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12.7.9〜11
妙高高原〜黒部峡谷鉄道〜五箇山〜白川郷 <妙高高原>7/9(日) - 上信越自動車道のドライブは快適であった。濃くなってきた山野の緑が目に染みる。学校の夏休み前なので交通量は少ない。外気導入で新鮮な空気をいっぱいに吸う。
- 妙高高原インターチェンジを下りる。一般国道も閑散としていた。今夜泊る「かんぽの宿 妙高高原」に着いたのが8時30分だから、ここで朝食にしてもいいくらい順調に来たことになる。
- 妙高連山の頂は雲に隠れている。今回は笹ヶ峰が主な目的地である。県道笹ヶ峰線はそれ程広くはないが、対向車が少ないから、順調に高度を上げて行く。右手に並行するスキー場の草原地には、山菜を摘んでいる人がいる。のんびりした風景だ。
- 今回は、車であちこちを見るのが目的だから、一箇所で長い時間をつぶすわけには行かない、「苗名滝」は割愛した。最短コースは現在土砂崩れで、下流の方から片道1時間以上の別コースをかけないと行けないそうだ。
- 「笹ヶ峰」とは、黒沢岳(2,212m)から派生する突端部(1,545m)をいうのであるが、トレッキングの立場からいうと、笹ヶ峰牧場・笹ヶ峰キャンプ場・笹ヶ峰休養林・乙見湖・妙高山麓県民の森などを総称した名称である。
- 笹ヶ峰牧場は、標高1,300m。北北西の方角には、火打山(2,462m)、焼山(2,400m)の残雪が輝いている。残念ながら放牧の牛は見られなかった。しかし、それを補うように、長野県に接する関川流域の広大な緑の眺望に心洗われる思いがした。ほぼ標高線を等しくして、「休暇村笹ヶ峰ロッジ」に着くが、その手前に登山口がある。折りしも10名程のパーティーが身支度を整えて登りにつこうとしているところであった。まず黒沢岳に取っつき、火打山や妙高山(2,446m)に向かうのであろう。
笹ヶ峰牧場
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- 笹ヶ峰ロッジは、その周囲にあるキャンプ場とともに、”休暇村”の管理によるものだ。オートキャンプ場では、昼の野外料理に取り掛かっている1組がいた。ワラビを採っている年配の女性がいて、僕たちもその仲間に加わった。とはいっても、お互いのテリトリーを侵さないだけの十分な距離が保てる広い草原である。白樺などの広葉樹と笹と、草地とがうまい具合に織り成して、木陰を選びながら散策ができる緩やかな斜面である。
- 地図をみても、笹ヶ峰は等高線の間隔が広い。流域の沢筋にも明るい広がりがある。いくつかの支流を集めて、標高線のくびれたところが笹ヶ峰ダムである。
- ダムの左岸に管理事務所がある。コンクリートの建物であるが、梁の下にツバメの巣がおびただしい数だ。丁度、中高年の男女のグループが来て、ツバメのアパートだとうまいことをいう。餌を運ぶ親鳥の鳴き声と羽ばたきの喧騒に意表を突かれた。
- 「妙高山麓県民の森」は閑散としていた。管理棟の1階に、木の展示室があったが、人影はなかった。夏休みに入れば、子供たちが姿を見せるだろう。
- 笹ヶ峰を後にし、国道18号線に下り、「道の歴史館 関川の関所」を見る。江戸時代の交通の要衝、「北国街道」の関所跡である。歴史館駐車場の交差点付近が県境となっている。上流の西野発電所付近から、下流の妙高高原駅付近まで、関川が越後と信濃の「くにざかい」である。北国街道は佐渡の産金輸送・北陸諸藩の参勤交代・善光寺参拝・物資の輸送など、大変賑わった街道だったそうだ。
- 実は、ここまでが午前中の行動であって、このあと妙高高原駅付近で和食の店を探したり、国道に外食レストランの看板を探したりしたのであるが見当たらず、結局はコンビニエンスストアで弁当を買って車の中で昼食を済ませた。
- この後、車中より妙高高原の温泉地めぐりをした。新赤倉・赤倉・関・燕・池の平の各温泉地である。最高地点の燕温泉は、湯治場という感じであった。今夜僕たちは池の平温泉の単純硫黄泉に浸かるのだ。
- 池の平の観光スポットは「いもり池」であろう。まず最初に見たのが睡蓮である。白い花が多い中に所々に赤い花が咲いている。女王のごとくにである。池の周囲には散策路があって水性植物や潅木を観察できる。ビジターセンターもあって、ここは時間をかけて楽しんだ。翌朝のことになるのだが、上越市から来たという中年の男性は、三脚を立てて1時間半も妙高山の現れるのを待っているという。それ程ここは、ビューポイントなのである。残念であるが、僕たちは遂に、頂上を望むことができなかった。
- 「かんぽの宿 妙高高原」は、いもり池から歩いて数分の距離にある。僕たちはチェックアウトまでに、例によって3回温泉を楽しんだ。
<黒部峡谷鉄道>7/10(月) - 上信越自動車道から北陸自動車道に移り、ひたすら走る。トンネルの連続である。今日はそれが有難かった。日差しが強くなってきて、助手席に乗っている妻には負担が掛からなかったからである。
- 連続トンネルが終わったところで、黒部に行く朝日インターチェンジというわけだ。広大な平野である。中部山岳の侵食された土砂が黒部川によって運ばれ、見事なまでの扇状地を形成したのである。扇状地の要(かなめ)の部分は、宇奈月町の役場あたりだろうか。
- トロッコ電車には余裕をもって乗ることができた。車両の等級にはA、B、Cの3種類がある。今日の天候にはCがふさわしい。というのは負け惜しみか。写真を撮るには好都合である。足を浮かして尻を回転させれば後方にカメラを向けるのも楽である。窓ガラスがないからいい写真が撮れるというわけだ。なんと言っても薫風が心地よい。
- かなりひんぱんに、交換ポイントで上り電車とすれ違う。あちこちで保線作業の人達が働いている。乗客へのサービスとして、樹木の名札が目の高さに取り付けてある。それが読めるということから、電車の速度がお分かりというもの。終点の欅平まで20kmの区間をを1時間20分というダイアグラムである。
黒部峡谷鉄道
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- 車内アナウンスで初めて分かったことが1つある。「冬季歩道」である。雪が降って軌道が使えなくなっても、人だけは欅平まで行けるようにとの目的で、コンクリート製のトンネルを造ってあることだ。それまでは、土留めの擁壁だとばかり思っていた。
- 宇奈月を出発してからすぐにV字谷が続く。支流は流れの見えない谷底かと思うと、上を見上げると、後頭部が背骨に接するほどの上空から沢水が落ちている。その沢筋には、スノーブリッジの崩れた雪塊が詰まっている。
- 峡谷鉄道は、黒部川の電源開発の輸送路として建設された。1923年に着工し、部分的に開通させながら全線の完成をみたのは1937年である。観光用に転用されたのが1971年。車中でシャッターを押しているだけでは、苦闘の歴史が分からない。
- 宇奈月駅前に「黒部川電気記念館」がある。関西電力が公開している。黒部峡谷鉄道とともに、電源開発の苦闘の歴史を知ることができる。
- そもそも、電源開発を黒部で事業化した立役者が、高峰譲吉博士であったとは僕は知らなかった。博士のことについては、中学で「タカジアスターゼの発見者」として習った記憶がある。しかし博士は実業家でもあったのだ。大電力を使用するアルミ精練工場を造るために黒部に着目したのである。
- 黒部インターチェンジから再び北陸自動車道にのり、砺波インターチェンジを下りる。今回の立ち寄り地として、井波町を選んだ。ここには「瑞泉寺」がある。難しい由来は省略するが、門前町が発達し、幾度かの火災に遭って、その都度再建されて来た。この際、京都本願寺の御用彫刻士が派遣されたのがきっかけで、その技術が伝習されて今日の井波彫刻がある。「木彫りの里」は休館日であったが、門前町では、欄間彫刻の実演を見学できた。
- 「かんぽの宿 越中庄川峡」に着いて、今日1日の旅は終わった。
<五箇山・白川郷>7/11(火) - 今日は五箇山を訪問する。国道156号線を順調に走り、ひたすら相倉合掌集落をめざす。国道304号線から分岐して、急坂を少し上ると集落の案内標識がある。細い枝道を辿ると忽然と現れた段丘。
- 平家の落人が四散して、山奥に逃げる場面が想い浮かぶ。農業で自活できる新天地を血眼になって探し求めたに違いない。
- この段丘には田んぼがあった。他の穀物も作付けできる。追っ手に見つからないように、足跡を残さない暮らし方をしたであろう。この場所はそれを可能とする格好の地形だったような気がする。
- 合掌集落には、20棟が現存する。現在も人が生活しているが、喧騒には何の係わりのない静寂さがある。闖入してきたことに後ろめたさを覚えさせるような、次元の違う世界に飛び込んだような気がしてくる。足音を忍ばせるように立ち去った。
相倉合掌集落
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- 荘川に沿って更に車を走らせると、菅沼合掌集落に着く。ここも山の鼻が荘川の流れを大きく迂回させる段丘であった。しかし相倉と違って、外界との隔絶が維持できるとは思えなかった。すべて落人に結びつけるのは間違いかもしれない。
- 相倉と菅沼の二つを五箇山合掌集落という。ところで「五箇山」という名称にも意味がありそうだ。資料によれば、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の五つの谷間に集落があったことから、これを「五ケ谷間」といい、音読みして「ゴカヤマ」と呼ぶようになったという説がある。
- 藩政時代に五箇山は、加賀藩の流刑地であり、かつ藩の塩硝(焔硝)が密かに作られたために、住民の出入りが禁止されており、これが他と隔絶した秘境になったようである。
- 焔硝とは火薬の原料である。江戸中期から幕末における加賀藩の大きな軍事力であった。蚕の糞とヨモギを発酵させて硝酸カリウムを得るのだそうだ。このときの醗酵菌が秘伝のものだったらしく、もうそれは再現できないらしい。
- 平成7年12月、五箇山は白川郷とともに、合掌造り集落が世界遺産として登録された。しかし溯ること昭和初期、「ブルーノ・タウト」なる人物が、すでに合掌造り集落を賞賛していたのだ。かれはドイツの建築家で1933年来日した。ナチズムの台頭で迫害を受けたのが来日の発端らしい。彼は合掌造りの合理性に惚れ込んだのである。
- 白川郷まで順調であった。建設中の東海北陸自動車道の橋梁が見えた。
- さっそく城址公園より荻町の全貌を見る。集落の中を散策し、名善寺郷土館を見学した。庫裏には現に人が生活している。5階建ての内部は、焚き火の煙で漆塗りのような黒光りだ。白川郷のことについては、あまりにも紹介文献が多いので、ここではこれ以上書かない。
白川郷
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- もう一つの立ち寄り地は、飛騨古川町である。国道360号線の山道をくねくねと登り、白山の雄姿を遥かに望んで、天生峠を越えて到着した。まず役場を訪ねた。古い町並みを見たいというと、ガイドマップを出して説明してくれた。車は役場の駐車場に置いていいことになっている。日は中天にあり、汗がだくだくと出た。「飛騨の匠文化館」の横に売店があり、ソフトクリームを買ってたべた。
- 大変落ち着いた町並みである。格子組みの家が多く、僕の生家がそうであっただけに郷愁を感じる思いで散策した。造り酒屋の土蔵に沿う堀のような瀬戸川には鯉が泳いでいる。この土地は、荒城川と宮川との出会いで、州となったような平坦地である。穏やかな土地柄と感じた。
飛騨古川町
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- 三日間の旅はすべて終わった。駆け足の感じになってしまったが、帰宅の道中が長すぎる。再度の訪問を楽しみに家路についた。
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