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 ここへ行ってきました 

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22.6.22〜24新潟県 下越地方

 <1日目-弥彦神社・新潟市水族館・豪農の館・瀬波温泉>

  1. 新潟県は日本海に面して細長いく、京都に近い方から上越・中越・下越の順に3ブロックに分かれている。今回はその下越地方を訪ねる旅である。
  2. 北関東自動車道の前橋南ICから関越自動車道に乗り継ぎ、越後川口SAで朝食。ここで魚野川が合流して水嵩を増した信濃川が眼下に見える。信濃川という名称は新潟県のことであり、一歩長野県の上流側に入ると、千曲川と名前が変る。源流は甲武信ヶ岳(甲州・武州・信州の各頭文字)だが、実際の川の長さから行くと、北アルプスの槍ヶ岳を源流とする犀川の方が長い。


    越後川口SAから信濃川


  3. 三条燕ICで降りて彌彦神社(いやひこじんじゃ)へ向かう。しばらく行くと、正面に赤い大鳥居が見えてきた。高さ30m、額の大きさは畳12枚の大きさだという。彌彦神社は俗に弥彦神社でとおっている。ちなみに自治体名は弥彦村という。越後平野の中央に聳えたつ弥彦山の麓にある。境内には老杉が茂って、あたりを鬱然とさせている。昭和31年(1956)1月1日、福餅撒きに集まった参拝者が将棋倒しとなり124人が死亡した事故があった。僕が就職する年で、田舎でラジオのニュースを聞き、強烈な印象を受けたことを覚えている。


    大鳥居

    彌彦神社本殿


  4. 弥彦山(638m)を走る弥彦山スカイラインは、総延長13.7kmのドライブコースであるが、この季節であるから霞んで展望は利かない。その代わり、緑が濃くなって山岳ドライブはすこぶる快適である。ロープウェイ山頂駅の付近まで行って、もと来た道を戻り、途中からR402-越後七浦シーサイドラインを経由して新潟市に向かう。国道402号のなかでもっとも美しいとされる区間である。日本海の荒波が削った岩を縫うように走る。山が海に張り出している奇岩怪石がしばらく続き、間瀬海岸から一部山中を走るが、これは東北電力が建設を予定していた巻原子力発電所の予定地だったため、迂回ルートになったという。巻原発は住民投票で建設中止になった。


    シーサイドライン1

    シーサイドライン2


  5. シーサイドラインが終わって途中の新潟市越前浜で見たのは、遠藤実記念館-「実唱館」の看板だ。この日は休館日のようだった。遠藤実は、かつて僕が勤めていた繊維会社の新潟県内野工場の従業員だった。音楽活動を目指して東京に出た10年後に、僕は同じ会社の福島県富久山工場に就職した。確か、職場の先輩が遠藤実の曲が流れるたびに、誇らしげに自慢していたような記憶がある。


    遠藤実記念館


  6. やがて防砂林の続く新潟砂丘へ入る。この砂丘は村上市までの80kmに及ぶ長大な規模である。国道から一段低くなって、不規則かつ緩やかな起伏の広大な畑地が広がっている。ちょうど花時のタバコと何を作っているのか分からないが、トンネル栽培が行なわれている。道路の海側には飛砂防止柵が設置されている。


    砂丘の農園-タバコの花

    飛砂防止柵


  7. 市街地らしくなってきたころ、大きなコンクリート製の堤防に阻まれて左に曲がると、正面に大規模な水門が現れた。圧倒されて思わず車を停めたところに「関屋分水資料館」の看板を掲げた建物があったので、立ち寄って見学した。受付もなく気軽に見学できるところが気に入った。信濃川と関屋分水路の歴史、働きなどについての資料が展示されている。信濃川河口から7kmほど手前にあり、昭和47年(1972)に通水した。関屋分水路は人工的に造った水路である。その役割は、新潟市を洪水から守ること、水道や農業用水の水量を確保すること、信濃川に海水が入るのを防ぐこと、新潟西港に洪水土砂が堆積しないようにすること、新潟海岸の浸食を分水路からの土砂で防ぐことなどである。


    関屋分水資料館

    水門


  8. さて、新潟市民の憩いのエリアに近づいてきた。その一つに「新潟市水族館マリンピア日本海」があり、僕たちも前から見学を楽しみにしていたのである。ところが出発4日前の6月18日、テレビのニュースで、飼育上のミスにより、日本海大水槽のほとんどの魚類が死亡するという事故の発生を知ったのである。見学を諦めるしかなかったが、未練がましく、せめて場所だけでも確認しておこうと行ってみると、なんと駐車場がいっぱいで、ゾロゾロと入場者が足を運んでいるではないか。テレビや新聞のニュースで、思わぬ関心が高まったのだろうか。これならある程度見られるコーナーがあるかもしれないと、急きょ見学を決めたのである。幸いにも駐車場の1マスだけが空いていて、我が群馬ナンバーを見た誘導員の手招きによって運よく駐車できたのである。1,500円の入場料2枚分を求めようと札びらを差し出すと、受付嬢がにこやかに「今日は無料でございます。」とニコヤカにおっしゃる。理由はすぐにピンときたが、どこまで良運に恵まれているのだろうかと、こちらも思わず微笑んでしまった。どうやら事故の助っ人が現れたらしい。日本海大水槽の展示は「アクアマリンふくしま」より協力を得た魚類を中心とした展示となっているというのであった。順路を一通り見終わったところで、程よくイルカショーが始まった。


    水槽

    イルカショー


  9. さて、昼ごろになった。昼食の場所はすでに決めていて、カーナビで中心街を目指した。平成2年、佐渡旅行の帰りにタクシーの運ちゃんから勧められた店である。ちょうど20年前に訪れたことのある「いけす道楽-越佐(えっさ)」がそれだ。越佐とは越後と佐渡を指す。日本海の新鮮な魚介類を料理してくれる。いまだ健在で、店内の様子も全く同じで懐かしかった。唯一スタッフの顔ぶれだけが変わっていた。生簀を囲むカウンターで、昼のいけす定食1,260円はお手頃で、思わず贅沢な気分を味わった。


    かにの看板

    生簀と奥が調理場


  10. 食後の運動を兼ねて市内を散歩した。駅方向に向かうと信濃川。満々と水を湛えて萬代橋が埋まりそうに見える。昭和39年6月(1964)、新潟地震が発生した。そのとき信濃川に架かった橋の中で、破損はしたものの唯一渡橋可能だったのが萬代橋である。


    萬代橋


  11. この震災には想い出がある。先の「遠藤実記念館」の項にも書いたが、僕は当時、福島県の富久山工場に勤務していた。昼休みも終わって午後の仕事を始めたとき、突然震度4の地震が発生したのである。そのうちに東京本社から電話が入った。新潟工場と連絡途絶状態だというのである。さっそく職場のテレビがつけられたが、どのチャンネルも詳細不明。と言うことは、通信幹線のマイクロウェーブが被害を受けたことは歴然としている。当時、僕達の職場は特別高圧変電所と火力発電所を持っており、電気・通信のエキスパートがそろっていた。生産活動や市民生活が大被害を受けたであろうことは、通信の途絶が物語っている。皆青くなったのは当然である。何とか現地の状況を把握する必要がある。そこで考えられたのはアマチュア無線である。あらかじめ他の無線家との交信によって、被害の規模は断片的につかめた。次に工場被害の状況を掴む必要がある。そこでハム資格のある後藤某ともう一人を、現地へ派遣した。富久山工場の4F屋上にもアンテナが建てられた。詳細な記憶はないが、後藤某らは萬代橋を渡った筈である。なぜならば、工場被害は予想より少なかったとの交信がなされたからである。後はライフラインの復旧がなされるまでの間に、現地従業員だけで復旧可能であるという。その旨、富久山工場から本社に電話報告した。待機していた僕達も胸をなでおろして、臨戦態勢を解いたのである。この年は東京オリンピックが開催され、個人的には結婚と長男誕生があり、僕等も記念すべき年であった。


    メーンストリート


  12. 新潟市の中心地から郊外にある「北方文化博物館」に向かう。越後の蒲原平野を福島県から流れ下る阿賀野川の左岸に、戸数三百余りの沢海(そうみ)という集落がある。この地に江戸時代中期に農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いた一族が伊藤家である。昭和期には、田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主となったが、戦後の農地解放により広大な農地は伊藤家の所有を離れた。屋敷と住宅が現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれている。美術工芸品や考古資料等が展示されている。

    広大な敷地と多くの棟数

    畳は100枚にも及ぶ

    家族と使用人が60〜70人いて、1日に消費する米は1俵60kgであったという。


    1日分の米1俵


  13. 新潟市を北上すると、ふたたび海岸線に沿った道路を走る。背の高い松の防砂林がどこまでも続く。面白いことに今朝、三条燕ICから弥彦村へ向かい、そして今日の宿泊地-瀬波温泉に至るまで、カーナビは遂に高速道路を指示しなかった。そう言えば、高速無料化の社会実験で、新潟中央JCTから荒川胎内ICまでは、端っこ路線で無料になる予定。かなり利用されるに違いない。しかし海岸道路はゆっくり旅行者にはお勧めである。


    松の防砂林


  14. 宿は「夕映えの宿-S荘」という。一環して夕映えを強調している。インテリアから菓子の包装紙までがそうである。部屋は真西の日本海を目の前にしているから、日が沈むまでの経過が常に分かる。ロビーには、今日の日没が一目で解る「夕映百年カレンダー」があり、その時刻・位置が確認できる。ダイニングルームの窓際席からは、日没までの夕映えをしばし眺めることができる。夕食には、オレンジ色の「夕映えカクテル」が出た。そういえば、この辺には村上市岩船地区が発祥地とされる「岩船麩」が知られており、なかなかおいしい。


    夕映え

<2日目-笹川流れ・村上市街地・石油の里>

  1. 夜半に雨が降って、朝には小やみになった。「笹川流れ」が今日の見どころであったが、はたして遊覧船が出港するほどの客が集まるか心配であった。海は穏やかだし、とにかく行くことにした。最初僕たちだけだったが、9時には出港すると舟屋の人たちは自信をもっていう。果せるかな、5分ほど前になったとき観光バスが2台やってきた。予約客であろう。見事な景観を誇る延長11kmの笹川流れ。中心地の笹川集落にちなんで名付けられた国の名勝天然記念物に指定されている。一周40分の笹川流れ周遊コースである。眼鏡岩・恐竜岩・鷹ノ巣岩・びょうぶ岩などの奇岩が連続する。潮風に当たりながらカモメの餌付けも体験できる。


    雨滴が当たる窓から

    君戻岩



    恐竜岩

    船縁のカモメ


  2. これより更に北上すれば、そう遠くはない山形県境に達する。今回の旅行は周回コースを取らずに、引き返すコース選びをした。バックして村上市の市街地に向かう。サーモンパークである。市街の北を流れる三面川(みおもてがわ)の整備された河畔公園。中心施設が「イヨボヤ会館」で、村上の独特な鮭文化を紹介している。この地方では古くから「鮭」を「イヨボヤ」と呼んでいる。魚のことを「イオ」と呼び、さらに転訛して「イヨ」と言った。「ボヤ」とは幼児が使う方言で、広く魚を指している。鮭にはこの両方の名前を使い、尊んで「イヨボヤ」と言った。日本海に注ぐ三面川は、秋ともなれば鮭が帰る母なる川。江戸時代における青砥武平治(あおとぶへいじ)なる下級武士が関わった「鮭の自然ふ化増殖」が今に伝えられている。鮭は村上藩の重要な財源とされ、この鮭漁を盛んにしたのが青砥武平治であった。武平治は、世界で初めて鮭の回帰性を発見し、「種川の制」を考案した。これは、三面川の本流にバイパス河川を作り、帰ってきた鮭が安心して産卵できるようにした「自然ふ化増殖システム」である。これを種川という。


    展示室1

    展示室2



    青砥武平治の像

    観察自然館-種川の様子


  3. 市街地に移ると城下町の風情がある。海から離れた東地域に村上城跡があり、西の麓が城下町で、現在も繁華街である。市役所の近くに村上市郷土資料館(通称-おしゃぎり会館)がある。村上大祭で曳き回す「おしゃぎり」を展示していることから、そのような愛称で呼ばれている。ここに車を置いたまま、共通見学券で隣接した若林家住宅(武家住宅-国指定文化財)・村上歴史文化館(個人のコレクターから寄贈された村上・岩船地方の歴史・民俗資料)も共通券で見学できる。ついでのことに街並み散歩を兼ねて小さな鮨屋に入ったが、他に客はなく、いささか淋しい昼食であった。


    おしゃぎり会館

    若林家住宅



    村上歴史文化館



    城下町

    市役所


  4. 新潟市秋葉区に移動。「石油の世界館」は、うっかりしていて今日水曜日は休館日だった。石油資料展示室には、模型やパネルを使って、石油の歴史や採掘の技術などが紹介されている筈である。参考的に外観と屋外看板の写真を示しておく。


    石油の世界館

    石油の里

<3日目-南魚沼市>

  1. 僕たちが宿泊した南魚沼市の六日町にあるKG荘には、2009年NHK大河ドラマ『天地人』にちなんだ上田衆の旗印や戦国時代を彷彿させる鎧兜などが展示されていた。南魚沼市は、昨年より史跡を訪ねる観光客で沸き立った。それまで静かな佇まいだった集落は一変し、狭い道に観光バスがすれ違えるように拡幅部を設けたり、公衆便所や駐車場が設置された。注目されるのは、古い石碑が風化して文字が読めないためか、その脇に、ドラマの始まる3,4年前に新しい石碑が建てられたところが随所にあった。


    坂戸城跡

    景勝・兼続-生誕の地



    坂戸城跡からの上田庄


  2. いくつかある史跡の中で、金城山-雲洞庵(うんとうあん)がある。藤原一族の開祖による尼寺として始まった。上杉憲実(うえすぎのりざね)が禅寺として再興した南魚沼郡一帯にあたる上田庄に位置する。赤門からの参道の下には法華経の一石一字が書かれた石が埋められているという。戦国時代には越後国主となる上杉景勝やその家臣である直江兼続が幼少期に勉学に勤ししみ、和尚から「敬天愛民」の儒教精神を学んだ。


    雲洞庵-赤門

    参道



    本堂


  3. 米の横綱はコシヒカリであろうか。細分化すれば、新潟コシヒカリ→魚沼コシヒカリ→南魚沼しおざわコシヒカリとランクは上がって行く。すなわち合併前の旧塩沢町である。昔、職場にこの地の同僚が何人かいて、「あいつの家のあたりの米が一番うまい。」などと言っていたことがある。土壌と気象環境に因るそうだ。とりわけ日中と未明の気温差が大きいことがそうさせているらしい。
  4. JAの施設に「こめ蔵」と称するコシヒカリの販売所がある。手ごろな値段で買えるし、知人への宅配便も行なえる。
  5. 南魚沼市の西方に魚沼スカイラインがある。標高は700mにも満たないが、魚野川流域の田園風景が緑の絨毯を敷き詰めた様相だ。絶好の展望台が4箇所あって、東側の扇状地が雄大だ。霊峰-八海山(1,778m)や巻機山(1,967m)がよく見える。十日町展望台・魚沼展望台が絶好のビューポイントである。


    魚沼展望台からの展望



    山里の風景

<google maps> 新潟 下越地方

<走行距離>818km

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