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 ここへ行ってきました 

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21.8.23〜25四大世界遺産めぐり(姫路城・石見銀山・厳島神社・原爆ドーム・その他旧跡地)

 前々から行きたいと思っていた観光地が、一回の旅行で見られる企画を見つけて参加したのが、Y社による今回のツアー旅行である。行きたいと思っていたのは、姫路城・石見銀山・原爆ドームの三箇所である。厳島神社や、その他旧跡地は10年以前に訪れたことがあるが、再訪もまた懐かしい。

<1日目>姫路城・三朝温泉
 羽田から神戸空港に着いた。昼食後、姫路城の見学となる。あらかじめ調べておいたのであるが、撮影ポイントは西の丸と聞いている。時間的には光線の角度がやや南西寄りであるから、カメラアングルとも合致している。
 姫路城は、最初に築城されたのが1346年、赤松貞範により姫山に築いたと言われる。その後、争いのたびに城主が変り、天正8年(1580)羽柴秀吉が入った。「天下分け目の戦い」といわれる関が原の合戦後、徳川幕府は武将-池田輝政に西国の統治を命じた。その拠点としたのが姫路城で、慶長6年(1601)に入城して大改修を行ない、1609年に天守閣が竣工した。その後、引き継いだ大名らによって西の丸が整備されて現在の城閣へとつながった。
 輝政は水害の多かったこの地の治水に力を注ぐとともに、建築技師集団を組織し、城郭都市計画を開始した。その結果、天下無比の堅牢かつ優美な城郭が築かれた。標高46mの姫山に白鷺が翼を広げたような優美な姿は、別名-白鷺城(はくろじょう)と呼ばれる。しかも外壁や石垣のみならず、天守にいたる通路までの各所に実戦に備えた造りが施されている。築城以来、現在にいたるまで一度として戦火にさらされていない。平成5年(1993)に世界遺産に登録された。


撮影ポイントの西の丸より

西の丸方面



市立動物園方面

市立美術館方面

 見学の解説は、70歳になる女性のボランティアガイドがしてくれた。分かりやすく、撮影ポイントも教えてくれるので助かった。それにしても女性の足の速いのにはついていけず、今日は3回ガイドの予定があるというのだから脱帽だ。
 今年の10月から平成26年まで、大天守の保存修理工事が行なわれる。来年4月からは素屋根に覆われて外観は見られなくなる。しかし工事中の様子を見学できるから、それも面白そうだ。
 たまたまこの日、三浦友和と石田ゆり子による映画のロケが行なわれていた。仮題だが、「死にゆく妻との旅路」である。1999年に実際に報道された「保護者遺棄致死事件」の妻を死なせた夫-清水久典氏手記の映画化である。自己破産寸前の夫が末期癌の妻とワゴン車に乗って9ヶ月各地をさ迷う夫婦愛の物語りである。見学の前に大手門前バス停付近で、見学後に大手門の内側で撮影場面を見ることができた。テレビドラマの「はみだし弁護士・巽志郎」の風貌とは違って、髭だらけの思いつめた表情を演じていた。これは映画も見なければなるまい。
 三朝温泉
(みささおんせん)に到着。三徳川の両岸に旅館が立ち並ぶ古くからある温泉である。人の気配があまり感じられないので、「やっていけるのかな〜」と、つい心配してしまった。どの源泉にもラジウムが含まれているそうで、療養温泉として名高い。公立の温泉病院や研究所がある。長期滞在者向けの旅館や自炊宿もあり、観光と療養という両面を持っている。
 僕達が泊まった旅館は、昔懐かしい佇まいだ。社長は切絵、女将は押し花絵と俳句をたしなんでいるそうで、それらの作品が壁に掛けられたり、短冊が食膳に添えられたりしており、奥ゆかしさを感じる。

<2日目>出雲大社・石見銀山
 
三朝温泉から、日本海に沿って国道9号を西進する。山陰本線がつかず離れずで、右手には日本海が見え隠れする。左手には大山(だいせん)の雄姿が見えるはずだが、残念ながら今日は雲に隠れて見えない。さらに西へ進み米子市に入る。
 米子を過ぎると、鳥取県から島根県に入る。時折、高速道路の山の切れ目から宍道湖(しんじこ)が見え隠れする。宍道ICを降りると田園地帯に入る。宍道湖に流れこむ斐伊川(ひいかわ)が作り出した、豊穣の穀倉-斐川平野である。全国でも有名な散居村を車窓から眺めることができる。”築地松”と呼ばれる黒松の刈り込みに囲まれた風景だ。江戸時代に度重なる水害から守る為に邸の築地を固め、冬の季節風を防ぐために北西側に植えられている。高さは屋根の高さとほぼ同じで、威風堂々としたその景観は、その家の格式を示すことにもなった。


築地松に囲まれた散居村の原風景



威風堂々-築地松の旧家

 出雲大社(いずもおおやしろ)は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ=大黒様)を祭る古社。旧暦の10月には全国の神様が出雲へ集まるので、出雲では神在月、出雲以外の地では神無月というのだそうだ。
 神楽殿のしめ縄は日本一の大きさで、観光カタログのシンボルになっている。拝殿では結婚式が行なわれていた。新郎新婦が神前に起立して祈願しているのが見えた。本殿は現在、素屋根に覆われていて見えない。昨年から60年に一度の大遷宮が行なわれているからだ。平成25年まで工事が行なわれる。本殿の高さは24mあるが、中古には48mもの高さがあったと伝えられている。さらに古代には96mの高さであったというのだから驚く。


神楽殿

拝殿



素屋根に覆われた本殿

 参拝は二礼四拍一礼だ。四拍とは「しあわせ」という語呂合わせらしい。賽銭は、「しじゅうご縁があるように」と45円入れるのが良しとされている。しかし語呂合わせや、こじつけが多いと、いささか鼻についてしまう。これらの話は、土産店の女性が手旗を持って引率しながらの解説であるから、しだいに面白おかしくなってきたのであろう。
 お昼は”出雲そば”。蕎麦の実を殻ごと挽くので色が黒く、香りがあってコシが強い。朱塗りの椀に盛られて出てくる。
 そもそも出雲は、平安時代から斐伊川の水害が多かった。稲作の収穫量は不規則で年貢米を納めるのに四苦八苦し、農民自身は蕎麦を栽培して代用食としていた。江戸初期、松江藩はソバ食を奨励し、信州からソバ打ち職人を連れてきて指導したという。正統な打ちかたは、小麦粉2、そば粉8の二八そばを挽いたら直ぐに打って、直ぐに茹でる。これを「三立て」といい、盛り付けは割子と呼ばれる、ロクロでくった丸い朱塗りの器を使って引きたてる。
 石見銀山(いわみぎんざん)遺跡は、島根県大田市(おおだし)の大森町にある。平成19年(2007)に世界遺産に登録されてから、すっかりツアーコースの定番に繰り入れられた。マルコポーロによって「ジパングの銀」と伝えられた西洋の大航海時代に、石見銀山は世界の1/3近くの銀を産出していたという。
 銀山の発見は14世紀の初めであるが、本格的に採鉱されたのは16世紀前半。朝鮮から製錬法の新技術を導入して、飛躍的に産出量を伸ばした。戦国期に入ると石見銀山の領有は毛利氏の支配となり、豊臣秀吉へと移っていく。関ヶ原の戦いの後は徳川幕府の管轄に置かれることになった。最盛期は慶長から寛永年間といわれる。その後、坑道が深くなるとともに採掘量が減って行き、17世紀後期には大半が休山することになった。明治2年(1869)に維新政府の管理となった後、民間企業に移るも成果なく、大正12年(1923)に廃坑となった。
 石見銀山は便宜上、銀山地区町並み地区によって構成されている。銀山地区は実際に採鉱が行われた区域、町並み地区は銀山の運営管理に当たった武家屋敷や町屋などが混在している区域である。ツアーバスは、銀山地区と町並み地区の接続点にあり、見学は銀山地区から始まる。
 間歩(まぶ)と呼ばれる坑道の総数は、600箇所以上にも及ぶという。その中で、一般公開されているのは、龍源寺間歩だけである。最上部に位置し、その途中で寺院や、入口をふさいであるが、福神山間歩の坑口などを見ることができる。


清水寺

福神山間歩の坑口

 山組頭(やまぐみがしら)を勤めた高橋家の旧宅はしっかりしている。代官所と銀山師との仲介役をしていた。終点が龍源寺間歩の見学受付所である。


高橋家

龍源寺間歩の碑

 龍源寺間歩の坑道は長さ約600mであるが、見学できるのはわずか156mに過ぎない。その奥にはアリの巣のように坑道が掘られている。左右の壁の所々に横穴が開いているが、鉱脈に沿って掘り進んだもので、「ひ押し坑道」というのだそうだ。排水用の坑道もある。見学の効率化を図るため一方通行が施され、通り抜けの新しい坑道116mが掘られた。通り抜けの新坑道には、「石見銀山絵巻」の電照板が展示されている。


龍源寺間歩本坑

龍源寺間歩のひ押し坑道

 町並み地区は、幕府の直轄地だった石見銀山の中心街。銀山川の細流沿いに赤瓦と土壁の家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区に指定されている。武家屋敷と町家が混在しているのが特徴的だ。白壁の旧旅籠や商家が軒を連ねて趣がある。


大森の町並み1

大森の町並み2

 町並み地区を下っていくと、町並み交流センター(旧大森区裁判所)や観世音寺があり、さらに下っていくと、大森代官所跡がある。現在は石見銀山資料館になっている。


観世音寺

大森代官所跡

 観光バス乗降所の近くには、石窟五百羅漢と呼ばれる羅漢寺がある。銀山で働いて亡くなった人や、祖先の霊を供養するために、江戸時代に多くの人の寄進によって出来た寺院である。寺院と石窟に挟まれて細い川が流れている。そこに架けられている石を組み合わせた三つの反り橋を渡って、五百羅漢の参拝めぐりをする。


五百羅漢の岩壁

石窟のなかに羅漢像がある

 観光の区域は、大森代官所跡から龍源寺間歩までのおよそ3.1km。観光バス乗降所が中間地点にあり、見学はすべて徒歩で行なうから、単純計算で歩行距離は往復6.2kmになる。これに見学スポットに立ち寄る距離を加えると、7km程の坂道になる。それなりの体力が要求される。歩行に自信のない人はベロタクシーなるものを利用すれば、ガイドもしてくれるので便利である。短時間で回りたい人はレンタサイクルが便利だ。


ベロタクシー

 ここで注意したいのは、地元居住民への迷惑行為である。世界遺産に登録されたことによって静かな山間の集落は喧騒の観光地に一変した。狭い生活道路に車が殺到し住民の通行が阻害される。排気ガスを撒き散らす。家は覗かれる。通りに出るとむやみに話し掛けられる。観光難民となった住民は外にも出られず、家の中に潜む生活を強いられる結果となった、音を上げた住民の生活を取り戻すために交通規制が布かれたのは必然の結果といえよう。
 広島市へ移動。今日は長丁場だった。夕食はツアーオプションにはない自由食。広島名物は「お好み焼き」と聞いていた。腹はすいていなかったので、駅ビルのお好み焼き街で、一皿を妻と半分ずつ食べた。

<3日目>錦帯橋・厳島神社・原爆ドーム
 錦帯橋
は、山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋。岩国城と城下町をつなぐ橋として造られたが、錦川の洪水でたびたび流失していた。洪水に耐えられる橋を造れないかと考え、橋脚を必要としない甲州の"猿橋"を視察した。しかし猿橋の川幅が約30mしかないのに対して、錦川の川幅は200mもあることから、これを参考とするには無理があった。
 ところが窮すれば通ずである。明(みん)の帰化僧から、杭州の西湖に6連のアーチ橋があることを聞いたのである。橋台を石垣で固めれば洪水に耐えられるというのだ。そして延宝元年(1673)に5連のアーチ橋を完成させた。しかし、翌年の洪水によって流失してしまった。橋台の敷石を強化して再建し、それ以後276年間は流出しなかった。ところが昭和25年(1950)に流失、昭和28年(1953)に再建した。平成13年(2001)から平成16年(2004)にかけて橋体部分の架け替え工事が行われた。ところがその翌年の平成17年(2005)の台風にまたもや第一橋の橋脚2基が流失して復旧工事が行われ、現在に至っている。


川下左岸から

 観光の目玉は、”白蛇観覧所”である。なんでも関ヶ原の戦いの岩国に移封された吉川広康公が米作りに努めたころ、米倉のネズミを餌にするアオダイショウから色素を欠く白い蛇が出現したという。当時の人たちが「有益で幸運を呼ぶ家の守り神」として保護したのが始まりであるとか。ルビーような清らかな目と、真っ白とはこのことをいうのかと言うような白さには、神々しさを感じてしまう。「岩国の白蛇」として岩国市が管理している。


二匹の白蛇

 厳島神社のある厳島(安芸の宮島)は平成17年、広島県廿日市市に合併する前は宮島町であった。平成8年(1996)、世界遺産に登録された。
 宮島は、弥山(みせん535m)を主峰とする山々と、原始林に覆われた山容に霊気が感じられるところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていた。厳島神社は、佐伯部(さえきべ)の有力者であった佐伯鞍職(さえきくらもと)により、現在の場所に創建されたと伝えられている。平安時代の末期1168年に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。祖父-正盛が始めた”日宋貿易”の安全を祈願するために建てられた。当然のことながら、この地を訪れる貴人に平家の権勢を誇示する目的も兼ね備えていた。神殿の左右にある建物を回廊で結び、満潮時には、社殿が潮につかる。朱の欄干が水面に映える。平成16年(2004)、台風により甚大な被害を受けたことは記憶に新しい。


フェリー

鳥居



平舞台

五重塔

 町家通りの商店街は、外国人の観光客もけっこう多かった。


町家通りから五重塔

商店街の賑わい

 原爆ドームが世界遺産に登録されたのは、平成8年(1996)である。平和記念公園の北側に位置する。広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える負の遺産である。原爆が投下された当時は広島県産業奨励館であった。


原爆ドーム

平和の鐘

 広島平和記念公園は、爆心地に近いこの地に作られた。毎年8月6日には平和記念式典が開催される。


原爆供養塔

原爆の子の像

 今日の案内人は、2歳のときに被爆した女性のボランティアである。切々と語り、見学者は身じろぎもせず聞き入った。


女性ガイドの説明

原爆死没者慰霊碑

 今年はNHKのテレビが、戦争に関する意欲的な放映をしていた。6日-「ヒロシマ・少女たち」、「”死の灰”消えぬ脅威・・・」、7日-「ノーモア・ヒバクシャ」などである。オバマ大統領が4月、プラハで『核兵器なき世界の実現に取り組む』との表明もした。政府が被爆者訴訟の全員を救済する発表をしたのも、つい最近のことだ。被爆者が封印していた体験談を、勇気をもって語るようになったことにも敬意を表する。原爆投下から64年目という年月は、直接被爆者から子へそして孫へと、原爆症による身体異変を三世代にわたっておののいてきた重みがある。世界へのアッピールが切羽詰った思いで語られていたように思う。それによって若い人たちが、核の脅威を世界に向けて訴えていた映像には心を打たれた。

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