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蚕
- 養蚕はすっかり衰退してしまった。僕が今住んでいる群馬県でも、今は昔である。平成の初め頃までは、畑に桑の木が植わっていた。しかし今その姿はない。山間部の桑の木は、見捨てられたまま今や高木になっている。
- 僕の故郷、信州でもそうだ。昭和20年代、戦後復興の外貨獲得に養蚕は山村の重要産業だった。小学生の遠足で岡谷の製糸工場を見学した。その時の記憶は今も薄れてはいない。
- 金属製の容器の中に湯に漬かった繭が浮かんでいる。その上に糸を引っ掛けるフックが突き出ている。女工さんが繭の糸口を器用に見つけて手繰り、フックに誘導している。無駄の無い素早い動きである。数個の繭から一本の糸に撚られてボビンに巻き取られる。糸口は蚕が一番最初に吐き出した糸である。なぜなら蚕は糸を吐き出し、自分自身を包み込んで糸尻は内部で終わるからだ。
- 湯でふやけた蛹から異様な臭いが放たれる。見学を始めた当初はへどを吐きそうになったが、お姉さん達が真剣に立ち働く姿を見ているうちに、次第に慣れてきた。
- この頃、「女工哀史」の秘話を知らなかったが、就職した先が紡績工場だったのでそこで知識を得た。僕は発変電所の電気技術者として採用されたのであるが、最初の一般研修でその話を聞いた。自分の故郷に関係した歴史的事実の重みを感じ、後年、「ああ野麦峠」の碑を訪ねたのであった。
<参照>
「あゝ野麦峠」の旅
女工哀史 ああ野麦峠
- 繭は零細な養蚕農家の汗の結晶である。僕の家でも小売店を経営していたので、本格的な規模ではなかったが、店の一画に蚕棚をおいて飼っていた。稚蚕から始めるのが普通で、小さな蚕は黒い色をしている。眠(みん)を繰り返し、脱皮をするごとに大きくなる。
- 蚕の糞を取り除くのに使う、糸網というのがある。この網を蚕の上にかぶせて、その上に新しし桑の葉を乗せておく。しばらくすると、蚕は網をくぐって上の新鮮な桑の方に移動する。網ごと持ち上げて、別のきれいな籠に載せればお仕舞い。元の籠は糞と汚れた葉だけが残るから、それを取り除いて肥料にする。
- 傷んだ糸網でトンボ網を作ったりした。針金を輪ッかにして竹棒の先に縛り付け、網で袋を作って輪ッかに通し出来上がり。トンボやアゲハチョウをとったりした。
- 四眠を終ってモリモリ食べると、身体がはちきれそうな固さと、弾力のある滑らかな皮膚になる。そのうちに食欲が減退し、動きも緩慢になる。身体が飴色に透き通ってきて、なにやら落ち着かない様子を示す。
- いよいよ繭の吐き出しを迎えた。こうなったら「まぶし」に蚕を移してやる。まぶしと言うのは、繭を造りやすいように、藁などで作った一人部屋の独身寮だと思えばよい。個室を与えられて、待ってましたとばかりに糸を吐き出して繭を作り始める。
- 首を盛んに振り回し、最初はあっちこっちに支持糸を張っていく。そして中心部に段々と首振りの範囲を縮めていく。繭の形が出来てくると、身長も短くなる。繭が厚くなると姿は見えなくなるが、繭造りは2日間かかる。中では蛹(さなぎ)に変体している筈である。
- せっかく眠を重ねて大きくなったと思ったら、朝になって無残な光景を見ることがある。籠の中に黄緑色の粘液が広がり、蚕の数も少なくなっている。ネズミによる食害だ。上蔟前の蚕が被害にあうらしい。
- 猫を飼えばネズミの害は防げるが、我が家は飼っていなかった。理由は人間の食べものを猫に奪われるからだ。自分の家ならまだしも、よその家に迷惑を掛けることはできない。ペットフードで満腹している今の猫は、ネズミになど見向きもしないが、昔の猫はネズミや雀などをよく襲った。
- そんな訳で、我が家のネズミ退治は、猫いらず・虎バサミ・ネズミ籠の三つを使って退治する方法をとっていた。
- ネズミが家に入ってくると、夜中に天井裏を走り回る音がするので分かる。その時はさっきの仕掛けをするのである。割と簡単に捉えることができたが、うまくいかないこともあるのだ。
- 記憶は定かでないが、お袋が真綿を作っていた。どうも四角い木の枠に引っ掛けていたように思う。出来上がったものは、35cm角くらいの大きさだった。繭を煮てほぐし、綿状にしてから押し広げて引っ掛ける道具である。「真綿かけ」といったと思う。中の蛹を捨て、5〜6個分の繭で一枚の真綿を作っていた。
真綿かけ
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- 僕らは学校から帰ると、この蛹をよく食べた。ほうろく(焙烙)で炒って食べるのである。当時は美味しいと思って食べたが、今はたぶん拒絶反応を起こすだろう。
<参照>
「かいこ」のひみつ
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