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20.1.22〜23三浦半島・鎌倉 僕たち夫婦が旅行する季節は、日の長い6月を中心とする4月から10月までが多かった。それが、あえて厳寒期に挑戦したのが、今回の旅行だ。スタッドレスをはかなくても済みそうな場所として選んだのが、南関東のこの地である。 三浦半島へは、関越自動車道の練馬ICから環状8号線を抜け、第三京浜にのるルートをとった。連続走行の所要時間は、目的地の観音崎まで3時間である。観光のテーマは、黒船来航の歴史と、北原白秋にゆかりのある城ヶ島、それと帰途に立ち寄る、古都鎌倉とした。 <三浦半島> - 第三京浜-横浜新道-国道16号-横浜横須賀道路と、四つのハイウェイを乗り継ぐのであるが、それぞれのジャンクションで、レーンを間違えないようにと、かなり緊張した。カーナビがあるからと甘く見たのである。結果的には、道路に設置してある案内標識の誘導に従うことで間違わずに通り抜けた。
- 横浜横須賀道路の終点佐原ICでおり、東に向かうと神奈川県立観音崎公園がある。バス停周辺に駐車場があり、目の前に海岸が広がっている。観音崎園地である。海岸美と照葉樹の広大な森が好対照だ。
観音崎園地の砂浜 |
浦賀水道を船が行く |
- かなたに房総半島が展望できる。最も近距離にあるのが千葉県の富津岬で、6.5kmの狭水道である。ここは、東京湾と浦賀水道の境界に当たる。浦賀水道とは、観音崎-富津岬ラインと、三浦市剱崎-館山市洲崎ラインに挟まれた海域をいう。
- 観音崎園地から岬の高台を見上げると、照葉樹林から天空を突き抜けるように、東京湾海上交通センターの塔頂部が見える。浦賀水道から東京湾に出入りする船舶の交通整理に当たっている。
観音崎と海上交通センター |
- ペリーが江戸湾に侵入を企てた幕末以後、太平洋戦争まで、この岬は防衛上の重要な要塞であった。戦後においても海を守る要塞としての立場は変らず、ゆえに民間開発の付け入る余地を与えず、豊かな自然が残された。
- 観音崎の由来は、江戸時代、海に面した岬の先端に、観音寺と呼ばれる寺があったことによる。その境内には常夜灯があり、江戸に出入りする船の目標としていた。江戸時代の灯台は、石積みの灯明台で、菜種油を燃やしたり、かがり火を焚いたりしたという。
観音寺跡 |
- 鎌倉時代には、浦賀水道の海上交通が盛んになり、江戸時代に入ると、その重要性が増し、1720年には浦賀に奉行所がおかれた。嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船が来航し、ついに日米和親条約締結。引き続き、イギリス・ロシア・フランス・オランダと条約を結ぶこととなった。欧米の船舶が江渡湾へ入港する数が激増。航路の安全が急務となり、慶応2年(1866)に結ばれた江戸条約に基づいて、8か所に洋式灯台の設置が決定された。観音埼灯台もその一つである。世は、幕府から明治新政府にかわり、明治2年(1869)元日、日本最初の洋式灯台として点灯。このとき建設に当たったのは、横須賀製鉄所に雇われていた、フランス人技師ヴェルニーである。現在の灯台は三代目だ。11月1日が“灯台記念日”として制定されたのは、観音埼灯台の建設を始めた日を記念してのことである。
山上に観音埼灯台 |
- 見学のため、「のぼれる灯台」が全国に14基あるが、観音埼灯台はその一つ。現在は無人灯台であるが、観光用の受付窓口で料金を払い、螺旋階段を登る。
観音埼灯台 |
- この季節は北風が強く、身を切るような冷たさだ。展望はよく利いて、帽子を飛ばされないように片手で帽子を押さえ、片手でカメラのシャッターボタンを押す。
房総の富津岬が見える |
- ちょっと脱線するが、海岸線を旅行したときに気がつくのは、灯台の名称に“埼”の字が使われている場合が多いことである。“観音埼灯台”もしかり。これは、海図を作製していた旧海軍水路部の流れを受けて、海上保安庁が用いているものと言われる。一方、地形図を作製していた旧陸軍陸地測量部の場合は、“観音崎”を用い、現在の国土地理院が引き継いでいる。
- 観音埼灯台から、山稜の岩をカットした”切り通し”を通って、東京湾海上交通センターへ移動。
切り通しを行く |
東京湾海上交通センター |
- 国防上、重要な海域として、明治14年(1881)から大正10年(1921)にかけて、浦賀水道を見下ろす高台に三つの海堡が建設されたが、いまはレンガ造りの砲台跡だけが残り、その付近に、昭和52年(1977)海上保安庁東京湾海上交通センターが設置された。
砲台跡 |
- 「海の見晴らし台」があるが、樹木に阻まれて僅かしか見ることができない。ここは砲台跡に設けられたものである。折りしも一人の中年男が展望台の縁石に腰掛けて髭をそっていた。この真昼間にどうしたことかと訝ったが、下の園地をみると、クロスバイクが置いてあって、それに靴下などが干してある。この寒い時期、野宿をしながら自転車旅行かと思ったりしたが、そんなことはあるまいにと、自ら否定し、何となく気味が悪くて、声を掛けることも出来ずに退散した。
海の見晴らし台 |
- この岬の最後の見学地は、”戦没船員の碑”である。第二次世界大戦や、海難事故の犠牲者の霊を慰め、あわせて平和の願いをこめて建てられた。高さ24mの白磁の碑壁と、かつて練習船だったときの錨、殉職者群像などが、太平洋の見える稜線に建てられている。
戦没船員の碑 |
殉職者群像 |
- 観音崎を離れ、浦賀に向かう。幕府は外国貿易の根拠地にしようと考え、享保5年(1720)に浦賀奉行を置き、江戸湾に出入りする船の船改めを行った。浦賀の町は大いに栄えた。嘉永6年(1853)ペリーの来航に端を発し、幕府は大型船の建造をするために、浦賀造船所を設置した。浦賀ドックとも呼ばれて、戦後も艦艇建造を続けたが、その後、建造の主力は横須賀造船所に移り、平成15年(2003)に完全閉鎖された。
- 浦賀港は1.5kmもの深い入江になっていて、両岸の住民が利用する「浦賀の渡船」がある。当初は民営の渡船であったが、現在は横須賀市営となっている。
浦賀港 |
浦賀の渡船 |
- 「浦賀の渡船」の隣りには、「関東大震災慰霊塔」が建っている。浦賀の町民202人が犠牲になったという。
関東大震災慰霊塔 |
- この渡船場から、海岸線に沿って南下すると、細い道となって行き止まりが浦賀灯明埼だ。ここに江戸時代の灯明台が復元されている。白い岩礁と小さな浜、松林に囲まれて、コンクリート製の燈明堂が復元されている。四角の二層やぐらが組まれていて、階下は番人小屋、階上は四方が紙張障子、金網でガードされている。いかにも和式灯台という雰囲気だ。中には灯明皿が置かれ、灯芯で火をともしていた。燈明堂ができたのが慶安元年(1648)であるから、観音崎の洋式灯台ができる以前からあった。明治5年に廃止されるまで、220年もの間7km先まで光を届け続けたという。来航したペリーも指標にしたことであろう。
燈明堂 |
- ここは、かつて浦賀奉行所の処刑場であったという。首切場と呼ばれ、供養碑が建っている。
供養碑 |
- 灯明埼を後にして次は久里浜だ。県道のアップダウンを越すと、眼前が開けた。陸上自衛隊久里浜駐屯地や、横須賀刑務所などの国の施設がある。平作川の開国橋を渡ると、きれいな街並みが姿を現した。
- 久里浜港の県道沿いにペリー公園がある。園内には「ペリー上陸記念碑」と、来航当時の資料などを展示した「ペリー記念館」がある。
ペリー上陸記念碑 |
ペリー記念館 |
- 入館料が無料なので、それほどのものはないだろうと思いきや、さにあらず。まず玄関を入った正面に黒船のジオラマがある。アングルは海から見た風景だ。黒船が浦賀沖に停泊し、威容を誇示している。艦隊後方の背景は、左手が三浦半島陸地、中央に浦賀水道、右手に房総半島を望見している。その遠近法はリアルそのものだ。
黒船のジオラマ |
- 二階にはペリーの傲慢な容貌の肖像写真があり、たくさんのパネルが掲示されている。江戸湾に侵入し、示威行動をとった艦隊の航跡図がある。久里浜に上陸した軍隊の隊列行進の絵巻物、異人の顔や服装のスケッチがある。部屋の真ん中には浦賀陸地のジオラマ地図を置いて、奉行所や燈明堂などの位置が押ボタンによってランプ表示できる。それらの展示品は、すべてガラス張りで保護管理されている。これほど理解しやすい展示テクニックには感心した。
ペリーの肖像写真 |
- 久里浜港は、房総半島の金谷との間に、東京湾フェリーが運航されている。35分間のクルージングであるから、千葉県へのアクセスが便利だ。それを左に見過ごして城ヶ島へ向かう。
- “城ケ島”、響きのいい地名である。以前から訪れたいと思っていた。それが今回の旅にもなった。もともと子供のときにラジオで聴いた歌の記憶もある。北原白秋の「城ヶ島の雨」だ。
- 白秋は福岡県柳川市の海産物問屋に生まれた。稼業が破産して、白秋が25歳のころ一家で上京。明治44年(1911)、26歳のときに詩集「思い出」を刊行して世に認められた。しかし27歳のとき、隣家の人妻と関係を持ち、監獄に入れられるという事件を起こした。翌年の大正2年(1913)、白秋はその人妻と結婚し、三浦半島南端の三崎町向ヶ崎に移住。対岸に城ヶ島の遊ヶ崎が望めた。その年の秋、城ケ島の情景を詠ったのが、「城ケ島の雨」である。
向ヶ崎から城ヶ島 |
- その歌碑が現地に建てられている。三浦市の南端から城ヶ島大橋を渡り、ループの道路を一周すると駐車場がある。ここから大橋の下を砂浜に向かう。
北原白秋 詩碑 |
白秋記念館 |
- 砂浜には、帆型の自然石に白秋の自筆の文字を刻んだ詩碑が立っている。このあたりは遊ヶ崎というが、城ヶ島大橋の建設にともない、少し離れた場所から現在地に移設された。碑の近くには「白秋記念館」があり、遺作「三崎時代ノート」などが展示されている。
城ヶ島の雨
北原白秋 作詞/梁田貞(やなだただし)作曲
大正2年(1913)
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
ええ 舟は櫓(ろ)でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ
<サウンドは”きょうこ”さんから提供していただきました。
>
- 白秋はこのころ、父の家業の失敗や、自身の不倫事件などもあって、失意の極貧生活をしていた。そんな中で、向ヶ崎から対岸の城ケ島を眺めたときの情景を詠ったものだという。
「利休鼠-りきゅうねず」とは、色の和名で、利休の死後、後世の人が名付けたものであるという。緑色を帯びた鼠色で抹茶を連想し、茶人・千利休にこじつけたものらしい。白秋は、いまの自分は灰緑色に沈んだ、この城ケ島と同じではないかと思ったに違いない。
「それとも私の忍び泣き」も、失意のわが心境を詠ったものであろう。
「通り矢」とは、向ヶ崎の東側にある岩場である。
白秋は、その後1年余りで離婚した。
- 島の東側には、県立城ヶ島公園がある。強風のために変形した黒松の林に、八重水仙が咲き誇っている。展望台からは、浦賀水道に出入りするさまざまな船が見られる。三浦半島の陸地はもちろん、房総半島・伊豆半島、その中間には、シルエットの伊豆大島が薄青色に浮かんで見える。まさに360度の大パノラマだ。
城ヶ島公園 |
城ヶ島から陸地 |
- 圧巻はウミウ展望台からの眺めである。切り立った海蝕崖に、へばりつくように黒点がうごめき、あるいは飛来している。生息期間は、11月から4月、県指定の天然記念物である。
ウミウ展望台 |
- 今日の行程は終わった。宿はマホロバマインズ三浦、三浦半島を代表する大型リゾートホテル。循環式ながら塩化物泉が気分を一新する。10階の居室からは、三浦海岸が視界いっぱいに広がって見える。その両端は緑の岬で終わっている。相模灘の向こうに、南房総がかすんで見えた。
三浦海岸 |
<参照リンク>利休鼠-
友禅ネット
<鎌倉> - 昨夜、みぞれが降った。物陰はうっすらと白くなっていた。今は雨、路面の凍結はない。天気予報はこれから関東地方の積雪の可能性を報じていた。帰路の高速道路が凍結すると、雪対策をしていない僕にとっては気掛かりである。交通情報を聞き逃さないように、ラジオはTBSからNHKに切り換える。取りあえずは予定どおり鎌倉をめざした。
- 高徳院に着く。車からおりると少し風が強く、傘を挿す観光となった。けっきょくこの日は一日中そんな天気が続いた。
- 高徳院は、江ノ島電鉄-長谷駅の北側に位置し、鎌倉大仏の名で親しまれている。大仏の高さは11.31m、重量は121tある。現在の大仏は青銅で鋳造され、建長4年(1252)に起工、数年で完成した。仏像としては、鎌倉で唯一の国宝に指定されている。完成当時は全身に金箔が施され、大仏殿内に安置されていたが、その後に地震や津波で大仏殿が崩れ、露座の大仏になっている。口元から頬につなぎ目のようなものが目立つが、酸性雨のせいだろうか。不謹慎な言い方だが、やーさんを連想してしまった。
高徳院 大仏 |
- すぐ近くに長谷寺があり、高徳院に車をおいて歩いた。長谷寺は、長谷観音とも呼ばれ、鎌倉時代以前からある古寺である。本尊の十一面観音は、木造の仏像では日本最大、9mを超える高さから見下ろしている。観音堂が建っている上境内には、見晴らし台があり、鎌倉の海や長谷の街並みが一望でき、さらには三浦半島まで望むことができる。下境内には、妙智池と放生池の2つの池が配され、ロウバイが見ごろであった。珍しいのは、下境内の右手に弁天窟というのがある。 山の砂岩に洞窟を掘り、窟内壁面に弁財天と十六童子が彫られている。
長谷寺 |
- 北鎌倉へ車で移動する。一転して賑やかなのは、修学旅行の生徒たちが大勢いたからであろう。北鎌倉駅に隣接し、円覚寺がある。専用駐車場に車をおいて、他の3箇所を歩いて参拝することにした。というのは、オフシーズンのため、駐車場の時間制限がなかったからである。夕べ降ったシャーベット状の雪が、うっすらと路面を覆っており、足元を確かめながら歩くことになる。
- 境内には常緑樹も多く、背後の自然林は照葉樹が鬱蒼としている。三門をくぐると、仏殿。円覚寺は、時の執権北条時宗が弘安5年(1282)に創建した。蒙古軍が来襲した文永・弘安の役。国を挙げて、この難敵を撃退したが、両軍ともに多数の死者が出た。時宗は敵味方ともに、菩提を弔うため、寺院の建立を発願したという。
円覚寺 |
- 東慶寺は、県道の反対側にある。開山は北条時宗の妻であった覚山尼、「駆け込み寺」や「縁切り寺」の異名を持ち、明治にいたるまで、男子禁制の尼寺として、あまたの女人を救済した。
東慶寺 |
- 建長寺へは、国道沿いの歩道を歩いて移動。冷たく振る雨は、容赦なく足元を濡らす。低気圧の移動に伴う突風が、ときどき傘をオチョコにする。狭い歩道を対面する観光客が傘を上下によけ合う。この辺りは両側から山が迫って、県道とJR横須賀線が場所を取り合うような狭隘な地形である。
- 建長寺は北条時頼が建長5年(1253)に創建。総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物が中軸上に並ぶ。仏殿の前にあるビャクシンは今までに見たことがない、古木にして巨樹だ。
建長寺 |
- 駐車場に戻る途中に参拝したのが明月院。永暦元年(1160)、明月庵の創建に始まる。その後、北条時頼の建てた最明寺跡に、子の時宗が禅興寺を建立。その後、廃寺となり、明月庵は明月院と改められ、これのみが残り、現在に至る。
- 山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にある。
明月院 |
明月院付近の小路 |
- 北鎌倉から鶴岡八幡宮へ移動する。鎌倉駅から若宮大路を真直ぐ北へ向かうと、鶴岡八幡宮にたっする。頼義が康平6年(1063)、由比郷鶴岡に京都の石清水八幡宮を勧請し鶴岡若宮を称したのが始まり。源頼朝は治承4年(1180)に現在の地に移し、鎌倉のまちづくりを開始。建久2年(1191)火災を機に、上下両宮の現在の体裁とした。
鶴岡八幡宮 |
- ここで案外見落としされるのは、ぼたん庭園である。源氏池の東側にあるため、参詣道からは、ぼたんが見えないのだ。僕たちは2,3日前にNHKのテレビで知ったので、ラッキーだった。回遊式庭園の池の端を色とりどりの冬牡丹が、藁囲いや和傘に守られて咲き乱れていた。
冬ぼたん |
- 12時を少し過ぎた時間である。宮前の「鎌倉おぼろ」という、手づくり豆腐料理の店がある。たまたま見かけて入ったのであるが、当店オリジナル-“おぼろ豆腐丼セット”を注文した。十穀米に逆さ椀型の豆腐をのせ、真ん中に半熟の卵、丼の縁まわりに韓国ノリ。これを、漆塗りのスプーンですくって食べるのだ。美味、とりわけ十穀米が旨かった。
- 路面凍結の心配は全くなく、余裕をもって帰着した。
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三浦半島・鎌倉-googleマップ
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