殿の方向はるか遠くには、天皇陛下のおられる宮城があるのだという。
- 学級1組のみ。金ボタンの制服制帽に布製のランドセル、それに履物は下駄である。そして草履袋をぶら下げる。
- 冬の帽子は防空頭巾に替わる。山の中だから本来の目的に使うよりも、防寒用に使うことの方が意味があった。そして足袋を履いて下駄を履くのである。
- 当時は長靴が不足していたので、藁沓を履くものもいた。そのほうがあったかだったのである。この頃、物資は何でも配給制で、長靴は、遠い山奥から通う生徒が優先的に配給を受けていた。たまには全員で籤引をしたこともあった。
- 一度僕は当たったことがある。しかし家には買うお金がないかもしれないと心配になって、権利を返上した。家に帰ってそのことを話したら、母や姉に何で買わなかったんだと怒られた。
- よく覚えていないが、2年生の昭和20年5月ごろ、東京のほうから疎開してきた見知らぬ顔がいくつか増えた。教室がずいぶん賑やかになったような気がする。しかし8月終戦を迎えた。戦争に負けた実感は、にわかにはなかったが、玉音放送の「忍びがたきを忍び」という部分は、妙に印象に残っている。疎開してきた級友ともすでに仲良くなっていたが、その後しだいにかえっていった。
- 敗戦による環境の変化で、今でもはっきりと覚えていることがある。先生が「これからは自由の時代です。自分の好きなことができるようになりました。だけど何をやってもいいということではありません。自分のやることに責任を持ち、人に迷惑をかけないこと、これが本当の自由というものです。」というものであった。
- 軍国主義を払拭するため、教科書の戦争に関係する部分を墨で塗らされたことも覚えている。
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