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18.7.18〜20宇治〜奈良 昨年は京都に行った。マイカーで旅することが効率的であることに味を占めて、今年は奈良を訪ねた。 7月18日 今回は、梅雨前線が日本列島上に停滞している中の旅行となった。群馬県前橋市の自宅を出発したのが、前夜23時40分。往路は上信越自動車道—長野自動車道—中央自動車道—名神—京滋バイパスのルートで順調に走れた。
宇治東ICで下りる。去年の京都旅行で訪れなかった、宇治平等院を見るためである。妻は修学旅行で来ているが僕は初めてだ。 宇治上神社 宇治川に架かる宇治橋のたもとから、細い小奇麗な道を南東に進む。対向車があるたびに、すれ違える場所でどちらかが退避する。互いに会釈を交わして道を譲る。それが静かな参道の風景だ。僕の場合は、汲み取りの衛生車が道をふさいでいて、バキュームホースが揺れていた。辛抱強く待つことにして、その間10分ほど家並みを眺めていたが、人の出入りする家は皆無であった。作業を終わった衛生車がその先の角地に移動して、今度は僕らに道をあけてくれた。直ぐの突き当たりに宇治上神社があった。
拝殿 |
駐車場は見当たらないが、門前のちょっとした空き地に車を停めた。門を入ると境内の正面に古色蒼然とした拝殿がある。 宇治上神社は、平等院の鎮守社と言われる。それにしてもこんな小さな神社が世界遺産とは意外な感じがした。しかし度素人の僕たちに知識がないからそう感じたまでで、ちゃんと理由があるのだろう。 資料をみると、拝殿の背後に本殿がある。神社建築では、現存する最古とされる平安時代後期のもので、外から見えるのは覆屋、その中に本殿が3つ並んでいるのだそうだ。拝殿は鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したもので、寝殿造の趣きを伝えている。ともに京都市内ではもう残っていない貴重な建造物であるという。 他に観光客の気配がなく、神職の姿もない。臆病な僕たちは境内に入る勇気がなくて、拝殿だけを眺めて退去した。帰りに先ほどの衛生車が、別の家の前で作業をしていた。やっとすれ違えることは出来たが、参道の狭さと言い、駐車場がないことといい、どうもここは、あまり観光客の訪れない所らしい。
平等院 滔々と流れる宇治川の橋を渡って左折すると、対岸に平等院がある。ちなみに宇治川は琵琶湖を水源とし、大阪湾に注ぐ淀川水系に属している。 ときの権力者、関白藤原道長の別荘を、その子頼通が仏寺に改め平等院とした。阿弥陀堂の大屋根には、鳳凰が飾られているので、鳳凰堂と呼ぶのが一般的だ。その前には、池を配した庭園がある。創建当初は宇治川や対岸の山並みを取り入れて、西方極楽浄土を表現したものと云われている。 僕たちが入場したときには、雨雲のもと薄暗い中にあって、沈鬱な鳳凰堂という印象を受けた。妻は受付の女性に「修学旅行のときには赤くて綺麗だったのに・・・」と問うた。初めて見た僕にも、何となくみすぼらしく感じられたのである。古色蒼然といえばそれまでだが、他の寺院のそれとはどこかが違う。鳳凰で飾られた極楽浄土の建物としては、不似合いな佇まいに見えた。妻の問いに、受付女性が答える。昭和25年から32年にかけて、大掛かりな修理が行なわれ、それ以来50年経つという。なるほど妻が修学旅行のときには、ピッカピカのを見てその印象が強く残っていたという訳だ。
鳳凰堂 |
北面側 |
周辺風景-朝霧橋 |
周辺風景-鵜飼の船着場 |
鳳凰に挟まれてほぼ同じくらいの大きさの鳥が2羽いる。鳳凰と同じ向きで等間隔に並んでいるので、もしや後から作られた造形物かと思ったが、しかしそんなことは考えられない、おかしいな・・・としばらく見つめていると、やっと1羽が顔を動かしたのである。青サギであった。 この後、宇治と並んでお茶で有名な宇治田原町から城陽市を経て、奈良街道に合流した。
<奈良盆地> - 京都府から南下する。坂道とは意識しないほどの勾配で、県境の平城山(ならやま)丘陵地を越えて奈良市に入る。
- 奈良盆地は、東西約15km、南北約30kmの面積を持ち、木葉形をしている。100万年ほど前までは、奈良盆地から京都盆地南部にかけて、古奈良湖と言われる湖であったという。この盆地に降った雨は、生駒山地と金剛山地の切れ目から大和川となって大阪湾に注ぐ。
- この盆地に和銅3年(710)、最後の都平城京が建設された。この時期、中国から伝来した仏教文化が定着した。都は、70年後に京都へ移る。
<世界遺産> - 奈良県には、1993年、日本で初めて世界遺産に登録された法隆寺・法起寺を皮切りに、数多くの仏教文化に関連した遺跡が多い。1998年には、東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林・元興寺・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡が登録された。さらに2004年には、吉野山・吉野水分神社・金峯神社・金峯山寺・吉水神社・大峯山寺と大峯奥駈道(玉置神社含む)・熊野参詣道小辺路が続いて登録されている。
- 僕達は、これらの一部と、他の由緒ある観光地を駆け足で訪ねた。
春日大社 春日大社は、平城京の守護の為に創建されて、次の各神社から神を迎えて祀られている。
本殿向って右から、
第一殿:茨城県の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチのミコト)
第二殿:千葉県の香取神宮から経津主命(フツヌシのミコト)
第三殿:大阪府の枚岡(ひらおか)神社から天児屋根命(アメノコヤネのミコト)
第四殿:大阪府の枚岡(ひらおか)神社から比売神(ヒメガミ)
このとき、武甕槌命が白鹿に乗ってやって来たとされることから、鹿が神使とされる。奈良時代の768年、藤原氏の氏神として現在地に神殿が創設された。 一の鳥居から春日灯籠が並ぶ参道を行くと、以前は万葉植物園と呼ばれていた春日大社神苑がある。 背後の春日山原始林は、春日大社の社叢として保護されてきたことで、太古の姿を現在に伝える。これも世界遺産である。 境内にある石燈籠は、様々な人が寄進するため、デザインがそれぞれ違っていて面白い。本殿周辺の回廊にも釣燈籠がある。
春日大社参道 |
南門 |
幣殿・舞殿 |
春日大社の参道南側は、飛火野と呼ばれる樹木と草原の広がる園地である。初夏に生まれた仔鹿が親の後をついて離れない。人に馴れている親鹿と違って、仔鹿の方は常に逃げ腰である。野生の本能から次第に害を与えない人間として学習していく。草原の一角では、人間の親子連れが与える煎餅につられて、沢山の鹿が寄り集まっている。鹿せんべいは、米ぬか・穀類等で作られているそうだ。
飛火野の鹿 |
鹿の糞は真黒で、兎や山羊と同じで豆粒形である。あたり構わず、歩くところどこでも糞をする。しかし臭いがなく、べとつかないので踏みつけても不潔感がない。草原では当然いい肥料となる筈だ。このあと東大寺や若草山にも行ったが、結局どこでも鹿と糞にお目にかかった。そう言えば、鹿の糞という土産物のお菓子も売られていた。
東大寺 - 東大寺は、聖武天皇によって創建された。大和の国分寺として建てられたものである。修学旅行でお馴染みの、運慶・快慶合作の金剛力士立像が睨みをきかす南大門や、世界最大の木造建築物である大仏殿はさすがに賑やかだ。大仏殿には盧舎那仏坐像が安置されている。これにひけを取らず、二月堂も人の群れだ。
大仏殿 |
- 外国人も多く、白人は分かるが、中国や朝鮮半島を母国とする人達は全く分からない。グループで話しているのを聞いて初めて分かる。たいがい日本語の分かる仲間か、ガイドが付いているようだ。
- 二月堂の修二会(しゅにえ)という行事は、季節になるとテレビで放映される。大きな松明(たいまつ)に火がともされ、舞台の回廊を飛び回るあの映像だ。松明の火の粉を浴びる人々を湧かせる、よく知られた行事である。この行事が旧暦の2月1日から行われていたのが二月堂の名の由来である。
二月堂 |
二月堂から大仏殿 |
- 行事が行なわれる3月12日の深夜には、お水取りといって、二月堂の石段下にある若狭井(わかさい)という井戸から、観音さまにお供えするお香水(おこうずい)を汲み上げる儀式が行われる。この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして松明を振りかざすのだそうだ。このため修二会はお水取り・お松明とも呼ばれるようになったそうである。
- ところで、大仏は、聖武天皇が行基という僧の協力を得て造ったという。この頃は、各地で洪水や日照りが続き、天然痘がまん延するとともに、豪族の反乱が頻発し不安な世情であった。天皇は仏教の力で人々の不安を鎮め、国を守ろうと考えたのである。それには多くの人が協力して大仏を造ることにより、国が一つにまとまる。と考え、行基の力を求めた。行基はそれに応えて、多くの人に大仏建立の必要性を説き、資金を集め或いは労力の提供を受けたという。
- 行基(ぎょうき)は百済(くだら)からの渡来人の子で、15歳の時に僧になった。学問や修行は勿論のこと、農民や貧しい人々の救済にも当たった。当時、貴族や僧だけに許された仏教を農民や貧しい人々にも広めるために各地を歩いた。田に水を引くための灌漑用水池や用水路の建設、あるいは架橋などの土木工事によって人助けをし、尊敬されていたのである。言ってみれば、実践派の僧侶であった。
- この行基の行動を、朝廷は初め取り締まろうとした。しかし大衆を惹きつける力のある行基の存在を、聖武天皇は無視することが出来ないことを認めたのである。けっきょく天皇は行基に協力を求めた。行基も天皇に協力すれば、自分の活動がしやすくなると判断したのであろう。言ってみれば、政治の立場にある天皇と企業の立場にある行基の利害が一致した結果であろう。
- しかし行基は、大仏開眼を待たずして、3年前に82歳でこの世を去っている。
盧舎那仏 |
- しかし、理想を実現するには新たな困難が付きまとう。仏教伝来以来、寺の数が増えたが、自分勝手に僧を名乗るやからが現れたり、乱れた行動をする僧が増えたりして収拾がつかなくなったのである。中国の寺院を真似て器は造ったが、中身が伴なっていない。仏作って魂入れずとは正にこのことだ。ハードだけでソフトが機能しない風潮は、昔も今も変らないというわけだ。このまま放っておけば、国家財政を圧迫し、律令社会の崩壊にも成りかねない。どうしても正規の僧を育成する必要があったのである。
- ソフト面が機能していない危機感は、実は以前から認識していたのである。それは遣唐使の派遣が物語っている。先進国である唐の文化や制度を学ばせる為に、留学生や留学僧を派遣したのである。
- そればかりか、唐から大先生に来て貰って日本の僧を教育して欲しいと懇願を続けていた。気の遠くなるような長い年月の後に、その願はやっと実現する。鑑真(がんじん)の来日に成功したのである。
- 鑑真は、唐の高僧である。遣唐使の熱心な頼みに応えて、日本に行くことを決意した。しかし海を渡ることに何度も失敗し、5回目の航海のときには、南シナ海の海南島まで流されてしまった。そのためかどうか不明であるが、失明もした。そして6回目の航海となった10年目の12月、遂に、現鹿児島県南さつま市の坊津(ぼうのづ)に漂着したのである。すでに67歳になっていた。
- 朝廷は鑑真を歓待して、勅命により東大寺に住することとなった。鑑真は戒律とよばれる正しい修行生活の規則を説き、仏教の乱れを正し、東大寺大仏殿に戒壇(かいだん)を築いて授戒の任にあたった。
- 東大寺の歴史には、渡来人の子である行基と、渡来人の鑑真という二人の人物が仏教文化の形成に大きく係わったのである。
<鑑真に関することは、唐招提寺の項に続く。>
<参考>天平の甍-井上靖
興福寺 興福寺の前身は、藤原鎌足の夫人が氏寺として建てた、山階寺(やましなでら)が起源である。山階とは、現在の京都市山科区であるが、その後、山階寺は飛鳥の藤原京に移り、地名をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 厩坂寺は、平城京遷都のとき、奈良に移され、興福寺と名を改めた。以来、藤原氏の隆盛とともに勢いを拡大した。かつての興福寺には沢山の伽藍が立っていたそうだ。今は境内ばかりが広く、見方によっては淋しい感じがする。目だつものといえば、東側にある五重塔と東金堂、西側にある南円堂である。
五重塔 |
五重塔は高さ約50m、京都の東寺に次ぐ高塔である。そばで見ると天を仰ぎ見て圧倒される。境内の西側には、南円堂がある。遠くから見ても艶やかだ。形の整った八角形で彩色もきらびやかである。猿沢池に下りる途中の一段低いところには、三重塔がひっそりと立っている。
南円堂 |
三重塔 |
奈良公園 今まで見てきたエリアと、東大寺や春日大社の背後にある若草山・春日山・高円山などを含めた広い地域を奈良公園と呼ぶ。散策していると優しく抱かれているような気分になる。伽藍の合間から緑滴る山々が伺える。その山へ登れば、奈良盆地に歴史を刻んだ古都の風景が一望の元に展開する。 若草山には、入山の時期が決まっていて今は入れない。そこで奈良奥山ドライブウェイの新若草山コースを往復した。懸念したとおり雲上の山で古都奈良のパノラマは望めなかった。途中で大仏殿が木ノ間に見えたのが救いだった。
霧の奈良奥山ドライブウェイ |
大仏殿と興福寺の五重塔 |
猿沢池 猿沢池は、興福寺の五重塔と池の柳が水面に映える景観は、奈良公園の代表的な名勝地である。市街地に接し市民の憩いの場でもある。 猿沢池畔から望む興福寺の五重塔は美しい。ベンチにたむろす人がいるかと思うと、カメラの三脚をあちこちに移動して歩く人、絵を書いている人と様々だ。とにかくここは五重塔を眺める絶好の場所なのだ。
猿沢池から興福寺の五重塔 |
元興寺 - 猿沢池から南の市街地へ入ると、そこはもう奈良町である。細い路地はカラー舗装されて落ち着いた雰囲気が漂っている。家々の軒は低く、格子戸はどこも閉まっていて戸の開いている商家はない。人の姿も殆どなく、車だけがときどき通る程度である。何か肩透かしを食らったような気がした。
奈良町風景1 |
奈良町風景2 |
奈良町風景3 |
- ここに元興寺(がんごうじ)が二つある。南北に少し間を置いて配置されているが、南はそれ程のものではなかった。北にあるのが世界遺産に登録されている。しかし両方とも兄弟ではある。
- その元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降いだいに衰退して、二つの寺院に分かれてしまった。
元興寺 |
甍は年代の違いで色が違う |
- 土一揆による火災にもあって、堂塔の大半を失い、焼け跡に民家が建ち辻が通っていつしかできたのが奈良町だと云う。土産物が並んでいる街並みを想像していたのであるが、静かな生活空間のように僕には思えた。
- 一方、飛鳥の法興寺は元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている。なんだか複雑な分かりづらい話になってしまった。今日の見学はこれで終り。宿は西隣に頭塔のあるウェル飛火野荘である。
頭塔 |
雨の奈良 |
<走行距離>582km
7月19日 <奈良盆地> - 奈良公園から、R169を構わず南下する。しばらくは道路の両側とも経済活動の活発な市街地が続く。天理市辺りが、奈良盆地の南北の中心点であり、川の流れの変換点である。盆地に降った雨が、北から流れる川と南から流れる川とが合流し、大和川となって西へ流れ大阪湾に注ぐ。盆地の中では、最も面積の広い地域である。
- この辺りは交通の要塞でもある。道路や鉄道の分岐が多い。景色もしだいに田舎風を帯びてくる。左手に笠置山地を控えて、山裾の果樹や農作物の様子をまじかに見ながら、のんびり走る。群馬県のそれと季節の違いを比較するのも楽しい。
- 右手は緩やかな下り斜面の先に平野部が広がり、更にその先は上り斜面になって、生駒山地・金剛山地の山稜へと続く。市街地の屋根を眺めるような僅かな高みを、国道はアップダウンを繰り返す。盆地特有の景色は甲府盆地に似ている。国道の道路標識は、ガイドブックにあるような観光地の名称を採用しているので、安心して走ることができる。
- 桜井市辺りも交通の要衝である。特に鉄道は盆地の環状線とともに、三重県や和歌山県との接続路線が敷設されている。次第に前方の山が迫って来た。奈良盆地の南端が迫ってきた証拠だ。そして明日香村に入った。
<飛鳥> - 最初に、飛鳥と明日香の二つの名称に戸惑う。これは僕だけでなく、大概の人が持つ疑問だ。結論としては、よく分からないというのが答えである。
学者の研究によれば、例えば万葉集で、
—飛鳥(とぶとり)の明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ—
にあるように、飛鳥は明日香の枕詞であり、地名としては明日香であろう。・・・というのである。
異説もある。用明天皇代(585年-587年)が、初瀬の皇居を飛鳥へ遷都し朝廷を開いたのが飛鳥・・・という記録があるそうだ。
近年においては、1956年の合併によって明日香村が生まれるまでは、この地域に飛鳥村が存在した。 - 飛鳥は奈良盆地の南部にある。三方を山に囲まれて、なだらかな丘陵と平地とが織りなしている。平城京遷都まで、飛鳥は大和朝廷が置かれた。敵方から攻められにくい地形として選ばれたものだという。
- 甘樫丘(あまかしのおか)に登ると、これらの山々に囲まれた田園風景豊かな集落があちこちに点在している姿が展望できる。万葉集にも詠われる所以である。
石舞台古墳 - 飛鳥で最初に見るのは、石舞台古墳と決めていた。入山の奥から見て下へ下ってくれば、どこかで昼食の店が見つかるだろうという単純な理由からだった。県道をくねくねと最初は小さな方向指示板に沿って走ったが、田圃の道はしだいに細くなってきた。多少心細くなったものの、カーナビは今のところ迷走していない。先ほどから前方を走っているタクシーも、この辺鄙な場所で客を乗せているのは、目的地が同じに違いないと思った。案の定、石舞台公園に着いた。そのままタクシーの後をつけたところ、そのまま公園を通り過ぎてしまった。どうやら更に上の関西大飛鳥文化研究所が目的地だったようだ。僕たちはUターンして公園の駐車場に戻った。
- 生垣に囲まれて石舞台はあった。ところでガイドブックには、石舞台のみがアップで撮られた写真で、その周囲が写されていない。古墳として選ばれた場所の背景となる様子がわからないのである。やはり現地を訪れてみなければ分からないと言うのが、今回の感想である。
- 場所は田園の途切れた山懐である。そう急ではない山が、屏風のように背後の北面を囲んでいる。右手の底部に沢が流れている。生垣を入ると空濠に囲まれて基壇という土塁があり、その中心に古墳が築かれている。
石舞台古墳 |
- 濠にかけられた橋を渡り正面から反時計周りに廻ると、正面右側に石室への入口があった。石段を下ると内部は10人程なら楽に入れそうな広さである。石舞台という外部から見た平らな石は、形状からそう呼ばれたものと思われるが、言ってみれば石室の天井の部分に当たる。
横穴式石室 |
石室内部 |
- 敷地の隅には石棺が展示してあるが、これと同様のものが石室に埋まっていたのだろう。誰を埋葬したのかと言うことであるが、今のところこの地で権勢を振るった蘇我馬子であろうというのが定説となっている。
- ここを辞去するまで他に観光客は皆無であった。
橘寺 - 石舞台を後にして、飛鳥川を渡った台地に橘寺がある。東門から入ったが、入口に拝観料は本堂でお支払いください。と張り紙がしてあった。しかし本堂に言ってみると、受付には誰もいない。鰐口を鳴らせば聞えるだろうと鳴らしたら直ぐに見えた。他に参拝者がいないので、ずい分丁寧に説明してくれた。
東門から境内 |
- 聖徳太子誕生の地に建ち、太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたものとされる。当初は、壮大な伽藍配置だったらしい。五重塔も有ったのだが雷で焼けってしまって、跡の塔心礎(心柱の礎石)がわずかに往時をしのばせる。
- 本堂の左脇には、二面石がある。飛鳥の謎の石造物で、左右両面に顔が刻まれ人の善悪の表情を、表裏一体にしたものだと云う。
二面石 |
- 敷地の南側には往生院があって、現代の画家達が描いたという天井絵が見事である。花の絵であろう。
- 僕たちが引き返すころに、同年配の夫婦が参拝に来た。
亀石 - 近くの交差点近くに亀石がある。車道の入口に手書きの案内板があるのだが、田圃の中の細道を入ってもそれらしき物は見当たらない。70mほど進むと、一軒のうら寂しい閉じた店があり、その角に小さな案内板があって左へ曲がった方向を指している。しかし周りを見回してもやはり見当たらない。示された方向に歩いて行くと、なんとその店の陰に隠れるようにして亀石が鎮座していた。交差点から距離にして如何ほどもないのに、まるで探検ゲームのような馬鹿ばかしさを感じてしまった。
- 巨大な花崗岩に亀に似た顔が彫られている。いつ、なんの目的で作られたかは謎らしいが、川原寺(かわはらでら)の所領の四隅を示す石標ではないかと云われている。言い伝えによれば、大和盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと、この地川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまったとか。亀を哀れに思った村人たちは、亀石を造って亀の供養をしたという。
亀石 |
- ここも僕たちの他には誰も来なかった。
飛鳥寺 - 飛鳥寺(あすかでら)は、元は法興寺と言った。その法興寺が、平城京遷都に伴って、現在の元興寺に移転した。明日香の法興寺はそのまま残り、名前を変えて飛鳥寺になったというややこしい話である。開基は蘇我馬子とされている。当初の法興寺は沢山の伽藍が並ぶ壮大なものであったらしい。
飛鳥寺正門 |
西門 |
- 僕らが境内に入った時は、珍しく若いカップルが見学を終わって堂内から出てくるところだった。入れ替わりに僕らが本堂に上がると、住職の指示で飛鳥大仏の前に座らされて一礼してから、寺の由来を説明してくれた。続いて見学順路の方向板にしたがって、発掘調査の資料を見て歩いた。
- 外に出ると、先ほどのカップルが裏口の方にまだいた。田圃の方にいた彼女がこちらにいる彼氏を手招きして呼んでいるのである。僕らも釣られて行ってみると、入鹿の首塚が立っている。
- 聖徳太子の在世中は、蘇我氏は朝廷に協力的だった。しかし太子が亡くなると政治の実権を握り横暴さを増した。その中心人物が蘇我入鹿である。入鹿は蘇我馬子の孫にあたる。
- 蘇我一族の横暴を阻止するために立ち上がったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)である。二人は同士を集め、宮殿の大極殿において天皇の前で入鹿の首を討ち取ったのである。入鹿の父親の蘇我蝦夷(そがのえみし)は自殺した。これによりに大化の改新が行なわれた。
- 打ち首の舞台となったのが、伝承により飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)であると云われている。このことから、初期の発掘調査で見つかった遺構についても、国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと) として登録されているとのこと。
- その後、入鹿の首を供養するために、蘇我氏の邸があった甘樫丘を望める飛鳥寺の西に五輪塔が建てられた。これが入鹿の首塚である。
入鹿の首塚-後方は甘樫丘 |
- 先ほどのカップルは終始、彼女の方がリードしていた。あまり興味を示さない彼氏をなかば強引に連れ回している感じだ。彼氏は透明のビニール傘なのに彼女は透明のビニール合羽である。僕たちに会釈して散策路の続く田圃の向うに消えて行った。
甘樫丘 - 甘樫丘(あまかしのおか)は、明日香村豊浦にある丘陵だ。丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。蘇我蝦夷・入鹿親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。
- 展望台から見た里の風景は、一言にして素晴らしい。どの山あいにも集落が形成されている。今ちょうど緑を増した稲が集落の周りを彩っている。集落の中には、先ほど訪ねた飛鳥寺も見える。
飛鳥寺が見える |
集落風景 |
- そういえば、集落の入口から飛鳥寺に行く僅かな距離の道は、両方に信号があって交互通行の文字盤が付いていた。道路工事で交互通行の仮設信号は当たり前であるが、常設の信号は初めてなので戸惑った。こうして展望台から見ると、集落の姿は昔からあまり変っていないのだろうなと思ってしまった。
- 展望台には方位盤が設置されている。大和三山は間近に見えるが、金剛山地は雨雲に透けて薄墨色の稜線が見えた。これから行こうとする法隆寺は、遂に探すことは出来なかった。登り口で5人程のグループとすれ違った他は、展望台には誰もいなかった。
<斑鳩>法隆寺 - 甘樫丘を後にして間もなく平野部に入る。もう正午を少し越したが、食堂はありそうもなかった。結局コンビニエンスストアの駐車場で、握り飯の簡単な腹ごしらえをした。しばらく経済活動の活発な地域が続き、そのうちに法隆寺の案内標識が登場し始めた。
- 斑鳩(いかるが)は、生駒山の東に広がる田園地帯であったが、現在は大阪のベッドタウンとなっているようだ。南に大和川が流れ、北には法隆寺の裏山にあたる矢田丘陵を仰ぐ。
- 国家形成の過渡期であった6世紀末、聖徳太子は20歳の若さで、女帝の推古天皇に代わって政務を司る摂政になった。豪族-蘇我氏の根拠地飛鳥から、斑鳩へ政治の中心を移した。そして聖徳太子の手によって創建されたのが、法隆寺の前身である斑鳩寺である。
- これには伏線がある。父、用命天皇が自分の病気の平癒を祈って寺を造りたいと願っていたが、実現できないまま亡くなってしまった。この意思を継いで、推古天皇と聖徳太子は斑鳩寺を造った。
- 時を同じくして、聖徳太子は中国の政治や文化を学ばせるために、遣隋使として留学生を派遣している。
- 法隆寺は世界最古の木造建築で、境内は西院と東院に大きく分かれ、それぞれが大垣と呼ばれる築地塀で囲まれている。
- 松並木の参道を抜けると南大門。中心の西院には、五重塔と金堂が並び、中門と大講堂をつないで回廊が囲む。東に向かって東大門を抜けると、夢殿のある東院が広がる。中国の影響を強くうけ、中門・回廊などの柱のふくらみは、ギリシャ建築のエンタシスの流れが見られる。
南大門
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ところで、僕たちの旅行はいつも駆け足である。時間とお金の両面がそうさせている。で・・・、法隆寺の南大門を入って驚いたのは境内の広さであった。実は今日の予定には、このあと薬師寺と唐招提寺を組んでいたのである。今さら飛鳥のゆっくりを反省しても仕方がない。これは超駆け足で見てやろう・・・と思った矢先、上品な同年輩の女性が近づいて来たのだった。 腕に腕章を巻き、首から名札をぶら提げた女性は、斑鳩の里観光ボランティアの会の会員だった。ガイドを進められた僕らは躊躇した。一応、案内時間を訊いてみると2時間半くらいはかかるという。目をかがやかせた笑顔には、僕たち夫婦は一番弱い。後の予定は明日に延ばせないかとまで言う熱心さには、僕たちは負けてしまった。その代わり1時間でお願いしたいという注文を聞いて貰うことで、協議は成立した。
中門 |
しかしガイドの説明はつぼを心得ていた。話をしているうちに客相をつかみ、臨機応変の説明をしてくれる。あまり質問をすると時間オーバーになるおそれがあるので極力控えた。しかし結果的には、自分達だけで漠然と見て歩くよりは、説明して貰ったほうが感心することしきりで、印象に残ったのである。
薬師寺 時間的には、まだ一箇所は見られるということで、薬師寺に移動した。ところが駐車場が中々見つからない。寺を一周するが、完全に住宅に囲まれている。結局、正門前の土産屋さんの私設駐車場にとめることが出来たが、これも観光の時期を外れていたから助かった。大きな駐車場は、来る途中にあったような気もしたが見落としたのだろう。 薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願い、藤原京に立てた寺であるが、平城京遷都に伴って現在の西の京に移した。優美な寺の姿とは裏腹に、皇位継承をめぐって、持統天皇に謀殺されたと言われる大津皇子像が祀られている。昭和42年から伽藍復興により次々と再建されている。多額の費用は、写経勧進により捻出されているそうだ。 朱塗りの中門をくぐると、東西に三重塔が配置されている。裳階(もこし)があるため、六重塔に見える。色鮮やかな西塔に対して、東塔は古色蒼然としている。1300年の創建当時の姿が残されているからだ。その後方に金堂がある。朱と緑と金をまとっていて、絢爛豪華そのものである。
金堂 |
大池から薬師寺 |
- ところで、ガイドブックを見ると、全景に川だか池だかがあって、後方には若草山が借景となり、そんな自然溢れる中に、薬師寺の金堂と二つの五重塔が悠然と構えているという写真が載っている。これには僕たちも完全に欺かれてしまった。さっきも言ったように薬師寺周辺は、現世の建築物に四周を包囲された、孤立無援の姿になっている。
- ともあれ、僕たちもその写真を撮りたいと思った。寺の職員にも訊き、迷った住宅地の少年にも訊いたりして行ったのは、大池であった。この池の西岸からなるほどガイドブックと同じ構図がとれる。如何せん、僕のカメラは2倍ズームでこれでは迫力は全くない。あとはいかにレタッチするかである。
- 今日はここまで、今夜泊まるかんぽの宿 奈良に遅れる旨電話して、引き上げたのである。宿の展望室からは、平城宮跡に復元された朱雀門がよく見える。
<走行距離>71km
7月20日 唐招提寺 - この朝、テレビで大雨被害の情報が放映された。特に長野県岡谷市の土砂崩れの様子が繰り返し映し出された。中央自動車道も通行止めになっている。これは参ったなと思ったが、迂回路を選択するすべは心得ている。生まれ故郷であるからだ。今日帰る予定であるが、見るべきものが一箇所残っていた。唐招提寺を見ないうちは帰れなかった。
- 伽藍の中心である金堂は、いま平成の大修理が行われている。平成7年(1995)の阪神淡路大震災で大規模な被害を受けたためである。金堂は素屋根に覆われて立ち入りができない。仏像も堂内から搬出されている。再び衆目に触れるのは、平成21年(2009)の秋 とされている。
講堂 |
- 東大寺で授戒の任にあたっていた鑑真は、5年後、朝廷から自由に戒律を伝えられる配慮がなされて、新田部親王の旧邸宅跡が与えられた。鑑真は、そこに私立の唐招提寺を創建した。招堤というのは、「御仏のもとに修行する人たちの場」という意味で、唐の高僧が仏教の戒律を講義することからきている。これを支持する人々からの寄進が多かった。
- やがて鑑真はここで死去するが、没後も金堂や東塔が建てられた。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、寺名も「唐律招堤」から「唐招提寺」に変更された。死去を惜しんだ弟子の忍基が作った彫像が、国宝の唐招提寺鑑真像になっている。鑑真の登場によって、朝廷の保護のもとに仏教は大いに発展したのである。
- それにしても、鑑真なる人物が高いリスクを厭わず、苦節10年を経て来日した執着の理由は、いったい何んだったのだろうか。
- 第1回目の渡航を計画したときは56歳であった。最初、遣唐使の要請を受けた際、弟子に渡日をを問いかけたが、誰も希望しなかったという。そればかりか、遣唐使も妨害を受け、逮捕されもした。
- 5回を数える渡航の計画は、いずれも暴風雨による失敗の繰り返しであった。第6回目の航海のとき、ときの皇帝は鑑真の才能を惜しみ、渡日を許さなかったという。遣唐使はひそかに鑑真を遣唐使船に乗船させて出航、暴風により南方まで漂流したが、遂に年も暮れて薩摩の坊津に到着したという。754年1月、鑑真は仏舎利を携えて平城京に到着。実に10年の歳月を要したのである。
- 3日間の旅行は予定どおり終了した。
<復路>
国道25号—東名阪自動車道—中央自動車道の駒ヶ根IC—高遠—茅野—白樺湖—佐久ICー上信越自動車道で帰宅。
諏訪湖の南岸の高速道路が土砂崩れによる通行止めがあり、青字の部分は一般道を通った。
増水した天竜川 |
霧の霧ヶ峰 |
- 僕等が中央自動車道の恵那山トンネル付近を走っていたときに、テトラポッドを積んだトラックが、何台も同方向に先を急いでいた。災害復旧に向かうためであろうと思われた。
- けっきょく、岡谷市から辰野町にかけての豪雨災害で、8人の死者が出てしまった。のちに気象庁は「平成十八年七月豪雨」と命名した。
<走行距離>507km
<3日間合計-走行距離>1,160km
<災害情報リンク>
2006年7月豪雨による長野県土砂災害
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