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 ここへ行ってきました 

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16.4.15〜17仙台市・七ヶ浜町・松島町・鳴瀬町・酒田市・鶴岡市・羽黒町・米沢市

<東北道>

  1. 僕達が6月に旅行をするのは、日が長くなって行動時間を効率的にとれるからである。梅雨の心配も無いではないが、その時はそのときだ。まあ、上旬の内であれば降る確率は小さい。去年も一昨年も好天の旅行ができた。
  2. そんな訳で、1日目は仙台までのアプローチも何のその。3時40分に出発して安達太良SAで朝食。仙台宮城ICを下りたのは、通勤の車が多い時間帯であった。青葉山トンネルを抜けると、若葉輝く街路樹が広がった、青葉山公園である。

<仙台>

  1. 青葉城跡
    杜の都の名に偽りは無く、起伏のある台地はこんもりと新緑に萌えていた。伊達62万石の居城である仙台城は、青葉城の別名で親しまれている。標高120m、東と南を断崖で囲まれていて、天然の要塞である。家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったと言われている。
  2. 石垣と再建された隅櫓に往時が偲ばれる。市街を展望できる場所に、政宗公の騎馬像が立っている。独眼の筈が両眼になっているのは、そうあるべきとの正宗の遺言であるそうな。


    正宗騎馬像
  1. 近くに仙台ゆかりの歌碑がある。土井晩翠の「荒城の月」である。格調のある詩で思わず身を正す。
  2. 島崎藤村の詩碑もある。藤村は、明治29年(1896)に英語の教師として来仙した。1年後の1897年に処女詩集「若菜集」を刊行し、新体詩人としての名声を高めた。
  3. 詩碑は、若菜集の草枕。長い詩の中から、次の部分が記されている。

心の宿(やど)の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲しみ深き吾目には
色彩(いろ)なき石も花と見き

  1. 晩翠が叙事詩的であるのに対して、藤村の詩は抒情的だ。律儀な七五調に面映い感じがしてくる。
  2. 瑞鳳殿
    瑞鳳殿の坂道を登っているとおたまや幼稚園と書いた通園バスが通った。妙な名前の保育園もあるものだなと思ったのであるが、それは霊屋(おたまや)であることがすぐに分かった。ここの町名が「青葉区霊屋下」なのである。伊達家の廟所を意味しているのは言うまでも無い。
  3. 山の麓に駐車場がある。そこから山に入って最初にあるのが瑞鳳寺。伊達政宗の菩提寺として、二代藩主忠宗によって創建された寺である。
  4. 霊廟は青葉城から広瀬川に突き出た、経ケ峰という小さな山の上にある。伊達家の霊域として長年禁断の地であったため、藩政時代そのままの自然環境が現在まで維持されてきた。正宗は、ここ経ケ峯が気に入り霊屋としたのである。
  5. 政宗は米沢城に生まれ、18歳で伊達家を相続。仙台へ居城を移し、仙台藩祖として伊達62万石を築き70歳で生涯を閉じた。政宗の霊屋である瑞鳳殿は、政宗の遺命によりその翌年経ケ峯に造営された。


    瑞鳳殿

<七ヶ浜町>

  1. 多聞山
    七ヶ浜町は松島湾の南部に位置した半島である。三方が太平洋に面し、七つの集落が町名の由来になっている。そのお勧めスポットが多聞山。松島湾内の島々が広がっている中を、観光船が行き来する。展望広場公園に車を停めて、導標に従い半島の突端まで足を運ぶ。そこに毘沙門堂があって湾内を一望できる。


    多聞山からの眺め
  1. ところで、毘沙門堂までの登り道で、右手に東北電力の仙台火力発電所が見える。興ざめする人もいるだろうが、日本の電力を産み出す基幹産業である。我慢しよう。

<松島町>

  1. 瑞巌寺
    天長5年(828)、慈覚大師によって創建された。奥州随一の禅寺で、伊達政宗の菩提寺である。現在の建物は慶長14年(1609)政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させた。用材を紀州(和歌山県)の熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運んだ。京都から名工130名を招いたそうである。
  2. 伊達家の厚い庇護を受けたが、明治維新の廃仏毀釈と伊達家の版籍奉還により、瑞巌寺も廃絶の憂き目を見た。幸い明治9年、天皇の行在所となったことが契機となって復興した。


    瑞巌寺
  1. 本堂に接続する御成玄関の外側欄間に、左甚五郎の彫刻がある。「葡萄に木鼠」であるが、刻みの細かさに特徴がある。大作ではないが、ブドウとリスをモチーフにした感覚が童話的で面白い。島崎藤村は、これを読んだ詩を『若菜集』に収めている。

    <参照>
    松島瑞巌寺に遊び葡萄栗鼠の木彫を観て

    <勝手な見解>
     左甚五郎は、生没年不詳である。江戸時代の彫刻の名人と伝えられるも、実在の人物かどうかも分からない。
     甚五郎の活動範囲は、青森県八戸市の櫛引八幡宮から、福岡市の筥崎宮楼門まで、広範囲に分布している。活躍スパンも300年くらいある。織豊期から江戸前期には、権力者の廟(びょう)や高名な社寺の建造が盛んであった。
     どの分野でもそうであるように、活動期には優れた者が数多く輩出されるのは当然の現象である。彫刻の分野も例外ではないであろう。そうした背景の元に、価値を高められる左甚五郎の名を借りた作品が、各地に伝承されたものと考えられる。
     僕は本物かどうかということには、全くこだわっていない。自分が見て良いものは良いのである。実際、身の回りの小さい神社や寺院にも、透かし彫りの素晴らしい彫刻に遭遇することがよくあるのだ。
  1. 五大堂
    瑞巌寺が管理するお堂で、大同2年(807)の創建。坂上田村麻呂が東征のおり、
    毘沙門堂を建立したのが最初。天長5年(828)、慈覚大師円仁が延福禅寺(後の瑞巌寺)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に配置し、「東方陣三世」、「西方大威徳」、「南方軍多利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになった。


五大堂
  1. 現在の建物は1605年、伊達政宗が再建した。軒まわりの蟇股に、方位に従って十二支の彫刻が配されている。本尊は秘仏で33年に一度開帳される。次回の開帳は2005年の予定。

<鳴瀬町>

  1. 奥松島
    奥松島とは、松島湾の入口に浮かぶ宮戸島と、太平洋に臨む野蒜海岸一帯をいう。観光は大高森と呼ばれる山の上から展望する方法と、遊覧船に乗って、海岸美を見る方法とがある。大高森は県道から徒歩で山に登るのだが、何やら工事中で車が停められず、僕達は海から嵯峨溪を見ることにした。
  2. 嵯峨溪
    嵯峨溪は、宮戸島の東南端に突き出た先の部分、室浜から萱野崎までの2kmのエリアをいう。太平洋の荒波と風雨に浸食されてできた崖の連続である。松島湾の女性的な景観とは対照的に、男性的な自然美を堪能できる。嵯峨渓遊覧船に乗船して約40分、岩壁と海上に突き出た奇岩を、右に左にレンズを向けるのが忙しい。


    岩壁 1


    岩壁 2



    みさご島


    めがね島

  1. 今日の長い一日が終わった。さほどの疲れは感じなかった。野蒜海岸の広い砂浜で太平洋の冷気をいっぱいに吸い、かんぽの宿 松島に入った。

    <走行距離>425km

<太平洋から日本海>

  1. 三陸自動車道の鳴瀬奥松島ICから、山形自動車道の酒田ICまで横断する。途中の月山ICから湯殿山ICまでは、高速道路は未開通であるが、自動車専用道路であるから渋滞はない。
  2. 山々の広葉樹から降り注ぐ、若葉の緑が目に染みる。山形蔵王ICまで来ると視界が突然開けて、サクランボの栽培風景が展開した。あちこちにビニール屋根が白いモザイク模様を描いている。高速道路からも黄色いサクランボの実が確認できた。収穫の最盛期は6月20日ごろか。山形JCT(ジャンクション)の十字を中心にして、南北の長楕円形を描いたエリアが、佐藤錦の一大産地である。
  3. 佐藤錦を生み出したのは、山形県東根市(ひがしねし)の佐藤栄助である。栄助は慶応3年(1867)、味噌や醤油づくりを商売とする家の長男として生まれた。果樹づくりが好きで、自宅敷地にある畑にさくらんぼを栽培していた。明治40年(1907)、父が亡くなり事業に失敗したことで、栄助は醤油づくりをやめた。
  4. 広大な松林を買って開墾し、果樹を移植した。栄助はさくらんぼの栽培に本格的に取り組む。果実が固くて大きく色が鮮やかなナポレオン。そして果肉がやわらかくて、保存が難しい黄玉とを交配した。
  5. 栄助の友人、岡田東作が、昭和3年(1928)、このさくらんぼを「佐藤錦」と名付けて普及に乗り出した。二人の努力で、佐藤錦は全国各地でさくらんぼの主力品種として定着したのである。

<酒田>

  1. 山居倉庫
    米どころ庄内のシンボル山居倉庫は、明治26年(1893)に旧藩主酒井家によって建てられた、米保管倉庫である。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなった。白壁、土蔵づくり11棟からなる。夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、随所に大切な米を守るための工夫が見られる。現在も庄内米が大切に保管されている。


    山居倉庫

  1. その一画に倉庫の1棟を改装して作られた、庄内米歴史資料館がある。米に関する資料や農具などが保存展示されていて、如何に庄内米が重要生産物であったかが分かる。千石舟によって、下関を廻り江戸まで運ばれた。


    米の検査風景ジオラマ

  1. 海洋センター
    港町酒田の海の博物館である。館内には、海運・税関・航海・船舶・海洋開発・水産・歴史などの各部門が展示され、海に関する知識を広めることができる。かつて酒田港を賑わした千石船の模型や、船タンス等もあり、海の歴史を知ることができる。
  2. さかた海鮮市場
    海洋センターの隣に、平成15年5月にオープンした。1階は鮮魚店、2階は鮮魚を豊富に使う食事処。港を眺めながら海の幸を満喫しよう。ウッドデッキもあり、潮風を感じながら休憩もできる。
  3. 日和山公園
    酒田港を一望できるこの公園は、船頭たちが日和を確かめた丘である。港の繁栄の歴史を語る公園で、千石船の模型や宮野浦に建てられた木造六角灯台が保存されている。


    千石船

  1. 他に酒田港の米の積み出しで豪商と謳われた旧鐙屋、武家住宅の本間家旧本邸があるが、僕達は見学を割愛した。
  2. 酒田から鶴岡までは、田植えの終わった田園地帯を走る。遠望が利いて鳥海山・月山・朝日連峰・飯豊山の雪田が輝いている。
  3. 庄内平野は広い。その平野に、異様な構造物が限りなく建っている。山は良く見えるが、平面の展望は妨げられている。溶融亜鉛メッキの、防風防雪柵である。地吹雪による交通支障を防ぐためだ。生活優先であるから、これもやむを得ないことである。


    防風防雪柵

<鶴岡市>

  1. 鶴岡公園
    鶴岡公園は、酒井家が庄内藩主として約250年来居城としていた、鶴ヶ岡城跡である。堀や石垣、老杉が城の名残りである。文化財や史跡が集中するこの一帯は、地元出身の小説家、藤沢修平の小説に登場する「海坂藩」の舞台にもなっている。


    鶴ヶ岡城跡の堀

  1. 大寶館
    大寶館は大正天皇の即位を記念して建てられた。赤い屋根の白い洋館で、致道博物館にある旧西田川郡役所と共に美しい景観を奏でている。現在は郷土人物資料館として、この地で輩出した文学者の業績を紹介している。


    大寶館

  1. 庄内藩校致道館
    致道館は、文化2年(1805)庄内藩主酒井家の第九代忠徳(ただあり)によって創立した学問所。明治6年に閉校となるまでの間、地域の人材の育成に貢献してきた。この間に致道館によって培われた教育の伝統は、人づくりの教育を重んずる風土となって、多くの人材を生み出してきた。東北に現存する唯一の藩校建築物として、国指定の史跡となっている。


    藩校致道館

<羽黒町>

  1. 鶴岡を後にして羽黒町に向う。月山が次第に大きくなって道路の勾配も増していく。やがて山岳宗教のシンボルである大鳥居が見えてきた。


    大鳥居

  1. 羽黒山
    話の順序として、出羽三山から説明しよう。出羽三山とは、月山・羽黒山・湯殿山の総称であり、古くから山岳修験の山として知られている。開山は羽黒山に始まり、月山・湯殿山と続く。以後、羽黒派古修験道として全国に広がった。
  2. 出羽三山の中でも、羽黒山は山伏修行の中心的な山。ここに出羽三山神社三神合祭殿があり、月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した社殿がある。よって、この社殿をお参りすれば、羽黒山のみならず、月山と湯殿山にもお参りしたことになると言う僕らにとっては、都合のいい話なのである。
  3. 実際の話、月山は1,984mもあって、八合目への県道は6月中旬までは通れない。湯殿山も1,504mで、羽黒山が414mと一番低い。そんなわけで、僕達も羽黒山だけを参拝することにした。せめて表参道を山頂まで往復することにしよう。2,446段の石段を1時間程かけて登るのである。山頂まで有料道路も通っているが、あまり手抜きをするとご利益がないかもしれない。
  4. 登山口から、いったん坂を下って祓川を渡り、本格的な上り坂になる。最初に現れたのが爺杉(じじすぎ)である。樹齢1000年、幹の周囲10mの巨大な姿は他を圧倒している。注連縄(しめなわ)を幹に廻してあるが、信者でなくても思わずそうしたくなるような巨木である。


    道の奥に爺杉

  1. その先の、杉木立に囲まれて五重塔が建っている。古色蒼然として動じない佇まいに、畏敬の念が湧き起こる。今まで見たのと違って、随分と細かい細工がなされているような気がする。平将門の創建と伝えられているが、現在の塔は、約600年前に再建されたものである。高さ29mの木造で、国宝に指定されている。


    五重塔

  1. ここから一の坂が始まり、石段が山に向って延びている。よく整備されていて歩きやすい。杉の巨木がどこまでも続く。


    杉の巨木

  1. 二の坂の急坂を登りきった所に茶屋がある。ちから餅を食べている参拝客が何人かいた。汗が引いたら、また頑張るのだ。僕達は休まずに一気に頂上を目指した。下ってくる人の多くは、頂上まで、バスで行った団体客である。
  2. 三の坂を登って頂上の気配を感じた所に、齋館が現れた。参拝客の宿泊所、食事処として利用されている。


    齋館

  1. そして境内が平らになって、三神合祭殿である。月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した大社殿。屋根が厚みのある萱葺、内部は総漆塗である。その右隣に参集殿、その前に鐘楼堂があって、口径1.68mの大鐘が吊るされている。


    三神合祭殿


    大鐘と参集殿

  1. 更にその右には、霊祭殿が建っている。出羽三山は先祖の霊魂を祀る山としても信仰を集め、現在も祖霊の鎮魂を求めて来山する人々が多い。中には白装束の人たちが大勢座していた。


    霊祭殿

  1. 二日目の見学も無事終わった。少し忙しい思いをしたが、ほぼ満足できるもであった。元来た道を下って、表参道まで30分。車に乗って窓を開けて走れば、山の冷気で汗も引いた。羽黒山有料道路の料金所手前で道は右に折れ、少し行った所が今宵の宿、休暇村 羽黒である。

    <走行距離>297km

<休暇村>

  1. 三日目の朝、小鳥の囀りで目が覚めた。部屋の窓から月山がよく見える。朝食まで十分に時間があるので散策に出かけた。自然林に抱かれて、さまざまな野鳥や植物を観察できる。
  2. 僕達はどちらかと言うと休暇村を利用することが多い。国立公園等のロケーションが気に入っているからである。自然の豊な環境は、景色と言い、動植物との触れ合いといい、何物にも代えがたい癒しの効果が期待できる。休暇村羽黒も大いに気に入った。ここは磐梯朝日国立公園の最北端に位置している。


    休暇村 羽黒

  1. ブナやミズナラの森に入ると、数多くの野鳥の囀が迎えてくれる。妻はコシアブラ・サンショウ・ワラビ・フキなどを目ざとく見つけるが、まだ朝露に濡れていて道から外れることが出来ず残念がることしきりである。
  2. 近くの二夜の池(ふたよのいけ)には、ミツガシワが群生している。どこかしら盛んに「クヮ、クヮ」と奇妙な鳴き声が辺りに木魂していた。僕は蛙だろうと言うのだが、妻は池ではない、上の方ですると言うのである。このときは分からないまま疑問を残して、月山ビジターセンターに向った。とはいっても目と鼻の先だ。時間はまだ7時にもなっていない。当然戸は閉まっている。開館は8時30分である。
  3. 未練がましく外からガラス窓を透して中を覗いていると、青年が出勤してきた。僕達の様子を見て哀れみを感じたらしい。時間になるまでは照明を点灯できないが、見てもいいですよと言ってくれた。青年は館内の清掃を始めたので、邪魔しないように場所を変えて見学を終えた。
  4. 礼を述べて玄関に出ると、そこにスコープが三脚にセットされていた。動かさないように覗いて驚いた。アオサギだッ!親鳥がさかんに雛の口に餌を移している。唐松の木のてっぺん付近だ。巣は木の枝で作っている。どうやら雛の巣立ちも近そうだ。
  5. これで先ほどの疑問が解けた。「クヮ、クヮ」の正体はこれだったのだ。スコープから目を離しても、肉眼で巣の場所は確認できた。唐松林に三つ数えられた。早朝の散策は、大収穫を得て休暇村に戻った。朝食のバイキングの旨さが倍加したのは言うまでも無い。

    <参照> 月山ビジターセンター

<米沢市>

  1. 上杉神社
    一般国道をしばらく走り、
    西川ICから山形上山ICまで高速道、そして再び一般道で米沢に着いた。最後の見学地、上杉神社である。少々蒸し暑くなっていた。
  2. 米沢は上杉15万石の城下町である。観光の中心地は松が岬公園。米沢城の跡地である。ここに上杉神社がある。
  3. 上杉謙信は、越後守護代長尾為景の末子として春日山城に生まれ、禅寺に育った。父の死後、上杉家の名称を譲られ、越後・関東の平定につとめた。武田信玄と川中島で戦い名将とうたわれたが、天正6年(1578)、越後山城中で急死した。
  4. 謙信の跡を継いだ景勝は、慶長3年(1598)、秀吉により越後から会津に転封さた。さらに関ヶ原の戦いで西軍に加勢したことにより、慶長6年(1601)、減封されて米沢に移転した。初代米沢藩主上杉景勝が誕生する。このとき謙信の遺骸を米沢城に移葬した。以来、米沢は上杉氏の居城として幕末を迎える。
  5. 境内に入ると、随分人が多かった。今日は日曜日である。観光ボランティアの男性が、石碑の碑文を解説していた。テレビでは紹介していないが、と断って解説しているところだった。解説が終って、6,7人のグループと分かれた後、一休みすればいいのに、ボランティア氏は3,4人の若い女性を誘っている。や〜元気げんき。


    上杉神社

  1. 謙信とともに上杉神社に祀られているのが、第9代藩主の上杉鷹山(1751〜1822)である。三代綱勝の急逝により15万石に減封され、藩財政が逼迫した中で、高鍋藩(宮崎県)から養子に迎えられた。
  2. 17歳で藩主となり、自ら一汁一菜を実行し改革に着手した。老臣たちの新領主に対する反感を克服し、武士といえども刀を鍬に替えて国を養うことを自ら実践した。農民の援助、開拓、水利事業などを行い、勤倹を旨とし、35歳で治広公に家督をゆずってからも、生涯藩政の安定に心をくだいた名君であった。
  3. 中学一年のときに、国語の先生から教わった言葉がある。

    成せばなる
    成さねばならぬ 何事も
    成らぬは人の なさぬなりけり


    そのときには、鷹山の名言とは知らなかった。ここ米沢では名君の誉れ高い人物として語り継がれている。


    上杉鷹山像
  1. 今回の見学はほぼ終わった。ひたすら福島県の桧原湖めざして南下する。
  2. 白布温泉のそば処で腹ごしらえ。ここは湯治場として名の知れたところ。70代とおぼしきお婆さんが、尋常小学校の生徒よろしく、机を前にして注文をとっていた。結構客が多い。壁にいくつかの写真が掲げてあって、親猿の背に白い小猿が乗っている写真があった。なんでも、山形ー福島県境の吾妻山中に10頭ほどの白猿がいるらしい。
  3. 白布温泉を後にして車を走らせていると、前方に乗用車が停まっている。何だろうと思ったら一頭の猿が闊歩している。白猿ではなかったが一応カメラに収めた。


    普通の猿
  1. 最上川の水源は西吾妻山(2,035m)。西吾妻スカイバレーの道路沿いに、「最上川源流」の標柱が立っている。深い谷の向こうに、二筋の滝が見える。落差約90mの赤滝と、約80mの黒滝である。


    最上川源流



赤滝


黒滝

  1. 白布峠が県境である。福島県側の展望は見応えがある。噴火による堰止湖の桧原湖が細長く延びている。周囲は緑一色のビロードを思わせる。その上に噴火で一大景勝地を形成した、磐梯山が座している。
  2. 峠から下ると早稲沢の集落である。ここから吾妻連峰の山道を少し入るとフキの群落がある筈だった。しかし43年前に、ここを訪れたときの記憶は、その場所を教えてはくれなかった。やむを得ず別の場所で、イラクサに引っ掻かれながらも、一応の収穫はあったのだが。
  3. 猪苗代磐梯高原ICから高速道路に入った。白河ICあたりで雨が降りだした。この雨は局地的なものではなく、群馬県まで続いたから、僕にも梅雨入りだろうと理解できた。案の定、帰宅後テレビのニュースはそう報じたのである。滑り込みセーフ、今回の旅行は実にラッキーだった。
    <走行距離>469km

<全走行距離>1,191km

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