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 ここへ行ってきました 

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17.8.23〜25高岡〜能登〜永平寺〜郡上八幡〜下呂〜高山

 今回の旅コースは、勝手知ったる所とまではいかないまでも、かなり土地鑑のようなものがあるのは事実だった。天候や道路事情によって、臨機応変にコースを変更するだけのデータは頭の中にインプットされている。上信越や北陸は何度か走っていて、サービスエリアによるたびにパンフレットを貰うことを趣味にしているだけに、ペーパー情報が豊富にあったからだ。

8月23日

 旅行の1日目は朝早いに限る。途中で仮眠さえ取ればいいので、行動時間を長く取れる。見学箇所が沢山組めて宿を決めるのも有利である。しかもETCの深夜割引30%を利用しない手はないではないか。
 そんな訳で、0:10に家を出た。前橋南ICをゲートイン、北陸自動車道-富山ICの次の小杉ICで降り、最短ルートを通って高岡市に入った。

<高岡市>

  1. 高岡市といえば、梵鐘を造っている街だと連想する。奈良時代には伏木地区に国府が置かれ、江戸初期に加賀藩二代藩主-前田利長が城を築いたというのが予備知識である。
  2. 先ずは、国宝の瑞龍寺を訪ねることにした。家を出て途中で4回ほど仮眠をとったが、瑞龍寺に着いたのは6時である。寺はまだ開門していなかった。朝の散歩をしている人が多い。僕等は寺の周囲を散策し、ウバメガシの生垣の隙間から境内の伽藍を垣間見た。利長の菩提寺として、三代藩主利常が建立した。開門前の建造物は粛然とした佇まいを見せている。


    瑞龍寺門前

  1. この寺から870mほど離れているところに、前田利長の墓所がある。この間を結ぶ参道を八丁道(はっちょうみち)と呼ぶ。石畳の両側に石灯籠が配されて、まだ幼木とも言える黒松が植えられている。瑞龍寺の門前で僕等の方から話し掛けた散歩中の女性は、頼まれもしないのに、とうとうガイド役を引き受けてくれる形となった。松が整然と選定されているのを褒めると、シルバーセンターの人達が奉仕をしてくれるのだという。


    八丁道

    前田利長公之像



前田利長墓所
  1. 城下町といっても、皮肉なことに一国一城令で完成後間もなく廃城となってしまった。その跡は古城公園となっている。路面電車が走る高岡駅前通りを北東に向かい、千保川の鳳鳴橋を渡ると鋳物の町、金屋町(かなやまち)である。利長が城下町高岡の興隆繁栄を図る政策の一つとして、当時の砺波郡西部の金屋村より鋳物師を招き、鋳物工場をこの金屋町に開かせた。いわゆる高岡銅器の発祥の地である。今も銅器づくりの職人が多く住み、千本格子の古い町並みと石畳が伝統ある歴史を物語っている。


    金屋町の街並み
  1. 伏木と中伏木を結ぶ如意の渡(にょいのわたし)。ここを渡ったという義経と弁慶の銅像が、小矢部川に面した公園に立つ。JR氷見線が富山湾に出ようとする辺りに伏木駅があるすぐ南、小矢部川の岸辺に渡し船の乗り場があって、その脇に立っている。兄の頼朝に追われて奥州へと落ち延びる途中、一行はこの渡船場にさしかかった。源義経が渡し守に正体を見破られそうになったとき、弁慶が義経を扇子で打ち据えて疑いをかわしたと伝えられている。この地は、北前船が往来し江戸時代に繁栄した歴史を刻んでいる。


    義経と弁慶の銅像
  1. 雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、運が良ければ富山湾の向うに立山連峰の雄姿が見える景勝の地である。 「雨晴」の名前の由来は、源義経が奥州に落ちのびる時、岩かげ(義経岩)に宿り、にわか雨を晴らしたという伝説による。


    雨晴海岸

<奥能登へのアプローチ>

  1. 今回は能登島町の訪問は割愛した。氷見から七尾へと灘浦海岸沿いにR160を北上する。七尾市の中心街を外れると、R249の七尾田鶴浜バイパスに乗り入れる。こうなると車の走行はスムーズだ。高田ICから能越自動車道、徳田大津JCTで能登道路に合流、目指すは曽々木海岸である。
  2. 山襞の重なる山岳道路は、見渡す限り落葉樹の樹林帯が続いている。此木ICまで兎に角ひた走る。ここから先は能登広域農道の珠洲道路になるが、信号は少なく交通量も極めて少ない。能登空港から柳田を経由して尚も複雑な山岳部を走り北上すると、次第に下り勾配となり、田園地帯に変わって、やがて海が見えた。海岸沿いの道を右に曲がって少し走ると、曽々木海岸である。

<曽々木海岸>

  1. 曽々木海岸のシンボルは窓岩。海岸線に突き出した岩に人が通れるほどの穴が開いていて、窓のように見えるのでこの名が付いた。窓岩ポケットパークという駐車場がある。


    窓岩

  1. 珠洲市の境界まで約2kmにわたって山が海に迫る辺り、節理に沿って海食された文様を見せる断崖や岩礁が続く。

<白米千枚田>

  1. 曽々木海岸から海岸線に沿って南下すると、白米(しろよね)の千枚田に着く。国道249号沿いの海岸に接して、道の駅・千枚田ポケットパークがある。道を挟んで山側と海側の両方に棚田が広がっている。どちらも美しいが、見下ろす海側が写真写りは良い。田の枚数は2,000枚以上というが、国指定部分は1,004枚もあるという。小さい物では3畳ほどしかないそうだ。棚田に機械が入らないため、農作業はすべて地元住民とボランティアにより維持されているという。
  2. 2001年に国の名勝に指定された。ここは曽々木海岸に比べて、それなりに賑やかだった。


    千枚田中央部


    千枚田ポケットパーク

<輪島>

  1. 市街地東側にキリコ会館がある。キリコとは,切子燈籠(きりことうろう)からきている。能登地方の祭りに使われ、神輿の前衛・後衛のお供をする奉灯の類である。夜道を照らす明かりの役目を果たす。
  2. 折りしも22〜25日の期間は、輪島大祭が行なわれていて、今日はその中日であった。入館受付嬢の話では、お祭りでキリコが出ていて、館内は寂しくなっているとの話に、期待せずに入口に向かった。ところが、突如目の前の大広間に高天井を突き抜かんばかりのキリコが、何本も鎮座していたのだ。度肝を抜かれたという表現は、まさにここで使うべき言葉であると思った。


    巨大なキリコ

  1. 落ち着いて眺めれば、漆や金箔で彩られた、大小さまざまのキリコが展示されている。高さ15m程か、重さも相当ありそうだ。これでは神輿と主客転倒ではないかと思ってしまった。
  2. キリコ会館と同じ並びに、稲忠漆芸会館がある。輪島塗を始め、県内の名産品を置いた物産館である。館内には、輪島塗の製造工程を順番に眺められる工房もあり、実際の作業風景とパネルによって見学できる。
  3. R249を市街の中心地に入ると、輪島川の橋の手前に輪島漆器会館がある。一階は市内の漆器専門店が出店し、二階は資料館になっている。国の重要有形民俗文化財の指定を受けた作品や、輪島塗に使われる数々の道具が展示されている。ロビーには映像コーナーがあって、ビデオによって輪島漆器の知識が得られるようになっている。展示室と併せて見学すると勉強になる。
  4. 輪島塗が発達した背景には、漆器の原材料である、ケヤキ・アテ(アスナロ)・ウルシの木などが豊富にあり、湿度の高い気候が漆器作りに適していたことである。北前船の寄港地で、全国への輸送手段に恵まれていたことも大きな要因といえよう。
  5. さらには、行商で販路が拡大されたことも見逃してはならない。製造した塗師屋(ぬしや)自身が、直接全国各地を売り歩いたことで、商品に対する信用が得られたのである。ただ売るだけではなく、破損した塗物を修理し、再使用できるようにしたサービスが重宝がられた。
  6. 輪島塗の特徴である堅牢さは、下地塗に地の粉を使うことにあるという。地の粉とは、珪藻土を焼成粉末にしたもので、江戸初期に発見された。これを漆に混ぜて、木地に2、3回塗り重ね下地を固める技術である。

<間垣の里>

  1. 輪島の市街地から西の海岸線に沿って、山の急斜面に細い道が通っている。穏やかな紺碧の海面と空の広がり、織りなす山並みの視界は、心のなごむドライブが楽しめる。西保海岸(にしほかいがん)という地域、そこに間垣の里(まがきのさと)と呼ばれる、珍しい景観が見られる漁村集落がある。
  2. 道は山の鼻と入江を海に近づき、また離れして何度もハンドルを切っては走るのである。大きな入江の集落が眼下に見えた。つづら折を下って近づくと、手製の標識に大沢(おおざわ)と書いてあった。取っ付きに間垣の民家がある。


    このような景色が続く


    大沢
  1. 間垣(まがき)というのは、竹垣の類である。高さ5m位の細いニガ竹を隙間なく並べたもので、家の周囲に巡らせている。しっかり固定してあって、一年中取り外すことがない。夏は西日を遮るため涼しく、冬は日本海から吹きつける季節風を防ぐため暖かい。自然の中に暮らす生活の知恵である。


    間垣と魚網

  1. そう言えば、間垣とは別に丸太を組み合わせた構造物が集落のいたる所にある。これは一体何なのだ。漁具を干すのに使うのだろうか。それにしてはその様子を見かけない。しかも集落から離れた道路沿いにも立っているのである。ではハザ掛けだろうか。それにしては田圃が見当たらないではないか。気になって仕方がない。


丸太の構造物

  1. 次の入江が上大沢(かみおおざわ)という集落である。土地の人達は「かめぞ」と発音するそうだ。規模の大きい間垣を見ることができる。


    入江の風景


    「かめぞ」と発音



    入口


    人影がない



    扉のある家


    入江から断崖の道を見る
  1. 上大沢から門前町へ向かう県道沿いに、優しい表情の滝があった。丸い岩床がいくつか連なり、傾斜した川床を勢い良く水が流れ落ちる。2本の滝は寄り添うように、あるいは一本に交わったりする。向かって右側を男滝、左側を女滝、合わせて男女滝(なめたき)という。夏はこの滝で滑り台のように遊ぶ子供達がいるそうだ。


    男女滝

  1. しばらく走っていると、田圃があった。今まで海岸線を走っていたときには見なかった内陸の見慣れた風景である。


    穂が出ている

  1. さらに走って再び森林の道に入ったとき、4項で投げかけた疑問—丸太を組み合わせた構造物を作っている場面に行き遭ったのである。同年配の60歳代の男性が縦軸を丸太、横軸をモウソウ竹で組み立てているのである。ここで謎を解かなければならない。先ほどの疑問をぶつけてみた。即座に回答があった。稲を天日干しにするハザ掛けだという。「それにしては田圃が見当たりませんが?」というと、「いや、見えない離れたところにあるんだよ。」と答えるのだ。男性はハザ掛けの米のうまさを得々と語るのであった。
  2. 何はともあれ、丸太構造物の疑問は解けた。間垣の里にもこの構造物は沢山あった。してみると、漁業が主体というわけではなく、農業も相当にやっているのではないかと思う。
  3. 上大沢を過ぎて海から離れ、平野部を走っていると、また気になる物が眼についたのである。道の所々に丸太を組み合わせた箱のような物があるのだ。青いネットが掛けてある。最初は養殖魚の運搬用水槽かなと思ったのだが、直ぐにそれは自ら否定した。そんな物がいくら田舎でも道路脇に置く筈がないと。


    丸太組み合わせの箱

  1. そこで、次の集落で住宅街に乗り入れて確認することにした。何とそれはゴミ箱だったのだ。正面に名板が貼ってあって、「このゴミ箱は能登ヒバを使っています。」と書いてある。僕の住んでいる前橋市でも、昔は鉄製の大きなコンテナを置いている県営アパートがあった。悪臭が絶えないとの理由でとっくに姿を消している。今はどこの行政区も指定ポリ袋に変っているのだが、ログ風ゴミ箱に出会って思わず僕は愉快な気持ちになった。

<能登金剛>

  1. 能登金剛とは、能登半島の西岸、おおむね富来町辺りを言う。金剛とは北朝鮮にある金剛山のことで、岩礁美が似ていることから能登のこの地に当てたようだ。
  2. 富来町の北端の海岸線にある名所が関野鼻(せきのはな)である。石灰岩が海水や雨水などで浸食されてできたカルスト地形で、波打ち際に奇岩の磯が続く景勝地。複雑に入り組んだ岬一帯には、海食洞など、自然が造り出したおもしろい地形が見られる。これらを結ぶ遊歩道も設けられている。ここから南側にヤセの断崖が見える。


    関野鼻
  1. ヤセの断崖は松本清張の小説『ゼロの焦点』に登場する。海面からの高さが35mもあり、ここまでの遊歩道には自殺を思いとどませる警告看板が何枚も立っている。断崖の突端は擬木の柵が設けられて立ち入り禁止になっている。しかし物好きがいて、柵外には草に踏み跡があった。北側には関野鼻がよく見える。


    関野鼻からヤセの断崖を見る

    ヤセの断崖から関野鼻を見る
  1. ヤセの断崖からそのまま遊歩道を南へ辿ると、義経の舟かくしだ。幅が約5m、奥行き約100mという細長く深い入江である。奥州に向かう一行が入り江に50艘の船を隠したといわれる。能登半島も義経伝説がやたら多いと恐れ入った。


    義経の舟かくし

  1. 能登金剛を代表する景勝地が巌門(がんもん)である。通常は遊覧船に乗って見物するのだが、僕達は時間の関係で陸地から眺めるだけにした。


    巌門のある岬


    巌門を巡る遊覧船

<休暇村-能登千里浜>

  1. 巌門の富来町から南下して志賀町。今まで海岸線を走っていた県道は内陸に向かい志賀町に入る。広大な森の梢越しに、ときどき巨大な施設が見え隠れするのは、北陸電力の原子力発電所である。
  2. 国道249に合流し、さらに南下して羽咋市に入ると、能登道路の柳田ICの近くに休暇村-能登千里浜がある。今夜の宿である。
  3. 下枝のない黒松の幹があたかも格子のように、濃い緑の下草と森の向うに青い海が透けて見える。空は薄雲に覆われている。宿の温泉は、毎分400リットルの源泉掛け流しを誇っており、17時間近く行動した今日の疲れは、心地よい脱力感に変ったのである。


    休暇村から海を眺める

<走行距離>630km

8月24日

<千里浜海岸>

  1. 休暇村から千里浜なぎさドライブウェイまでは直ぐである。約8㎞の海岸ドライブは、海水によって程よく締まった砂浜の道だ。潮の干満がほとんどなく、波打ち際まで車を寄せられる。砂の粒子が細かく、大型バスでもラクラク通行できる硬い砂浜である。
  2. 学校の夏休みも終わって、観光客は少なくなったようだ。商売の小屋掛けもなく、ゴミだけがいやに目立った。漁の水揚げが終わったあとらしく、魚網にからまった雑魚やカニを外して渚に放り投げている場面に遭遇した。カモメがそれを狙って乱舞している。一幅の画のような風景である。


    渚風景1

    渚風景2
  1. 能登道路・北陸自動車道と乗り継ぎ、降りたのは丸岡IC。目指すは、越前竹人形の里である。

<越前竹人形の里>

  1. 越前竹人形協同組合が経営している。所在地は福井県丸岡町である。越前竹人形の共同販売を目的としている。歴史は比較的新しい。昭和27年に師田保隆、米長三四郎の兄弟が、福井市で竹製花額の製作を手がけたのが始まりとか。


    越前竹人形の里
  1. その後、竹の切端を利用した竹人形の試作研究に努めた。更にはそれを越前竹人形として、芸術作品の域にまで高めたのが、師田保隆の長男である黎明氏であるという。今では永平寺・丸岡城・芦原温泉・東尋坊等と共に、福井県の観光ルートに組み込まれる程の地位を確立したのである。このままでいくと、やがては福井県の伝統工芸になることは間違いなさそうだ。
  2. 竹の毛髪を頭の部分に0.3mmの穴を開け、何千本も埋め込んだり、着物の襟を何枚も重ねたり、裾が流れるような曲線で細工されており、ほとほと感心するばかりであった。
  3. 竹見本の解説板は勉強になった。雷によって焼け焦げた傷痕を模様として活かそうとする着想には感心してしまった。職人達のたゆまざる技の向上と創作心を垣間見る思いであった。
  4. 館内には工房があって、職人さんの技をガラス越しに見学することができる。竹細工実習教室は生徒さん達で盛況であった。


    工房

<永平寺>

  1. 曹洞宗大本山永平寺は、道元禅師が寛元2年(1244)に開祖した。師は、8歳のとき母を失い世の無常を感じ、14歳で出家して比叡山に登った。ところが当時の比叡山は、道元禅師の目には、時の権力者とむすんで俗世での名声や利欲をむさぼるという堕落した姿として映ったようである。失望した師は山を下り、正法を求めて各地の寺を訪ね歩いたようで、師自身、このころには随分動揺や迷いがあったようである。
  2. 24歳のとき、真の仏道を求めて中国へ渡り、如浄(にょじょう)禅師と出会った。坐禅を中心とした修行こそ本物と思ったようだ。多くの留学僧が仏典をみやげに帰国するのに比し、道元禅師は何ひとつ持たず、ひたすら座禅のみを身につけて日本に戻ったのである。
  3. 寛元1年(1243)、師は支援者波多野義重(はたのよししげ)の招きに応じて京都を離れ、越前の山中に居を移した。それは比叡山からの圧迫があったからとも言われている。翌年、義重の寄進による修行道場が完成する。初め大仏寺と名付けられたが、のちに永平寺と改称された。
  4. この地で師は、厳しい修行の生活をしながら弟子の育成を続けた。室町時代に天皇から「曹洞宗第1道場」の勅額を贈られ、日本の禅修行の場として歴史を刻み、建長5年(1253)、54歳で生涯を閉じた。
  5. 現在、七堂伽藍を初めとして、70余棟の建物が老杉に囲まれて静かに佇んでいる。荘厳な雰囲気の中を、厳しい作法に従って禅の修行が営まれている。
    頭を青く剃った若い修行僧たちが、列をつくって静々と歩む様を見ると、思わず来訪者は廊下の端に身を避けるのであった。


    祠堂殿


    伽藍を見下ろす



    鐘楼堂


    山門



    報恩塔

<郡上八幡>

  1. 郡上八幡と言えば、水風景であろうか。奥美濃の山々から流れ出た吉田川や小駄良川などが合流し、町のすぐ下流で長良川に合流する。城下町の長い歴史の中で、清流の文化が形成された町である。城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数によって八幡山に築かれた。


    郡上八幡城

  1. 明治4年(1871)廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取り壊された。現在、城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定され、天守閣は市の有形文化財に指定されている。
  2. 4代城主のときに、それまであちこちで踊られていた盆おどりをひとつにして城下で踊ることを奨励した。これが現在の郡上八幡の観光の基礎となっている。


    城から家並みを眺める
  1. 承応1年(1652)の大火で町全体を焼きつくしたが、城主は町の復興に着手し、小駄良川の上流3キロから水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横にはしる水路を建設した。
  2. これは生活用水であると同時に、防火の目的でもあった。また近在の寺院を城下に集め、辻の突き当たりに配置して戦時の防禦にあてた。
  3. 郡上八幡博覧館は、大正時代に建てられた旧税務署の外観をそのまま残した建物である。歴史、伝統、水環境や郡上おどりなどがテーマ別に展示されている。


    郡上おどり
  1. 宗祇水(そうぎすい)は、環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定された湧水である。水槽は5槽からなっていて、水源槽から始まって、飲料水槽・米等を洗う水槽・野菜を洗ったりスイカを冷やす水槽といった具合に、上から下に向かって有効利用のルールを決め、維持管理の当番を決めているのである。


    宗祇水

    宗祇水近くの小駄良川
  1. やなか水のこみちは、繁華街の新町から、角を曲った路地にある。玉石を敷きつめた道と水路、柳の並木、大きな家屋敷が並んでいる。水飲み場がアクセントを示している。


    やなか水のこみち

    軒が迫る路地
  1. 郡上八幡旧庁舎記念館は、観光客の休息、便宜を図る施設である。町の中心、新橋のたもとにあって、吉田川の大瀬(だいせい)とよばれる早瀬を見下ろし、ひと休みするには格好の場所。建物は旧郡上八幡町役場で、国の登録文化財の指定をうけている。内部は特産品の展示販売や軽食、2階は郡上おどりの体験会場となっている。


吉田川の大瀬
  1. いがわこみちは、郡上八幡旧庁舎記念館の近くにある。鯉や川魚が泳ぐ豊かな用水。上流の洗い場から流れたご飯粒などが餌になっていたのだろうか。


    いがわこみち

<下呂温泉>

  1. 郡上八幡から下呂温泉までは遠かった。山間部の道は峠を越え、山の鼻で沢の出会いかと思えば単なる山襞であったりする。信号がほとんどないのがせめてもの救い。金山で漸く国道41に出て気が楽になった。順調に走り17:20頃、目的の宿についた。
  2. 今回初めて全労災の宿泊プランをインターネットで予約した。下呂大橋とせせらぎの小径の夜景がよく見える宿だった。夕食後温泉街を散策したのだが、想像したよりもはるかにハイカラな街だと思った。宿のまん前の白鷺橋には江戸時代の儒学者、林羅山の銅像がある。橋下の川沿いには遊歩道が延びている。交差点の角には温泉神社がある。街角には足湯があるという具合で楽しい。


    せせらぎの小径


    足湯
  1. どの店も歩道にはみ出すことなく店内に整然と、しかも観光客の興味をそそるような陳列を心掛けている。と言って客に声を掛けるようなことはしない。質問には優しく答えてくれる。何かこれには、はっきりとしたコンセプトを持ったチームによって、雑然とさせない統一感を持たせる演出がされているのではないかと僕は感心してしまった。

<走行距離>303km

8月25日

<高山-飛騨の里>

  1. 高山市の市街は以前に訪れている。今回は自宅への帰り道に気楽に寄ろうというわけで、飛騨の里を訪ねた。
  2. ここは、飛騨各地から移築された古い民家の屋外展示場である。山村の生活用具から昔の人々の暮らしの智恵を偲び、博物的要素を学び取る施設である。


    入口を入ると池がある

  1. 実は700円という入場料に躊躇を感じたのである。というのは、古民家を見るのであれば、移築したものよりは、現に生活している白川郷に行けば良いのではないか・・・と、単純に考えていたのである。実際に入って漫然と見ているうちは正にそうであった。ところが途中でボランティアガイドが他の見学者に説明しているところに遭遇してからが違ったのである。解説に俄然興味をそそられたのである。その説明にしきりに頷く結果となった。
  2. 結局、見学時間は2時間を費やした。700円は元を取り戻して余りある成果を得たのである。たとえば入り口の引き戸の戸車や桟が外側になっているのはなぜか。つまり表と裏が逆になっている疑問に対しては、屋内に馬の居室があって、いかに馬を大切にしていたかという証なのだそうだ。


    初期の合掌造り

  1. その馬の居室であるが、鍋底のように窪んでいて居心地が悪いのではないかとの疑問に対しては、干草等を踏ませて堆肥を作らせたのだという。
  2. 道具類にしても鍬や杵が普通、本体と柄は別々になっているのに、一刀彫りのように一体となっているのである。自然の造形を巧く利用した実例とみた。
  3. 建物にしても、柱や床板に手斧(ちょうな)の痕が生々しい。雪の少ない旧金山町(現下呂市の南地区)から移築したため、雪の多い高山市では雪の重みには弱いというような解説。木の股を利用した構造のため、安政の大地震で1m程移動したにもかかわらず倒れなかった・・・という具合に、ボランティアガイド自身が解説を楽しんでいるかのようであった。
  4. 高山市から国道158を通り、松本ICから長野自動車道-上信越自動車道-北関東自動車道のルートで前橋南ICに降りた。
  5. 浅間山麓を走っている頃から風が強くなり、群馬県に入ってから風雨が強くなったのは、台風11号が静岡県に上陸した頃である。

<走行距離>328km

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