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 ここへ行ってきました 

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16.4.15〜17南紀
<高野山>

  1. 今回の旅行は、マイカーをやめてツアーにした。南紀までのアプローチは交通量も多く、事故渋滞に出っくわしたら旅行スケジュールに支障をきたす。それに、神社仏閣を見学するには、ガイドの解説も欲しい。今年の六月には世界遺産の登録を控えていることから、全箇所を廻りたい。そんな欲張りなニーズに対して、果たせるかなR社がタイムリーな企画で応えてくれた。
  2. その企画とは、三日間で高野山と熊野三山を巡り、かつ道中の景勝地を観光するというものである。そのかわり羽田発7:00、着22:30といささかハードスケジュールである。しかし安価で効率的なプランに僕達夫婦の体力が反応したという訳だ。
  3. 最近は地方のバス会社は、路線運行が衰退した替わりに、高速バスによって息を吹き返した。群馬県から羽田・成田・大阪・仙台・新宿・池袋と顧客ニーズに応えて便利なメニューを用意してくれている。僕たちは羽田までのアクセスにこれを利用した。
  4. 前橋市内のバスターミナルにマイカーを置いて、高速バスは3:10出発。上信越自動車道の藤岡インターチェンジから関越自動車道に乗る。羽田空港までは首都高を経由して一気に走る予定であったが、昨夜来の雨がやんで、東松山ICより先は霧通行止めになっていた。一瞬あせったが運転士は心得たもので、一般道の最短時間コースをいとも簡単に選択し、空港には予定時間よりも10分早く着いてしまった。
  5. 予定どおり飛行機は7:00出発。高気圧に包まれて下界はよく見えた。残雪の富士山が朝日を浴びて輝いている。北は燧ヶ岳から始まって、浅間山・八ヶ岳・南アルプス・北アルプス・中央アルプス・御岳・白山と、稜線には純白のインゴットが輝いていた。日本海の水平線は、視界の左右が丸みを帯びてどこまでも青い。ツアー申込みをインターネットでしたときに、「右窓際」というフライト希望をきいて貰えて幸先よしだ。


    富士山

  1. 伊丹空港から地元の観光バスに乗り、橋本市を経由してR370-480の高野山道路から入山した。延長17km、標高差800mの山岳道路。下の方は葉桜だったが、高度を上げて行く程に山桜が山の斜面を彩っていた。道路沿いには、植樹の八重桜が迎えてくれた。高野山参道のあちこちには、ヒガンザクラが満開であった。
  2. 昼食を先に摂り、宿坊が並んでいる通りを30分ほど散策した。写真の腕前には自信がないので、ご紹介はそこそこに留めて、山上の詳細はリンクサイトに代えさせていただく。


    宿坊の前庭

    <参考>
    山上ガイドマップ

  3. 空海は774年、香川県に生まれた。15歳のとき京に出て儒学を学び、のち佛教を志した。31歳の804年遣唐使に随行して、長安で正統密教を学び806年に帰国した。帰国後、真言密教を各地に広め、嵯峨天皇より高野山を賜わった。816年に諸弟子や工人等多数を伴って登山し開創に着手。これが高野山金剛峯寺のはじめといわれている。
  4. それから20年後なお造営が続いているさなか、62歳の835年3月21日に入定して、即身成仏を遂げられたとあるが病没のようだ。その後、弟子達の活動により、仏教各派の修禅の大道場として栄えた。死後86年後に醍醐天皇から弘法大師と追号されている。
  5. 空海は最澄と対比されるが、活動時期が同じだからであろう。年齢は空海が7歳若い。入唐したのは同じ年であるが、最澄は翌年帰国し、空海は翌々年帰国した。二人してなんとも慌しいが、今風にいえば早く結果を出したかったのであろうか。
  6. ところで、高野山は明治5年(1872)に女人禁制を解いている。これには裏話があるらしい。明治3年(1870)に西院如意輪寺をはじめ、南谷南院が焼失した。この復旧工事には2年の歳月を要したようだ。工人達は今でさえ通勤困難である山道を通うわけには行かず、さりとて単身赴任もままならず、妻子ともに入山することを条件に仕事を引き受けた。このことを切っ掛けに女人禁制が解かれたと言うのが真相らしい。

<高野龍神スカイライン>

  1. 高野龍神スカイラインを南下する。延長42.7kmの快適な山岳道路で「日本の道100選」に選定されている。2003年10月に無料となったのが嬉しい。行けども行けども山また山である。この道路のお陰で、南紀の旅も効率よくなった。
  2. 峠を越えると日高川である。紀州の最高峰護摩壇山(1,372m)を源にしている。終点には龍神温泉がある。地名の神秘性から、スカイライン開通当初はツアーの宿泊地に組まれたこともあったが、湯治場のイメージから脱することが出来ず、今はツアーから外れている。

<白浜>

  1. 長い山道をさらに下って、龍神村から県道を抜けて中辺路町に入った。この町は熊野詣の古道が今も残る由緒ある町である。R311を南下すれば白浜だ。景勝の地であると共に、温泉の豊富な町だ。先ずは三段壁。折りしも台風1号が小笠原近海にあって、うねりが押寄せていた。波高の高い波が岩壁に遮られ、大きなエネルギーが一気に暴発して、飛沫が空高く舞い上がる様は壮観そのものだった。


    飛沫は舞い上がる

  1. 第一日目はここで終わった。今日の宿は白浜スカイライン沿いにあるGホテルである。露天風呂から白浜の街並みと海の景色が一望でき、爽快そのものである。源泉は行幸(みゆき)温泉で、83℃のナトリウム-塩化物・炭酸水素塩水が自噴している。
  2. 二日目は聞いた事もない小鳥の囀りで目が覚めた。群馬県の人里では聞いたことがない。カーテンを開けて外を見ると、日の出前の裏庭であっちの木、こっちの石へと飛んでは止まり囀っている。頭部から翼が青黒く、腹は茶褐色でムクドリ位の大きさか。出発のときに見送りの支配人に訊いてみたら、イソヒヨドリではないかと言う。帰ってから調べてみたら、正にそのとおりであった。

    <参考>イソヒヨドリの囀り Singing Bird HomePage さん
  1. 爽快な出発のもとに円月島に向った。臨海浦に浮かぶ小島で、島の中央に円い海食洞が開いている。この穴から落日が見られるときを狙って、カメラマンが押寄せるそうだ。


    円月島

  1. 鉛山湾を海岸線に沿って南下する。白浜の名の起こりとなった白良浜、短いが白い砂浜が際立っている。さらに湾口を巡った岬の突端に千畳敷がある。紀伊水道から太平洋に接する位置である。侵食された砂岩の模様が畳を広げたように見えるのだろうか。


    千畳敷

<串本>

  1. 串本には見るべき所が多い。先ずは串本海中公園。海中景観が素晴らしい地域として昭和45年に海中公園第1号に指定された。海中展望塔のタラップを降りると、円形回廊の窓から珊瑚やその間を遊泳する魚を見ることができる。鮮やかな熱帯魚が数知れず目の前を泳いでいく。これはてっきり、海中に網で囲いをして魚を飼っているのだろうと係員に訊いてみた。ところが言下にそれは否定された。餌付けであると言う。

    <参考>
    串本海中公園
  1. 潮岬は本州最南端に位置している。台風の通り道としてのイメージが強く、テレビのない頃ラジオの気象情報に耳を傾けたことを思い出す。岬の西端には、明治3年(1870)にイギリス人の指導で建てられた灯台がある。白亜の灯台は、潮岬の象徴的存在だ。
  2. 岬の中央には、潮岬観光タワーがあり、海岸を見下ろす場所には最南端を示すモニュメントが設置されている。大概はここで記念写真を撮ったりする。遊歩道が崖の下に延びていて、岩礁に登ることもできる。ここで見る海は深い青色で、岩に砕ける白波は燦然と輝いている。


    本州最南端の岩礁

  1. 岬を海岸線に沿って反時計周りに巡ると、紀伊大島が見えて来る。こんもりと緑に被われて、断崖絶壁の近寄りがたい島だ。さらに進むと、「くしもと大橋」が白い優美な姿を現した。1999年に本土と大島はループ橋とアーチ橋の組み合わせで繋がった。島の自然と調和して景観的に優れた橋である。橋の開通によって島民の足となっていた巡航船は廃され、多くの自動車を運んでいた串本フェリーも姿を消した。「♪ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船..」のメロディのみが郷愁を誘っている。


    くしもと大橋

  1. 大島は東西約8km、南北約2.5km、周囲約26km。島内には、ウバメガシ、シイ、ツバキなどが生い茂り、島の中央に立派な道路が走っていて、東端まで快適なドライブが楽しめる。ほとんど車も人家も見かけないが、それでも人口は1,600人だそうだ。リアス式の入江が幾重にも切り込んでいて、時々はるか下のほうに集落が見えたりする。
  2. 東端は樫野埼といい、駐車場はあるが他に観光の車はいなかった。広い石畳の歩道が整備されていて、緩やかな坂を下っていくと、トルコ記念館とその先の広場には、トルコ軍艦遭難碑が建っていた。ほかにも、いくつかの大きなモニュメントと慰霊碑が立っている。それらの碑文によって、僕は初めてこの地で起きた海難事故と、現在にいたるトルコと日本の友好関係を知ったのである。眼下には岩礁が広がっていて、うねりが押寄せて砕けるたびに陽光を反射して白く輝いていた。
  3. 明治23年(1990)6月、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦が、横浜港へ到着した。航海の目的は、練習航海を兼ねた親善訪日使節団を遣わすためである。司令官を特使とする一行は、皇帝親書を明治天皇に奉呈し、その帰途に遭難した。折りしも9月の台風期で、岩礁に激突して沈没した。これにより、特使とともに540人が犠牲になり、生存者は69名であった。事故の第一報は、数十メートルの断崖を這い上がって灯台守にもたらされた。救助活動は樫野の住民たちによって行なわれ、寺・学校・灯台などに収容された。引き続き和歌山県を通じて日本政府に通報した。明治天皇はこの遭難に心を痛め、政府に可能な限りの援助を行うよう指示したという。生存者は日本海軍の艦船により、翌明治24年(1891)1月、トルコに送り届けられた。トルコの新聞には大島の村民による救助活動や日本政府の尽力の模様が伝えられた。これにより、トルコの人々の日本と大島の人たちに対する感情は、極めて良好に維持されている。この海難史は、日本よりもトルコのほうが長く語り伝えられていると聞く。


    トルコ軍艦遭難碑


  4. 岬の突端には、明治3年に点灯された日本最古の樫野埼灯台がある。現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開であるが、外部の螺旋階段を上って太平洋の大海原を展望できる。園地には当時イギリス人技師が植えたと言われる水仙が咲いていた。トルコ記念館から灯台までの沿道に、絨毯や、雑貨、アクセサリーなどの土産品や、食べ物などを売るトルコのバザールの露店が並んでいた。売り子はすべてトルコ人の男女である。先ほどの海難史を知らなかったら、異次元の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚にとらわれそうだ。


    樫野埼灯台


  5. 本土に戻って串本の本町を北へ外れた辺り、海中に奇妙なオブジェが立っていた。橋杭岩である。国道42号線の海岸沿いから紀伊大島に向かって、大小約40の岩柱が850mに亘って立ち並ぶ姿は壮観そのもの。干潮時には中ほどの弁天島まで歩いて渡ることも出来る。
  6. 岩柱の規則的な並び方が、橋の杭に似ていることからこの名が付いた。第3紀層の軟らかい頁岩が波によって浸食され、石英粗面岩の岩脈だけが断続して残ったもので、国の天然記念物に指定されている。


    橋杭岩

<那智勝浦>

  1. 見るべきものが多い南紀のなかでも、那智勝浦町はたいがいの旅行者がその筆頭に挙げる所だ。町名にもあるように、先ず那智山であろう。ツアーでは「那智山めぐり」と称して、那智山青岸渡寺熊野那智大社那智の滝を組むのが普通である。ここで、熊野三山について考えてみたい。和歌山県を代表する信仰の地として、熊野那智大社・熊野速玉大社・熊野本宮大社の三つを合わせて熊野三山という。古来、熊野詣でとして各地から行き来があった。細切れではあるが、熊野古道として、その面影が保存されている。
  2. この三山が高野山と共に今年(2004)6月、世界遺産一覧表への記載の可否が決定される。これほどの大社が山深い地になぜ信者を集めたのであろうか。それは江戸時代に紀州藩と結んで、社殿造営の名目で資金集めをし、諸大名から寄付を募ったことにあるらしい。御三家の威光もあって、多くの浄財が集まり貸付業を始めたのが成功したという。
  3. 那智山めぐり」は、那智川を遡る形で始まった。大門坂から道は狭隘になり、崖崩れで復旧工事中の九十九折りを喘いで登る。カーブの箇所では、苔むした石畳の古道と王子跡のしるべが垣間見られた。
  4. やがて杉の古木を見晴るかして、天から落ちているかのごとくに垂直の滝が出現した。最後のカーブを曲がったところが駐車場である。そこから滝口まで石段を下って間近によると、先ほどまでの夏日の暑さから、一気に冷気漂う世界となった。


    那智の滝

  1. 那智の滝から車道を少し上に行った所に、那智大社と青岸渡寺への登山口がある。何段あるのか分からないが、汗をびっしょりかく段数だ。登りきったところには朱塗りの大社がまばゆく、右隣には桧皮葺の寺がこともなげに並んでいた。寺の境内からは滝を背景に三重塔が立っている。


    三重塔

  1. 今夜は勝浦温泉泊まり、温泉の町としても人気スポットである。国道に近い山際にKホテルはあった。窓からは港の風景がよく見える。屋上には露天風呂があって、湯に浸かったまま海岸線を眺望できた。夕食は何年ぶりかで経験した部屋食だった。食後は屋上でマグロの兜焼きが実演された。頭と尻尾を焼いて、夜景を見ながらご馳走になるのである。

<熊野速玉大社>

  1. 三日目は、熊野三山の一つである熊野速玉大社から始まった。大社は新宮市の山を背にした街の一画にある。熊野川の右岸にあって、橋を渡れば三重県だ。高野山と那智山を見たあとだと、どこにでもある神社ではないかと思ってしまう。その辺の誤解を解くためにか、熊野三山が同格であることを神職は熱っぽく解説した。


    速玉大社

  1. 熊野速玉大社は熊野新宮とも呼ばれる。もともと速玉大社から南へ1kmほど離れた神倉山に祀られていたのが、のちに現在地に遷され、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになったというのである。創立年代は明らかではない。
  2. 熊野を世に知らしめたのは、平安から鎌倉にかけての山伏たちと、南北朝から室町にかけての時衆の念仏聖や熊野比丘尼たちだと言う。山伏たちは皇族・貴族に熊野信仰を広め、念仏聖や熊野比丘尼たちは庶民に広めたのだそうだ。しかし江戸時代になって紀州藩の宗教政策によって活動は抑圧され、熊野信仰は衰微し、明治に入って決定的なまでに熊野信仰は衰退した。明治元年(1868 )の神仏分離令が原因である。

<熊野川>

  1. 熊野川は地理的にも歴史的にも考察に値する川である。河口は、三重県との県境で熊野灘に注いでいる。上流に遡ると、熊野川町に大きな出合いがある。左は熊野川本流、右は北山川だ。熊野川は奈良県に入り、近畿の最高峰八経ガ岳(1915m)など大峰山系を源流にし、かつ護摩檀山の東斜面をも流域にする。一方、北山川は奈良県の大台ヶ原山(1695m)を源流とする。
  2. 北山川を遡ると、面白いことに気づく。和歌山県の熊野川町の飛地と、全国で唯一の自治体飛地である和歌山県北山村に遭遇するのである。極めて稀有なこの現象は一体何なのか、興味津々と言うところだ。
  3. この流域は圧倒的に山地が多く、わが国最多雨域であることだ。良質の木材を産し、林業で栄え人口の大半を筏師が占めていた。伐採された木材を筏に組み、熊野川を下って集散地の新宮まで運ぶのが筏師の生業であり、新宮木材業者と筏師は共存共栄、切っても切れない関係で成り立っていたのである。
  4. 明治4年、廃藩置県が実施され、新宮が和歌山県に編入された際、新宮木材業者との繋がりが強かったこの地域の住民は、地理的にいえば奈良県に属するところを、「新宮が和歌山県に入るなら私たちも」と希望し、和歌山県に編入されたと言うのだ。陸地の寸断よりも川の連続性が勝ったのである。
  5. 昭和40年代に北山川にダムができ、道路も整備されたのを契機に筏師は姿を消した。木材の運搬も水路から陸路に切り替わったためである。今は、観光筏下りと観光船に乗ってその迫力を体験できる。僕達は瀞峡(どろきょう)と称する辺りまで、ウォータージェット船に乗ってその一部を見学した。両岸に屹立する岩壁と、こぼれ落ちるような緑の渓谷美を堪能したのである。


    瀞峡

  1. 新宮市・熊野川町・北山村の三自治体は、現在合併協議が進められている。(後日追記:平成17.10.1新宮市・熊野川町が合併し、北山村は自立の道を選んだ。)

     ところで、熊野川に妙な風景を見たので、ついでに書いておこう。石と砂の広川原にマネキンが立っているのだ。最初見たときには何かのイベントかな?と思ったのだが、国道沿いの川原のあちこちに見える。後日、熊野川漁協に問い合わせたところ、カワウによる鮎の被害を防ぐためだとのこと。奈良県吉野川でやっていて、効果があると聞いたので、今年から始めたそうだ。で、今度は吉野川漁協に聞いてみた。その結果、三年ほど前に始めたが、カワウが慣れてしまって今はあまりやっていないとの話であった。以上(^o^)

<熊野本宮大社>

  1. 熊野本宮大社は、熊野詣での再奥にある。とは言っても紀伊(和歌山県)だけを考えた場合のことであって、熊野川に視点を移すとまだ下流域を抜けきらない。奈良県に入ると熊野川はまだまだ続くのだ。
  2. 国道を北上し、川湯温泉等の温泉地が点在する支流を左に見てさらに進むと、開けた州の中に大きな鳥居が現れた。明治22年(1889)まで大社はここにあった。水害に遭ったので山の麓に移動したのが現在の本宮である。
  3. 本宮の鳥居の前に立つと、大きな八咫烏(やたがらす)の幟が目を引く。八咫烏は三本足の烏で、熊野権現の使いである。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みだ。長い石段を登って門をくぐると社殿があった。三棟あるがいずれも桧皮葺、予想に反してこじんまりとしている。速玉大社の社殿が朱塗りだったのに対して、こちらは古色蒼然としている。


    第一殿・第二殿

  1. 参道に沿うように熊野古道が保存されている。苔むした石段を眺めて、昔の熊野詣でを想像してみるのもよい。

<谷瀬の吊橋>

  1. 谷瀬の吊橋は奈良県の十津川村にある。今回の南紀ツアーのおまけみたいなもので、山の中を通る帰路にトイレ休憩で立ち寄ったのだ。それよりも僕の女房と他の女性一人が、バスに遠慮なく振り回されてすっかり酔ってしまった。それでも気丈な女房は、僕の腕に掴まって、はた目にはいかにも怖そうに吊橋を渡ったのであるが、本来は高いところなど全く平気な口だ。


    谷瀬の吊橋

  1. ツアーの帰りは関西空港発21時25分、羽田着22時35分。高速バスに駆け足で飛び乗り、赤城山の冷気を吸って寝床に入ったのは翌朝2時だった。

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