このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ここへ行ってきました 

  (目次に戻る)

22.4.8〜10吉野山/太地

 <1日目-吉野山>

  1. 桜の名所-吉野山への旅は、史跡をゆっくり見たいという思いから、手づくりのマイカー旅行とした。前橋市の自宅を出発したのが、深夜0時。伊勢湾岸自動車道で夜が明けて、吉野山に入山したのは9時前である。
  2. 紀伊半島の中央部に脊梁の大峰山脈が南北に走っている。最高峰は八経ヶ岳(1,915m)であるが、吉野山は山脈の北端に位置する。
  3. 7世紀に役行者(えんのぎょうじゃ)という修験者が吉野に入山した。役行者は飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。吉野山の尾根続きで20数km南にある山上ヶ岳(1,719m)に山岳修行を志し、霊場を開いた。そこで感じ取った権現のお姿を、ヤマザクラの木に刻んで本尊とした。これが大峯山寺(おおみねさんじ)蔵王堂の開基であると云えられる。女人禁制の霊場は、現在でも日本で唯一の存在である。なお、大峯山は山上ヶ岳・大普賢岳・弥山(みせん)などを含む大峯山系の山々の総称である。
  4. その後、山上ヶ岳を参詣するには山道がきつ過ぎるとのことから、吉野山の登山口に金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂を建てた。平安時代には、尾根筋に百数十もの堂塔が軒を連ね、吉野大衆とよばれる僧兵によって、吉野山は治外法権的な地域として強大な勢力を誇ることになった。そのため、中央の政争で敗れた者が起死回生を願い、彼らの力を頼って身を寄せたという。兄頼朝に追われた源義経がそうであり、朝廷を追われた後醍醐天皇が吉野に南朝を置いたりもした。
  5. 役行者が、ご本尊をヤマザクラの木に刻んだことから、吉野山の桜は御神木として尊ばれた。以来、信者によって全山にシロヤマザクラが植えられていった。
  6. 吉野山の寺院群に危機が訪れたのは、明治維新である。修験道が否定され、廃仏毀釈によって多くの寺院が荒廃した。金峯山寺蔵王堂も神社にされてしまったのである。しかし明治19年に嘆願運動によって、仏寺に復帰した。
  7. 多くの寺院が再起したのは日露戦争である。戦勝記念に、吉野山中の寺院周辺に桜の植裁が行われ、全国の人びとの愛国精神を呼び起し、さらに桜の増植が行われた。これを機に、吉野山史跡の保護顕彰を目的とする「財団法人吉野山保勝会」が設立された。この活動は全国の各都県から支持され、多くの寄付が寄せられて今日に至っている。視界いっぱいに山を彩る桜は「一目千本」といわれるようになった。
  8. 吉野山から熊野本宮大社まで続く80kmほどの道は、「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」と呼ばれる、修験者の修行の道である。数多くの寺社とともに2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定された。
  9. マイカーでの吉野入りは、東側の観光車道を通る。途中、最初の見学地として如意輪寺に立ち寄る。その後は交通整理員の誘導にしたがって、竹林院前バス停付近の駐車場を利用する。僕達は最も地の利を得て行動しやすい、竹林院の近くにある民宿を利用した。
  10. 如意輪寺は後醍醐天皇が足利氏との政争に破れ、京都から吉野山へ逃れたのち病死。北向きに葬った墳墓と塔尾稜(とうのおのみささぎ)がある。北にある京都に帰りたいという、後醍醐天皇の願いを表したものだという。


    如意輪寺

    塔尾稜


  11. 金峯神社(きんぷじんじゃ)へは、竹林院前バス停から小型バスに乗った。15分で奧千本口バス停に着く。急勾配であるが、タクシーが通れるような道を5分ほど歩いて金峯神社に着く。杉や桜の老樹におおわれた素朴な社だ。しだれ桜は咲いているが、山桜はつぼみが固い。境内の左手から坂道を3分ほど下ると、義経が弁慶らと追っ手から逃れるために隠れたと言われる義経隠れ塔がある。-世界遺産-


    金峯神社

    義経隠れ塔


  12. 境内の右手から、熊野本宮大社までの大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)が始まる。約80kmの道程である。


    大峯奥駈道

    奥駈道分岐標


  13. 奥駈道を400mほど登って左斜面を下ると西行庵がある。ここまでが一般観光客が訪れる最奥である。西行は鎌倉時代の初めのころ、京の皇居を守る武士であったが世をはかなんで出家し、俗界をさけてこの地に3年間ほどわび住まいをしたという。その一句

               とくとくと落つも岩間の苔清水
                   汲みほすまでもなきすみかかな


    西行庵

    苔清水


  14. 西行庵から東側の周回コースを辿り、以降、麓に向かって見学をしていく。
  15. 吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、水の分配を司る天之水分(あめのみくまり)大神を主神とし、"みくまりが"御子守"(みこもり)となまって、俗に子守さんと呼ばれ子宝の神として信仰されている。-世界遺産-


    水分神社


  16. 桜本坊(さくらもとぼう)は、天武天皇が建てた古刹。大峯山寺護持院の一つで、修験道の道場である。この日は、お釈迦様の誕生日で、花まつりの大護摩法要が行なわれた。


    大護摩法要


  17. 花矢倉展望台は、上千本から中千本、金峯山寺の蔵王堂、はては下千本まで望める絶好の展望台。尾根道の両側に社寺が建てられ、参道に沿って門前町が発達した。長い歴史の中で、ご神木のシロヤマザクラが増えていった様子が窺える。吉野杉も見事である。
     花矢倉は奥州信夫(しのぶ=現福島市)の佐藤忠信が、源義経の主従を僧兵の襲撃から守る為に身代わりとなって戦った場所である。


    花矢倉展望台から上千本・中千本・蔵王堂・下千本


  18. 吉水神社は、もとは金峯山寺(きんぷせんじ)の僧坊であったが、明治の神仏分離によって神社となった。桧皮葺きの屋根が美しい。源義経が弁慶らと身を隠したこと、後醍醐天皇の行在所であったこと、豊臣秀吉が花見の本陣とした等の歴史的逸話で知られている。-世界遺産-


    吉水神社



    吉水神社境内から中千本・上千本


  19. 金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじざおうどう)は、吉野山のシンボルであり、修験道の総本山。東大寺の大仏殿に次ぐ木造建築である。桜材の蔵王権現立像(重要文化財)などが陳列されている。-世界遺産-


    蔵王堂


    蔵王堂の背後に、かつては実城寺という寺があった。政争に破れた後醍醐天皇が朝廷から逃れ、足利幕府や朝廷と対抗する拠点とした吉野朝宮跡である。京都の朝廷を北朝とすれば、ここは南朝(吉野朝廷)との位置付けになる。後醍醐天皇は、この地で52歳で悲運の病死をしている。

<2日目-太地町>

  1. 太地町(たいじちょう)は、以前から訪れたいと思っていた地である。きっかけは、推理作家-内田康夫氏の「鯨の哭く海-2001年刊行」を読んだことによる。今回の手づくり旅行を計画するにあたって、躊躇なくこの町を組み入れた。
  2. 吉野から紀伊山地の東熊野街道を通り、熊野灘の海岸線に達するまで、山また山。大地震があったら、たちまち陸の孤島と化してしまうのではないかと心配してしまう。マイカーの燃料は出発前にチェックしたのであるが、海岸線を走っているうちに警告ランプが点灯したほどだ。


    下北山村-池原ダム

    下流・下北山温泉きなりの湯


  3. 国道を走っていると、その名も鬼ヶ城トンネル。坑口左手に折れると直ぐに駐車場がある。ここは三重県熊野市にある景勝地。熊野灘の荒波に削られた大小無数の海食洞が、地震による隆起によって階段上に並び、熊野灘に面して約1km続いている。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。


    鬼ヶ城-獅子巌

    海食の様子


  4. 太地町は紀伊半島の南端やや東寄りの熊野灘に面している。地図で所在地を探そうとするとかなり苦労する。全国の「面積の小さい町」の10位という小さい町だからだ。陸地側を那智勝浦町に囲まれ、古来より捕鯨に活路を求めた港町である。かつては町民の大多数が捕鯨関係の仕事に従事していた。南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出した。
  5. しかし、捕鯨禁止後かつての勢いは衰退した。現在は水産庁の規制のもとに、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら、僅かに沿岸で小型捕鯨が続けられている。太地町のホームページを見ると、まさに「くじら」一色であるが、それは現在の産業を誇示したものではない。かつての栄光は、「くじらの博物館」や、「国民宿舎白鯨」に姿を変え、”くじら”にかかわる数多い屋外施設や史跡にとって変っている。もはや生活の基盤は陸上に移っているように思われる。
  6. 先ほど(3月7日)、アメリカでアカデミー賞が発表された。その中で日本にとって衝撃的な作品があった。米映画の「ザ・コーヴ=入り江」という太地でのイルカ漁を隠し撮りしたドキュメンタリー映画である。「誰も知らなかった衝撃のイルカ"猟"の実態を描く」と銘打っている。これが長編ドキュメンタリー賞を受賞した。その内容が日本のテレビニュースで紹介されたのを見ると、入り江が真っ赤な血の海となって、さすがに目をそむけたくなる映像であった。イルカショーのイルカのストレスを治療するために、水銀入りの薬を与えたり、イルカの肉を鯨肉と偽って販売しているなどの挑発的な映像もあった。反捕鯨運動のドキュメンタリーであることは明らかだ。
  7. 当然のことながら現地の人たちは激怒し、強く反発している。今夏、東京都・大阪府・和歌山県などの30館ほどで公開をするという。今後も捕鯨問題は感情的な国際問題として、いつまでも議論されるに違いない。
  8. 実は、太地町は西オーストラリア州の北部海岸にあるブルーム市(Broome)と、昭和56年(1981)に姉妹都市を結んでいる。そのブルームで「ザ・コーヴ」の公開を機に、反捕鯨団体「シー・シェパード」が市に姉妹都市提携の破棄を迫った。ブルーム市議会はそれを受けて全会一致で議決したが、地元の文化交流団体などからの要請で、かろうじてその決議は無効となった。しかし今後どうなるかは不透明である。太地町の行く末は厳しい。
     そもそも太地町とブルーム市が姉妹都市を結ぶことになったきっかけは、何だったのだろうか。それは捕鯨にかかわる次の事故が発端となった。

     明治11年(1878)12月24日、太地漁港を出港した184名・19隻の捕鯨船団に、子連れの背美鯨(セミクジラ)が網にかかった。その捕獲に手こずり、鯨との激闘は翌日にまで及んだ。寒風が吹き荒び黒潮に流されて、漁師たちは疲労困憊し、船団はばらばらになった。海の藻屑と消えた船が多く、死者・行方不明者あわせて110余名の命が失われ、生存者は神津島に流れ着いた8名を含めて、僅か73名という大惨事となった。船団を構成した鯨方は、以後、再起不能の壊滅的な打撃を受けたのである。この事故は、「大背美流れ(おおせみながれ)」と云われ、「鯨方漂流人記念碑」が建てられて今に語り継がれている。
     働き出を失った村民たちは、新たな活路を求める必要に迫られた。年が明けた翌年から南方へ出稼ぎに出る村民が多かった。行先の一つがブルーム市だったのである。
     当時オーストラリアはイギリスの植民地であり、時あたかもブルーム市で力を入れていたのは真珠産業であった。当時は天然真珠は希少の存在で産業としては成り立たず、真珠貝の貝殻を採取するのが主目的だった。ヨーロッパ貴婦人の衣服を飾る、高級ボタンの原料としてである。当時はプラスチックがなかったから、シロチョウガイ(白蝶貝)という貝殻の柄が大きく肉厚の真珠貝が高値で取引されたのである。
     太地からの出稼ぎ者は、おもにダイバーとして雇われた。潜水病で命を落とす危険を冒してまでも、日本人ダイバー達は採取量を競いあって評判だったという。第二次世界大戦で日本軍がオーストラリアを攻撃し、敗戦によってダイバー達は虜囚となった。それ以後、日本人は激減したという。
     このような歴史的な繋がりから、姉妹都市の縁組を結んだ。採貝作業中の事故などで命を落とした日本人ダイバーら919人の遺骨が眠る日本人墓地があり、特に多いのが太地村の出身者だという。現在、ブルームの人口は15,000人弱で、観光と真珠採りを主な産業としている。


  9. ところで前述したとおり、太地町は那智勝浦町に囲まれて埋没しそうに小さい。行財政的に孤立無援の感があるが、平成の大合併で議論されながら実現しなかった。和歌山県では、更なる市町村合併の構想を打ち出している。次のサイトを参照していただきたい。
    和歌山県合併推進構想 新宮東牟婁地域
  10. とにかく太地町は、今後も「くじら」を売り物にした観光に力を入れることだろう。太地湾や、熊野灘に面した岬のあちこちに鯨に関連した史跡がある。
  11. くじらの博物館には、鯨の生態や捕鯨に関する資料などが展示されている。屋外ではシャチやイルカのショーも見られる。すぐ近くには、捕鯨船資料館がある。南氷洋の国際捕鯨オリンピックで優勝した経歴を持つキャッチャーボートである。陸揚げして見学できるようになっている。海洋水族館マリナリュウムとともに共通の入場券で見学できる。


    くじらの博物館

    捕鯨船資料館


  12. 国民宿舎「白鯨」は鯨のメニューが売りである。


    国民宿舎 白鯨


  13. 灯明崎は、古式捕鯨で総指揮所の役割を果たした山見台である。太地湾に近づいた鯨を発見し、狼煙を揚げて出漁の合図や、位置情報を送ったりしたのである。


    古式捕鯨山見台

    灯明台



    古式捕鯨狼煙場跡

    灯明崎岩礁-筆島


  14. 梶取埼(かんどりざき)は、広い園地になっており、正面に灯台が立っている。梶取崎という地名は、熊野灘を航行する帆船が、江戸に進路を変えるため、この岬を目標にして梶を取ることに由来している。灯台の裏手には狼煙場跡があり、園地の一角には、くじら供養碑がある。


    梶取崎灯台

    古式捕鯨梶取崎狼煙場跡



    梶取崎岩礁

    くじら供養碑


  15. この日の宿泊は、休暇村-南紀勝浦。部屋からは熊野灘が一望できる。夕食に鯨の尾羽毛(おばけ)を薄く切って熱湯をかけ、冷水でさらしたものを酢味噌で食べた。糸状の真っ白のもので、脂肪とゼラチン質からなるらしいが、無味の感じがした。


    休暇村

<google maps> 吉野山〜太地町

<走行距離>1日目-590km・2日目-186km・3日目-678km

<参考資料>.

  1. 「熊野太地浦捕鯨史」 熊野太地浦捕鯨史編纂委員会編 昭和44年3月20日発行
  2. 「深重の海」 津本陽 昭和53年4月初出
  3. 「木曜島の夜会」 司馬遼太郎 昭和51年9月初出
  4. 町政要覧・商工課観光資料/関連サイト

(目次に戻る)  

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください