このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ここへ行ってきました 

(目次に戻る)

17.4.12〜15京都

 今回はマイカーで訪れた。当初、高速バスで夜間走行し、現地で定期観光バスを利用する方法も考えたが、自前のコース作りを優先した。結論を先にいうと、これが正解だった。インターネットで駐車場を下調べをして、カーナビにポイントした。結果的に数多くの寺社を効率的に廻れたのである。

4月12日

 前夜は19:00に就寝し、日が改まって01:00に起床。北関東自動車道-前橋南ICのゲートインが01:30だった。ETCの深夜割引30%が有効であるから、京都までの通常料金10,650円は、7,450円に減る。
 途中、3回程短い仮眠を取って大津SAでトイレ・洗顔・食事をして京都南ICを下り最初に向ったのが、洛西の嵯峨野だった。

<渡月橋>

  1. 最初に洛西を選んだのには理由がある。写真を撮るのに太陽を背にすることができるからである。実際には雨雲が張っていてお天道様は出なかった。
  2. 桜はどこも満開だった。別にそのことを旅の主目的にしたわけではなかっただけに、ラッキーという他はない。いつもの年だったら、こんなわけにはいくまい。心配していた駐車場はガラガラだった。朝早いからだろうか。
  3. 桂川に架かる嵐山のシンボル渡月橋。この橋上を歩く人もまばらだった。嵐山は、黒木の森に山桜が艶やかに映えている。橋の上流側には堰があって、水面が鏡のように対岸の景色を映している。
  4. 平安時代には、橋の名前は法輪寺への参詣路として使われていたため「法輪寺橋」と呼ばれていた。「渡月橋」と名付けられたのはその後のこと。これは橋の中央に立つと川下の東より月が出て、橋の真上を渡ってやがて西の嵐山の峰に隠れる様を、亀山天皇が「くまなき月の渡るに似たり」と言われたことに因んでいる。


    左岸から渡月橋と嵐山


    桜と若葉と黒木の森



    舟遊びの入江


    舟遊びの人々

  1. 嵐山では渡月橋付近を起点とした人力車が走っている。活気あふれる若いお兄さんが、客を乗せて軽やかに走って行く。


これより出発

<法輪寺>

  1. 渡月橋を渡って左へ曲がり、しばらく行って石段を登った嵐山(375m)の中腹に法輪寺がある。奈良時代に行基が開いた古刹。境内からは風光明媚な渡月橋一帯が見渡せる。


法輪寺境内

  1. この境内に面白いものがあった。エジソンと、ヘルツのレリーフである。古式蒼然とした場所に、外国人の像とはいかにもミスマッチな感じがする。坂道の反対側には、「電気・電信を祀る神社」があって、これを電電宮といい、なおさら妙な感じがした。
  2. エジソンについては説明を要しないが、ヘルツについては少し説明が必要かもしれない。彼はドイツ人のハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツという。電磁波の存在を実証した物理学者である。偉大なる彼の実績にちなんで、電気や電波の周波数の単位にHz(ヘルツ)を採用したのである。いまや電気機具・携帯電話・パソコンのCPU等、Hzを抜きにしては語れない。
  3. 電電宮に祀られている電電明神は、古来、明星すなわち金星を起源とする電電陰陽融合光源の徳を祖とした鎮守だそうだ。元治元年(1864)の禁門の変の際に焼失したが、昭和31年(1956)に当時の関西電力(株)社長、太田垣士郎を始め、電気・電波に関係する研究先覚者や事業者・京都のラジオ商業組合の協賛により電電宮の再建が行われ、それ以来関係者の崇敬を集めているという。
  4. この年、僕は工業高校の電気科を卒業して、社会人となり、蒸気機関車で信州から、福島県まで就職の旅をしたから感慨一入である。電気ならびに電子関係事業の発展と無事故安全を祈願する電電宮・・・僕には日本の科学技術発展の象徴を発見した想いであった。

<天龍寺>

  1. 嵯峨野には、世界遺産の一つ天龍寺がある。当初から観光目的の一つに挙げていた。渡月橋から北に歩いて直ぐである。足利尊氏が後醍醐天皇を供養するために建立した臨済宗天龍寺派の総本山。尊氏は、この寺の造営資金獲得のために元との貿易を再開し、幕府公認の貿易船「天龍寺船」を運航させたといわれている。大方丈前の嵐山・亀山の借景が実に見事。


    諸堂参拝入口

  1. 室町時代には京都五山の第一位として広大な寺領を持ち勢力を振るっていたが、度々の兵火に興亡を繰り返した。現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。
  2. ここにも面白いものを発見した。実に表情豊な羅漢様の群像である。嵐山羅漢と呼ばれるもので、他に類を見ない様々な豊な表情と姿態で思わず見惚れてしまった。ちなみに、「羅漢」とは釈尊の弟子で崇高な修行者、「悟りを得た人」を意味し、安心立命と守護の象徴として有縁無縁の菩提を弔う為に建立されるのだそうだ。


    羅漢様

<野宮神社>

  1. 天龍寺の門前を北に歩むと、野宮(ののみや)神社の標識がある。その細い道を左へ曲がると、もうそこは手入れの行き届いた竹林の小道だ。竹穂垣の上部に枝葉が鬱蒼と茂って、静寂な世界に僕等を導くようだ。間もなくして小さな社に出くわす。ひっそりとして、若いカップルが何やら祈願している。野宮神社には縁結びの神様が祀られている。


竹林の小道

  1. JR嵯峨野線の踏切を渡ると、T 字路になっている。散策を続けたければ左へ曲がるが、僕達は次を急ぎ右へ廻って駐車場に戻った。

<仁和寺>

  1. 仁和寺を訪れると最初に目に入るのがこの二王門。道路から一段高いところに建てられていて、覆い被さるように見る者を圧倒する。左右に金剛力士を安置することから、二王門と呼ばれている。下から見上げるので威圧感がある。桜はまさに満開。


    二王門


    小雨も乙



金堂(国宝)

  1. 「御室の桜」は中門の左手一帯に今はつぼみ。高さ2m足らずの里桜で、花の盛りは遅く、4月下旬に咲き匂う筈だ。名前の由来は、仁和寺が旧御室御所であるからか・・・。

<龍安寺>

  1. 山門をくぐると左に開けた広い池、鏡容池がある。周りに種々の花木が植えられ桜が今さかり。アヒルが身じろぎもせず、浮かんでいた。


    鏡容池

  1. 方丈の南側にある石庭が有名。油土塀に囲まれた白砂の庭に、大小15個の石が配されている。かなりの人が縁に座っていて、何を想っているのか身じろぎもせず眺めている。


    石庭1


    石庭2

<金閣寺(鹿苑寺)>

  1. 衣笠山を借景に、さん然と輝やいている。池泉回遊式庭園は室町時代を代表する名園として有名。足利三代将軍義満が「北山殿」と呼ぶ別邸を造って隠棲した。鏡湖池に望む三層の楼閣である。義満の死後、その子義持により義満の法号にちなんで鹿苑寺とした。


    金閣

  1. 昭和25年(1950)に一人の学僧によって放火され焼失し、昭和30年に再建された。昭和62年には、金箔が全面張り替えられ、きらびやかな姿を蘇らせた。その模様は、NHKプロジェクトXで放映された。

<下鴨神社>

  1. 賀茂川と高野川が合流する糺(ただす)の森に、京都で最も古い下鴨神社がある。国宝や重要文化財が多く世界遺産に登録されている。


    楼門(重要文化財)


    幣殿(重要文化財)
  1. 五穀豊穣の神として、また平安遷都後の王城鎮守の神として崇られ、伊勢神宮に準じた格式を持っている。
  2. 参道を上りつめると、東山の音羽山を背に仁王門、西門、三重塔(いずれも重要文化財)が迎えてくれる。春の桜と新緑、秋の紅葉と四季折々の美しさを背景にした舞台造りの本堂(国宝)は、断崖の上にせりだし、市街地の眺望も良い。ほかに12堂塔が建ちならぶ。

<銀閣寺(慈照寺)>

  1. 足利義政が金閣寺にならって建てた山荘。義政死後に寺に改めた。正しくは慈照寺(じしょうじ)という。国宝の観音殿(銀閣)東求堂は、東山文化を象徴する建物。庭も必見、世界遺産である。
  2. 銀閣は、金閣を見た後だとみすぼらしい感じがする。白砂の砂盛り向月台(こうげつだい)と、波紋を表現した銀沙灘(ぎんしゃだん)とが特徴的。訪れる人々は、無機質なこの光景にしばし佇むのである。


    向月台と銀沙灘

  1. 洛東、東山の峰々を借景とした庭園が素晴らしい。錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園、山腹へとつづく庭は枯山水式庭園と、上下二段に分かれて異なった風情を楽しませてくれる。


    東山の山腹から


    苔が輝いている

  1. 金閣寺の北山文化の華やかさに比べて、ここ銀閣寺は東山文化の「わび・さび」の世界を漂わせている。
  2. 銀閣寺の門前には、琵琶湖疏水の支流が流れている。桜並木は満開で疏水沿いの道は、散策する人が多い。この道は「哲学の道」という変わった名前だが、哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などがよく歩き、思索にふけったことから命名されたといわれている。


    哲学の道

<南禅寺>

  1. 南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山。東山山麓に広大な伽藍を広げる大寺院である。北方に禅林寺があるところから、寺名を南禅寺とされた。鎌倉時代、亀山天皇(のち法皇)が自らの離宮を禅寺となしたことに始まる。正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創した。山門は知恩院、東本願寺大師堂門とともに京都三大門の一つで重文に指定されている。


    三門


    法堂



    本坊
  1. この寺は、室町時代に入ると京都・鎌倉五山のさらに上位に位置づけられることで、わが国の臨済系禅宗寺院の頂点に君臨した。南禅寺の住持には五山を代表する名僧や中国からの渡来僧が選任され、彼らを中心として禅宗文化が都に花開いたことも特筆される。
  2. ここに異色の瑠璃燈がある。南禅院の御霊屋に取り付けられているもので、南禅院の大修理に伴い、亀山法皇像の御真前に掲げられた天蓋を取り外して調査した結果、その実態が判明した。
  3. 南禅寺の古文書によると、この瑠璃燈は今から300年前、亀山法皇400年忌の南禅院再建時に、天龍寺から寄進されたことが記録に残っている。西ヨーロッパで生まれたビーズ工芸の源流であるシャンデリアの技術の粋が集約されており、15万個のガラスビーズで作られていることが判明したのである。
  4. ここには水路閣なる土木建造物もある。南禅寺境内を横切る、延長約93mのレンガ造りのアーチ橋。明治23年(1890)に完成した琵琶湖疎水の一部である。


    水路閣


    水路閣の上

  1. また、南禅寺の直ぐ近くの道路沿いには、インクラインのレールや台車が静態保存されている。「インクライン」とは、水路の亘長600mの間に約33mの落差が生じるため、傾斜面に軌道を敷設し、大津に行き来する船を艇架台に乗せて運航させたのである。
  2. いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工された。土木技術史上、極めて貴重なことから、平成8年(1996)に近代化遺産として国の史跡に指定されている。

<清水寺>

  1. 清水寺では、カーナビが混乱した。コースの青線がやたらと変る。幾度か振り回された後、やっと小さな私設パーキングに着いた。後で分かったことだが、東大路通に大きな駐車場があった。
  2. 坂上田村麻呂が延鎮に堂宇を寄進し建立した。京都観光の中心ともなる名刹。音羽山中腹に三重塔、清水の舞台で知られる本堂、奥の院などが壮大な伽藍を形作る。


    仁王門


    本堂と舞台

  1. 「清水(きよみず)さん」で親しまれてきた観音信仰の霊場で、西国三十三所めぐりの第16番の礼所にもなっている。本堂は「清水の舞台から飛びおりたつもりで・・・」という言葉でも有名な舞台造り。巨大な柱の組合せに支えられて断崖の上に建っており、上から見る恐さよりも下から見上げた方が威圧感がある。


    三重塔遠景


    西門(さいもん)

  1. 参拝には、京の坂道として知られている石段と石畳の二年坂・三年坂を上って清水参道へ。ことに高台寺から清水寺に至る道は、骨董品、清水焼、竹細工、甘党などの店が並んでいて賑やかだ。修学旅行の生達達が多い。石畳の道、古いのれんを掲げた骨董品の店、茶店、見え隠れする八坂の塔。清水の舞台からは眼下に京都の街並みを見下ろすことができる。


    門前の賑わい

  1. 初日の見学を終えて、洛西の公共の宿、ホテル京都エミナースにチェックインした。天然温泉の露天風呂が楽しめる。
    ホテル京都エミナース

<走行距離>600km

4月13日

<延暦寺>

  1. 延暦寺は、伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山。多くの高僧を輩出し、仏教界に与えた影響は大きい。東塔、西塔、横川の三ブロックからなり、比叡山中に数百の堂や伽藍が点在する。
  2. 空海の開いた教王護国寺(東寺)とともに、王城鎮護の寺として勢力を延ばし、平安末期には3,000坊を数える大寺になった。白河法皇が、「わが意のままにならぬもの」として、延暦寺の山法師をあげたほど、鎌倉時代には、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮らを輩出した。やがて彼らは新しい宗派の宗祖となり、今日の仏教を体系づけている。
  3. 延暦寺一山の本堂は、東塔にある国宝の根本中堂である。内陣が、参拝者のいる中陣・外陣より低い位置にあり、御本尊や法灯が参拝者の目の高さにきているのは、仏も人もひとつという仏教の「仏凡一如」の考えを表しているとのこと。


    根本中堂


    根本中堂前

  1. 最澄は785年に比叡山に入山した。根本中堂には、最澄が自ら彫り上げた薬師如来像が本尊として安置された。そして本尊の前に火を灯した。これが有名な「不滅の法灯」の始まりである。788年のことである。以来1,200年後の今日まで、その灯は灯り続けている。
  2. とは言いながら、実は自らの灯は途絶えたことがあった。南北朝、戦国の政権争奪戦に加担していった寺の勢力は、やがて天下統一をめざす織田信長によって封じ込まれることになった。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで、西塔の瑠璃堂を残してすべて焼失し、多くの坊さんが殺された。
  3. 幸いそれ以前に、不滅の法灯は天台宗の寺院に分灯されていた。860年には山形県の立石寺にも分灯されていて健在であった。1642年の根本中堂再建の際に、法灯は無事里帰りしたのである。現在、本尊の前に大きな灯籠が三つ置かれている。灯籠の中には菜種油が入った皿が置かれ、灯心を浸す油が絶えないよう僧らが守り続けているという。
  4. ちなみに立石寺は山寺とも呼ばれ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という松尾芭蕉の句で知られている。その立石寺も、戦国時代は戦乱のために焼失するが、あらたてめて延暦寺の法灯を分けてもらい、引き続き法灯を守り続けている。
  5. これらの分灯は、現代風に言えば、危機管理システムの手法ともいえる。その「不滅の法灯」が今年、2005年4月から2007年4月まで全国を巡る。来年1月に開宗1200年を迎えるのを記念してのことだ。
  6. 4月19日に延暦寺で分灯式があり、その後、近畿や北陸、信越など、天台宗の全国24教区をリレーする。各教区では1か月間法灯を守り、法要を営んだり、托鉢(たくはつ)で利用したりするという。
  7. 参道入口に伝教大師伝なる絵看板が並んでいる。その(13)にこんなのがあった。「大師とともに平安初期、仏教界の二大名星と称される弘法大師(774-809)は、大師と同じくの延暦23年(804)に入唐留学された。両師の交際は、大同4年(809)に弘法大師が比叡山に登ってこられたのに始まるという。その後しばらく親密な交際が続けられたが、弘法大師の真言密教至上主義は伝教大師の法華一乗の立場とは、思想的にあい容れないものであった。」・・・これを見て僕は、高僧たる人物にもいやに泥臭い一面を見た思いで、むしろほっとしたのであった。


    「一隅を照らそう」の碑

    西塔の釈迦堂



    奥比叡ドライブウェイ/琵琶湖

  1. 田の谷峠ゲートから仰木ゲートまで、途中にも無人ゲートがある。入券スロットにチケットを入れると、新しいチケットが出てきて、結局は全区間係員の姿は見なかった。なかなか巧く出来ているもなものだなと、僕は感心してしまった。

<大原三千院>

  1. 奥比叡ドライブウェイから琵琶湖側に降り、琵琶湖大橋のアクセスポイントから再び西進して峠を越し大原三千院に入った。三千院への登り口に駐車場がある。呂川に沿った参道には、しば漬け屋や雑貨の店が軒を連ねている。参道がつきる辺りに魚山橋がある。左に曲がると門前、格調高い石塀がある。そして御殿門。
  2. 落人が世をはかなんで隠れ住んだ大原の地に、比叡山を降りた僧たちが修行の場を求めたのが三千院のルーツ。寺の起源は 延暦7年(788)、最澄が比叡山延暦寺の東塔に一宇を建てたことによる。応仁の乱の後、ここ大原に移転した。木立に包まれた本堂・往生極楽院は、穏やかな佇まいを見せている。有清園、聚碧園(しゅうへきえん)と呼ぶ2つの庭園も見事である。


    客殿と聚碧園


    往生極楽院
  1. 庭園を見ながら渡り廊下を歩むと、写経ができる円融房があり、何人かの人たちが筆を動かしていた。


    金色不動堂

<鞍馬寺>

  1. 奈良時代に鑑真和上の高弟・鑑禎が毘沙門天を祀り開山。霊宝殿には国宝の毘沙門天像を安置している。源義経が牛若丸と呼ばれた少年期を過ごした寺としても有名。
  2. 仁王門が参道の入口で、多くの人は急坂をケーブルに乗って一気に高度を稼ぐ。僕達はタウンシューズからスニーカーに履き替えて、九十九折(つづらおり)参道を登った。鞍馬の火祭で知られる由岐神社や、義経ゆかりの史跡があるからである。


    仁王門


    由岐神社



    義経供養塔


    本殿金堂
  1. 牛若丸が鞍馬寺に入ったのは7歳。父、義朝の祈祷師であった東光坊の蓮忍(れんにん)に預けられた。蓮忍は牛若に剣術・兵法などを教え、後に伝説化されて鞍馬天狗となっている。一方、謡曲「鞍馬天狗」では、現代風に脚色していて、「自分は大天狗である。平家討滅の望みが達せられるように兵法を授けよう」という。その武芸を教えた場所が僧正ガ谷で、老杉高く聳え、巨根、地を這って昼なお暗く神秘性を漂わせている。


    義経公背比石


    僧正ガ谷不動堂
  1. この辺り「木の根道」と呼ばれている。木の根が絡まって露出し、痛々しい限りである。あちこちの登山道で見かける、いわゆるオーバーユースによるものかと思ったが、そうではないらしい。
  2. 立てられた説明板を見るとこう書いてある。「このあたりの地質は、主に砂岩であるが、岩脉(がんみゃく)が貫入し、その熱によって砂岩が硬化し、風化しにくくなっている。そのため、此所に芽生えた杉の根が地下へのびることができず、地表に近いところに根を張ってこの珍しい景観をつくっている。・・・」勿論、そういう地質だからこそ参拝者はいたわって歩かなければならないのだろう。


    義経堂


    木の根道



    奥の院魔王殿

  1. 奥の院を巡るには、叡山電鉄鞍馬線を利用するのが効率的だ。鞍馬寺から義経ゆかりのコースを訪ねて、貴船神社、あるいはその逆に周遊する参拝客が多い。
  2. 昨日は京都市内を中心に観光した。今日は郊外の山寺を巡った。明日は帰途の途中で見るべきものがある。
  3. 宿へ入る前に、土産物と夕食を繁華街の見物を兼ねて行なうことにした。大丸デパートがその場所だ。四条の池坊短大の向かいに立体駐車場がある。繁華街の町家やデパートで買い物をすると、無料駐車券が貰える。京都の豆腐をメーンにした会席膳は美味しかった。頃よい時間に洛北の公共の宿、アピカルイン京都にチェックイン。
    京都市駐車場案内
    アピカルイン京都

<走行距離>109km

4月14日

<おまけの旅>

今日は気楽なおまけの旅である。

-馬籠宿-

  1. 名神から中央自動車道の上り線、神坂PAに車をとめる。路線バス停の階段を上ると、村道に出る。案内板にしたがって歩を進めると右にカーブした所に見晴らしの利くポイントがある。そこから小さな沢の向うに古民家の集落が台地上に連なっている。馬籠宿である。
  2. 木曾街道の南の端に当たる。ついこの間までは長野県の山口村だった。2005.2.13日に、岐阜県中津川市に越県合併した。長野県知事は判を押さなかったが、議員提案で、村民の悲願は叶って中津川市民になったのである。
  3. ここで、意外にも京都の余韻ともいうべくものに再会した。大原三千院ゆかりの阿弥陀堂である。


    三千院ゆかりの阿弥陀堂



    坂の家-そば処


    藤村記念館



    馬籠脇本陣資料館


    島崎藤村の墓

-諏訪市-

  1. 長野県諏訪市、ここで僕の兄弟会があった。諏訪湖のすぐほとり、高島城も近い、桜はまだだった。信州の風はまだ冷たかった。その代わりに温泉がある。高層の展望風呂から諏訪湖を眺めているうちに、疲れはすっかり流れ落ちた。


    諏訪市-高島城

<走行距離>328km

4月15日

-八ヶ岳-

  1. 諏訪を離れて八ヶ岳の裾野を走った。八ヶ岳と南アルプスの雄姿を眺めての走行だ。車がほとんど通らない高原の道は快適だった。長野県の南牧村、野辺山原、JR小海線の最高地点がある辺り、八ヶ岳を左に見て平坦な国道141号を北に走る。空はあくまでも青く、稜線の雪が眩しく陽光を反射する。
  2. しばらくして台地から急激に標高を落とし、山あいは狭まくなる。国道から東に分かれ、「ぶどう峠」に向かう。峠を越すと高い山の上から見下ろすように、群馬県側は深い谷が褶曲した山陰に消えている。


    八ヶ岳
  1. ぶどう峠とは、武州への道のことであるが、日航機が墜落した群馬県の上野村を通過し、神流町に入って間もなく再び山を越えて、埼玉県の秩父市に行く道だ。
  2. 僕等は上野村から新しく開通した塩ノ沢トンネル経由、下仁田ICから上信越自動車道を通って帰宅した。

<走行距離>176km

(目次に戻る)   

 

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください