このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ここへ行ってきました 

(目次に戻る)

20.5.8〜10屋久島

<旅行計画>

 当初、手作りの計画をしようと考えた。しかし陸路-空路-海路のアクセスをいくつか経たうえに、屋久島の特性を学ぶ行動計画を自分で設計するのも煩わしくなった。ここはどうやらガイドにお願いしたほうが学べることが多く、効率的でもあるというのが結論であった。
 もう一つ、縄文杉を見たいところだが、アプローチが長すぎる。自分の体力を勘案しつつ、島全体の見学をしたほうが良さそうだと自問自答した。そんなところへ折よく、大手CT社の手ごろなエコツアーの募集があった。内容はほぼ望んでいたものと一致したので、それに応募した。時期は日照時間が長く、晴天日数の多い時期を検討して、今回の日取りとなった。


屋久島展望図-種子島南端・門倉岬上空30,000mより撮影/ カシミール3D

<自然と歴史>

  1. 屋久島は鹿児島県に属し、その面積は奄美大島に次いで大きい。はるかな昔、地殻変動により海底が隆起し、さかんに造山活動が行われた。地質は花崗岩山地で、島の西部を除く平地は、堆積岩で成り立っている。
  2. この島には、植生的にたぐいまれな特徴がある。海岸から山頂までの垂直分布は、亜熱帯から亜寒帯までと変化に富んでいる。例えていうと、日本列島の地図を縦にぶら提げて、北海道を屋久島の山頂と並べると、屋久島の植生は、横に並ぶ列島各地のそれとほぼ同じだとみることができる。
  3. 標高1,936mの宮之浦岳は九州最高峰。黒潮から発生した膨大な水蒸気が、屹立した山岳を駆け上がり、空気は断熱膨張し、水滴化して雲となる。「浮雲」の林扶美子に、「屋久島は月のうち、三十五日は雨といいう位でございますからね。」と言わしめたゆえんである。実際には、降雨日数が多いというよりも、異常とも言える大量の雨が降り注ぐということであろう。年間降水量は平地で約4,000mm、山地で約8,000 mmにも達する。
  4. 地中の基盤が花崗岩であるだけに、地中にしみ込む量が少なく、地表水となって2〜3日で海に達する。沁みこんだとしても、ミネラル分がほとんどなく、10ppmという低い値の軟水である。ちなみに、宮之浦集落の、南日本酪農協同(株)が、「屋久島縄文水」というナチュラルウォーターを商品化している。原材料名は「水(深井戸水)」で、採水地は、屋久島町とある。キャッチコピーのキーワードは、「硬度10の超軟水」である。飲んでみると、滑らかな喉ごしである。
  5. 屋久島といえば、そのシンボル的存在は屋久杉である。しかし屋久杉といえども、植物学上の種別は「スギ」で、本土の杉とかわらない。何が違うかというと、一般的な杉の寿命が800年程度なのに対して、屋久杉の寿命は数千年にも及ぶ点が大きく違う。これは前述したように、栄養分のない水を吸い上げることに理由がある。基本的に植物が育つ環境とはいえず、成長が遅いために年輪が緻密となる。そのぶん樹脂は多く、普通の杉に比べて、6倍ものヤニがたまり、防腐・抗菌・防虫効果が大きく、このことが屋久杉の寿命を長くしている理由である。
  6. 「屋久杉」と呼ぶ場合、それは樹齢1000年以上経っているものをいうそうだ。縄文杉はその筆頭で、樹齢は7200年と推定されている。しかし、あくまでも推定値で、信頼できるサイトでは、2000年代から7200年と大きな巾を示して、慎重に解説している。樹齢1,000年以下のものは「小杉」と呼んでおり、さらには100年以下のものを地杉という。小杉といえども、本土の杉よりも優位にたっている。巨木が多く見られるのは、標高1,200m前後のところである。
  7. 樹木と苔は補完関係にある。一気に流れ下る雨水から、苔の保水力で樹木が必要とする水を確保してくれる。一方、苔のほうは木陰によって乾燥から身を守ってもらえる。その苔の上に杉の種子は芽生えるが、光が当たらないうちは大きくなれない。たまたま巨木が倒れて、日の当たる場所ができたとしよう。とたんに沢山の幼木が伸びだす。このとき競争に打ち勝つのは、より高い場所にいた幼木である。高い場所とは、倒木の上であり、江戸時代に伐採した切り株の上であり、岩塊の上である。競争に打ち勝って成木になることを、それぞれ「倒木上更新」・「切株上更新」という。岩塊を根っこが抱き込んでいるものも見られるが理屈は同じだ。これが自然界における世代交代の仕組みである。
  8. 屋久島には、縄文時代から人が住んでいたという。16世紀には、豊臣秀吉が京都方広寺の建立に屋久杉を利用している。寛永17年(1640)頃、薩摩藩が屋久島安房(あんぼう)出身の儒学者-泊如竹(とまり-じょちく)の献策により、屋久杉の伐採を進めた。
  9. このころの杉材の用途は、関西地方の寺社建築などの瓦の下地であった。小さな短冊形の薄板に加工され、これを平木と呼んだ。島民は薩摩藩に年貢として納める一方、米などを買う代価にも使ったという。平木の加工は伐採地で行い、女性が背負って運搬したという。このとき、曲がりくねった価値のない残材は山に放置された。これが現在、切り株や自然倒木とともに土埋木(どまいぼく)として工芸品に利用されている。
  10. 立ち木の姿かたちが曲がっていたり節くれだったものは、最初から見向きもされずに伐採を免れた。それが「縄文杉」や「紀元杉」などと固有名詞を付けられて、風格のある木として尊ばれるのだから、何が幸いするのか分からない。
  11. 明治になると、島津藩所有の山林は国有林に変る。島民は国と争うが、所詮は力のない平民である。訴訟を起こすが国には勝てなかった。
  12. 長い年月を経て大正12年に、いわゆる「屋久島憲法」なるものが策定された。集落に近い前岳を委託林として島民の利益を図る一方、屋久杉原生林の保護にも乗り出した。安房川(あんぼうかわ)中流の小杉谷に、伐採基地として事業所が置かれ、安房から森林軌道が敷設され、あわせて沿岸林道の建設も進められた。安房川流域の大量伐採時代に突入し、小杉谷には500人以上の人たちが暮らし、小中学校には、150名もの生徒が学んでいたという。
  13. やがて終戦を迎え、戦後復興のため、昭和26年(1951)、奥岳と呼ぶ屋久島の中心部を森林開発の対象地域に編入した。昭和35年(1960)、天然林を皆伐し人工林へ転換する方向へ進んだ。2mもある巨大なチェーンソーが導入されて、屋久杉ばかりでなくパルプ需要を背景に、広葉樹も含めた皆伐と植林が一挙に進んだ。
  14. しかし良材はしだいに枯渇し、時を同じくして、高度経済成長に伴い若者が島を離れ、急激に人口が減少した。昭和39年(1964年)には国立公園に編入、昭和41年(1966)に、縄文杉が発見されたのを機に、自然保護の気運が盛り上がり、昭和45年(1970)、遂に事業所は閉鎖された。
  15. 昭和50年代後半(1980年代前半)には完全に伐採は禁止され、平成5年(1993)12月、白神山地とともに日本で最初の世界自然遺産に登録された。かつて木材運搬に活躍した森林軌道であるが、現在はその一部を二つの事業者が運営している。下流側を発電所の管理用に「屋久島電工株式会社」が、上流側を土埋木の運搬用に「有限会社愛林」が、それぞれガソリン気動車を運航している。
  16. 屋久島の自然は、昔から人間の暮しに恵みをもたらしてきた。縄文時代に、照葉樹林と海の幸に生きる定住集落があったことが確認されており、今も、島人は黒潮の海に魚を追い、温暖な気候を生かした農作物を生産している。
  17. 島に棲む哺乳類は、ヤクザルとヤクシカのみ。両方とも本土のものの亜種で小柄である。ここでも人間が彼らの生息域を狭めた結果と思われるが、自然の植生も農作物も食害が問題になっていると聞く。

<1日目>

  1. 羽田8:15分発。鹿児島空港からバスで移動し、鹿児島市の南埠頭から屋久島までは、高速船ジェットフォイルにてアクセス。船名の「トッピー」は、屋久島の方言でトビウオのことをいう。その名のごとく波頭をこえて、穏やかな海面を80km/hで走行する。宮之浦港が近づいた。空を画する稜線の最高峰-宮之浦岳と、その右に永田岳が望める。埠頭に入港すると、この二つの峰は手前の山に隠れてしまう。これは島の山麓の全体に言えることで、島から離れない限り、仰ぎ見ることができないのである。日常の生活の中で、見ることのできない山塊を、島の人たちは「奥岳」と呼んでいた。帷(とばり)に包まれた神秘な世界である。・・・かくて、宮之浦港に14:55分着。


    左-宮之浦岳・右-永田岳

    宮之浦港


  2. 屋久島は2007年10月1日に二つの町が合併し、文字通り「屋久島町」という理想的な一島一町になった。屋久島が島外と行き来するのは、この宮之浦港が主であり、ジェットフォイルやフェリーの航路で賑わっている。合併前の上屋久町役場があった。
  3. ところで、屋久島の地形は、ほぼ円形である。海岸線に沿って、県道77号の周回道路が通っており、24の集落が点在する。道路のない昔は、集落間の行き来は船を使っていたという。いまでも集落ごとの文化の違いがあるようだ。
  4. 世界自然遺産に登録後、島を訪れる観光客、特に登山客が飛躍的に増加したという。そのため、山岳部での登山道、特に宮之浦岳登山道や縄文杉歩道が荒廃し、トイレのし尿処理が課題となっている。いわゆるオーバーユースの問題は、尾瀬を見るようで、僕らも心苦しく思いながらも、屋久島の魅力には勝てず、せめてトレッキングをと、この島に第一歩をしるした。
  5. 屋久島の集落の位置は、時計文字盤の“時計数字”になぞらえると分かりやすい。宮之浦港は“時計数字1”の辺りである。以後、集落の位置はこの方法で説明する。
  6. 今日は、小型バスで時計まわりに移動する。“時計数字2”の辺りに小瀬田集落がある。合併によって、屋久島町の役場庁舎は、屋久島空港に近い、ここに新設された。
  7. “時計数字3”の辺りに安房(あんぼう)がある。屋久島の名だたる峰の、登山基地ともいえる集落である。縄文杉を訪ね、九州最高峰の宮之浦岳(1,936m)を縦走し、再び登山口に戻れる効率の良さが、多くの岳人を呼んでいる。屋久島森林資源の開発を担った、歴史の濃い集落である。今日はここを見過ごし、南下を続ける。
  8. “時計数字5”の辺りに原集落がある。ポンカン・タンカンの主産地だ。ポンカンは12月の出荷で、歳暮用として需要がある。タンカンは2月頃の出荷であるため、認知度は低いが美味。集落には、「ぽん・たん館」という特売店がある。
  9. その原集落の河口に流れ落ちているのが、鯛ノ川。周回道路から山側の枝道を辿る。勾配がきつくなり道も細い。その道に沿って、電気柵が張られている。ポンカン・タンカンを狙う、ヤクザルの食害を防ぐためである。


    電気柵


  10. 林道の行き止まりに着いて視界が開けた。名瀑-千尋滝(せんぴろのたき)だ。少し高い位置から、正面にその雄姿を見せている。落差は約60m。滝の左側は花崗岩の一枚岩のため、草木のまばらな巨大な岩壁である。滝の周辺と背後の山肌は、新緑に萌える照葉樹林帯から杉樹林帯に向かって伸びている。


    千尋滝


  11. バス停の千尋滝展望台から海側に目を転ずると、原集落と太平洋が眼下に広がっている。


    原集落


  12. 初日の見学ポイントは終わり、尾之間(おのあいだ)集落に向かう。“時計数字6”に近い島の最南端である。合併前の屋久町役場が置かれていた。このあたりには、尾之間温泉がある。源泉49℃の単純硫黄泉だ。谷崎鼻の先端に「JRホテル屋久島」がある。今日・明日と連泊するホテルである。ここにはアルカリ性単純温泉(pH9.7)があり、ツルツル感がある。露天風呂から一望できる大海原は、太平洋と東シナ海の中間点だ。山側には、先ほどのモッチョム岳が見える。奇妙な山名であるが、漢字で書けば本富岳(もっちょむだけ)。しかし読める人がいないと見えて、カタカナで表示している。


    ホテルの右側-モッチョム岳



    ホテルから太平洋側

    ホテルから東シナ海川

<2日目>

  1. 昨日の周回道路を反時計まわりに、宮之浦まで逆走する。ここの漁港に流れているのが、宮之浦川。川に沿って奥地に宮之浦林道が延びている。最初の出合いを左の支流-白谷川に沿った県道白谷線に入る。曲がりくねった急坂を小型のバスは喘ぎながら上っていく。山稜に向けて高度を上げていくと展望が広がり、いま上って来た道のはるかな向うに宮之浦港が見える。沿道のあちこちにアブラギリの白い花が目立つ。さらに高度を上げると、眼下に白谷川の広河原と上流・下流のV字谷が望める。


    宮之浦港

    白谷川


  2. やがて白谷雲水峡のバス停に着く。宮之浦から約12km、標高620m。このあたりは、林野庁が設定した自然休養林である。照葉樹林から、ヤクスギ林への移行帯に位置する。見学コースはいくつかあるが、我々はもっとも短い弥生杉コースを選択した。約1時間、それでも本土とは違う林相豊かな屋久島の自然を体感することができる。杉をはじめツガ、モミなどの大木も見られる。渓流沿いにはサクラツツジがいま見ごろだ。花崗岩の隙間を流れ落ちる滝がいたるところで見られる。流れる水は清らかだ。


    白谷雲水峡入口/奥-白たえの滝

    飛流橋



    サクラツツジ

    シダ類


  3. 渓谷の石には苔が生えている。しかし水中の川床はきれいである。ガイドの説明によると、屋久島の水には栄養分がないため、植物プランクトンが育たず、したがって魚も棲めないそうだ。以前、稚魚を放流してみたが失敗したとのことである。まさに「水清ければ魚棲まず」だ。川床がきれいなのは、ダムがないため、雨が降るたびに降雨量に応じた洪水が発生し、常に渓谷が洗われるからだろう。淀むところがなく、「流れる水は腐らず」だ。


    飛流おとし

    苔河原



    さつき吊橋

    吊橋上部の渓流


  4. 林相は複雑である。いたるところ苔やシダの地床植物におおわれ、倒木といわず、切株といわず、花崗岩といわず、その上には各種の樹木が着生し、淘汰に打ち勝ったものが巨木の存在を誇示することになる。推定樹齢3000年の弥生杉は、標高710mと比較的低いところにある。


    倒木上更新

    花崗岩を巻き込んだ根



    弥生杉根元の着生植物

    弥生杉の幹


  5. ヤクザルがいた。気根杉は太い根がからまりついている。地中に伸びるはずの根が、空気中に伸びている状態のものをいうとある。その先を曲がると、今度はヤクシカが現れた。サルもシカも、こういう場合は無関心がいい。サルの場合は関心を示すと険しい表情になって、歯をむき出して威嚇される。


    ヤクザル

    気根杉



    ヤクシカ

    ヒメシャラの大木


  6. 山から下って、宮之浦で昼食。メニューは「飛魚の姿揚げ御膳」である。屋久島の海産物で有名なのは、トビウオとサバである。サバは釣り上げて直ぐに首を折り血を抜くと、美味しさが保てる。いわゆる「首折れサバ」である。
  7. 宮之浦から反時計まわりに10kmほど走ると、志戸子(しとこ)漁港がある。“時計数字12”の辺りだ。ここにはガジュマル園がある。亜熱帯性植物のガジュマル自生の北限地といわれる。馬のしっぽのような、あるいは蛇がからまるような、けったいな樹相を呈している。気根が垂れ下がったもので、大地が湿っていて酸素を取れないので、空気中から補給するのだという。とにかく沢山あるのだが、全部が自生なのか素朴な質問をしてみた。すると返事は、補植して増やしたのだという。
  8. 地表に大きな葉を広げているのはクワズイモ。サトイモの仲間ながら、口に入れると3日間はしびれるそうだ。シュウ酸カルシウムが含まれているためで、昔は狩猟に使う矢じりに塗ったという。


    アーチ状にからまっている

    ほぼ垂直に垂れ下がっている



    幹と根の境が分かり易い


  9. 志戸子から西進すると、すぐに最北端の集落、一湊(いっそう)に達する。”時計数字12”の辺りである。矢筈と呼ばれる半島がトゲのように真北に伸びている。漁港と海水浴場があり、海浜の風景も楽しめる。一湊川の砂丘には「松山遺跡」がある。縄文前期には人が暮らしていたことが判明した。
  10. 一湊はゴマサバ漁が盛んである。マサバと違い脂肪分が少ないので鯖節に加工され、蕎麦の出汁の材料として関東方面に多く出荷されているという。鮮度を保つため、前述した「首折れサバ」が特産で、刺身でも食べられる。
  11. 一湊を過ぎると、周回道路は南西に向きを変える。東シナ海が見え隠れし、急斜面に民家が密集している吉田集落だ。”時計数字11”の辺りである。平家の落人伝説がある。異様なのは墓地の風景である。かなり広い平地に、本土のものと同じような直方体の墓石がたくさん並んでいる。それはいいのだが、いきいきとした生花がどの墓にも供えられていることである。本土の、いや、僕の感覚からすると、花を飾るのは葬式か法事のときでしかない。不思議そうな僕の顔を見たガイドが言った。これが祖先を敬う屋久島の風習ですというのだ。その後も気をつけて見ていると、他の集落でもそうだった。「花代も大変だろうな・・・」とは、僕の独り言である。
  12. 永田集落に着いた。“時計数字10”の辺りである。沿道の山側には、僅かな平地に田圃もある。海を見ると思いのほか近くに、同じ屋久島町に属する口永良部島(くちのえらぶしま)がが浮かんでいる。


    永田集落の田圃

    いなか浜-口永良部島が近い


  13. いなか浜は、アカウミガメとアオウミガメの産卵地として、ラムサール条約に登録されている。産卵のピークは6月中旬〜7月中旬という。詳しい様子は「屋久島うみがめ館」で知ることができる。ここは他の集落と違い、ゆったりした気分が漂っている。桜色の砂浜を散策し、貝殻などを拾っていると、いつの間にか夕日が傾いているというような、何かしら切なくもあり、メルヘンチックな集落である。近くの浜辺には、数軒の黒い家並みがあり、屋根に石を並べているのが、点描として屋久島の集落を感じさせる。台風などに屋根を飛ばされないようにしているのだろう。


    西部林道側を見る

    吉田集落側を見る


  14. 永田から西進する。再び山容が迫ってきた。やがて屋久島灯台が見えてきた。屋久島の最西端である。入江は海食され、高い岸壁の上に、白亜の灯台が見える。それを過ぎると、周回道路は南下を始め、西部林道に入る。“時計数字9”の辺りである。周回道路のうち、西部林道の約20kmにわたる区間が世界自然遺産に登録されている。国割岳の山体が海まで迫っている。マップを見ると分かるが、林道は曲がりくねっている。シイやカシをはじめとする照葉樹の原始林におおわれていて、その区間には人家がない。ヤクザルやヤクシカに遭遇することしきり。ちょうど、この季節エゴノキの白い花が下向きに清楚に咲いている。この花をシカが食べるらしい。サルも小さいが、シカは本土の仔鹿ぐらいの大きさだ。細い足が折れそうな危うさを覚える。ガイドの話では、いつでも餌があるので、冬に備えて体内に栄養を蓄える必要がなく、それで体が小さいのだそうだ。
  15. 京大の研究チームが調査をしており、女子学生が歩行中の我々集団を困った顔をして見守っていた。調査用の軽自動車には「静かに通ってください」との張り紙がしてあった。


    屋久島灯台

    ヤクザル


  16. 西部林道が世界遺産の登録区域とはいいながら、昔は人が暮したこともあり、炭焼きが行われていたという。しかし今は植生も回復しており、炭焼き釜跡にその名残の石が僅かに転がっている。この辺りは絶滅危惧種ヤクタネゴヨウの自生地で、標高300mから上部に多くのゴヨウマツが見られるという。国割岳(1,323m)の展望が利く場所があって、植生の垂直分布が確認できる。山頂に近い山腹に白骨化した木が多い。ヤクタネゴヨウが枯れたものだという。日本の学者が貴重なものであることを強調し、世界遺産の地域になったという。


    炭焼き釜跡

    国割岳の山腹


  17. 国割岳から幾筋ものびる小さな川は、栄養分が豊富で、イセエビ、魚などの豊かな漁場になっていると聞く。瀬切川を渡ると西部林道は終わる。周回道路は海岸線に近づいて、きついカーブもなくなる。


    西部林道南端から栗生方面


  18. 大川の滝(おおこのたき)に着いた。“時計数字8”の辺りである。滝の落差は88m。屋久島では最大規模である。滝壷の中にはボウズハゼ、ヨシノボリなどがたくさん棲んでいるという。海に近いせいであろうか。付近では名前が分からないが、野鳥のさえずりが心地よい。

    大川の滝


  19. ”時計数字7”の辺りが栗生集落だ。河口に近いので川はゆったりと流れ、穏やかな風景である。
  20. しばらく反時計まわりに南下し、やがて進路を東にとると平内(ひらうち)海中温泉に着く。“時計数字6”辺りだ。観光客に人気の、硫黄を含む海中露天温泉で42度位と聞いた。干潮の4〜5時間のみ出現するという。水着着用不可、バスタオル可とある。


    栗生川

    平内海中温泉


  21. 2日目の見学が終わった。連泊の「JRホテル屋久島」に着いた。

<3日目>

  1. 先ずは安房(あんぼう)に向かう。この集落は大きな漁港で、トビウオの水揚げ量が日本一。土埋木(どまいぼく)と呼ばれる、むかし伐採された屋久杉の切株や倒木などを利用している。工芸品として売られ、島民の暮らしを支えている。
  2. 集落から安房川の上流を目指すのであるが、安房林道は急峻なV字谷を避けて、山腹に築かれている。道は細く、小型バスはあえぎながら高度を上げて行く。奥岳からの派生尾根を越えて、支流の荒川流域に出る。三叉路を荒川上流に向けてしばらく走ると「紀元杉」だ。
  3. 紀元杉は、樹齢3,000年といわれる。安房林道沿いに他に抜きん出てその存在を誇示している。雨は激しいが、歩道は整備されていて歩きやすい。かっぱのフードを雨よけにしてカメラを構えるのだが、巨木を撮るにはどうしてもレンズを上に向ける必要がある。気を付けてはいたが、撮影の結果は、やはりレンズに雨粒があたっていた。


    紀元杉中間部

    紀元杉根元


  4. 再び元の道を戻って、ヤクスギランドへ向かう。白谷雲水峡と同じく、自然休養林である。ここは、世界自然遺産地域には入っていないが、ヤクスギのほか、ツガ、モミなども見られ、森林生態系について学ぶことが多い。
  5. 駐車場の背後に売店・休憩の施設「森泉」がある。森泉の屋根にはソーラー電池が載っており、ここでの使用電力を賄っている。
  6. 林内の探索歩道は時間行程によって4コースあり、自分にあったものを選ぶ。我々のほとんどは、50分コースを選んだ。入口の管理棟でチェックインし、歩行を始めた。白谷雲水峡もそうであったが、探索路は木道や石張歩道で歩きやすく、階段の歩幅もちょうど良い。これだけ整備している理由は、観光客へのサービスよりも、環境を荒らさないための配慮であろう。ガイドも歩道から外れないようにと指導している。「くぐりツガ」を通り抜け、林泉橋を渡る。沢は増水しているが、本土のように真っ赤な泥水にはならない。基盤が花崗岩で土壌分がないのであろう。


    林泉橋

    川は濁っていない


  7. ほどなく「切株上更新」だ。説明板を見るとこうある。「昔、屋久杉は神木として崇められ、誰一人として伐る物はいなかった。屋久島出身の儒学者、泊如竹(とまりじょちく)は、眠れる森林資源の活用をはかるため、たくみに島民の迷信をとき、また、島津藩に献策を行なった。1635年、宮之浦に代官が置かれ、以後、屋久杉の本格的伐採が始まった。島民は深い山に入り、何日間もかかって巨木を倒し、長さ60cm位、巾10cm位の薄板である平木(屋根をふく材料)に加工して、背負っておろしたと言われている。」


    切株上更新

    千年杉


  8. 荒川が近づいたが、我々は橋を渡らずに左へそれて、50分コースの折り返し点へ向かう。途中でこんなものを見た。ヒメシャラの根が、切株を抱き込むように密着している姿である。


    荒川橋

    切株上のヒメシャラ


  9. 仏陀杉・双子杉と次々に屋久杉の巨木が続く。中には、切り倒されたまま、放置されている巨木もある。ガイドの説明では、「ためし切り」をしたものだという。伐採に当たって価値判断をしたのであろうか。江戸時代に商品価値がないと判断されたものが、現在、屋久島の象徴として名前まで付けられて崇められ、世界遺産登録の後押しへと繋がっているのだから、皮肉と言えば皮肉である。


    仏陀杉

    双子杉


  10. 結局、雨はこやみなく降って、連続雨量がお昼頃220mm/24hを超し、我々が今日通ったコースは、もう林道閉鎖となったという情報が寄せられた。島の人たちの「こんな雨は大した雨ではない。雨の屋久島もまた価値がありますよ。」という言葉は、決して慰めの言葉ではないと思う。あらゆる植物が切株や倒木の上に再生し、あるいは巨木に着生してたくましく生きている。生命の権化を見るような、宗教的な気持ちにさえなってしまう。屋久島という決して大きな島ではないが、自然の中に人間の営みがかかわって、壮大な歴史が刻まれた。島のすべてが濃密なミュージアムであり、人生観にも幾ばくかの影響を受けた今回の旅であった。
  11. 島を離れるのは、安房港からのジェットフォイルである。海が荒れているので、途中で引き返すこともあるとの条件つきで埠頭を離れた。速度表示盤は60km/hを割っていた。船体は大きな波にぶつかるたびに衝撃を受け、波頭に乗り上げては落下し、大勢の人たちが船酔いに苦しめられた。開聞岳が近づいたころ、漸く荒波は治まってきた。鹿児島空港19:40離陸、羽田着21:20。


    安房川河口

    鹿児島本土-開聞岳

<参考>
屋久島ブック '07〜'08版 別冊/山と渓谷社
九州森林管理局
インターネット自然研究所
屋久島リアルウェーブ

(目次に戻る)   

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください