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 ここへ行ってきました 

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18.6.30〜7.1 栃木県・想い出の旅(宇都宮〜塩原〜那須〜日光)

 栃木県は、昭和55年までの10年間を過ごした思い出の地である。今は家を出て独立した4人の子供達が、上は高校1年から下は幼稚園まで、4人を子育てした懐かしの地である。妻と僕は、この梅雨時にあえて昔を懐かしむ旅に出た。

6月30日

<宇都宮市-多気山不動尊

  1. 東北自動車道の鹿沼ICで下り、宇都宮環状線を北上する。高速道路の大谷PA西方3kmの所に多気山(たげさん377m)があり、その中腹にお不動様が鎮座している。日光を開山した勝道上人の弟子、尊鎮法師により創建されたといわれる。
  2. 木立に囲まれた石段を登ると本堂がある。朝早い時間のこととて職員が清掃に忙しい。 香炉に燃え残っている線香の巻紙を拾う者、石段を掃く者、ブロワ—で玉砂利の木葉を吹き飛ばす者と、役割が決まっているらしい。
  3. ここを訪ねたのは29年振りであろうか。おおよその様子は昔のままだが、建造物が新しくなり、苔むした石仏は少なくなっている。確か、地場産の大谷石だったと思われる昔の石段は、極めて精巧に加工された花崗岩に変っていた。その替わり、山門前の石灯籠は深く温かみのある色合いの大谷石であった。
  4. ここでの想い出は、長女・次女の七五三の祈願をして貰ったことだ。特に長女が7歳のとき、次女のご機嫌がすこぶる悪い。なにかと問えば、長女の提げた千歳飴を無言で指差すのである。これは御祈願で長女しか貰えなかったのだが、理由の分からない幼い次女にしてみれば、不公平な扱いに納得できなかったというわけである。門前の店にも売っておらず、言い聞かせるのに苦労したことを思い出す。
  5. 本堂のある境内には、岩の割れ目を流れてくる清水が流れている。これを柄杓に受けて飲むと、地下に沁みて長い時間をかけて再び湧き出た水のうまみがあった。


    大谷石の燈篭

    石段を登れば本堂

    本堂

    境内から宇都宮市街地方向

    <参照> 多気山不動尊

<宇都宮市-大谷寺

  1. 多気山不動尊の南東1.2kmの所に大谷寺がある。周辺一帯は大谷石の採石場が多い。そもそも寺の歴史は、大谷石に起因していると見てよい。そこで石の話を先にしたほうが良さそうだ。
  2. 大谷石は凝灰岩の一種である。一部露天掘りも行われているが、大部分は地下採掘で、地下数10メートルから深いところでは百メートル以上の坑内堀を行っている。大谷石は、倉庫や石塀に使われることが多い。大正11年(1922)に、旧帝国ホテルがアメリカの建築家ライトの設計により大谷石で建築された。翌年の関東大震災のときに焼け残り、耐火耐震に優れていることで声価を高めた。
  3. 栃木県では、地場産業を育成する立場から、美術館などの公共の場に積極的に大谷石を採用している。大谷パーキングエリア下り線には、屋外にテーブルとスツールのセットが置かれている。僕も栃木県に住んでいた自宅に、等級外の大谷石と川原石とで延段のアプローチを造った。
  4. 近くには大谷資料館があり、地下採掘場を見ることが出来る。中の広さは後楽園球場がすっぽり入ってしまう程だ。戦時中は日本軍の秘密倉庫、軍需工場として使われていた。中は寒く年間の平均気温は8℃程度。夏でも13度程度である。その温度の低さを利用して貯蔵庫として使われたり、アート空間として使われることもある。
  5. 地上から石段を下り始めると、穴の底はガスって見えない。更に下ると地底は見えてきたが、気温が低くなってきた。とにかく寒くて、半袖の僕達は風邪をひくのではないかと心配してしまった。ふたたび石段を登って地上近くになると、眼鏡が真っ白に曇って何も見えない。しばらく外して外気温と同じになるまで待つことにした。


    大谷資料館の広場


    地下採掘場
  1. ケーンケーンと耳をつんざく音は雉ではないかと思ったのだが、今まで聴いたことのない馬鹿でかい音量だ。そして実際にその姿を発見して納得した。資料館の広場両側には大谷石の垂直壁がある。ちょうどその中間の岩棚の上に赤い鶏冠の雉を発見できた。その鳴き声が向かい合った岩壁に反響したという訳だ。
  2. 大谷石の需要が少なくなってから久しい。重いものの運搬はコストがかかり、遠方の地には売れないのである。同じ栃木県でも、新築住宅での塀はコンクリートブロックの方が多いのである。今回僕等が訪ねた大谷町の風景は閑散として昔の賑やかさはない。奇岩怪石の風景が、往事を偲ぶよすがとして残るのみである。もう過去の話になってしまったが、陥没騒ぎの報道が続いたこともある。


    石屋さんの家は大谷石


    石屋の展示品

  1. 話を元に戻すが、大谷石の洞窟に暮らす縄文人がいた。出土した人骨は20歳前後の男性と判明、境内の宝物館に展示されている。時代が下って、大谷石の壁面に仏像を刻む人が現れた。弘法大師自身の手になると言われる本尊の千手観音がそれ。その後も薬師三尊や釈迦三尊像も彫り込まれた。
  2. これが大谷寺の始まりである。これらの彫像を保護する為、壁面を覆うように観音堂が建てられた。十体の仏像は大谷磨崖仏と呼び、平安時代後期から鎌倉時代の石仏として、国の重要文化財と特別史跡に指定されている。


    大谷寺

    大谷観音



    観音堂の奥に彫像がある
  1. 観光ポイントとしては、平和観音像がある。高さ27m、大谷寺に隣接していて駐車場に近いせいか、観光客はこれが大谷観音かと勘違いしやすい。しかし大谷石の岩層を削り彫ったことには違いなく、芸術的価値は高い。第二次世界大戦後の平和を祈念し、昭和29年に完成した。

    大谷石の平和観音像

    <参照> 大谷寺(大谷観音)   大谷資料館   大谷が、国の名勝に!!

<宇都宮市-長岡百穴(ひゃくあな)古墳

  1. 宇都宮環状線の北部を走って行くと、丘陵の南側斜面に、突然、穴だらけの岩丘が出現する。環状線に向いて太陽をもろに受けているので、その奇怪な姿は、嫌でも目に飛び込んでくる。これが長岡百穴だ。大谷石に類似の凝灰岩で出来た丘陵に、52基の穴が開いている。古墳時代のお墓である。
  2. 長岡というのは地名である。環状線がまだない頃は、長岡街道という細い道があって、僕は時々通勤ルートに使っていた。その頃は大した物ではないと思っていたのであるが、今度改めてその凄さに驚いた。


    長岡百穴の一部
  1. なんとなれば、環状線ができたことによって、その全体像が視界いっぱいに捉えられるようになったからである。昔は長岡街道が百穴に接近しているため、通過景色としてしか見ることが出来なかったからだ。これは思わぬ環状線効果である。
  2. しかし、この遺跡は当初の状態が保たれている訳ではないらしい。と言うのは、後の時代の加工が著しく、古墳築造当時の原形がなくなっているというのである。とりわけ室町時代における仏像の彫刻が酷いというのだ。こうなってしまったのには、それだけ岩盤が柔らかく加工し安かったという理由がある。

<河内町-釜井台団地

  1. 宇都宮環状線を東進し、東北新幹線をくぐると白沢街道の交差点にでる。その北東側にあるのが釜井台団地である。昭和55年まで、僕達家族が住んでいた懐かしいところである。
  2. 実はここは宇都宮市ではない。栃木県河内町に属する。僕が人に説明するのに分かりづらいから、勝手に宇都宮市の北部と言っているだけだ。実際、行政手続を除いて、生活圏は宇都宮市であった。農村地帯におけるベッドタウンという訳である。ちなみに平成の大合併でも河内町はどことも合併していない。
  3. その団地に、長男が高校1年生、三女が幼稚園のときまで生活し、群馬県へ引っ越した。そのときの我家は、引越し後間もなく人手に渡してしまった。当時平屋だった団地は、今は殆どが二階建てに改築されている。ここに残る想い出は、年賀状をやりとりする僅かな人達と、公園に残した欅の木だけである。
  4. この欅の木には、いわく因縁があって、なんとも懐かしい。信州伊那の小野雨沢という所、女房の里であるが、近くに神職のいない小さな神社がある。里帰りのときなどに、他に遊び場がないこととて、僕は子供達を連れてよく遊びに行った。夏は大樹の元を風が通り抜けて涼しい場所だった。例祭道具の収納小屋の軒下で、蟻地獄に息を吹きかけて捕まえたりした。境内には大きな欅の木がある。そこにタネがこぼれて芽を出した幼木が沢山生えていた。それを何本かこいできて、宇都宮の貸家の畑に植えたのだった。
  5. やがて釜井台団地に居を移し、欅も一緒に引っ越したのだ。そのうち子供達の成長に合わせて増築、欅も大きくなり、邪魔になったので一本だけを公園に移植し、あとは処分した。
  6. 群馬県に引越しするときには、欅は2m程に成長はしたが、子供達に折られてしまうのではないかと心配した。ところがどうだ、団地の子供達はやさしく接してくれたようだ。ご覧のように立派な姿に成長していたではないか。


    一抱えの大木に成長
  1. この欅になぜそれ程までに思い入れがあるかというと、まさに子供と共に成長し、感受性の強い時期に別れ別れになってしまったからだ。いつも遊び場にしていた公園に、言ってみれば記念樹の形になって成木となり、夏の木陰を団地の人達に提供している。
  2. 前回、欅と再会したのは、次女の結婚に先立って、栃木県の喜連川温泉に家族旅行をしたときだ。平成6年の春だったから、今回はそれ以来12年目になる。枝の一本も折られずに、今や、団地の子供達の木登り相手になってくれてるらしい。というのは、樹幹の表皮にこすり跡があるのと、幹股に遊びに使った枯れた小枝が置いてあったからだ。
  3. この団地は、栃木県住宅供給公社が大型住宅団地として開発したものだ。僕達の入居が昭和46年である。僕のしたためた「諸事控帳」を見ると、土地66坪・建物18坪・譲渡価格265万円とある。
  4. そう言えば、当時電話を敷くのに順番待ちで一年もかかっていた。僕は手回しよく団地建売の抽選に当たって、すぐさま電話局に申し込んだ。電話局では前例のないことと最初は拒否したが、紛れもない実現性のある説得に、とうとう受理してくれたのだった。入居した年は、電話を借りに来る人が絶えなかった。
  5. 当時はバス通り以外の通りは、どこも子供達が戯れていた。縄跳びするもの、三輪車に乗るもの、車は常に子供みちとして徐行して走るのが習慣だった。宇都宮市の貸家から団地に引っ越したのは、息子が小学校に入学したばかり、僅か1月半で転校したから、いい迷惑だったに違いない。転校した学校に初めて通学した帰りに我家を見失い、団地入口にある酒屋さんに付き添われて、漸く帰り着くというハプニングもあった。因果なもので、その息子は高校に入学した夏休みに、これまた群馬県へ転校するはめになったのだ。
  6. 団地の北には小高い丘があって、湧き水が豊富だった。ハナショウブをただで見せる奈坪園というのがあって、季節になると必ず見に行った。その時期は臨時に流し素麺の店をつくり、丘の上から竹樋に流すという風流な催しがあった。子供達は競って色麺を掬い取るのである。湧き水の小川にはミヤコタナゴもいて、子供達が嬉々として捕っていた。

<那須塩原市-沼原(ぬまっぱら)湿原

  1. 東北自動車道の那須ICで下りる。那須岳に向かってほぼ直線に走る道は快適だ。皇族が通う道でもあるだけに、下草が適度に生え、樹間が見通しよく手入れされている。沿線の店々も木立にマッチした、こげ茶の地色に白ペイントで書かれた看板に統一されている。
  2. 那須温泉地の手前に一軒茶屋交差点がある。左へ曲がると那須高原スカイラインである。等高線に沿うような快適な道だ。構わず走れば、やがて板室温泉である。目的地は沼原湿原であるから、その手前で山に登るコースに分岐する筈である。標識を見落とさないように行くと、沼原湿原と書かれた小さな看板でがあった。那須ハイランドGCの辺りである。山道は幸い舗装されている。別荘地に行く道路と分かれて左折すると、後は曲がり真直ぐ目的地である。下ってくる車が何台かあった。そのうちに砂利道となるが、山容からすると目的地は近い。なだらかになって那須山系のピークがいくつか見えてくる。そして広い駐車場に着いた。
  3. 意外なことにテントの食べ物商売をしている人がいた。途中で観光バス2,3台とすれ違ったから、多少は売れたかもしれない。立派な便所もあり、揚水式発電所上池が眼下に見下ろせる園地には、東屋などもあって風も爽やかである。夏休みに入れば俄然賑やかになるだろう。
  4. 那須高原には昔よく遊びにきたが、ここは初めてである。少しポツンポツンと落ちてきたが、防水衣とコウモリガサをザックに入れてあるので、躊躇なく沼原湿原へ向かう。等高線に沿ってしばらく行き、上池の湖頭付近で下降すると湿原だ。広葉樹から水生植物に変る。


    木道が巡っている

    ニッコウキスゲ

    カンボク

    カンボク拡大
  1. 池のあちこちにオタマジャクシが群れている。木道が設置されていて、往復2時間ほどあれば充分にハイキングを楽しめる。那須岳の登山ルートとして、三斗小屋温泉を経由することも可能だ。
  2. ここを引き上げて下池の深山湖に移動した。堰堤を渡り左岸を走ると猿の群れがお出迎え。そして屋外開閉所がある。送電線との接続部分で、発電所は地中深くで稼動している。開閉所の隣には、展示館があり子供向けに解説している。

    <参照> 沼ッ原

<那須塩原市-塩原温泉

  1. 再び那須高原スカイラインに戻る。湯治場として知られる板室温泉を通る。昭和46年に国民保養温泉地として指定された。10軒ほどの湯宿が谷筋にかたまっている。静かな佇まいだ。ここはそのまま通り過ぎて塩原温泉へと向かう。箒川沿いに結構走る。手付かずの原始林の山並みが慰めである。広葉樹に混じって赤松がアクセントを添えている。今夜はかんぽの宿 塩原に泊まる。
  2. 塩原温泉には昭和46年(1971)に訪問したことがある。長男が小学校1年のときに、信州から僕達両方の母親が運動会を見に来てくれた。そのときに泊まった旅館の名前は忘れたが、鍋物が出て火をつけて煮込む体験は初めてだったので感激した。当時信州ではあまり生物を口にできない時代に、刺身が出たりして両親どころか僕達までが吃驚したり喜んだりしたのだ。
  3. 旅館の川向こうには露天風呂に入浴する姿が見えて、僕と息子、そして母たちが小さな吊り橋を渡って、かわり番こに入りに行ったことを思い出す。
  4. 宿の前には、支流の鹿股川が流れている。この川を遡行すると八方ヶ原高原がある。昭和48年頃に会社の同僚達とファミリーで行ったことがある。レンゲツツジの咲く原っぱで弁当を広げた思い出がある。今回ここも訪ねる予定だったが、天候との兼ね合いで割愛した。

7月1日

<那須町-那須どうぶつ王国

  1. 昨日通った那須高原スカイラインとは別に、那須塩原の戸田から県道30号を東進する。広大な開拓地には、農家が点在し、自然林も豊かに広がっている。広谷地から那須グリーンラインに連携して福島県の白河方面に向かう。大矢という所で左折して山に向けて走る。那須甲子有料道路の手前が那須どうぶつ王国である。那須高原SAがスマートICになっているので、ETC車はアクセスが楽になった。
  2. 実は今回の旅行で、那須高原まで足を伸ばすことになった理由がある。Y新聞の読者として、那須どうぶつ王国の入場券を貰ったのである。僕達が栃木県に住んでいた頃は、この施設はまだなかったから来る気になった。
  3. 9時の開園時間を少し過ぎて入場した。すでに子供連れのファミリーが何組もいた。半袖ではかなり寒いが、それも朝の内だけだった。広大な那須山麓のスロープを思う存分利用している。レストハウスから谷を越えて見える向うの尾根には、屋外に動物と遊べる施設が広がっている。シャトルバスが10分間隔で、動物の鳴き声のクラクションを鳴らして走る。


    後方に那須岳
  1. 園内では、タイムスケジュールを組んで、色々なイベントが展開される。その時間になると会場はいっぱいになる。王国の東方に見えるなだらかな山並みは、福島県との県境である。雄大な景色はそれだけで気持ちがいい。僕達は次の目的地の時間が迫っているので、土産物だけを買って早々に引き上げた。
    <参照> 那須どうぶつ王国

<那須町-和牛牧場

  1. 那須高原には、あちこちに牧場がある。アルパカ牧場なんてのもある。今回はA牧場を見学した。一貫して和牛にこだわっている。那須どうぶつ王国を早々に引き上げたのは、A牧場の見学時間を11時と約束していたからである。ここは那須御用邸の少し下にある。受付の事務所が分からずに、敷地の一番奥まで行くと、森の中にホテルレストランがあった。たまたまポーチで客待ちをしていたボーイに教えて貰い、牧場の事務所を訪ねることができた。


    牧場の道路
  1. 受付では女性スタッフが対応してくれた。驚いたのは僕達が事務所に上がったとき、30人ほどの職員が全員立ち上がって挨拶をしてくれたことだ。彼らは若い男女でコンピュータに向かってキーを打っていた。すべて黒色のDELLコンピュータだ。3m程の距離だったのでディスプレーの文字は分からないが、表データであることは分かる。牛の固体データとか、営業の売上データとかであろう。互いのデータはリンクされていて、全国の営業所を一元管理しているのであろうかと、余計な詮索をするのは僕の悪い習性である。
  2. 待つほどに別なところから車でやって来たのは、これまた若い女性である。この女性が牧場のレクチャーをして、引き続き現場を説明してくれた。おそらく飼育の専門家であろうと思われた。事務所には白い長靴が用意してあって、それに履き替える。
  3. 先ずは事務所のすぐ脇にある厩舎である。枠ごとに月齢によって数頭のグループを決めている。入口に近い方は出荷直前の牛である。充分に肥育しているので、もう余り食べなくなっているという。
  4. 奥の方へ順次若い牛に移って行く。朝の食事が終わってどの牛も満足げに横たわっている。反芻している牛もあるが、口を動かさない牛もいる。中にはまどろんでいる牛もいる。餌はJAの配合飼料と、オーストラリア産牧草のパックになったものを与えている。とにかく厩舎は清潔そのものだ。くさい臭いは全くしないのである。
  5. 少し離れた厩舎に車で移動する。親子の厩舎だ。入口で消毒液の入った四角い容器に長靴を浸けて入場した。
  6. 先ずは生まれたばかりの厩舎である。仔牛はしばらく親子で暮らす。5日ほど前に生まれた仔牛もいた。それぞれの枠には、出産予定日と実際の出産日を書いた札が掲げられている。仔牛はまだ臆病な段階にある。母牛も常に仔牛を気遣っている。見知らぬ外来者には、いつも目を向けている。静かに見学しなければならない。
  7. ある程度大きくなると、今度は仔牛に社会勉強をさせる。その厩舎が隣にあった。社会勉強とは、仔牛同士の集団生活を体験させるのである。ただし母親のオッパイを飲むことが出来るような措置も必要だ。
  8. その工夫であるが、大枠の中に母牛を入れる。その一角に仔牛用の小枠を作る。大枠と小枠の間には、仔牛だけが通れるだけのゲートを設けるのである。普段は仔牛同士で生活するが、親の所へ行きたければ、いつでも行ける。その逆に親は仔牛の枠内にはゲートが狭いから入れないという訳だ。実に単純明快な社会勉強のしくみではないか。人間社会の保育園と同じではないかと、思わず微笑んでしまった。


    厩舎の一つ
  1. 昼になった。この場内で食事ができるという。冒頭のホテルの手前にあるレストランであった。正確には、黒毛和牛の加工直売店であった。80席ほどの飲食スペースもあって、僕達はここで食事をすることにした。すでに何組かの先客がいて、僕等が席に付いてからも何組か来て、いっぱいになった。
  2. メニューを見て、僕は慣れている牛肉の生姜焼きを頼んだ。妻はよく分からんがカタカナの料理を注文した。コロッケ・メンチのほかに、ビッタバレンとか何とか書いてあったと思う。メニューを持って行ってしまったので、あまり覚えていない。料理が運ばれてきたのを見て、やっぱりカタカナは失敗したなと思った。パン粉の揚げたものと、生キャベツの山盛りだ。日頃、揚げ物は消化が悪くて敬遠していたのだが、話の種にとつい油断してしまった。案の定、この日は夜になっても腹が膨れたままで苦しい思いをしたのだった。
  3. しかし、総ガラス張りの屋外は広葉樹の明るい森だ。近くではウグイスが、遠くからはカッコウの声も緑風に乗って渡ってくる。

<帰途-那須町-矢板-日光-群馬

  1. 那須野原を、スクランブルのように走り回った二日間はほぼ終わった。土地鑑があったから、気楽に緑豊かな高原のドライブを堪能できた。帰途は高速道路を使わずに、那須高原スカイラインから西方の山沿いの道を通って矢板市に向かうことにした。


    那須高原スカイライン
  1. 塩原温泉から流れ出す箒川に沿う県道だ。昔、僕達両方の母親を塩原温泉に誘った帰りに、イナゴを捕った田圃は今も変らない風景だ。今は若い稲が陽光に輝いて眩しいくらいだ。
  2. 矢板市から日光市に西進する。とは言っても、これではあまりにも分かりづらい。今年の3月20日、今市市・足尾町・藤原町・栗山村・日光市が合併して、新設日光市になったのだ。あえて合併前の地名を使えば、最初の経由地は旧今市市だ。ここまでの道は、昔2車線だった国道411号は、4車線になっていて順調な走りができた。
  3. 今市から日光までの杉並木は昔のままだ。通りがかりに杉並木公園と書かれた小さな看板が目に入った。ためらわずに立ち寄ると、そこには古民家二軒があり、大きい方が地場産店、小さい方が蕎麦屋で広縁に座り込んで、蕎麦を食べている中年夫婦がいた。


    日光杉並木

    茅葺の売店
  1. 公園化された杉並木は、以前から車両禁止になっていたが、それに加えて、東武日光線との間を整備して親水公園になっていた。そこには水車群や、植物園なども配置されている。
  2. 珍しいのは今市用水円筒分水井と呼ばれるもので、近くの浄水場から導水された水を、あっちこっちに分水する装置である。例えていうと、荷車の車輪を寝かせた形をイメージして貰いたい。その中心にハブがある。逆サイフォンの原理で、ヒューム管を経てこのハブから水が噴出すのである。噴出した水は、それぞれのスポークに相当する樋を流れて各方面に配水される。その数はなんと23ゲートもある。


    大水車

    今市用水円筒分水井
  1. ところで、杉並木を文化財として管理するために、栃木県は杉並木オーナー制度を設けている。保護事業の資金を得ようとの工夫で、平成8年にスタートさせた。杉1本につき1千万円で購入してもらい、その運用益を活用しようというしくみである。オーナーが杉を手放したい場合は、県が1本1千万円で 買い戻すことで、利ざやが稼げるという訳だ。 徳川家康も、「わが意を得たり。」と墓の中でニンマリしているかも知れない。
  2. 旧日光市から日足トンネルを抜けると、旧足尾町である。前述したように今は日光市になっている。時々引き合いに出すのであるが、足尾銅山の公害事件の元凶になった所である。日足トンネルが分水嶺になっていて、足尾を流れる渡良瀬川は、群馬県を通過して利根川に合流する。足尾の人たちは生活圏が群馬県である。
  3. 群馬県に入って間もなく草木湖だ。ここに富弘美術館がある。中学校の先生だったが、クラブ活動の指導中に、頸椎を損傷して手足の自由を失った。入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始める。その後精進して世に認められる。生まれ故郷の東村が草木湖のほとりに設立したのがこの美術館。その東村も、今年の3月27日に三町村で合併してみどり市となった。
  4. 今回は気楽な旅であった。草木湖では、お昼の脂っこい食事で膨れた腹を少しでも減らそうと美術館周辺を歩き回ったが、さほど効果はなかった。夕食はトウモロコシの二切れを、ビールのつまみにして済ませた。これですっきりしたのだから、飲ん平は世話がない。
    <富弘美術館>

<走行距離>469km

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