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13.5.13〜15
房総の旅 <鋸山> - 家を出たのが5時30分。アクアラインの海ほたるで涼風を浴びたのが9時である。カーナビの案内で、首都高速道路も不安なく走ることができた。
- 最初の観光ポイントは鋸山である。ロープウェイもあるが、有料道路を走る方が早い。たちまちにして山頂駐車場に着いた。この季節、観光客は少ない。車は5,6台しかいない。ここは鋸山の広大な南面を境内とする日本寺の西口になっている。今回は、海と山を眺めるのが目的だから、妻と僕は躊躇なくロープウェイ山頂駅の方へ向う。そこには展望台がある筈である。10分程で着いた。展望台は、切り立った崖の縁に鉄パイプの手摺を設けたものである。
- その展望台に登りつめた途端、僕はある種の感動を覚えた。眼下に広がった景色の美しさを表現する言葉が浮かばず、ただ見とれるばかりであった。これは明らかに群馬県の山と植生が違う。西の東京湾に向って幾筋もの尾根と沢がくねっている。その起伏は密生した森林に覆われていた。時あたかも新緑の季節である。陽光に映える若葉が萌葱色に輝いていた。いったい何の木だろうか。照葉樹に違いない。
鋸山から金谷漁港の展望
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- 麓の街並みは、金谷漁港である。その先には東京湾フェリーの発着所も見える。三浦半島の久里浜とを行き来している。これを利用しようかと迷ったアクセス手段の一つである。
- 有料道路を戻って料金所の中年男性に、展望台で見た萌葱色の常緑樹が何であるかを問うてみた。椎の木の一種でツブラジイなのだそうだ。照葉樹の特徴として、下から見ると古い葉がどす黒く鬱蒼としているが、上からみると若葉の照り返しが際立っているのである。
- 鋸山は、かつて房州石の産地であった。江戸城の石垣にも使われ、昭和45年まで切り出されていたのだそうだ。ロープウェイ山頂駅には展示室があって、当時の産石の様子が覗える。
<館山城> - 市街地の南に位置する山の上にある。駐車場から、山の北面を西に向って緩やかな歩道が伸びている。その歩道に沿って屋外彫刻が手頃な間隔で設置されている。それを鑑賞しながら登って行くと、館山市立の博物館本館がある。周囲の池には睡蓮が浮かんでおり、鯉が跳ねていた。
- ここから歩道は、半時計廻りに山を巻いて頂上に達する。山頂には城が建っている。3層4階建ての館山城だ。内部は博物館の分館になっている。生憎この日は月曜日だったので、僕達は見学できなかったが、山頂から館山湾や市街地の景色を見るだけでも十分に堪能することができた。
<洲ノ埼灯台> - 浦賀水道の航路を長年守ってきた灯台である。館山市の西の端に、館山湾から太平洋に切り換わる接点である。タツノオトシゴを逆さにした、そのくちばしの部分ともいうべき丘の上にある。
- 麓の民家に車を預けて10分程で灯台に着く。見学は灯台の中に入れないので外から見る。周囲はコンクリート塀によって、城壁のように囲われている。大正8年に建てられた無人灯台である。
- 館山湾の方角に目をやると、磯まで緩やかな斜面の草原が続き、きわめて穏やかな空間と時間を味わうことができる。
<南房パラダイス> - 洲崎からいったん南下して左に山、右に岩礁を眺めながら4km程走ると、海岸は砂浜に変わり、山も左に遠のいて、広大な洲の地帯に入る。海岸線は緩やかに右に湾曲しながら、国道410号線の合流点まで5km程続く。房総フラワーラインである。道の両側に花壇があって、のんびり走るのが楽しい。歩道はない。住宅がほとんど見当たらないから必要ないのであろう。
- 館山カントリークラブの北側にサンドスキーの場所がある。どんなものかと覗いてみた。鳥取砂丘のようなところかと想像していたが、そうではなく、山の頂上近くから南斜面全体が、かなり長距離の窪んだスロープになっている。滑る様子を見たかったが、人っ子一人いなかった。
- ゴルフ場を過ぎた所に南房パラダイスがある。14万5000平方メートルの敷地に、花の温室が連続している。屋外にもトロピカルな樹木と池などが配されている。熱帯の猿や鳥のケージなどもあって楽しい。入口を入ってコースの最終端に展望塔があって、僕達は先にここへ上って敷地全体を俯瞰したので、あとの見学がしやすかった。
南房パラダイス
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- いろいろな種類の蝶が、ゆらゆらと花木の間を舞っている蝶館があった。ときには人の肩にとまったりして、僕はこれがすっかり気に入ってしまった。
<野島埼灯台> - 房総半島の最南端、白浜町に野島埼灯台が建っている。国道沿いの駐車場に車を置いて300m程歩いた岬の高台にある。洲ノ埼灯台と違って結構な賑わいを見せている。というのは、受付に2人の女性が控えていて、内部の見学ができるからである。入口には野生の狸が居着いてしまってお出迎えである。ドッグフードみたいなもので、おびき寄せたものらしい。
- 灯台に入った正面に胸像がある。この灯台を建てたフランス人技師である。当時、横須賀製鉄所の建設に携わっていた雇い技師である。明治2年に点灯したとあるから、文明開化の初期に当たる。大きな船が安全に浦賀水道から東京湾に入るには、灯台がぜひとも必要であった。これは日本のためというよりも、列強の外国が必要としたのである。ちなみにペリーが黒船で徳川幕府を威圧し、何度も江戸に近づいたときには、盛んに海図作成のための測量をしている。
- 日本で最初に点灯した灯台は、浦賀水道の対岸にある三浦半島の観音埼灯台である。明治2年1月1日だ。野島埼灯台は同じ年の12月18日で2番目に点灯した。高さ30m、白色八角形のレンガ造であった。関東大震災で真中から折れてしまったので、コンクリート製で建て替えた。それが現在のものである。
野島埼灯台
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- 螺旋階段を昇ると、各階に灯台に関する資料が展示されている。最上階の展望台からは、太平洋を大きく見渡せる。磯で遊ぶ人々の姿が手にとるようだ。
<ローズマリー公園> - 丸山町に、道の駅「ローズマリー公園・丸山町」がある。丸山町は、房総半島の中で海岸線が一番短い町だ。内房線の停車駅がないから隣町からアクセスしなければならない町である。海の幸や観光資源に乏しいのであろう。道の駅として登録されたのは、平成12年4月であるからまだ新しい。
- ローズマリーというのは、地中海沿岸に咲く花で、香辛料や化粧水として利用されるハーブである。隣接してシェイクスピア・カントリーパークというのもある。シェイクスピアの生家や、ゆかりの地を復元した小さなテーマパークである。一体、これらが丸山町とどういう関係があるのか、それが分からない。それよりも道の駅というと地場産の直売店をイメージするのが普通であるが、これで町の財政が潤うのかどうか、それが心配になった。
<太海漁港> - 太海(ふとみ)では伊勢エビが捕れるのだそうだ。8月から5月末まで、未明に水揚げされるとのことである。たまたま僕達は通りかかっただけであるが、お年よりの漁師さん達が、魚網の手入れに余念がない。
魚網の手入れ
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- 漁業に携わる人達の民家が、狭い道の両側にびっしりと軒を連ねている。空き地といわず防波堤といわず魚網が干されていた。
- 近くには鴨川市営太海フラワーセンターがあるが、そことは違う、漁村の原風景を醸し出す隔絶した空間である。漁港は、国道から500m程海側に外れた岬状の突端にある。目と鼻の先に、仁右衛門島なる島があって、さらにその先には岩礁が続いていている。それが自然の防波堤になっている。伊勢エビの恵みを受けている地形であることが頷ける。
<鴨川シーワールド> - 鴨川シーワールドは、鴨川市の一番の観光目玉になっている。駐車場と入場料を合わせると少々お高いが、見終わって納得した。
- 海の動物たちのパフォーマンスが、矢継ぎ早に披露されるのである。みな大きな海獣である。よくもまあ覚えたものだと感心する。別の見方をすると、スタッフの人間達がよくぞ教えたものだと、これまた感心してしまう。しかも相棒の動物たちに向ける愛情の眼差しや、きびきびとした指示。海の動物たちも、これに応えて一所懸命に演技する。彼等の息はピッタリ合っているようだ。
- パフォーマンスを披露する海獣達は、シャチ・ベルーガ・イルカ・アシカ・トドなどである。シャチのパフォーマンスはさすがにダイナミックである。鼻先でスタッフを軽々と持ち上げ、自分自身が空中高くジャンプしたかと思うと、スタッフを砲丸投げのように放り投げるのである。ベルーガは水中で演技し、スタッフが問題を出すと、形や音を聞き分けて回答を出す。あるいは眼帯をかけても、自分自身が超音波を発して、障害物を難なく避けるという知能や習性を披露するのである。イルカやアシカはチームを組んで、ストーリーに応じたひょうきんな演技をするし、トドは600kgもする身体に似合わず、水中から岩場の高い所まで楽々と飛び上がって拍手喝采を浴びるという具合である。
- トドの一日の食事量は40kgであるという。身体の大きい沢山の動物たちに、今後も楽しい演技をして貰うためには、彼らにひもじい思いをさせないだけの入場料を払わなければなるまい。
<天津小湊> - 日蓮聖人ゆかりの地である。誕生寺は1276年、日蓮聖人生家の跡地に建立された。
- 鯛の浦は、その名のとおり鯛が棲んでいる。古くから日蓮聖人の生き姿と信じて、地元の人達が今日まで大切にして来た。その鯛を遊覧船で見ることができる。鯛は本来、深海回遊性の魚だそうだ。なぜその魚が浅瀬に現れるのか、科学的に解明されていないらしい。遊覧船から餌を撒くと、たちまち鯛が寄ってくる。鯛だけではなくて鯵や平目もおこぼれ頂戴である。
- 遊覧船乗り場には、資料館がある。ここには日蓮聖人と鯛にまつわるこの地の言い伝えが資料として展示されている。これは単に伝説の息を超えて、人々の生活の歴史そのものであると言えるものである。
<勝浦> - 勝浦にも見どころは沢山ある。しかしここまでの過程で、海岸線はほぼ堪能した。そこで一転、海から離れることにした。国道128号線と興津バイパスが東側で合流した先の交差点を、真北に進むと山道に入る。登りきったところが台地になっている。
- 今日の宿は「かんぽの宿・勝浦」である。この宿が眺望のよい台地に建っているのである。台地は房総丘陵という。見渡す限りの山並であるが、どんぐりの背比べである。勝浦市の最高峰は268mだというが、どれがどれやら分からない。
- 部屋は山の上から海を眺められる側にある。鋸山と同じで、萌葱色の照葉樹は椎木であろう。尾根と谷が交互に幾筋も海側に伸びている。谷は深くリアス式海岸である。海岸に沿って平野が続いている。人口の集中地帯である。そういえば、敷地の入口に勝浦市との協定による避難場所の看板が立っていた。津波のときに避難するのであろう。
- 勝浦はカツオ・イセエビの水揚げ量が全国トップクラスである。僕たちが訪ねたこの季節が、まさにカツオの季節であった。宿の予約案内には、旬・先どりフェアとして「かつお・たけのこづくしプラン」を受け付けます・・・とあった。勿論これにした。
<養老渓谷> - 三日目は、内陸を走る群馬県までの帰宅道中である。カーナビは山の中の細い道を教えてくれる。しかし信号はほとんどなく、たちまち養老渓谷に着いた。ここは大多喜町である。町営の有料駐車場は1台もいなかった。番人も不在で今日は無料であろうと解釈した。ここから上流の粟又の滝まで1kmばかりをハイキングする。
- 川は渓谷と呼ぶには、いささか乏しい水量である。川床が赤茶けていて、清流というには程遠い。小魚が泳いでいるが、可哀相に思えた。
- 滝は滑になっている。落差30m、全長100mである。岩の表面を滑るように流れ落ちている。房総一の名瀑だそうだが、他で沢山見慣れている僕らには、物足りない気がした。帰りの道筋で妻が見つけた、自然の三つ葉を採ったのが気慰めであった。
- ここから市原インターチェンジに向かい、成田に直行する。
<成田山新勝寺> - 成田山に対する誤解が実はあった。平らな土地であろうと思っていたのである。初詣や節分の場面がよくテレビで放映されるが、境内の全体像までは分からない。大勢の人が集まる所は、平らな所という先入観が僕にはあったのだ。
- ところがここは、紛れもない"山"であった。今になって地図を見ると、成田市そのものが道がごちゃごちゃしていて、目的地に行きづらい都市構造になっている。区画整理とか碁盤の目という用語には縁のない土地であることが分かった。
- 成田市は下総台地である。市内に複雑に流れている川は、それぞれが、くねりながら北に流れて10km程離れた利根川に合流する。そもそも凹凸の複雑な地形である。そういう土地に古くから集落があり、新勝寺ができ門前町が発達すれば、こういう都市構造になるのであろう。
- 一番高いところにある大塔から成田山公園の川の末端までは、かなりの高低差がある。参詣だけでなく、これらの変化ある境内を散策するのも楽しいではないか。
- 成田市から再び高速道路に乗って、最後の訪問地、佐原市に向う。
<佐原市> - 実は今回の旅行地の選定地に、是非ここを選びたかったのだ。伊能忠敬のゆかりの地である。いうまでもなく伊能忠敬は、近代日本地図作成の先駆者である。17年間かけて日本全国を測量した。その人がここ佐原の出なのである。
- 佐原は市の北辺に利根川を控えている。その利根川に向って市内には小野川が流れている。機械動力のない江戸時代、船運は、最大の輸送手段であった。この小野川を挟んで、醸造業や商業で繁栄した商家が今でも軒を連ねている。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
- 醸造業の伊能家に婿養子で入ったのが忠敬である。伊能家の再興後、隠居し、50歳のとき、徳川幕府の天文方高橋至時(よしとき)の弟子になって天文学を学んだ。師匠の高橋は19歳も年下であった。
- 55歳から東北北海道から測量を始めて、73歳まで18年間もの長期に亘って測量のキャラバンを組んで全国を歩いたのである。死後、弟子たちによって日本全図が編纂された。
- 小野川の左岸に伊能忠敬記念館があり、測量具と地図が展示されている。そして、川を挟んで旧宅がある。
小野川畔の商家
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- 船運で栄えたこの街は、江戸時代の面影を色濃く残している。小野川にかかる忠敬橋を十文字にして、それぞれの方角を散策すると江戸時代に溯れるような気がしてくる。最初に三菱館というレンガ造りのお休み処を訪ねるといい。タウンマップが貰えるし、お茶をいただける上に、紹介ビデオの上映もしてくれる。何人かのグループでいけば、ボランティアの人が山車会館辺りまでガイドもしてくれる。
- 旅の余韻に浸りながら、一路群馬県までひたすら一般道を走り、帰宅したのが21時。663kmの旅は終わった。
- 余談ではあるが、面白いことを発見した。佐原市は、利根川本流を挟んで二分されているのである。その両方を結ぶ一般道の橋がないのである。行き来するには水郷大橋を渡って、茨城県を経由することになる。県境からして、霞ヶ浦の方まで一見、越境しているが如くに張り出している。考えみてみると、まさにこの一帯は水郷であって、その昔は霞ヶ浦から流れ出る常陸利根川が本流であったかもしれない。地図でみると、現在は利根川流域は碁盤の目で広大な干拓地になっている。
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お薦め本
「忠敬と伊能図」−編集:伊能忠敬研究会/制作・発行:(株)アワ・プラニング/発売:(株)現代書館
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