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 ここへ行ってきました 

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19.7.11〜13利尻礼文サロベツ国立公園・稚内

 日本最北端の国立公園を訪ねた。J旅行社の企画によるツアー旅行であるが、参加者は5組の中高年夫婦によるのんびり旅行であった。利尻礼文サロベツ国立公園とは、稚内市の抜海(ばっかい)から稚咲内(わかさかない)海岸、さらに豊富町・幌延町にまたがるサロベツ原野をいう。

<サロベツ原野>

  1. 雨模様の羽田空港を飛び立って新千歳空港に降り立つと、ひんやりとする曇り空だった。道央自動車道の深川ジャンクションから留萌に出て、海岸線に沿う日本海オロロンラインを走り、稚内までおよそ400kmが今日の行程である。
  2. 緑濃い平地林を左右に見て札幌市街地を抜けると、広大な農村風景が展開する。緑色のカーペットを敷き詰めた様は、広大な田園である。所を変えると麦秋の畑が点在する。麦は春蒔きと秋蒔きがあるそうだが、刈り取りを迎えているのは秋蒔きである。白花の男爵イモ、紫花のメークイン、玉葱畑と車窓の光景が限りなく続く。遠くの丘で陽光を浴びて白く輝いているのは、牧草のロールサイレージである。
  3. 石狩川は、支流の雨竜川とともに深川市・秩父別町(ちっぷべつ)あたりまで石狩平野をつくった。石狩川は、アイヌ語で「イ・シカラ・ベツ=蛇行を繰り返す川」が語源であるという。
  4. 明治時代に、多くの入植者が石狩平野の開拓を始めた。しかし泥炭層の土壌は水分を含むため、農作土には適さなかった。客土や排水の努力も行なわれたが、逆流のため効果がない。そこで、大正7年に河川の大改修を開始した。蛇行部分を直線的につなぐショートカットである。流速が増し川底は水流で削られ水位が低下した。各地の三日月湖はその名残である。
  5. かつて、石狩川の長さは日本一だった。もともと370kmあったものが、ショートカットによって268kmに縮められ、一位の座を信濃川にゆずることになった。流域面積も江戸時代前期までは、日本一だった。徳川家康が利根川の東遷を行ない、鬼怒川流域を侵略して、利根川の流域面積が石狩川を上回ることになった。
  6. 入植者が農地を開拓したとき、強風を防ぐために植えられたのが、成長の早いカラマツであり、点在する白樺の木は水分が多く、幹に穴をあけて採取した樹液で、入植者は喉をうるおしたという。それにちなんだ「森の雫」という天然ドリンクが売られている。バスガイドは、白樺の花粉症に悩まされると言っていた。
  7. 深川ジャンクションから自動車専用道路を乗り継ぎ、国道233号に降りると、そこは沼田町。ふと見ると「雪中米」と書かれた大きな建物があった。そんな銘柄の米は聞いたことがないな〜と言うつぶやきが耳に入ったのか、早速ガイドが反応した。とりたてのお米の鮮度を保つために、雪の冷気で籾(もみ)貯蔵をするスノークールライスファクトリーであるという。冬に苦しめられる無尽蔵の雪を逆手に利用する発想からうまれた。南西に位置する暑寒別岳(1491m)に季節風がぶつかり、大量の雪を降らせるのだという。銘柄は「ほしのゆめ」と「きらら397」である。
  8. 道路はしばらく山中を走る。山の斜面には、丈が2〜3mもあるクマザサが生えている。北海道には竹がないので、タケノコは笹の新芽を指すそうだ。オオイタドリもところかまわず生えている。昔は葉をタバコの代用にしたらしい。鮮やかなピンク色の群生はエゾノシモツケソウである。ハマナスは、本州よりも色が濃いな〜と同乗者が感心する。
  9. エゾニュウという、シシウドの仲間が真っ盛りである。いたるところに白い花を広げて、高さ3mくらいの群落を作っている。茎が赤紫色で直径5〜6cmはありそうだ。昔はアイヌの人達が中空の太い茎を乾燥させて、竹筒のように入れ物として利用したそうである。 ...
  10. JR留萌(るもい)線が、つかず離れずに並行するうちに、留萌市についた。かつてはニシンが水揚げされ、炭鉱の集結輸送で賑わったが、双方とも衰退し低迷から脱却できないでいるようだ。現在はニシンの魚卵を輸入し、カズノコの国内最大の加工地として知られる。昼食には、海鮮御膳なる献立にニシンの煮付けが出た。
  11. ハマナスの咲く日本海オロロンラインをバスで移動。オロロンとは、天売島(てうりとう)に住むウミガラスの別名で、その鳴き声から由来する。体長はカラスより少し小さい。頭と背中が黒く腹は白い。体つきがペンギンに似ている。繁殖個体が減少し絶滅の危機にある。その天売島は、羽幌町(はぼろちょう)の西30kmの日本海に浮かぶ島。兄弟島の焼尻島(やぎしりとう)とともに羽幌町に属している。
  12. 小平町(おびらちょう)は、昭和30年まで日本海に押し寄せたという鰊。当時の網元の栄華の様子を今に伝える歴史的建造物の旧花田家番屋がある。この辺りから空気の視程が良くなった。天売・焼尻の2島と利尻島が青いシルエットで見えてきた。ガイドは、こんなによく見えるのは珍しいという。


    旧花田家番屋



    小平町から利尻島 大空に舞う鳥


  13. 苫前町(とままえちょう)には民間事業者による39基、計50,600kWの風力発電施設が牧場内に設置されている。いままで厄介物だった風が町の大きな財源になったのである。この風車群は、宗谷丘陵までのあちこちに見られる風景となる。自然エネルギーとエコロジーは、まさに今風である。


    風力発電施設


  14. 遠別町(えんべつちょう)は、米作の北限地でもあるというが、酪農も盛んな地である。あちこちにロールベール・サイレージが転がっている。この風景は手塩(てしおちょう)・幌延町(ほろのべちょう)・豊富町(とよとみちょう)まで続いている。
  15. 道の両側がそろそろ湿原の様相を帯びてきた。ヒオウギアヤメの青紫色の花が草原を彩っている。北緯45度モニュメントのかなたに、利尻山が浮かんでいる。真直ぐな道に雪が降った時の路肩を示す矢印板が等間隔に並んでいる。この風景はいたるところで見られる。


    北緯45度モニュメントから利尻山

    路肩を示す矢印ポール



    沿道のヒオウギアヤメ


  16. サロベツ原野に着いた。原生花園を冷たい風が吹きまくる。サロベツ原野は、国内最大の高層湿原を有する国立公園。その昔、大陸の一部であったサロベツは、地殻変動と気象変動の地球時間を経て、現在の姿になった。サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ=葦原を流れる川」が語源とされている。
  17. 高層湿原の形成に関する説明板がある。「湿原は少しずつ変わってゆく」という標題だ。「沼地や川沿いなど、栄養分が多く、水位の高いところはヨシなどの低層湿原になっている。泥炭の堆積が進むと土壌は酸性化し、栄養分が少なくなり、水面より高くなったところにはミズゴケなどを中心とする高層湿原が形成されていく。」との解説がなされている。


    湿原の説明板


  18. 広大な原野は、酪農などの農地開発が行われ、泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットを行なったことにより、湿原の水位が次第に低下してきた。そのことにより、泥炭地が乾燥化し、笹が侵入してきたという。現在、サロベツ湿原の保全事業の研究と対策が実施されている。サロベツ原野を国立公園に指定する際、消極的だったのは豊富、幌延両町である。「大規模(おおきぼ)草地」の営農に影響がおよぶからである。湿原を守る為には、広い範囲を指定しなければならないが、そんなこんなで地域を限定して公園化されたと聞く。
  19. しかし関係者の努力によって、「サロベツ自然再生事業」が行なわれている。「湿原と農業との共生」をもとに、乾燥化しつつある湿原を復元しようというのである。多分野の関係者が連携合意のうえで事業を進めている。


    自然再生事業

    観測機器類


  20. 原野では、低層・中層・高層の各湿原ごとに、それぞれの特性を持った花が見られる。原始砂丘林内では山地性の花、海岸線にはエゾカンゾウやエゾスカシユリなどである。その種類は500種を越えるという。2005年にサロベツ原野は、水鳥にとって貴重な生息地として、植物採取や埋立などの人為的開発から保護するラムサール条約の登録地となった。


    原野の花たち


  21. 原生花園の木道を一巡りして、その広大な景観に目をみはった。原野の向うには、雲を冠った利尻山が浮かんでいた。


    サロベツ原野から利尻山


  22. サロベツ原野の公園に指定されていない区域では、牧草が生産されている。自家使用だけでなく、本州にも1ロール2〜3万円で出荷しているという。


    ロールベール・サイレージ


  23. 稚内公園は、稚内市の西の丘陵にある。宗谷湾を渡ってくる烈風の”やませ”が身を震わせる。初夏から夏の時期に吹く、オホーツク海気団からの季節風である。


    稚内市街地


  24. その公園内には、いくつかの記念碑が建っている。代表的なものをご紹介する。

    氷雪の門—戦前、南樺太が日本の領土だった時代、ここには実に45万人もの日本人が住んでいた。氷雪の門は、この地で亡くなった日本人のための慰霊碑である。中央の女性像は、戦争で受けた苦しみの表情でありながらも、早く立ち直ろうとの意思を表している。
    九人の乙女の碑—昭和20年(1945)終戦から5日後の8月20日・・・、ロシア軍が樺太真岡(まおか)に上陸し、街は戦火と化した。その中で郵便局の電話交換業務に就いていた九人の乙女が、死を以って職場を守り、いまはこれまでと青酸カリをのみ花と散った。


    氷雪の門

    九人の乙女の碑
    <九人の乙女の碑—追記>
     この項目については、ノンフィクション作家の川嶋康男氏が長年にわたって真相の掘り起こしを行い、2008.8.20日、河出書房から発行された文庫版「永訣の朝」に赤裸々な真実を明らかにしている。それは・・・
     “卑怯にも郵便局長が戦禍を恐れて、職場を放棄した。密室状態に置かれて指揮者を失った乙女たちがとった行動は、逃げることではなく、ロシア兵の凌辱から身を守るための自決だったのだ。”
     文庫版の発行とほぼ時を同じくして、2008.8.25日、日本テレビ系列のドラマ「霧の火−樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち−」が放送された。自決した乙女たちの悲劇に改めて涙するのであった。


  25. 稚内市に入り地物寿司と稚内名物御膳とやらの夕食。薄墨色に暮れたころホテルに入った。

<利尻島>

  1. 利尻島は、稚内市から南西およそ40kmの日本海に浮かぶ島。東日本海フェリーで1時間40分、ペシ岬展望台を右に見て、鴛泊(おしどまり)に入港。


    ペシ岬


  2. 島の中心には利尻山(利尻富士1,721m)がそびえている。幾たびもの火山活動による噴出物が積み重なってできた成層火山である。アイヌの言葉で「リイ・シリ=高い島・海に浮かぶ山」と呼ばれ、航海をする上においても、古くから道標的存在であった。
  3. 山容は標高500m以上が浸食されて荒々しく、それよりも下は緩傾斜の溶岩台地または扇状地形を示す。沓形溶岩と呼ばれる、丸みを帯び多数の細かい穴が空いている溶岩をみることができる。利尻島の東部山腹には、浸食谷の涸沢が多い。伏流水は、溶岩流や扇状地の地下を浸透し海岸付近や海面下で湧水となる。
  4. はるか昔、サハリンと北海道は一体だった。旧石器時代に海水面が上がり、二つに分離され、宗谷海峡ができた。縄文時代の本州産のヒスイその他のアクセサリーが発見される一方、サハリンの影響を受けた土器も発見されている。
  5. 利尻島には、二つの自治体がある。東側の利尻富士町、西側の利尻町である。平成の大合併では、お互いに譲らず現状が維持された。しかしガイドブックはことさら町名にはこだわらない。なおさら観光客はそれを意識せずに、この島を訪問する。島民の人口は約5,800人。
  6. 日本海沿岸でニシン漁が栄えたころは、利尻島においても同様であった。しかし昭和30年にニシン漁が衰退し、利尻昆布・ウニ・タコ・カレイを主体とする沿岸漁業へと形態が変化した。更に近年では、鮭の孵化放流やウニあわび種苗の放流、利尻昆布の養殖・ホタテの養殖と、育てる漁業のほか、投石や魚礁、岩礁爆破と漁場造成にも力を入れている。ウニは利尻昆布を好んで食べるため、そのぶん昆布の品質と収量は落ちるのだろうが、それを上回る利益があるのであろう。とにかく漁業と観光が利尻町の産業の両輪になっている。
  7. 鴛泊からバスで時計回りに周遊する。最初が姫沼である。原生林に囲まれた周囲約1kmの静かな沼。周囲に遊歩道があって、15分ほどで一周できる。大正6年に、点在する小沼と湧き水を利用して造られた湖で、ヒメマスを放流したことから名付けられたというが、太古からあるような雰囲気がある。
  8. 利尻・礼文は、熊も蛇もいないので、小動物は安心して生息できるという。この日は利尻山は雲に隠れて見えなかった。樹林の中で姿は見えねど、コマドリが鳴いていた。沼の真ん中に、羽が薄墨色で、それ以外が白い水鳥が数羽浮かんでいる。青サギだろうかと思ったが、浮かんでいるのが腑に落ちない。ガイドに聞いてみたらカモメだった。海水の塩分を落とすために真水で羽づくろいをするのだという。樹木にからまるツルアジサイの白い装飾花が暗い樹林に彩りを与えていた。


    姫沼


  9. オタトマリ沼でも利尻山の姿は見えなかった。姫沼よりは大きく、背景の森林に蔽われた丘陵に抱かれているようだ。晴れていれば利尻山の雄姿が見える筈である。北海道を代表する銘菓「白い恋人」のパッケージデザインはここなのだそうだ。


    ツルアジサイ


  10. オタトマリ沼は島の南部にあり、爆裂火口の底が泥炭地となった沼。周囲は湿原で、利尻山を控え、アカエゾマツの森が沼の背景になっている。姫沼より大きく風景にも広がりがある。駐車場や売店から沼を眺められるためでもあろう。
  11. 散策路を一周しようとしたが、女房殿が、活ウニ寿司に惹きつけられて行ってしまったので、仕方なく僕もあとをついていった。結果的には満足し、ついでにハマナスのソフトクリームも賞味した。焼きホタテにも未練があったが、昼ちかいので我慢した。


    オタトマリ沼


  12. 仙法志御崎公園で、ようやく利尻山が姿を現した。ここには利尻昆布の製造直販店があって、見学と味見を楽しめる。利尻昆布は今が採取の季節である。今しも店前で昆布の乾燥に余念がない。


    仙法志御崎公園



    昆布の乾燥

    とろろ昆布の製造


  13. ここからは、利尻山のもっとも猛々しい姿を見ることができる。利尻山が噴火した時に海に流れ込んだ奇岩怪石が多く、しばらく行った先には、寝熊の岩と人面岩がある。どこの観光地でもそうだが、何かに似ている岩や石に名前をつけて、地元の人たちは話題性を高めようとする。それがなんともいじらしい。とにかく海岸美は一見の価値がある。


    利尻島最南端風景

    溶岩


  14. 島の北西部では、バスの車窓から利尻山がよく見える。森林におおわれた円錐形の山容が雄大だ。山峰のキレットには残雪が何筋か見える。


    島の北西部から利尻山


  15. 北の海上を見ると、青いシルエットの礼文島が浮かんでいる。天気も良さそうだ。鴛泊港で昼食を摂り、フェリーで礼文に向かう。2回目の乗船であるから、かって知ったる席に直行した。


    前方に礼文島

    洋上から利尻山を振り返る

<礼文島>

  1. 利尻島の鴛泊港から40分で、香深(かぶか)港に入港。
  2. 礼文町は、稚内の西方60kmに位置する日本最北の島。最高峰の礼文岳(標高490m)を中心に南北29km、東西8kmのなだらかな丘陵性の地形が広がっている。冬の厳しい偏西風を受ける西海岸は切り立った断崖絶壁が連なり、東海岸はなだらかな山並みが続いている。夏には約300種の高山植物が咲き乱れる。島の人口は、約3,200人。
  3. 高山植物というよりも、北方性植物といった方が当たっているかもしれないが、礼文島になぜ北方性植物が多く自生するのだろうか。その疑問に対する答えはこうである。今から2万年前の氷河時代には、日本海の海面が低く、礼文島は大陸と陸続きであったと考えられている。北極周辺や高山帯から南下した北方性植物は、礼文にまで達する。氷河期が終れば、北方性植物は南の植物たちに追いやられて、北へ戻るはずである。ところが、日本海の海面が上昇し、孤島となった礼文島には、南の植物たちが入り込めなくなった。その結果、北方性植物は北へ追いやられずに済んだ。こうして礼文島には、レブンと冠する植物が多く生き長らえたというのである。
  4. 礼文林道を往復し、約2時間かけて現地花ガイドが解説してくれる。いっけん、割合に素性がいいから白樺だろうと思った木が、実はダケカンバであったりする。海に近い低海抜なのにである。ガンコウランの実が熟すころ、烏が好んで食べに来るとか、中部山岳のヨツバシオガマに比べて、レブンシオガマは、花の段数が格段に多い。実際に数えてみると30段ほどあった。それはなぜか、虫の少ない土地なので、長い期間にわたって受粉の機会を保とうとする花の智恵だとかである。本州のニッコウキスゲは黄色だが、北海道のはオレンジ色の違いがあるので、区別してエゾカンゾウというのにも成る程とうなづいたりする。
  5. この季節、特に目に付いたのは、赤紫のレブンシオガマ・卵の黄身の色をしたエゾカンゾウ・紫色のチシマフウロである。
  6. 礼文島は寒かった。雨具の上着を防寒衣がわりに着て4枚重ねで寒さを凌いだ。風が強い場合は、体感温度が低く感じられる。帽子を三回飛ばされたが、帽子クリップのお蔭で谷底に消えずに済んだ。


    林道から桃岩


  7. 林道の上の方で異様な光景を見た。なだらかな谷のこちら側は広葉樹の斜面、谷の向うは針葉樹の森である。双方の中間部は、遠くから見ると、いっけん美しく見える緑の斜面が広がっていた。さらに歩を進めると、緑の斜面の上部が縞模様になっている。自然の縞枯れ現象化とは違い、どう見ても人為的な風景としか思えないのである。緑の草原は笹原だった。等高線に沿うように刈り取って、何かを植えてあるのである。
  8. 不審顔に気付いたらしく、花ガイドが解説してくれた。二度にわたる明治の大火で、笹が侵入し、元の植生に蘇ることができなかったというのである。現在、林野庁が植生回復に挑戦している。なんと言っても、礼文の大切な水源林であるからだ。アカエゾマツとナナカマドを植えたが、厳しい気象条件に対しては、人間の力は無力であるらしい。


    植生回復事業


  9. 稜線に出た。東の香深港、西の元地海岸の漁村が眼下に見える。礼文林道の中間点に小さなピークがあって、そこにレブンウスユキソウの群生地がある。もちろん他の高山植物も豊富。利尻山にかかる雲の形が刻々と変る。


    礼文の稜線から利尻山

    稜線西側の山並み


  10. 東海岸を北上し、久種湖(くすこ)を左に見て、澄海岬。急な階段を登って、視界が開けるとそこはあっと驚く別天地。すこし場所を移すだけで、バリエーションに富んだ景色が展開する。断崖に囲まれて穏やかに澄んだ入江が紺碧の海へと口を開けている。岬の高みからは、陽光に輝やく西海岸の断崖絶壁が見える。


    澄海岬の西側海岸

    澄海岬


  11. 澄海岬は、過去に水中公園を造る計画があったらしい。ところが西海岸が国立公園に指定されたことで、その計画は東に変更された。結果的に景勝地は、手付かずのままでよかったと思われる。
  12. スコトン岬は礼文島最北端にある。海をはさんでその先には、無人のトド島が浮かぶ。オオセグロカモメ、ウミウなどの繁殖地である。晴れた日には遠くサハリンを望むことができるそうだ。猛烈な風に吹き飛ばされそうになって、早々に土産店に飛び込んだ。ところで、近くの道路標識には、スコトンは漢字で”須古頓”と書いてあった。


    スコトン岬からトド島


  13. 香深のホテル着。夕食は次々と出てくるウニ尽くしの料理に舌鼓を打ち、贅沢気分を味わう。今年度5月下旬から、この地区で温泉ボーリングを開始した。いずれは温泉街となるだろう。


    香深の繁華街


  14. 翌朝、香深港から出港、稚内港に向かう。

<稚内>

  1. 礼文島の香深港からフェリーで1時間55分、フェリー乗船3回目はすっかりなれて、もっぱら甲板やデッキから遠のく礼文・利尻、近づく本島の景色を楽しむ。他の乗客もほぼ旅を終えて、カモメと遊んで満足な顔をしている。


    餌に寄ってくるカモメ


  2. 稚内港に着く。稚内は、アイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ=冷たい水の出る沢」が語源である。江戸時代、アイヌの人々との交易の場として、また北方警備の要所として栄えた。日露戦争後の明治38年(1905)、南樺太が日本の領土となり、樺太との行き来が盛んであった。戦後サハリンとなり、定期航路が開かれて交流もさかん。水産・酪農・観光の三本柱で生活基盤を支えている。


    稚内港


  3. 稚内港が、かつて樺太との連絡港としての役割を担っていたころの、歴史的遺産である北防波堤ドームがある。設計者は北海道大学を出た、北海道庁の新進気鋭の技師-土谷実である。北埠頭が樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、昭和6年から昭和11年にかけ建設された防波堤である。樺太へと渡る人々で賑った頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊である。昭和55年に改修工事で総延長427m、半アーチ式の雄姿がよみがえった。


    北防波堤ドーム入口側

    北防波堤ドームの内部


  4. 北防波堤ドームに近接した広場には、稚泊航路記念碑がある。大正12年、鉄道省により稚内〜大泊間に連絡航路が開設され、終戦とともに閉鎖された。167kmの海上を約9時間を要し、宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘が続いた当時を物語る。もう一つ、その頃に活躍した蒸気機関車の主動輪が展示されている。C55型の49番目に製造された機関車に使われた。


    稚泊航路記念碑

    C5549の機関車主動輪


  5. ノシャップは、アイヌ語で「ノッ・シャム=岬がアゴのように突き出たところ・波のくだける場所」が語源である。晴れていれば、浮島島・礼文島・サハリンの島影を一望できる。ここで昼食。岬には紅白の横縞に塗られた高さ42.7mの灯台がある。島根県の灯台に次いで2番目に高い。
  6. ところで、ノシャップは野寒布と書く。いっぽう根室半島には「納沙布」と書いて「ノサップ」 と発音する岬があるが、語源は同じようだ。

    ノシャップ岬

    背後は灯台


  7. 宗谷丘陵に向かう。ノシャップ岬と宗谷岬とはお互いに見える位置にある。上を向いて口をあけたような関係だ。進むほどに元きた場所が懐かしく遠望できる。ガイドの説明では、湾の中間が、気象学のオホーツク海と日本海の境界で、地理学では、宗谷岬であるという。
  8. 右手になだらかな宗谷丘陵が広がっている。背の低いミズナラが繁茂しているが、強風のせいだろうか。


    宗谷丘陵のミズナラ


  9. 宗谷丘陵は、高さ20mから200mで、稜線が丸みを帯び切れ込んだ谷もない。一面の笹と、まばらな低木に覆われて、どこも同じような様相を呈している。それが本州では見られない雄大な光景として映る。
  10. その成因は、1万年前の氷河時代にさかのぼる。地表が凍結と融解を繰り返していると、流土現象という土壌中での対流が起きる。地表は稜線の角が崩れ落ちて丸みを帯びていく。険しい山地も、平坦でなだらかな波を打ったような”波状地”になる。これを周氷河地形というそうだ。周氷河作用が働く地域は、年平均気温が0℃以下の地域だという。
  11. 明治の中頃までは、丘陵全域に森林が生い茂っていたが、相次ぐ山火事のため、今では一面笹に覆われてしまった。
  12. その山はいま牧草地として利用されている。昭和59年(1984)から農用地開発事業を行ってきた。輸入の肉専用種と和牛との交雑種が生産されており、和牛のおいしさがあり体格のよい肉牛は“わっかない牛”として出荷されている。牧草を中心とした飼育方式を採用し、5月下旬から10月下旬まで放牧されている。その頭数は3,000頭という。


    黒い粒々が牛

    牛舎


  13. 丘陵には、自衛隊のレーダー基地もあり、風力発電施設もある。このなだらかな山はスケールの大きな使われ方をしている。


    丸山レーダーサイト


  14. 牧場のある丘の先端から坂を下ると、宗谷岬である。観光バスが次々に入れ替わる。宗谷岬の突端には、日本最北端の地の碑が建っている。北極星をモチーフにして、その一稜をかたどった三角錐とのことであるが、僕には旧樺太に向けての想いを訴えているような気がしてならない。


    日本最北端の地碑


  15. 間宮林蔵の立像もある。林蔵は、茨城県の探検家。文化5年4月、幕府から命を受けた林蔵は、松前奉行支配調役-松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発した。宗谷岬から西へ3kmのところには、間宮林蔵渡樺出港の地がある。林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれている。同年7月、第2次樺太探検のため、アイヌの船に乗って出発し、樺太が島であることを確認した。この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名された。


    間宮林蔵の立像

    間宮林蔵渡樺出港の地


  16. 3日間の快適な旅は終わった。稚内空港から羽田空港までの直行便で帰る。

<リンク>
1. はなガイドクラブ
2.「写真提供サイト-風景写真館」  宗谷丘陵の周氷河地形

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