このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

子供の頃
 終戦前後の生活 ●

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風呂

  1. お風呂は、桧の風呂桶に風呂釜を嵌めこんだものである。釜は鋳鉄製で空焚きしないように釜が隠れるまで水を入れる。薪をくべて少し熱めに沸かして、一番先に入る者は出来るだけ我慢して入る。というのは、浴室が開けっぴろげだから冷めやすいのだ。我慢できなければ手桶の水で埋める。その後に入る者は追い炊きを必要とすることが多い。熾(おき)が残っていれば、薪を追加して火吹き竹で吹いて火を熾す。


    風呂

  1. 「湯加減はどうだい。」と訊かれて、丁度いい温度のときは「いい塩梅(あんばい)だ。」と答える。こんな会話は、浴槽で温度調節できる今日では聞かれない懐かしい会話であった。
  2. 中気で不自由な親父は、浴槽に立ち上がってお袋に垢落としをさせていた。後から入る僕達は白く浮いた垢を掬うのが常であった。三日に一回位の入浴であるから、垢の量も相当のものだった。忙しくて水汲みも面倒な場合は、前回抜かずにいた水を焚き返しすることもあった。
  3. 垢と言えば、人のことは言えず、当時の餓鬼どもはあまり頭を洗わなかった。今の子供達は頭の皮は正に肌色だが、当時の僕達の頭の皮は黒色をしていた。垢の層が肌を覆っていたからである。つまみ食いをする者を称して「頭の黒いネズミが・・」と言うのは、これから来たのかも知れない。丸坊主の頭に爪を立てて引っ掻くと、垢が塊となって剥げ落ちる。自慢にもならない話である。
  4. 石鹸は勿体無いので、洗濯用の固形石鹸を使っていた。しかし今と違って変な臭いのする石鹸だった。言葉だけはシャボンなどとハイカラな言葉を使うこともあった。
  5. 石鹸で思い出すのは、物不足の象徴として、サイカチを代用に使ったことがある。僕の実家の川上に長瀬という広川原があって、サイカチの拠水林が発達している場所があった。ニセアカシアに似た樹形をしていて、30cm位のさや豆ができる。SAPONINと言う成分を含んでいて、煮詰めた液が石鹸がわりになるのである。シャボンの語源に諸説あるが、そのうちの一説にもなっている。
  6. 薄れた記憶の断片に、「オイマチのお湯がわいたで、来ておくれ〜。」の掛け声で、夕刻に町内を触れて廻ったことがあった。調べてみるとオイマチは「お火待ち」であることが解った。12月16日に行なわれる行事で、遠州・秋葉神社に関連するもののようだ。秋葉神社は火防の神として全国に知られ、十二月の「秋葉の火まつり」を中心に、全国から約七十万人の参拝者が訪れるという。
  7. 「お火待ち」の行事は、村の各区ごとに行なわれ、二軒の当番宿を決め、一軒は祭りを行い、もう一軒は風呂をたてて身を清める。・・・という例祭であることが分かる。日の短い師走、各戸で風呂を沸かすのはたいへんだから、野良仕事で汚れた身体は、宿で流してくださいという訳か。

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