このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ここへ行ってきました 

  (目次に戻る)

24.8.21上高地

<バス会社からのお誘い>
 我が女房殿が参加しているフォークダンスの同好会が、今春信州へ日帰り旅行を行なった。観光の目玉はバラ園の観賞である。企画したのは近くにあるバス会社のGC社である。当前橋市には敷島公園にバラ園があってすでに観ているので、今さら県外に行く必要もないと渋っていた女房だったが、人数が欠けるとバスが迎えに来てくれないというので仕方なく参加したのである。ところが帰ってくるなり、喜色満面、車内サービスは良いし、バラ園も立派だったというのである。
 そのバス会社から今度は同好会の会員宛てにダイレクトメールが送られてきた。そのパンフレットを見ると、とにかく安い。加えて付帯サービスは他の旅行社を圧倒している。前回の旅行で満足した女房殿が推奨するので僕も乗り気になった。そしてパンフレットから選んだのが今回の「上高地ハイキング」である。

<上高地はなぜできたか>
 上高地は、北アルプスの愛称を持つ飛騨山脈の梓川沿いにある。その範囲は下流の大正池から上流の横尾まで約10kmに及ぶ。標高は約1,500mで幅は最大約1kmの堆積平野である。梓川は2万5000年ほど前まで、岐阜県側に流れていたという。それが焼岳火山群の白谷山の噴火活動によって堰止められた。その結果、梓川の上流は水位を増しダム湖と化した。当然のことながら、やがてダムは崩壊し、奔流となって長野県側に流路を求めて流れ下った。大量の水は新たな流路を土石流となって削り取り、急激な河床の低下が起こった。上高地−沢渡間のセバ谷中流部には、現在の梓川河床より比高250mに梓川によって形成された段丘面が存在するそうだ。それ以来、梓川の流路は落ち着いて現在に至っている。


独断と偏見に基ずく太古の梓川図( 基図マピオン


 その後も焼岳火山群は活動を繰り返し、堰止められたその上流に谷底平野が形成されて行った。その後、長い年月をかけて上流から流れ込んだ土砂が積もっていった。土砂は厚いところで400mもたまっているという。これが上高地の成因であり、広く平坦な河原が10kmほども続く地形は、他に類を見ないという。

 ところで将来の姿はどうであろうか。たぶん大正池も田代池も土砂で埋まり乾燥化して草原から森林に化していくものと考えられる。

<北アルプスに人はいつ入ったか>
 上高地にはいつ頃から人が入ったのだろうか。入山の証拠や文献などから分かっているのは、文政11年(1828)、富山の僧侶-播隆(ばんりゅう)上人が槍ヶ岳に仏像を安置しているそうだ。山岳信仰登山として以前から信者を引き連れ、幾度となく槍ヶ岳に登っていたという。明治10年(1877)になって英国人-ガウランド・ウィリアムが槍ヶ岳に登った。そして北アルプス一帯を「Japan Alps」と表現した。明治18年(1885)には、上高地牧場ができ放牧が行なわれて生活基盤が出来た。明治25年(1892)に英国人宣教師ウォルター・ウェストンが槍ヶ岳に登り、翌明治26年(1893年)に明神池の畔に小屋を建てて猟師をしていた上條嘉門次の案内で前穂高岳に登った。ウェストンは明治29年(1896)に「日本アルプス登山と探検」を著し、上高地と穂高連峰や、槍ヶ岳を称賛した。ゆえにウェストンは「日本近代登山の父」とし、日本山岳史にその名を残している。日本人では鵜殿正雄が上條嘉門次とともに前穂高岳に登った。近代登山の始まりである。大正4年(1915)に現在のバスターミナル周辺にカラマツの植栽が始まる。この年の6月06日、焼岳の大噴火により大正池が出現した。大正5年(1916)山林局が上高地一帯を保護林に指定し伐採を禁止した。同年、のちの首相-東久邇宮殿下が槍ヶ岳に登山するにあたり、島々〜徳本峠と明神〜槍ヶ岳の登山道が整備された。上高地はこのころから観光地として知られるようになった。昭和9年(1934)上高地牧場が閉鎖された。その跡地は徳澤園のキャンプ場になっている。昭和10年(1935)河童橋までバスが乗り入れられた。

<アクセス>
 バスは藤岡ICから入って上信越自動車道を走り長野自動車道に乗り継いで松本ICで下りる。R158を梓川に沿って遡上し、安房トンネルへの分岐点信号を直進して釜トンネルを突き進む。急な車道は大正池近くになって平坦となる。上高地の起点だ。参加者はここで下りる者もいたが多くは上高地バスターミナルの終点までである。帰りの集合地でもある。

<散策>
 バスターミナルから明神池までの梓川左岸道を遡る。河童橋はすでに人が群れていた。ここは上高地のシンボル的存在でホテルや山荘が集中しており景観も第一等地である。幸い今日は天気に恵まれたようだ。早朝にインターネットで気象予報を確認したが、28℃で降水確率は0%とあった。
 梓川左岸をひたすら歩く。小梨平はキャンプ場。道にはチップを敷き詰めてあるのか弾力があって歩きやすい。人の往来しげく、ゆる足の並列グループが多いので、何度か声をかけて追い越して行く。梓川と付かず離れずの歩行だ。川床にはゴロ石がないので瀬がなく流れは緩やかでど川面は透明である。


河童橋から穂高連峰

河童橋から明神岳



梓川の広河原

小梨平キャンプ場



左岸道のカラマツ林

梓川畔から明神岳



明神岳左に穂高連峰

梓川清流


 約1時間後、明神に着く。ちょうど昼時なので、明神館の広場でお弁当を広げている人が多い。広場を左に曲がると明神橋だ。


明神館広場

明神橋と明神岳


 明神橋を右岸に渡ると山案内人を務めた嘉門次小屋があり、その先に穂高神社奥宮がある。日本アルプスの総神社で、本宮は安曇野市の穂高にある。僕達は参道入口にかかる小さな橋の欄干に腰を下ろして弁当を広げた。欄干といっても、30cm位の角材でできているのでベンチ代わりに打って付けだったのだ。橋の下を流れる水は明神岳の湧水で、イチョウバイカモが生えており、オシドリのメスだかコガモのメスだか分からないが悠然と泳いでいる。警戒感はまったくない。25cmほどの魚も泳いでいるが、イワナではなくカワマスかもしれない。こちらも警戒している泳ぎではない。すでにここからは神域であり、15mほど先に小さな祠がある。社務所で「神降地-明神池」の拝観料300円を支払ってゲートを通過する。すると目の前に小広い景観が広がっていた。明神池一之池である。


穂高神社奥宮


一之池


 その隣に二之池がある。二つの池は奥のほうでつながっている。岩が点在し枝広がりの浅い広葉樹が生えている。池は浅く、魚が泳いでいる。向こう岸近くに浮かんでいるのはマガモだろうか。


二之池

奥でつながっている


 一見、人工庭園のように見えるがそうではない。池は明神岳の土砂が湧水を堰き止めてできたものだという。まさに自然の妙である。よく見るとあちこちに気泡が噴出し、その周りの砂があらわになっている。

 ここで時間を食いすぎた。帰りは右岸道を競歩のように急いだ。河童橋までの道が遠く感じられたが、マップを見ると実際に長ルートだった。


明神橋下流の広河原

明神橋下流から焼岳



岳沢湿原から六百山

河童橋上流広川原



ホテル白樺荘から六百山・霞沢岳


喧騒のホテル群に目もくれないでウェストン碑をカメラに収め、先を急いだ。


ウェストン碑


 漸く木の間に穂高橋と田代橋の連続橋が見えてきた。それを渡ると三方向への分岐点になっている。


田代橋から穂高連峰


 ここでマップを開いてコースタイムを計算した。大正池に行くべきかバスターミナルに戻るべきかそれが問題だった。集合時間の15時は絶対守るようにとの添乗員の厳命があったからだ。何とか大正池の取っ付きまで行って写真を撮りたいとの誘惑が勝り、その方向へ足を速めた。「上高地自然研究路」の梓川コースを辿る。
 途中に田代湿原がある。大正時代に焼岳 (2,455 m) の噴火により、流れ出た溶岩が梓川左岸の支流である千丈沢をせき止めてできた田代池がある。その周囲は湿原が広がり田代湿原という。六百山や霞沢岳からの伏流水が湧き出ている。しかし平成10年に訪れた時の面影はなかった。当時はイワナや水鳥が警戒すること無く足元を泳いでいたのだが、今回はその景観が見られなかった。田代池はすでに湿原化していたのである。


田代湿原から穂高連峰


 大正池の取っ付きまで行って驚いた。池の枯木が少なくなったのは予想の範囲内でだったが、池は川に変貌していたのである。大量の土砂が焼岳や霞沢岳、さらには梓川上流からも流入し、土砂が池底に堆積したのである。遠からず池は土砂で埋まり、川になってしまうだろう。


大正池から焼岳


 写真を撮り終えてバスターミナルへ急いだ。帰りは林間コースを選んだ。展望が利かない分、人の往来が少ないだろうと判断したからである。田代橋まで戻ったとき雨が降り出した。帝国ホテルまで濡れたままで歩いたが、土砂降りになり雨着を着た。バスターミナルには15分の余裕をもって到着した。上高地は排気ガス抑制のために発車寸前までエンジンをかけられず冷房を掛けられないので辛かった。発車して涼しくなって生き返った思いがした。このころ濡れたズボンもすっかり乾き、心地よく帰宅した。

(目次に戻る)  

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください