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20.11.3〜5柳川・伊万里・平戸・島原・天草 <旅行概要> J社首都圏の企画する、九州の北西部を巡る手ごろなツアーに参加した。柳川については城下町の堀めぐり、伊万里は窯元めぐり、平戸・島原・天草については、キリシタンの歴史探訪である。羽田空港から福岡空港に降り立ち、ツアーバスにて47人の旅であった。 <1日目> - 最初の訪問地は柳川市、有明海に面した筑後川と矢部川との複合デルタに浮かぶ水郷である。湿地帯に溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成してきた。街なかを縦横に走る掘割は、柳川城の防御のために矢部川から水を引いて作られた。当然のことながら物資の輸送や生活用水にも使用された。今では大きな観光資源になっている。
- 昨日11月2日は、北原白秋の命日である。偉大な詩人を偲んで「白秋祭」が行われ、1日から3日まで“どんこ舟”が夜の川をパレードしている。我々も日中の川下りをいっとき楽しんだ。川にはほとんど流れがなく、船頭は竹の竿を川底に立てて舟を移動させる。船頭の中には漁船をやめて、“どんこ舟”に商売替えをした人もいるそうだ。川にはウナギ・コイ・フナなどが棲んでいるという。
川下り |
ウッドデッキの飲食店 |
- 舟下りの終点付近には、旧柳河藩主-立花家の別邸「御花」がある。”花畠”という地名であったことに由来しており、明治後期に建てた白亜の洋館・料亭・旅館・ホテル・結婚式場などがある。圧巻は国指定名勝の庭園-松濤園である。日本三景の松島を模して造られたもので、池の周囲に石と松を配している。野鴨の群れが浮かんでいる。突如カワセミが弾丸のごとく水平飛行して直立した岩の上にとまった。そのあとの行動は十分に予測がついた。案の定1、2分後カワセミは、水中にダイビングし、すぐさまどこかに飛び去った。門の脇には立花家累代の所蔵品を展示する御花資料館「殿の倉」がある。贅をつくした品々だ。
白亜の洋館 |
松濤園 |
- 昼食は、「御花」の”うなぎのせいろ蒸し”だった。硬めに炊いたご飯にタレをまぶして蒸し、香ばしく焼いたうなぎの蒲焼きをのせて再度蒸し、錦糸卵を散らしたものである。柳川なべも昔から知られている。
- 川下りもいいが、街なかを散策するのも風情がある。落ち着いた商店が軒を連ねて、観光客がそぞろに歩き、少し川下にくだると「北原白秋生家・記念館」がある。
川べりの風景 |
水天宮 |
柳川市の西隣りは大川市である。ここも筑後川流域の水郷である。いたるところ低地の湿地帯であり、クリークの水門が設置されている。筑後川を渡ると佐賀県だ。しばらく西進して伊万里市に入る。山道を辿るとしだいに山容が変わり、凹凸のきわだった山稜が目前に迫ってくる。やがて秘窯の里-大川内山(おおかわちやま)に着く。1660年頃、伊万里各地で古唐津系の陶器が焼かれていたのが始まりである。その後、佐賀鍋島藩が大川内山に御用窯を築き、技法を外部に漏らさないよう、陶工たちを厳しく管理した。現在は山水画のような奇岩に囲まれた狭い谷間に、石畳の道を挟んで30以上の窯元がある。今年の鍋島藩窯秋まつりが、11月1日〜5日まで開催されている。
秘窯の里 |
絵付け工房 |
窯元市 |
- 伊万里市を後にして長崎県の北西部、平戸市(ひらどし)に向かう。平戸市は平戸島が主な行政区域で、九州本土側の区域とは平戸大橋有料道路によって連結されている。平成17年に生月町(いきつきちょう)・大島村(おおしまむら) ・旧平戸市の3市町村と、本土側の田平町(たびらちょう)が合併して、新平戸市が新設された。海を挟んでの合併も、大橋あってのことだろう。ちなみに料金は、中型車〜軽自動車が100円・軽車両等が10円という具合である。
平戸大橋 |
- 橋を渡ると下り坂になり、やがて灯のともった市街地が見えて来た。それにしても、平戸島を侘しげな漁村とイメージしていたが、見事に裏切られた。明るく洒落た佇まいではないか。
- 1泊目はHKホテル、海に面しており、部屋からも露天風呂からも、夕闇の平戸瀬戸を行き交う船がよく見えて旅情を掻き立てられる。平戸温泉の泉質はナトリウム炭酸水素塩泉・ラジウム泉である。食事には近海ものの平戸ヒラメ・「アラカブ」と呼ばれる”カサゴ”種の魚・平戸産のサザエ・「アゴ」と呼ばれるトビウオが食膳を飾る。トビウオは、三日間の旅行中で海面を飛ぶ姿をよく見かけた。
平戸瀬戸/ホテルからの眺望 |
<2日目> - 鎖国前の平戸島は、旧平戸藩-松浦氏の城下町であり、国際貿易港だった。平戸は日本の西端に位置しているため、古くから中国や朝鮮とのつながりが深かった。奈良・平安時代には遣唐使船の寄港地であり、鎌倉・室町時代には松浦氏がこの地を治めてアジアとの貿易を行っていた。国際貿易都市として隆盛するのは、16世紀のポルトガル船入航後のことであり、17世紀前半にはオランダやイギリスの商館が設置された。地方豪族にすぎなかった松浦氏はおよそ90年間、海外貿易によって力を増し、戦国大名として知られるようになった。その後、徳川幕府が海外貿易の拠点を長崎の出島に移したことによって、松浦氏の勢力は衰える。平戸城は、江戸時代における松浦氏の居城であった。
丘の上にそびえる平戸城 |
- 市内のあちこちには、ヨーロッパ諸国との交流の跡が多く、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。1613年、現在の市役所の対岸あたりにイギリス商館が開かれて、1623年に閉鎖された。その記念碑が市役所の玄関横に建てられている。その記念碑の脇を通って幸橋を渡る。別名オランダ橋とも言い、オランダとの貿易港として栄えた頃に造られた。現在の橋は、1984年に復元したものである。石造単アーチ橋で、国の重要文化財に指定されている。
イギリス商館遺跡碑 |
幸橋 |
- オランダとの交流の名残は、ほかにもいくつかある。海岸寄りには「国史跡 平戸和蘭商館跡」の碑があり、ここで貿易品が盛んに積み降ろされていたのである。付近には「オランダ井戸」があり、平戸島の地下水を得ていたのであろう。
オランダ商館跡 |
オランダ井戸 |
- 井戸といえば、もう一つ「平戸の六角井戸」というのがある。松浦家が明(中国)と貿易をしていた頃の、中国商人の居住地域に残る遺構だ。なぜ六角形なのかは不明。
覗き込んでいる
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- 平戸市中心街の西側高台に聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂がある。昭和6年(1931)に建てられた。このときには「平戸カトリック教会」というのが正式名称だった。しかし天文19年(1550)フランシスコ・ザビエルが平戸を訪れ、長崎のキリスト教の歴史はここに始まる。聖堂の脇に、フランシスコ・ザビエルの立像が建てられ、これを機に、教会の名称が「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」に改められた。市街地から登る途中で、手前の寺院と重なって見えることから「寺院と教会の見える風景」とのキャッチフレーズになっている。その天主堂の尖塔が朝日に輝いてまばゆい。まだ日の当たらない寺院とは、あまりにもコンタラストが強すぎて、ガイドブックにあるような写真は撮れず、尖塔のみをトリミングした。
朝日に輝く尖塔 |
聖堂の正面 |
- 次の目的地は佐世保市である。その道中、珍しい風景に出合った。バスの車窓から外の景色を見ていると、青々としたジャガイモ畑の風景が目に映った。関東地方では夏の風景である。驚く表情にガイドいわく、九州では年に4回収穫するという。長崎県は北海道に継ぐ全国第2位の産地で、島原半島や諫早市、五島などが主な産地、焼酎の原料にするという。
- 佐世保市の西海(さいかい)パールシーリゾートに着いた。水族館・映画館・飲食店・土産物店などの複合施設である。ここで、遊覧船による約50分の九十九(くじゅうく)島巡りをした。穏やかな海面は鏡のように島影を映している。九十九とは数がたくさんあるという意味で、実際には208の島々が点在する。島の密度は日本一といわれ、西海国立公園に指定されている。島の周辺には真珠の養殖などが行われている。
遊覧船 |
陸地のリアス海岸 |
島の風景1 |
島の風景2 |
島の風景3 |
島の風景4 |
- 島原半島へ向かう。しばらくは右手の港湾に、佐世保重工業の造船所や米軍・自衛隊の基地を眺めて走る。大村湾に変わり、なおも走って、諫早市を過ぎると左手に有明海だ。有明海は、江戸時代以前から干潟の干拓が行われてきた。これまでに釧路湿原の約1.5倍もの干拓が行われてきたという。車窓からも諫早湾干拓事業の潮受堤防が見える。もう島原半島だ。時計の文字盤を秒針が進むごとくに回り込むと、右手に雲仙岳が姿を現した。普賢岳(1,483m)を始め五岳からなっている。見晴らしの良い中腹を山と海を眺めながら「土石流被災家屋保存公園」へ向かう。
- 穏やかな陽気のもとに、降り立った公園で目に映ったものは、土石流で埋没した家屋の姿であった。大型テント内に3棟、屋外に8棟の家屋が当時のありのままを物語っていた。火砕流と堆積した火山灰による土石流が、水無川周辺および島原市の千本木地区に大きな被害をもたらしたのである。島原市中心部は眉山が盾になってくれたために被害を免れている。被災地域では噴火活動の終息に伴い、住民が再び住めるよう、堤防や地面のかさ上げ工事を実施した。この地域にはいま新しい家が軒を連ねている。普賢岳には幾筋も吹き上がる水蒸気が見えるが、今のところ安定しているという。
雲仙岳 |
家屋保存の大型テント |
屋外の保存家屋 |
築堤整備された水無川 |
- 2泊目の宿、雲仙Uホテルに着いた。その場所になんとなく覚えがあった。しかし建物の内部に入ってみたが、過去の記憶は甦らない。けっきょく帰宅してから過去の旅行記を見たら、2000年に泊っていたのがわかった。ともあれ日没前に温泉地獄を見に行く。キリシタン殉教悲史の舞台で、1627年に地獄の湯つぼに投げこまれるなどして、島原半島内の信者26人が殉教した。歩道の高台に殉教碑が建てられている。
温泉地獄の湯煙と紅葉 |
日陰の噴気孔 |
<3日目> 島原半島を南下すると口之津港(くちのつこう)、長崎県南島原市にある港湾で、有明海の湾口部に位置する。かつては南蛮船(ポルトガル船)が入港し貿易が行われた。三井三池炭鉱の石炭海外直輸出港でもあった。現在、定期航路として島鉄フェリーが口之津港-鬼池港(熊本県天草市)を運航している。
島鉄フェリー |
- 鬼池港まで約30分、穏やかな海風のもと、デッキの船べりに身をまかせて景色を楽しんだ。上陸した地は天草の下島である。反時計まわりで海岸線を走る。海には、イルカウォッチングの釣り舟が群れをなしている。地元漁師の案内で、好奇心が強く人懐っこいイルカたちと対面できるという。野生のバンドウイルカ約300頭が定住しているそうだ。
- やがて下島の西側に着いた。大江天主堂がある。天草・島原一揆(「乱」という言い方が多いが、「一揆」と言ったほうが本質を掴みやすい。)でキリシタンは全滅したと思われていたが、この大江地区には隠れキリシタンが信仰を続けていたという。丘の上に建つロマネスク様式の白亜の堂が美しい。この天主堂は昭和8年(1933)に、フランス人宣教師ガルニエ神父によって建てられた。神父は天草が飢饉に陥ったときに、村人を救済し、一生をこの地にささげた。聖堂の横には神父の像が、教会のすぐ下には墓がある。大江天守堂への登山口には天草ロザリオ館があり、キリスト教が伝来してから禁教が解かれるまでの資料が展示されている。
大江天主堂 |
天草ロザリオ館と後方に天主堂 |
およそ15分走ると崎津天主堂。天草下島の南部、羊角湾(ようかくわん)の漁村の中にある。昭和9年(1934)ハルブ神父によって建てられたゴシック様式の教会、堂内は畳敷きである。民家が密集しているのでバスが入れず、かなりの距離を歩くが、それはそれで民家の佇まいを見ることができて楽しい。鄙びた家並みと天主堂との組み合わせは、一見不釣り合いな風景に感じられるが、それがかえって南蛮文化を受け入れた住民の心情を物語っているような気がする。その風景は「日本の渚100選」や、「かおり風景100選」に選定されている。
崎津天主堂のある街並み |
崎津天主堂 |
- 山の中を北上して、上島と下島が接するあたり、島原湾に面した本渡港に着く。ここに天草キリシタンの資料を展示している本渡民族資料館がある。本来なら殉教公園の天草切支丹館に展示されているものであるが、現在改修工事のため、ここに移転されている。運よく、天草四郎が使用した陣中旗の本物を見ることができた。いつもはレプリカを展示しているそうだが、11月1日から7日までが本物の展示期間になっていた。国指定重要文化財である。旗には血糊と弾痕が生々しくついている。館長さんが手際よく案内をしてくれた。
本渡民族資料館 |
天草四郎の像 |
- そもそも長崎県・熊本県の島々にキリスト教が伝来したのは、16世紀の中頃である。ポルトガル人宣教師によって布教が始まった。その後、洗礼を受けたキリシタン大名とともに、多くの島民も信者となった。16世紀の後半、豊臣秀吉はキリスト教の宣教師26人を処刑。17世紀に入ってキリシタンの禁制を布き、55人の宣教師を処刑した。徳川幕府になって、禁教政策のもとに改宗を強制。
- 17世紀に入って藩主が替わり、飢饉が続くなかで過酷な年貢の取り立てが行われ、キリシタンの弾圧が強化された。これに対抗して天草と島原の農民は一揆を起こす。ここに現れたのが、天草四郎である。四郎は16歳にして一揆軍の総大将となったが、彼自身はキリスト教徒ではなかった。四郎がなぜ登場したのかについては、25年前、”ある神父が救世主たる神童の出現を予言した”との伝説があるが、これは四郎を担ぎ出すための一揆側の画策らしい。 これが天草・島原一揆である。
- とにかく、一揆軍の騒乱は幕府を震撼させることとなり、時の将軍-徳川家光は九州諸藩に鎮圧の出兵を命じた。幕府軍の総攻撃によって、島原半島南有馬の「原城」に籠城した3万人の一揆軍は、4か月後ついに壊滅した。幕府軍は天草四郎の顔を知らないため、首実検に際して母親を立ち会わせた。沢山の生首を見せたその中の一つに、母親が「お〜お〜、なんとお痩せになって・・・」と反応を示し、その頬を両手で撫でさすったことによって、首実検ができたのだという。
- 一揆後、ポルトガルとの交易も断絶した。天草は寛永18年(1641)に幕府直轄の天領となり、鈴木重成が初代の代官に任命された。代官は一揆方の心情をよく理解して寺院を再建し、御霊の供養を行ったうえで仏教政策を推進した。それだけではなく、荒廃した天草の復興に力を注いだのである。このことから住民からも慕われるようになり、「鈴木さま」と崇められて死後、鈴木神社に祀られた。
- 明治6年(1873年)、長い期間にわたったキリスト教の禁制が撤廃されて、大江では、いちはやく教会堂が建てられ、多くの信徒が集まった。
- 近くには祇園橋がある。天草市の市街地を流れる川に架けられた石橋で、天保3年(1832)の架橋。この付近は、寛永14年(1637)一揆軍と幕府軍とが激突した場所であるが、その時には祇園橋はまだなかった。後年、橋が造られてから、戦闘の場所を示すためのシンボル的存在になったのだろうか。この戦いで、一揆軍が天草を支配する富岡城を攻め込み、番代を勤める唐津軍との間で激戦が展開された。両軍の戦死者により川は屍で埋まり、水は血で染まったという。橋の名前は、近くの祇園神社にちなんだもので、国の重要文化財に指定されており、車の乗り入れは禁止されている。
祇園橋 |
- 天草パールラインとは、熊本県の宇土半島から大矢野島を経て、天草の上島まで五つの橋で接続したルートをいい、これらの橋を天草五橋という。この日は上島の5号橋から本土に向けて走った。松島展望台からは、天草4号橋の展望が素晴らしい。天草市本渡町の島原湾に面したリゾートホテル、「天草アレグリアガーデンズ」内の「ペルラ」の湯舟で昼食。 ここはまことに景色がよい。海原の向こうに普賢岳が見える。
松島展望台から4号橋 |
かなたに雲仙岳 |
2号橋-天草四郎-雲仙岳 |
1号橋 |
- 観光はほぼ終わった。平戸・島原・天草は、ヨーロッパから航海をして日本に辿り着く最初の地である。西欧人から見た日本は、沢山の島々が複雑に点在し、そこに暮らす日本民族とともに、不思議な魅力を感じたのではなかろうか。南蛮文化を受け入れた日本人も、未知のキリシタンを恐れるどころか、我が暮らしの救いの神とした生き方に、改めて驚くばかりだ。
- 熊本空港へ向かう途中に立ち寄ったのは、不知火温泉ふるさと交流センター物産館(道の駅)である。デコポンは、ポンカンと清見オレンジを掛け合わせた品種である。熊本宇城農業協同組合は 「デコポン発祥の地」として不知火町のシンボルとして記念碑を建てたのである。
デコポン発祥の地 碑 |
<参考リンク>
-
旅行コースgoogleマップ
-
サイバー切支丹館
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