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 ここへ行ってきました 

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23.6.26〜28大宰府・国東半島・別府・湯布院・阿蘇・高千穂・熊本

 九州にはまだまだ見るべき所が多い。毎月CT社から送られてくる無料の旅雑誌に、手ごろなツアーがあった。阿蘇・湯布院は再訪であるが、他は初めてである。とりわけ高千穂は神話の里として魅力を感じていた。

<1日目:大宰府天満宮-国東半島-別府鉄輪温泉>
 羽田8:50発、福岡10:40着。ここからバスで大宰府市へ向かう。そもそも大宰府とは1,300年の昔、九州全体を治める役所が置かれた場所をいい。500年の間、その役目を果たした。関連する史跡が市内に数多くあり、大宰府天満宮はその一つである。祭神は菅原道真(すがわらのみちざね=菅公)。京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。梅の名所として知られ、2月中旬から3月中旬が見頃のようだ。


心字池にかかる太鼓橋

本殿

 菅原道真は平安時代の貴族で、学者であり政治家でもあった。醍醐朝では右大臣にまで昇ったが、政敵-藤原時平の陰謀によって筑前国の大宰府に左遷された。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」は有名。
 道真は2年後にこの地で亡くなった。死後、たまたま京に異変が相次いだ。まず、政敵だった藤原時平が39歳の若さで病死。更には朝廷の要人が相次いで死んだり、御殿が落雷で焼失した。これらの異変を道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に太宰府の埋葬された墓の上に建てたのが天満宮。京都においても火雷天神が祭られていた北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして信仰する天神信仰が全国に広まった。やがて各地に祀られた「天神様」は、祟り封じの役割よりも、道真が優れた学者であったことから、しだいに学問の神として信仰されるようになった。
 天満宮までの参道には茶屋や土産物の店が軒を連ねている。名物は梅ヶ枝餅で、食べてみると別に酸っぱい味はしない。菅公さんの無聊を慰めるために、餅を売っていた老婆が時おり店に迎えたり、菅公が亡くなったときに、餅を梅の枝にさして霊柩に備えたという故事からその名が付いたという。


門前町の賑わい

梅ヶ枝餅を焼く店

 国東半島(くにさきはんとう)は、大分県北東部に位置し、半島の中央部よりやや北寄りの内陸部には両子山をはじめとする山々がそびえており、丘陵地が海岸に向かって放射状に伸びて、全体的には際立った円形の半島である。国東の国とは何かということだが、半島の西にある宇佐をいうらしい。宇佐には6世紀以前から強大な政治勢力があって、邪馬台国宇佐説まであるという。


国東半島への大分自動車道

 富貴寺(ふきじ)は、大分県豊後高田市(ぶんごたかだし)にある天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、。国宝の富貴寺大堂(おおどう)は、九州最古の木造建築で、平安建築のひとつとして貴重な存在である。阿弥陀如来が鎮座する周囲の壁には、極楽浄土の壁画が描かれている。堂内の公開は悪天候の場合はできないことになっている。壁画が湿気を嫌うからである。バスで移動中、風雨が強かったので、さてどうかなと心配したが、近づいたら雨はあがっていた。この辺で生まれたというバスガイドは、私の行いが良いからだと得意顔、冗談は兎も角として、顔に似合わずなんでも知っていて、サービス精神旺盛なことには感心するばかりであった。


天台宗 富貴寺

富貴寺大堂

 富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態をもつ宇佐神宮と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。
 富貴寺大堂には神職に見える男性がいたが、自らボランティアガイドと名乗り、解説に応じてくれた。説明時間は最低でも30分は必要だというところを、我等添乗員が20分にして欲しいと掛け合い、交渉成立。天正年間(1573 - 1592)、キリシタン大名大友宗麟の時代に、多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難をまぬがれた。しかし太平洋戦争のとき、ここに爆弾が一発だけ落とされて、大堂が吹き飛んだが、住民が部材を回収して再構築をしたという。
 程近い真木大堂(まきおおどう)に移動。話は奈良時代、今はなき伝乗寺という寺院があったことから始まる。平安時代に至って七堂伽藍を備えた大寺院となった。約700年前に火災によって焼失し、詳細な史料は残されていない。伝乗寺は幻の存在となって各寺坊も衰退した。そこで阿弥陀如来坐像をはじめ、何体かの仏像がここ真木大堂に集められたというのである。
 境内の奥には旧本堂がある。約700年前、蒙古軍来襲のとき鎌倉幕府は、伝乗寺に対して、異国降伏の祈祷を行なうよう命じた。その恩賞として将軍家を経て朝廷より菊花の紋章が下賜された。その紋章が旧本堂の扉に貼られている。


真木大堂

旧本堂

 国東半島から別府湾添いに走り別府市に移動する。やがて雄大な裾野に広がる市街地に入った。湯煙があちこちに立ち昇っている。別府温泉は、市内各地に数百ある温泉の総称で、源泉数・湧出量ともに日本一を誇る。それらは歴史の異なる8箇所の温泉郷から成っており、これらを総称して別府八湯(べっぷはっとう)と呼んでいる、鶴見岳と伽藍岳の東麓に湧き出す温泉である。
 宿泊したのは、その中の一つ、別府鉄輪(かんなわ)温泉のHホテルである。湯けむり漂う温泉街の中心部だ。夕食は、あわび・さざえ・ほたて・海老が入った「海鮮地獄蒸し御膳」だった。


湯けむり漂う温泉街

<2日目:別府-湯布院-瀬の本高原-阿蘇>
 昨夜は風雨となり、未明に窓を打つ雨音で眠りを覚まされた。幸い出発のころには、どうにかやんで、近くにある海地獄を見学した。別府には地獄と称する九つの自噴温泉がある。泉質にそれぞれに特徴があり、固有の名前を付けて客を呼び込んでいる。それを見学するには入場料を払う必要がある。僕達が見学したのは地獄の中では最大のものだ。海の色に見えるところからそういうのであるが、温泉中の成分である硫酸鉄が溶解しているからだという。湯煙が大きすぎてその全体像を見ることは不可能で地獄の周囲を一巡して漸くその一端を垣間見ることが出来た。今から約1,300年ほど前、鶴見岳の爆発により出来たものだという。


自噴温泉の湯煙

海の色

 園内には、温泉熱を利用してアマゾン地方原産の大鬼蓮や睡蓮を栽培していている。


大鬼蓮の池

 そうかと思えば足湯もある。面白いのは、源泉が熱いので適温まで冷ます装置があることだ。竹製のスダレのようなものを何段も組み合わせて上から源泉を注ぐ。すると粒状になって落下し、熱を空気中に放出するのである。我が群馬県の草津温泉には舟の櫂のようなもので湯をかき回して冷ます「湯もみ」というのがあるが、思わずそれと重ね合わせてしまった。


源泉を冷ます装置

 ここよりも山手の方に行くと「血の池地獄」というのがあるが、規模は小さいながらそれと同じ類の地獄がこの園内にもあった。


血の池地獄の同類

 別府市の豊富な温泉パワーの利用は広範囲に及んでいる。温泉療養の病院、魚や野菜を温泉の蒸気で蒸し上げる地獄蒸し。冷暖房に利用するのは当たり前で、地熱発電を持つホテルもあるそうだ。市民生活だけでなく、古くは明礬の生産から、地熱発電、花き栽培、養魚業、温泉泥美容まで、様々な産業に幅広く利用されている。
 別府湾が望める鶴見岳の別府ロープウェイに乗った。雲のために山上駅では展望が見込めず、走行中に雲の切れ間に僅かに見えた。


下りゴンドラと高原駅

途中で別府湾が見える

 別府ロープウェイの高原駅はすでに別府阿蘇道路、別名やまなみハイウェイの沿道にある。これから由布市に向けてその道を走る。隣接市だからそれほど遠くはない。いつの間にか右手に山が迫ってきた。由布岳だった。山の斜面は緑の草原と疎林に覆われている。道はいくつかのヘヤピンカーブを繰り返し、そのたびに由布院盆地が間近になってきた。


緑の草原と疎林

由布院盆地

 2005年、平成の大合併に際して、挾間町・庄内町・湯布院町が新設合併して由布市が発足した。観光都市である一方、大分市のベッドタウンとしての役割も併せ持つ。
 ツアー旅行などの資料には単に「湯布院」とあるが、住所でいえば「大分県由布市湯布院町」となる。なお言うならば、湯布院町にある温泉は由布院温泉という。以前から分かりずらかったが、大合併によって、ますます訳が分からなくなった。ちなみにJRの駅名は由布院、高速道路のインターチェンジ名は湯布院という具合で戸惑うばかりだ。
 由布院温泉はかつて鄙びた温泉だったが、昭和40年代に町ぐるみで映画祭や音楽祭を開催し、歓楽街を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきて今日があるという。
 金鱗湖
は100m×70mのほぼ長方形、流れ込む30℃の温水と、湧水によって成り立っており、大分川として流れ出る。生息する魚は、鯉・鮒・ハヤ・うなぎ・ナマズ・テラピア(豊後鯛)・グッピー・すっぽん亀・石亀など、流れ出る大分川にもハヤが群れて観光客を楽しませる。梅花藻も咲き出す気配が感じられた。周囲の樹林や建築物とともにバランスのよい佇まいだ。


金鱗湖の背後に湯煙と由布岳

魚泳ぐ金鱗湖

 今日は月曜日なのに土産物店や飲食店の並ぶ繁華街には若者の男女が多く、「どこでも年寄りばかり」という常識がここには通用しなかった。ところがグループでしゃべり合う言葉から東南アジア系の外国人と分かり納得した。元気な足取りとリッチな服装で、富裕層かななどと一瞬くだらないことを思ってしまった。そういえば店の看板や道路標識にも英語・中国語・韓国語が表示されている。ちょうど昼どきの時間になったが、飲食店で食事をするのもいいが、僕等はあちこちで少数多品種の食べ歩きをした。


繁華街

 湯布院町からやまなみハイウェイを阿蘇へ向かう。飯田高原(はんだこうげん)・長者原(ちょうじゃばる)瀬の本高原(せのもとこうげん)と、なだらかな高原地帯が連続する。九重連山と緑の草原が雄大な景観を見せてくれる。そのスケールは北海道にひけを取らない。あちこちに黒毛和牛、あか牛(朝鮮牛)、馬などが群れている。今やあか牛は熊本ブランドとして全国に広められようとしている。


あか牛

 そういえば馬も、熊本県は全国一の馬刺しの消費県だそうだ。それだけに馬生肉の検査体制もしっかりしているらしい。ここに興味深い記事がある。KUMANICHI.COMが伝えるもので、県と熊本市が5/10-6/2県内でユッケや馬刺しなど生肉用を扱う施設を検査した。厚生労働省の緊急監視要請を受けたもので、2,125施設(牛生肉88・馬生肉2,102・牛馬生肉の重複65)。その結果、牛生肉施設で自主検査未実施85、トリミング不適合38だったのに対して、馬刺しは全施設のうち1,088施設を検査した中間段階で全て合格した。《新情報2011.10.31その馬刺しにも寄生虫による食中毒発生の事例が厚労省から発表され、併せて流通過程で冷凍処理をするよう全国に通知された。》
 外輪山を下るところにある城山展望所あたりからは、大きなカルデラの中に鮮やかな緑の平原が眼下に広がっている。阿蘇山とは二重式火山で、外輪山を含む山塊全体の総称である。内側にあるのが阿蘇五岳(あそごがく)で、東側から根子岳(1,408m)・高岳(1,592m)・中岳(1,506m)・往生岳(1,238m)・杵島岳(1,321m)の山塊によって構成される。現在、中岳の第一火口が活動中で、白い噴煙を上げている。火の国熊本県のシンボル的存在である。
 この阿蘇五岳を北側の外輪山から遠望するとお釈迦様が頭を東にして仰向けになっている涅槃像(ねはんぞう)に見える。大自然の山岳に対する畏敬の念からそのように見えても不思議ではない。言いえて妙である。(次のリンクでご覧ください)

                   阿蘇山-阿蘇市

 阿蘇カルデラは世界最大級で、外輪山の中に阿蘇市・高森町・南阿蘇村の自治体があり、鉄道が走っている。現在、いたるところに数多くの湧水をもたらして、伏流水の恵みを受けた産業がさかんだ。昭和48年(1973)に熊本ー延岡間の鉄道建設で、阿蘇外輪山を貫く高森トンネルが着工されたが、毎分36トンの出水によってあえなく挫折してしまった。後述するが、高千穂町には、鉄道建設で廃墟となったトンネルを再利用した酒蔵がある。


阿蘇山周辺図( カシミール3D にて作成)
上空150kmより撮影

 阿蘇・草千里は標高1,130mにある広大な草原だが、今日は霧の中に時おり姿を現す程度で写真撮影は無理だった。草千里レストハウスの団体写真の小父さんも下山してしまったようだ。
 阿蘇山ロープウェー
は、運行再開していた。1週間前に中岳第一火口の噴火活動レベルが2から1に引き下げられたからだ。しかしシェルターの先へは立ち入り規制されており、立ち上る水蒸気しか見られない。見学できるのは旧火口群のみである。雲の切れ間に漸く写真を撮れたころ、突如として風雨に襲われた。傘は持っていたが横殴りの雨では役立たずだ。ほうほうのていで火口西駅へ駆け込んだがびしょ濡れになってしまった。幸い気温が20℃で助かった。ゴンドラに乗り込んで仲間の顔を探したがどうも全員戻っているように見えない。ツアー添乗員にみんな戻っているか訊いたが、点呼はしていないが大丈夫じゃないですかなどと呑気に構えている。バスに乗って点呼して10人足りないことが分かって慌てていた。結局次の便で全員揃ったが、彼等はシェルターで雨宿りをしていたという。


阿蘇山ロープウェー

旧火口

 白川水源は、南阿蘇村白川にある湧水池で、年間を通して14℃の軟水が毎分60トン湧いている。阿蘇五岳や外輪山の伏流水である。水の噴出す池は砂が盛んに湧き上がり水草は生えていない。池の脇には柄杓が用意されていて、ペットボトルに汲む人が多い。周辺の環境整備は、白川水源公園管理組合が管理しており、財源には観光客の支払う協力金が当てられる。


砂が湧き上がる池

水を汲む池

 この日は阿蘇市内牧にあるAホテルに泊まった。夕食は「阿蘇あか牛御前」だった。

<3日目:阿蘇-高千穂-熊本>
 
阿蘇山の北側を北阿蘇といい、南側を南阿蘇という。その南阿蘇をひた走り、高千穂へ向かう。熊本県から宮崎県への道は、のどかな山村風景が続く。左右に山が迫り、ところどころ深い峡谷にかかる橋を渡って着いたところが、トンネルの駅だった。物産館が一軒あって、その脇にトンネル坑口があり、近づくと芳しい香りが漂ってきた。入ってみると沢山の酒樽が貯蔵されていた。このトンネルは前述したように、熊本ー延岡間の鉄道建設の一環であったが中止されて廃墟となっていた。長さが1,115mで内部の温度は平均17℃、湿度は平均70%、これを地場の酒造会社が焼酎蔵に有効利用した。3年間熟成し、物産館で販売する。試飲をしたところ、なかなかに美味かった。


トンネルの焼酎蔵

 しばらく走って高千穂神社に到着。高千穂は神々が天上界から降り立ったとされる、神話伝説が息づく山峡の町である。神社を参拝して、さっそく神楽殿に入った。夜神楽ならぬ昼神楽を観賞するためだ。本来なら夜でないと見ることができないが、昼間の観光客のニーズと、町おこしの利害とが一致したというわけである。


高千穂神社

 高千穂の夜神楽は、古くから伝わる民俗芸能であり、国の重要無形民俗文化財に登録されている。11月から2月の夜に奉納される。有名な舞い物語の一つを紹介する。『高天原で弟のスサノオノミコトの乱暴狼藉に耐えかねた天照大神(アマテラスオオミカミ)が、天岩戸に隠れてしまった。このため世界は真っ暗になってしまい、困った神々は一計を案じて、アメノウズメノミコトという女神に裸踊りをさせて大騒ぎをした。あまりの賑やかさに、何事かと天照大神が顔を覗かせた瞬間、タヂカラオノミコトが天岩戸を力まかせに引き開けて世界に光がよみがえった。』という。ちなみに天岩戸は信濃(長野県)の戸隠山まで吹っ飛んでいったというからスケールが大きい。


手力雄(たぢからお)の舞

戸取(ととり)の舞

 高千穂峡は阿蘇山の噴火によって、堆積した溶結凝灰岩を五ヶ瀬川が浸食して形成されたV字渓谷である。柱状節理の岩壁を上に仰ぎ、深き切れ込む河床を見下ろして、約1kmの遊歩道を歩く。中間地点で見上げると橋が3段に見える。カメラを構えた位置には4段目の橋があるから、いかに峡谷が深いかが分かる。旅行案内の写真には必ず登場する真名井の滝は、にっぽんの滝100選に選定されている。覆いかぶさる木々の緑を映して水面は神秘的な青緑色を呈している。


三つの橋

真名井の滝

 高千穂町から熊本市へ移動。市電の走る繁華街を抜けて熊本城に着く。熊本城は植木町の中心から南に伸びる舌状台地の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城である。この場所に初めて城が築かれたのは、室町時代で千葉城と呼ばれた。その後、隈本城が築かれ、加藤清正が城主となって大改築を行い、熊本城と改めて、現在のような姿になった。
 明治10年(1877)の西南戦争で薩摩軍の猛攻をかわし、9割以上を焼失したが、難攻不落の城として名を馳せた。なんと言っても、石垣に特徴があり、下は緩やかだが、上に行くほど勾配が増し、最後は垂直になる。まさに「武者返し」の城だ。太平洋戦争の空襲でも甚大な被害を受けたが、昭和35年に外観復元され、靴を履いたまま入れるので見学しやすい。


天守閣

本丸御殿大広間の障壁画
  1. そうそう、加藤清正といえば馬刺しである。そもそも熊本県を馬刺しで有名にした仕掛け人は清正なのだそうだ。戦いのときに食料の補給を絶たれ、やむを得ず軍馬を食したとか、豊富秀吉と朝鮮出兵したとき食べた馬肉が美味しくて、帰国後も馬刺しを好んで食べたなどの俗説があるそうだ。
  2. 3日間の旅はほぼ支障なく終わった。九州自動車道をひたすら北進し、福岡発19:00、羽田着20:40、高速バス上信越自動車道 藤岡IC経由で23.50帰着した。

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