(目次に戻る)
13.8.31〜9.2
智恵子の生家〜安達太良山〜裏磐梯〜龍王峡 <智恵子の生家> - 彫刻家で詩人でもある高村光太郎の妻智恵子の生家は、福島県二本松市の北隣安達町にある。妻と僕は、第一番に安達太良山に登るつもりであったが、天候が悪かったので予定を変更して智恵子の生家を訪ねることにした。
- 東北自動車道の二本松インターチェンジを降りて、約5kmの地点にある。二本松の市街地を通過して北東に走る。落ち着いた佇まいの家々が並び、喧騒のない町筋から人々の安穏な生活ぶりが覗える。
- 町営の駐車場に車を置いて、バスで来た中高年の団体さんの後にくっ付いて智恵子の生家に入った。手入れの行き届いた小奇麗な商家である。智恵子はその二階に起居していたのだそうだ。
智恵子の生家
|
- 安達町は、西に安達太良山、東に阿武隈川を控えている。生家の長沼家は、祖父が興した酒造店を、二代目の父が繁盛させた。智恵子は何不自由のない乙女時代を過ごしている。
- 1903年、17歳の時上京し、日本女子大学に入学する。卒業後当時としては稀な女流油絵画家としての生活を始めた。そのうちフランス帰りの高村光太郎と知り合い、写生旅行などを一緒にして互いの芸術のよき理解者として愛と信頼を深め、1914年、入籍しないまま友人達に結婚を宣言した。智恵子29歳のときである。
- しかしその後、智恵子は病みがちになり、ふるさとで静養しては東京へ戻るという生活を繰り返していた。そんな折1918年父の死によって、生家の繁栄にかげりが見え始め、1929年に一家は離散してしまった。
- 1931年45歳の時、精神分裂の兆候があって、光太郎と二人で安達町近辺の温泉めぐりをするが症状は悪化していくばかりであった。このとき光太郎は、智恵子の本籍のある役場に入籍をした。病める智恵子への思いやりであろう。
- その後、千葉県九十九里浜を転地療養し、1935年南品川ゼームス坂病院に入院したが、1938年ついに肺結核で52歳の生涯を閉じたのである。今わの際に、智恵子は大好きなレモンを光太郎からもらうと一口かじり、かすかな笑みを浮かべて息を引き取ったそうである。
- 1941年高村光太郎は「智恵子抄」を出版。ここに二人の純愛が蘇り、今も多くの人々から偲ばれている。その中に「樹下の二人」があり、僕が心引かれた中段の一節をご紹介する。
あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生まれたふるさと、
あの小さな白壁の點點があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうな此のひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。
あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。
これを詠んだのは近くの丘陵地にある鞍石山で、安達太良山と阿武隈川が同時に眺められる唯一の場所とされている。 - 阿多多羅山を詠んだ詩をもう一つご紹介しよう。「あどけない話」である。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言う。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
- 智恵子の生家の裏手には、「智恵子記念館」が併設されて、智恵子と光太郎を偲ぶ数々の詩や書簡そして紙絵などが展示されている。特に父亡き後、没落して悲嘆に暮れている母に宛てた書簡を見ると、母を力づけようと切々と綴る智恵子の思いが悲しく伝わってくる。
<安達太良山> - 智恵子の生家のある安達町から見た安達太良山は、乳房のような姿をしている。地元では乳首山とも呼んでいて、母なる山として愛されている。
- 僕が18歳で生れ故郷の信州を離れ、福島県郡山市の化学繊維工場に就職したのは1956年の4月である。蒸気機関車に乗って東京に1泊し、翌日無事着いた当時の記憶は今も薄れない。そして6月に山岳部主催の集中登山に参加し、初めて安達太良山に登った。そのときの爆裂火口を目前にしたときの感動が、ただちに入部という具体的な行動を起こさせた。以来26歳のとき郡山を離れるまで何十回と安達太良山を訪問するほど、僕にとっても愛する山となったのである。
- 僕は安達太良山に妻を連れて行きたいと思い、平成7年に一度行ったのだが、残念ながら台風で山が荒れて目的が果たせなかった。今回は再挑戦ということになる。そして数えてみると、僕自身が最後に登ったときから、37年目の再会ということになる。
- 昔は粋がってスカイラインなどの山岳道路を批判したものだが、勝手なもので60歳を過ぎた今はそれが有難い。できるだけ高い所まで運んでくれる乗り物があれば、極力それを利用したいのである。
- 奥岳温泉ににあだたらエクスプレスというゴンドラがある。1350mの薬師岳まで運んで貰うと安達太良山まで、歩行時間は1時間15分程で着いてしまう。この日は、前日の雨で這松の中の道がぬかるみ、かなり汗をかいて乳首山の根元に到着した。
- ガスが尾根筋を隠して懐かしの展望が利かない。それにしても登山者は多かった。高校生の男女が40人ほど大きなザックを背負って別のコースを登って来た。頂上の乳首の部分は狭いので、早いところ登るに限る。休まずに岩場を登った。
- 安達太良山は標高1700mである。こんなに低くても大きな爆裂火口を眼にすると高山性の趣がある。天候は変わりやすく、火口尾根を吹きぬける強風に吹き飛ばされないように、身体を60度ぐらい傾けて歩かなければならない程である。この日は幸い風は穏やか。ガスだけが濃く周囲は何も見えない状態であった。
安達太良山 後方はガス
|
- そうそうに頂上を後にし、鉄山に向うことにした。ケルンがうずたかく積まれた牛の背を辿る。クロマメノキは今がちょうど食べごろだ。口に含むと甘酸っぱい液体が口中を潤す。船明神との分岐まで来たとき雨が降り出した。カッパを着て矢筈ガ森まで来たとき、僕は昔の勘が戻らずついコースを間違えてしまった。しかしそれも地形図を確認して直ちに修正することができた。今回ミウラ折の地図を初めて使って便利な思いをした。
- 馬の脊にかかったとき突然ガスが消えて視界が開けた。そして左眼下に懐かしの沼ノ平が展開したのである。僕らのいる場所は痩せ尾根である。首を右に廻すと、右眼下にくろがね小屋が見えた。
- 沼ノ平には白い噴気が垂直にあがっている。ちょうど火口から風が吹き上げていて、硫黄の臭いが鼻をつく。懐かしい臭いだ。妻は「わー凄いッ」の一言を発した。40何年前、初めて僕がこの山に登ったときに発した言葉そのものである。
沼ノ平の火口原
|
- この火口原で1997年、登山者4名が有毒ガスで死亡している。このときから有毒ガス発生地域のコースは使用禁止となった。
- そのあと、鉄山に行くまで(雲の)ガスは消えたりまた湧いたりであった。鉄山の火山岩のテラスで昼食を摂った。火口縁の尾根がくねくねと曲がって安達太良山もよく見える。東方の下界が陽を浴びて明るく輝いている。二本松市から福島市まで視界はいっぱいに拡がって遮るものもない。
鉄山から安達太良山(中央)
|
- 牛の背まで戻り、東の斜面を下ってくろがね小屋に向った。しかしこれが意外に長かった。昔もこんなだったのかな〜と思いつつ、周囲の植生を観察することも忘れない。這松が昔よりも拡大しているように見える。
- くろがね小屋に着いたが、2回のウッドデッキで靴を脱がないと屋内に入れない構造となってしまっていた。立ち寄りだけの客に対応しきれず、それを制限するための工夫であろう。妻だけトイレに立ち寄り、僕は獣と同じ排便ができるので面倒だから中には入らなかった。
- この岳温泉の泉源は、実はこのくろがね小屋のすぐ上にある。昔は木製の湯樋が延々と岳温泉まで敷かれていた。登山者はそのルートを借用して歩いていたので、当然傷めてしまう。今回の訪問では改良されていて、湯樋が露出して見えるのはくろがね小屋付近の僅かな部分だけであった。あとは栗石の擁壁に守られて暗渠となっており、登山道はその脇に分離されていた。
- 今回、安達太良山に、妻にとっては初対面であり、僕にとっては再会であるが、大いに満足した山行きとなった。そこにはひとつ大切な別の要因がある。登り始めてから下山するまで、ゴミをまったく見なかったことだ。どこもこうありたいものである。充実した5時間の山旅であった。
<裏磐梯> - 裏磐梯は安達太良山の西方にある。福島県の一大リゾート地であることは大概の人が知っている。しかしその成り立ちについて、詳しく解かっている人はそれ程いないのではなかろうか。何回か訪ねた僕にも人に説明するとなると自信がない。
そんな時に助けになるのがビジターセンターの類である。裏磐梯にはそれがいくつかある。たとえば次のようなものである。
1) 裏磐梯五色沼自然教室(湖沼の解説)
2) 磐梯山噴火記念館(噴火の資料展示)
3) 磐梯山3Dワールド(磐梯山噴火の立体映像)
4) 裏磐梯サイトステーション(探勝アドバイス)
これらを訪問することによって裏磐梯のことについて、かなり深く知ることができる。
- 現在の裏磐梯を形成した磐梯山の噴火は、1888年によるものである。水蒸気爆発によって磐梯山の山体が吹き飛ばされた。岩なだれが発生し、川水と混ざり合って泥流となり、村々を襲って多くの人命が奪われた。一方、この時せき止められた川が沢山の湖沼群を作った。噴火直後の壮絶な様子は、当時としては珍しいカメラを持っている人によって撮影された。その貴重な写真は、磐梯山噴火記念館に展示されている。
- 現在、裏磐梯は数多くの動植物が回復し、かつての地獄絵はいつしか美しい景観を与えてくれることになった。泥流に飲み込まれた村人の子孫は、祖先の犠牲の代償として観光業務によって糧を得られることになったのである。
- 自然教室で予備知識を仕入れたのち、さっそく五色沼自然探勝路の散策にかかった。実は僕達はマイカーを桧原湖畔西口の駐車場に置いて、路線バスで東口までやってきたのである。従って往復の必要はない。こういう方法はよくやる手である。
- 探勝路の長さは3.7km、一番大きな毘沙門沼から始まって、最後の柳沼まで十数個の沼があるだろうか。色の表現はガイドブックにまかせることにして、各沼の色の違いが様々でることは確かだ。沼の出入り口を流れる水の色は透明であるから、色の違いは沼の底にあるのだろうか。噴火の泥流に含まれていた鉱物成分の違い、沼の深さ、周囲の植生の映りこみ、藻類の繁茂、これらの要素が光線のスペクトラムと微妙に作用してのことであろう。とにかくいつ見ても美しい。
鬱蒼とした森に囲まれて
|
ナナカマドの樹間越しに
|
- 僕達はこの日、休暇村磐梯高原に宿泊した。周辺は散策コースが豊富である。歩いてもよし、サイクリングもまたいい。僕達はチェックイン後、中瀬沼探勝路を歩いた。途中小山があって中瀬沼を眺めることができる。
翌朝、食堂の窓越しに磐梯山の火口壁を見ることができた。休暇村の周辺は湿地に繁茂するハンノキやヤナギ等の樹木が多い。
小山の展望台から
|
食堂の大窓を透かして磐梯山
|
<龍王峡> - 旅行コースの最終日になった。国道121号線を会津若松市から南下して栃木県に抜けると、川治温泉に着く。ここでルート沿いの男鹿川は、鬼怒川本流に合流して水嵩を増す。龍王峡の始りである。
- 僕達が前回龍王峡を訪問したのは20年以上も前のことである。そこで今回改めて見学することにした。全コースを歩くと小一日かかるが、そうゆっくりもできないので、ショートコースにした。最下流の「むささび橋巡回コース」である。ありがたいことに無料の駐車場がかなり広い。食堂兼土産物屋も軒を連ねている。
- 昔に比べて「龍王峡自然研究路」は、ほぼ満足できる状態に整備されていた。遊歩道は歩きよく、安全柵も頑丈にできていて自然とよくマッチしている。樹木にはさりげなく名札が取り付けてある。要所々々には峡谷の成り立ちに関する学術的な解説板が立っている。という具合である。
- 僕達は通り一遍にせず、かなり丹念に観察した。特に注目したのは、「岩石段丘」である。群馬県には規模の大きい河岸段丘がいっぱいあって、それなりに理解していたが、「岩石段丘」というのは始めて聞いた。
- どういうものかというと、現在の渓流の両側は、ほぼ垂直の岩壁になっている。その岩壁の上部がテラス状にほぼ平坦になっている部分があるというわけだ。その平坦部はかなり広い部分があり、そこには小川が流れていたり、池を形成して、モリアオガエルやサンショウウオの生息地となっていたりするのである。平坦部は、岩石の部分が多く、これが名前の由来であろうか。土の部分もあるが、これはずっと後から山の泥流が残したものであろう。
- 解説板によれば、はるかな昔の川底は段丘部分であったのだが、その後さらに侵食を重ねて現在の姿になったのだそうだ。
左側(右岸)の岩石段丘
|
最下流の虹見橋
|
<余韻の記> これで旅のすべてが終わった。安達太良山は再会の旅、裏磐梯と龍王峡は再発見の旅として充実感に満たされた。 なおのこと言えば歴史に興味のある人は、福島県の国道121号線沿いに大川ダムがあり、その西方に大内宿というのがあるので、見学をお薦めする。伝統的建造物群保存地区として一見の価値がある。僕達は4年前に見学しているので、今回は割愛した。
(目次に戻る)
|