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 ここへ行ってきました 

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20.7.27〜29みちのく(下北・津軽)

<旅行計画>

 当初、マイカーで行く計画を立てたが、走行時間が長く効率が悪いうえに、ガソリンが180円/Lに突入していることもあり諦めた。そこで飛行機を考えたが、目的地が北なのに、羽田空港へ南下するのも馬鹿らしい。そんなところへCT社の新聞広告でタイムリーなツアー募集を知った。東北新幹線のスーパー特急”はやて”を使うから、空路より速い。集合場所が大宮駅で、群馬県からのアクセスにも無駄がないので、迷うことなく申し込んだ。
 列車の旅は久し振りである。9年前までは新幹線通勤の身であった僕も、今は切符の買い方やゲート通過の際にも、思わず緊張してしまうほどの年数が経っている。

<1日目>

  1. 大宮から八戸まで2時間40分。ツアーバスに乗り換え三沢へ向かう。7月24日の岩手県沿岸北部地震も後遺症がなく、予定通りのツアーが可能ということだ。三沢基地は、あたかもサファリパークを思わせる広大な敷地のなかに、建物が遠くに散在している。航空自衛隊と米軍の基地があり、その空港には民間のJALも乗り入れている。


    三沢基地の一角


  2. 三沢基地の南側を東へ向かうと原野に変る。草木は丈が低く、砂地のため農地には適さないそうだ。地価は二束三文だという。国道338号に合流すると、太平洋が近い筈だが、原野に遮られて見えない。


    原野と丘陵


  3. ひたすら北上すると、左手に小川原湖(おがわらこが見えてきた。三沢市、東北町、六ヶ所村にまたがり、地図を見るとその形は、サンタクロースの足を思わせる。湖尻から流れ出す高瀬川を渡ると六ヶ所村、下北半島の付け根部分に当たる。この辺りから国道の左手に沼が連続するようになる。
  4. 国道は内陸側に進み、やがて左手に国家プロジェクトの「石油備蓄基地」が見えた。1983年に51基の原油タンクが設置され、日本の石油消費量の1週間分を備蓄しているという。一方、右手には「核燃料サイクル施設」が見える。六ヶ所村は、いま「核燃料再処理工場」のあいついぐトラブルでゆれている。
  5. 丘陵地の茫漠とした風景が続く。たまに原野に埋もれるように建物を見かける。低い丘陵を背景に耕作地も見かける。何の野菜か遠目には判別できないが、はっきり判るのは棚作りの長芋だ。


    牧場か?

    右側に長芋の棚


  6. なだらかな丘陵が織りなすあちこちに、大きな風車が見える。同じエネルギーでも、危険を伴う核燃料に対して、対極にあるのが安全な風力発電である。“ヤマセ(東風)や、津軽半島からの西風も吹くという立地を利用して、クリーンな自然エネルギーを生みだしている。1,500kwの発電機44基、総出力65,850kwというのだから結構頼もしい。

    耕作地

    風車が並ぶ丘陵地


  7. 太平洋側から県道24号を陸奥湾に横断して、横浜町のドライブイン「トラベルプラザ・サンシャイン」に着いた。ここは菜の花で有名だ。昭和30年前半に、換金作物の代表として作付けを始め、順調に特産品の道を歩み続けている。栽培サイクルは、9月上旬にタネをまき、冬を越して5月に開花、7月中旬に収穫する。若芽はそのまま食材にし、タネは絞って食用油とする。さらに菜の花を使った加工食品を研究開発し、土産物を求める観光客で賑わっている。


    ドライブインから


    見える風景


  8. 駐車場の海を見下ろす場所には「ほたて観音」が佇んでいる。珍しい陶器製で、ホタテに乗った立像である。陸奥湾がいつまでも美しい海であるとともに、漁業の繁栄と創業の安全、かつ旅行者の健康と交通安全などの願いを込めたものだ。海からの涼風を浴びながら野外で昼食を摂った。


    ほたて観音


  9. 下北半島は、その形から地元で「まさかり半島」と呼ぶことが多い。むつ市には、「まさかりプラザ」という物産館がある。
  10. 旧むつ市は、まさかりの刃と柄の接合部分、半島のもっともくびれた所にある。半島周遊のハブに当たる。藩政時代に会津藩が戊辰戦争に敗れ、賊軍の汚名をきせられて、下北の地に飛ばされた。田名部川流域の段丘上が、旧会津藩士帰農のために割り当てられた地域であった。しかし厳しい気候条件を克服できず、凶作が続き、藩士たちは飢えに苦しみ離脱する者が多く、開墾は失敗に終わったという歴史がある。
  11. 市内から恐山に向かう恐山街道の途中に、ヒバ林に囲まれて“冷水(ひやみず)”と呼ばれる湧き水がある。この水で手を洗い、口をすすいで霊場恐山に入る。俗界と霊界の境界といわれる三途の川には朱塗りの太鼓橋が架かっていて、これを渡ると恐山だが、バスはその脇を通り抜ける。藩政時代に宇曽利山(うそりやま)と呼んでいたのが、いまの恐山だ。このウソリは、アイヌ語のウショロからきた。入江とか、湾という意味に由来するという。寺名が「恐山菩提寺」であり、恐山という山があるわけではない。尚、住所は「青森県むつ市田名部字宇曽利山3-2」となっているのだから、ややこしい。


    青森ヒバ

    冷水


  12. 恐山は、宇曽利山湖というカルデラ湖の北岸にある。いたるところ噴気現象や温泉の湧出が見られ、荒涼とした地獄風景を展開している。湖水は強酸性で、ウグイなどがわずかに生息しているにすぎない。湖面は、エメラルドグリーンを帯びつつも、極楽浜と呼ばれる場所は、異様な金色に輝いている箇所もある。火山性の噴出物のせいであろうか。
  13. 恐山は、平安時代に天台宗の高僧、慈覚大師-円仁が、地蔵尊を祀ったのが始まりと伝えられている。比叡山や高野山とともに、日本三大霊場の一つである。荒涼とした岩場には硫黄の臭いが立ち込めるため地獄や浄土に見立てられている。
  14. 山門をくぐり、常夜灯が並ぶ参道を行くと本尊安置地蔵堂がある。ここが死者の魂が集まるところと伝えられ、イタコの口寄せで知られる恐山菩提寺の境内である。宿坊や本殿、恐山温泉と呼ばれる湯小屋などが点在している。


    山門


  15. 境内の宇曽利山湖に近い側は、賽の河原と呼ばれ温泉の湧出が見られる。一面に白茶けた荒涼とした風景で、小石を積んだ山や卒塔婆が広がっている。


    宇曽利山湖と極楽浜

    重罪地獄


  16. 恐山の15kmほど北方に薬研(やげん)渓流がある。薬研の名は、温泉の湧出口の形が漢方薬をすりつぶす器具、薬研に似ていることに由来するという。渓流のあちこちに露天風呂があって、バスの窓から入浴をしている人たちを窺える。ヒバ林や広葉樹林が織りなしている。かつてヒバを伐採し、運搬していた森林鉄道のレールが残されていて、当時を垣間見ることができる。「大畑ヒバ施業実験林」というのがあるが、全国各地から集められたヒバの見本林である。名札から自分の県名を見つけて懐かしく感じる。


    大畑ヒバ施業実験林の標識


  17. 今夜の宿は、むつ市大畑町薬研(やげん)の「ホテルニュー薬研」だ。大浴場、露天風呂共に無色透明の単純泉の源泉かけ流しである。大浴場は総ヒバづくりで、香りは強烈であるが、気持ちの安らぎを覚える。薬研渓流を眺めながらの露天風呂は、気分爽快だ。

<2日目>

  1. 薬研渓流の下流は大畑川となり、東に流れて太平洋に注ぐ。国道279号にそって北上する。下風呂(しもふろ)を過ぎたあたりから大間の手前の桑畑(くわはた)まで、国道に沿った所々に鉄道の跡が残されている。これは大間に砲台を築くための輸送路として建設を始めたものだそうだ。しかし戦争激化とともに工事が中止され、未完成のまま幻の国鉄大間線となってしまった。このとき東京から多数の労働者が来た。中には朝鮮人の強制労働者もおり、セメント袋を足に巻くなど、最悪の条件下で働かせたらしい。下風呂温泉付近の駅予定地だった所には、階段やアーチ橋が残っている。
  2. 下北半島の先端は、本州最北端の大間崎である。北海道の戸井町汐首岬との距離は17.5kmである。ちなみに津軽半島の龍飛崎と、北海道最南端の松前町白神岬の距離は19.2kmだ。
  3. ここは大間マグロで有名だ。11から1月が旬で一本釣りが有名である。みやげ店でマグロを加工した土産を販売している。


    弁天島の大間埼灯台が見える

    「こゝ本州最北端の地」とある



    みやげ店風景


  4. 大間には電源開発の原子力発電所が建設されつつある。すでに送電線は完成している。


    原発の送電線


  5. 佐井村は下北半島の西側に位置し、平地はほとんどなく山岳が陸奥湾に迫り、断崖絶壁を成している。荒波や風雨によって侵食された凝灰岩が、1.5kmほどの海岸に立ち並んでいる。その姿があたかも仏像を思わせることから、仏ヶ浦と呼ばれる。佐井港から仏ヶ浦間を観光船が運航されている。


    佐井港

    大町桂月の歌碑



    奇岩1

    奇岩2



    奇岩3

    奇岩4


  6. 佐井から元きた道を戻り、国道279号の長道中を南下する。むつ市街地を過ぎて、横浜町に向かう中間に近川という区域がある。ここで面白い現象に出くわした。バスに乗っていると、側方を見ることが多いので気がつかないが、前方または後方を見ていると気がつく。道路は真っすぐなのに、車の列が地下に消えたり、再び浮かび上がったりするのである。よく見ると、センターラインの黄色2本線が奇妙に曲がりくねっている。さらによく見ると、道路面が盛り上がったり沈下したり、しかも幾重にも繰り返すのである。
  7. バスガイドの説明はこうだった。「昔、下北半島は離れ島だったのです。それが地殻変動で隆起し、陸地が繋がりました。このような現象は、離れ島だった証拠を示すものです。」というのだ。これを”海成段丘”というらしい。


    アップダウン道路


  8. ”道の駅よこはま「菜の花プラザ」”に休憩。名前のとおり、菜の花を使った菓子や蜂蜜・長芋などの農産物が並び、菜の花ソフトも美味。ホタテ焼・横浜なまこ等を賞味できる。「春待茶」なる茶缶は、菜種を焙煎して抽出したお茶で、香ばしく飲みやすい。
  9. 陸奥湾に沿ってさらに南下すると野辺地町に着くが、国道279号はここで終了し、国道4号に変わる。西進すると夏泊半島のある平内町だ。陸奥湾に面し、ホタテ養殖の発祥地である。
  10. 平内町を過ぎると青森市に入る。もうそこは浅虫温泉で、麻を蒸すことに由来した温泉名である。今夜の宿は駅のすぐ近くだ。

<3日目>

  1. 青森市内の中心街は活気が満ち溢れていた。「青森ねぶた祭」が8月1日〜7日まで開催されるからだ。いままさに大通りの両側では桟敷席の工事が行なわれていた。
  2. 青森県庁は全国唯一クーラーのない庁舎だそうだ。とは言っても、まるっきり涼しいわけではなく、窓を開けて涼をとるそうで、この日も窓を開けていた。


    ねぶた祭りの桟敷工事

    窓を開けて仕事する青森県庁


  3. 青森市が元気な理由はまだある。新幹線工事が行なわれているし、高速道路も建設中だからであろう。一方、郊外は青々した田圃が広がっている。


    新幹線工事

    減反をしていない田圃


  4. 津軽半島の東側、陸奥湾に沿って、国道280号を北進し、蟹田から津軽線に沿うように県道を内陸に入る。今別町に入ってすぐに話題の駅に着く。”津軽今別駅”と、”津軽二股駅”の二つである。前者はJR北海道の海峡線の駅として、青函トンネル本州側の入口に位置する駅で、将来は北海道新幹線の(仮称)奥津軽駅になる。後者はJR東日本の津軽線”津軽二股駅”である。特急「スーパー白鳥」と「白鳥」が停車する。駅舎は無人で一つしかない。もう一つ、駅舎内には”道の駅いまべつ”があり、土産物を売っている。この駅舎は、言ってみれば3駅共同体と言ったところだ。


    手前-津軽線・高台-海峡線

    三つの駅


  5. 北進を続け津軽海峡に出て、再び国道280号に戻る。海岸線に沿って進むと、すぐに外ヶ浜町に入る。2005年の合併まえは、村名を”三厩村(みんまやむら)”と言った。
  6. 国道280号は青森市が起点で陸奥湾沿いに北上し、ここ旧三厩村役場付近が事実上の終点である。
  7. もう一つ国道339号(後述)が弘前市を起点とし、内陸を通り十三湖の北部から日本海に出て津軽半島最北端を迂回して、この旧三厩村が終点となる。旧三厩村は津軽半島の最北端の村であり、その先端が龍飛崎だ。
  8. そんな訳で、ツアーバスは、国道280号から国道339号に変った。小さな漁港を挟んだ向うの高台に義経寺(ぎけいじ)が見える。義経が追っ手を逃れて、蝦夷(北海道)へ渡ろうとしたが、荒れる津軽海峡に行く手を阻まれた。観音様を置いた大岩の上で三日三晩祈り続けた結果、ようやく海は静まった。岩の下の洞穴には三頭の龍馬(りゅうば)がつながれていた。これが三厩の地名の由来である。


    高台の義経寺


  9. ツアーバスは海岸線に沿って国道339号を執拗に進む。左手に絶壁が迫り、海との間隔はほとんどない。集落がいくつか続き、バスどうしの交換は集落の中では到底困難。道の両側には、番屋のような木造の小さな家しか建てられない狭さである。まさに寒村だ。
  10. そのような沿線風景がしばらく続き、やがて道路の分岐点に出た。国道は海岸線に沿ってなおも続くが、バスの進路としては限界である。左手の絶壁が急に消滅して、比較的緩やかな山の斜面にかわった。ここは”木落(きおとし)”という地名のところだ。いかにも上から材木を落としていたであろう風景が思い浮かぶ。
  11. その斜面に車道が延びている。この道路は、青函トンネルの工事用に使用された「町道龍飛1号線」である。バスはその坂道を登っていく。高度を上げて稜線に出ると視界が広がりT字路に出た。それが山上の国道339号であった。右折してほどなく、津軽海峡を一望できる岬の突端に着いた。龍飛埼灯台や自衛隊のレーダー基地、それに「津軽海峡冬景色」の歌碑などがあり、観光客で賑わっていた。


    龍飛崎の標識

    龍飛埼灯台


  12. 灯台の近くに「階段国道」の標識がある。眼下の海岸に向かって階段が延びている。人しか通れないが、ちゃんと国道339の道路標識だ。道路の中心には手摺が設けられているが。道路交通法が摘要されるから右側を通行しなければならない。


    階段国道下り口

    国道の標識


  13. 下って行くと龍飛崎の海岸で、東側に帯島が寄り添っている。海岸沿いの国道339号は、その付近の龍飛集落まで延びており、”階段国道”は山上の国道と海岸の国道とを結んでいる。


    龍飛崎の帯島

    右側通行を守る


  14. 階段国道が出来た理由は、「お役人が現地を調査せず、地図だけで路線を決定したため車の通れる道路をつくれなかった。」・・・と伝えられているが、それはどうも風説らしい。管理する青森県は、この道路を「津軽半島を周遊することのできる幹線道路で重要な路線」と位置づけ、昭和49年に国道に指定した。それまでは階段もなく、人が通れるだけの坂道だった。これだけだと、全国に数多くある点線国道と同類で珍しくもない。しかし小中学校の生徒が頻繁に利用することもあり、国道指定を機に青森県により階段を整備した。
     前述の「町道龍飛1号線」をショートカット道路と位置づけ、国道の指定変更も検討したが、地元が反対した。階段国道のほうが話題をよんで、観光の目玉になると、したたかに読んだのである。平成5年から8年にかけて、更なる階段の整備が行なわれ、案の定、旅行誌や新聞チラシ広告の常連になったというわけである。


    階段国道位置図- 電子国土ポータル


  15. 1992年(平成4年)に、東北電力がNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)と共同で設置し、当時としては国内最大規模の集合型風力発電基地であったが、撤去されて今はない。事業は失敗したのであるが、その結果は以後の建設に技術移転されているに違いない。観光パンフレットの多くに、風車群の写真が紹介されているが、今は一基だけモニュメントのように残されているだけである。
  16. 龍飛埼山上の国道339号を南下する。竜泊ラインと称するこの道路の建設には、陸上自衛隊が大きく関与している。この日は残念ながら雲の中、山岳道路の醍醐味は味わえなかった。十三湖(じゅうさんこ)は、津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖である。周囲30km、水深は最大1.5mに過ぎない。南方より白神山地を水源とする岩木川が流入し、日本有数のヤマトシジミの産地である。河口に近いため、平坦な風景に囲まれていて、特別な感慨は沸かないが、吉田松蔭は、「真の好風景」とたたえている。


    十三湖

    吉田松蔭遊賞之碑


  17. この一帯は古くは十三湊(とさみなと)と呼ばれており、中世(鎌倉時代から室町期)において北方交易の港町として繁栄した。
  18. 北方交易の仲介者として重要な役割を果たしたのが、十三湊を本拠地とする津軽安藤氏である。安藤氏は蝦夷管領として中世国家の先端に位置づけられ、「北の押さえ」にあたる存在であると同時に、北海道・サハリンから大陸にまで情報を得られる力を持っていた。しかし戦国時代に突入するや十三湊は急速にその繁栄を失い、安藤氏は戦に敗れて北海道へ退去した。
  19. 津軽平野は広い。青森県西部、津軽半島南西部にある平野。南北50km、東西5〜20kmと日本でも有数の広さである。岩木山の北部から、十三湖までの岩木川流域がそれに当たる。日本海沿岸は砂丘地帯が続き、十三湖をはじめ、沼や池が点在しており、津軽米の産地となっている。その中を”五所川原広域農道”が走っている。通称「こめ米(まい)ロード」と呼ばれている。並行する国道339号に比べて直線区間が長く、信号が少ないため、339号のバイパスの役目を果たしている。津軽平野の青々とした田圃の中を走ると、この上なく気分爽快だ。


    津軽平野・農業ハウスも見える


  20. 五所川原市は、津軽平野のほぼ中央に位置する。何といっても「五所川原立佞武多」 「津軽三味線会館」 「斜陽館」と、観光の目玉が三つもある。
  21. 立佞武多(たちねぷた)は、平成8年に約90年ぶりに復元されたというが、高さが約22mもあるというから、輪島のキリコといい勝負だ。毎年8月4日から8日までの5日間に祭りが開催される。
  22. 津軽三味線会館は、津軽三味線の歴史、民謡、郷土芸能等を紹介する展示室をはじめ、舞台演奏ができる多目的ホール、野外ステージがある。多目的ホールでは毎日、津軽三味線のライブステージと津軽三味線物語、観光ビデオシアターが上映されている。道路をはさんで、雲祥寺がある。慶長元年(1596)開祖。太宰治が幼いころ子守りに連れられて遊んだ場所で、作品『思ひ出』の中に登場する十王曼陀羅(地獄絵)がある。


    雲祥寺

    津軽三味線会館


  23. そもそも津軽三味線は、演奏者の系譜がわかっている範囲でいうと、17世紀この地に始まったという。始祖は「仁太坊(にたぼう)」。有名な高橋竹山は20世紀の奏者で、独自の芸域を切り開き、勲四等瑞宝章を受賞している。津軽三味線の名を全国に知らしめた最大の功労者だ。その後、続々と優秀な奏者が各地に生まれ、いまや津軽三味線は国際的レベルに達している。この日我等が入ったステージは、「まんじ愛華」という女性が演奏した。
  24. 斜陽館は、五所川原市金木町にある太宰治の生家。現在は太宰の文学記念館になっている。太宰の父は津島源右衛門といい、明治の大地主であった。その父が入母屋作りの巨大な邸宅を建設した。米蔵にいたるまで、青森ヒバを使ったという。1階11室、2階8室で、付属建物や泉水を配した庭園など、合わせて宅地約680坪の豪邸である。太宰はこの家を「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いている。


    斜陽館


  25. この豪邸も戦後になって津島家が手放し、昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となった。「斜陽館」とは太宰の小説「斜陽」から命名したものである。平成8年3月に旧金木町が買い取り、現在にいたっている。平成21年6月は太宰治生誕100年目にあたり、すでにプレイベントが始まっている。
  26. みちのく旅行は終わった。盛岡まで東北自動車道、大宮まで東北新幹線で帰着、ツアーはここで解散した。

津軽・下北-googleマップ

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