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 ここへ行ってきました 

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25.5.30-6.1小豆島・淡路島・鳴門渦潮・瀬戸内二島めぐり

<1日目>

 YR旅行社が企画したツアーに参加した。羽田空港を出発したのは12時45分であるが、送迎バスが群馬県内をあちこち廻って参加者を拾うため午後のフライトとなるわけだ。徳島空港に着いたのは14時である。
 淡路島は兵庫県に属し、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分されている。インフラストラクチャーは明石海峡大橋に架設された水道管・送電線であり、車は神戸ナンバーである。兵庫県警の白パトが走っていた。
 バスは大鳴門橋を渡って淡路島の福良港へ向かう。大鳴門橋は渦潮で有名な鳴門海峡を渡る吊橋である。この橋は鉄道との併用橋として建設されたが、計画は頓挫して列車の運行はあり得ない。徳島県がこれを捨て置かず、2000年4月、鉄道予定空間を利用して、鳴門の渦潮の見学施設である渦の道を建設した。これが大いにあたり、鳴門公園の観光スポットとして人気を集めた。


大鳴門橋を徳島から淡路島へ

 福良港のうずしおクルーズ乗り場のある一帯はうずしおの郷と呼ぶ南あわじ市の観光拠点である。道の駅・福良があり観光客は船待ちのあいだは大概ここで土産物を物色する。その隣には足湯施設がある。
 駐車場の反対側には淡路人形座がある。ずいぶん大きく立派な建物だ。国指定の重要無形民俗文化財である淡路人形浄瑠璃の専用劇場だそうだ。しかし僕も含めて我らのツアー客にはそんなに高尚な人間はいなかった。観劇オプションの申し込みもなく、思惑が外れたのではないかと、他人事ながら心配してしまった。


淡路人形座

 それよりもその脇に福良津波防災ステーションがある。東南海・南海地震津波により、甚大な被害が発生すると予測されている。この施設は、津波の力を知り、日頃から防災意識を持つようにとの学習室である。観光施設ではないが、たいへん興味深く面白い。兵庫県管理の地方港湾施設である。耐候性鋼使用による錆色が特徴的で、いったいこの錆びた大きな鉄管はなんなのだと思わず引き込まれてしまった。


福良津波防災ステーション

 鳴門海峡は南あわじ市の門崎(とさき)と、徳島市孫崎の間にある海峡でその峡間は約1.4km。激しい潮流のため海の難所である。瀬戸内海と外海(太平洋側)の潮位差により起こる鳴門の渦潮が有名。淡路島からは観潮船うずしおクルーズ咸臨丸・日本丸が運航されていて、間近で渦潮を体感することができる。僕たちの乗ったのは咸臨丸。マストは3本だが、動力で走っているので、単なる飾りである。


観潮船

 渦潮は一日の2回見られる。大潮の方が渦は大きく、時に直径が20mにもなるという。当然のことながら月齢に左右される。潮流速度に応じて、速いものから大潮、中潮、小潮と呼ぶが今日は中潮である。


観潮船は大鳴門橋へ


渦潮らしき気配

 この日は中心が大きく凹むこれぞ渦潮という明確な現象を捕らえられなかった。一瞬の発見もカメラに納められる機会を何度となく逃してしまった。怒涛の如くという表現があるが、まさに波頭は砕け、波と波がぶつかり合い、無秩序に逆巻いて引き潮は大海に向かって流れていった。
 ところで、架橋するに当たって技術陣のこまやかな設計思想があったことに思いを馳せたい。普通の設計では、写真の陸地側に見るように橋脚は一本である。しかし海中側のそれは潮流に影響を与えないよう多柱基礎構造にしている。大きな柱が一本しかない場合、潮流がせき止められることによって乱れてしまう。一方、多柱基礎構造の場合は潮流は柱と柱の間を抜けるため、潮流へ与える影響を極力小さくすることができるという。


多柱基礎構造の橋脚


逆巻く潮流

 次の観光地へ移動する。バスの車窓から沿線の風景が眼下に見える。タマネギ畑が多い。面白いのは畑中に壁のない小屋が多く建てられていることだ。タマネギの保管庫だそうだ。しかし今はすぐに農協に出荷し、小屋はほとんど使っていないとか。


タマネギの保管庫

 淡路島を北上し淡路市に入り、明石大橋が見えてくる。山岳地帯に入り集落風景から高原の様相に変わってきて風力発電が姿を現した。しかし羽は止まっていた。もしかしたら、ここにも付近住民への低周波音による健康被害問題があるのかもしれない。


風力発電

 やがて、あわじ花さじきに到着。兵庫県が平成10年に設置した広大な面積を持つ。淡路島北部丘陵地域の頂上部のなだらかに広がる高原に一面の花畑が広がっており、明石海峡・大阪湾を背景に季節により変わる花の大パノラマが展開している・・・と思いきや・・・?
 花の咲いている場所は駐車場に近いエリアにポピーが咲いている程度であり、他は植え付け前の茶色い畑地でしかなかった。時期が悪かったのかもしれない。しかし広大な面積を管理する費用を観光収入で得るのは可能だろうなと思わず心配してしまった。それよりも阿蘇山の赤牛のように放牧を兼ねた観光名所にできないものだろうか。


あわじ花さじき

 同じ道を引き返し南あわじ市の南淡路ロイヤルホテルが今夜のホテル。鳴門海峡と大鳴門橋を望む景色と、国立公園ならではの緑豊かな自然に蔽われている。近くには休暇村南淡路もある。


南淡路ロイヤルホテル

 淡路島には考えようによっては荒唐無稽ともいえる神話がある。日本最古の歴史書である古事記によると、伊弉諾尊(いざなぎのみこと・男神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと・女神)の二神が、国産みの際、天の沼矛(ぬぼこ)で混沌とした海原をかき回したとき、滴り落ちたしずくが固まり「おのころ島」が生まれたとある。おのころ島の候補地は淡路島内に複数あり、南あわじ市の沼島もその一つであるという。
 古事記が、和銅5年(712)に完成してから、平成24年で1300年を迎えて淡路島くにうみ神話祭が今年の3月まで1年以上にわたって行われた。島内のあちこちに史跡がやたら多い。

 夜は海ほたるを見に行った。南あわじ市の二か所の海岸で鑑賞できるのだが、我々ツアーの一行は阿万(あま)海岸に行った。バスは狭い農道をくねくねと進み、対向車があったらどうするのだろうと心配になったが、地元の観光ボランティアが誘導してくれて止まった先はただの真っ暗闇。海中電灯に誘導されて歩を進めた。道路が行き止まりとなって、ボランティアの声が拡声器から流れた。「皆さんここは阿万(あま)海岸です。ここに海ほたるが棲息しています。」 「これからその海ほたるをご覧にいれます。海ほたるは節足動物で大きさは3mmほどで目に見えます。皆さんは2列横隊となって2mの間隔を保って向き合ってください。その状態を絶対に崩さずに守ってください。」と3回ほど繰り返した。
 海ほたるが海の中で発光するイメージを想像していた僕は狐につままれた気分に陥ってしまった。なにか良からぬことが始まりそうな気配を感じたのだ。再びボランティア氏の声「さて皆さん、海ほたるは通常波のない水深3,4mの静かな海に生息しています。この海岸はその条件にぴったりな場所なのです。」と僕らの不安感を承知していたごとくの口上である。「海ほたるはなぜ光るのか。それは刺激に対する防御反応として発光するのです。それを海の中でお見せすることはできませんので、陸上で実験します。予め捕えておいた海ほたるを瓶に詰めておいたのがこれです。これから我々が皆さんの前の道路の上に撒いて行きます。すると発光しますからご覧ください。写真も撮れますが絶対にフラッシュをたかないで下さい。」ともったいぶった口上である。そうして無造作に、しかも乱暴に撒いて歩いたのだ。前進歩行で撒くからそれが靴の裏にも付着して発光しているのだ。今度は別のボランティア氏が竹ぼうきで掃いて歩くと又もや発光するのである。
 僕らの仲間が質問した。こんな乱暴なことをして、死なないのかという質問である。待ってましたとばかりにボランティア氏は答えた。「道路がコンクリートでその表面がザラザラしているので、海ほたるはその隙間に隠れて死なないんです。皆さんがいなくなった後、海に帰って行きますよ。」と、暗闇ではあるが得意満面であったに違いない。

<2日目>

 淡路島の福良港から高松港へ移動し、瀬戸内ミニクルーズで小豆島の草壁港へ。船内にて、さぬきうどん弁当の昼食。


瀬戸内ミニクルーズ

 平成大合併で小豆島は一島一町になる機会はあったが、そうはならず土庄町(とのしょうちょう)と小豆島町(しょうどしまちょう)の二町におさまったのである。いずれにしても小豆島は香川県に属する。人口は約31,000人。日本におけるオリーブ栽培の発祥地とされるほか、そうめん、醤油、佃煮などが特産である。
 古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。観光面では壺井栄の小説二十四の瞳の舞台であり、島をロケ地としてこれまでに二度映画化されている。

 もう一つ、自然の観光地として群を抜くものに寒霞渓(かんかけい)がある。そこを最初に訪ねた。寒霞渓は国指定の名勝である。東西7km、南北4kmに及ぶ大渓谷で、そこに約1300万年前の火山活動により堆積した疑灰角礫岩などが、度重なる地殻変動と風雨による侵食により、断崖や奇岩群を形成した。
 大渓谷と海を一望できる景勝地であり、瀬戸内海国立公園設置の契機となった、新緑や特に紅葉の季節は多くの観光客で賑わう。山頂まで車で行くルートもあるが、なんといってもロープウェイで行くべきだ。奇岩怪石の景観が次々と見られる。紅葉の頃はロープウェイの順番待ちが2時間を超えるそうだ。


ロープウェイからの景観1

ロープウェイからの景観2

ロープウェイからの景観3

ロープウェイの山頂駅が見える

 土庄町に移動。役場の近くにあるのが土渕海峡(どふちかいきょう)である。1996年に世界一幅の狭い海峡としてギネスブックに認定された。


土渕海峡

 役場のある辺りが土庄本町と呼ばれており、海峡を挟んで合併前の淵崎村があったことから、この名前が付けられた。全長約2.5km、最大幅は約400m、最狭幅は9.93mで、土庄町役場では横断証明書を有料で発行している。

 国道436を東に進み途中から北上して向かった先は中山の千枚田。中山地区の北側にある湯船山の山腹に広がる田園景観である。湯船山の中腹にある樹林地から、名水「湯船の水」が湧き出しており日量400トンにも上るそうだ。この豊富な湧き水を、地元の人々は飲み水や生活用水、水田の耕作などに利用している。


中山の千枚田

 次の観光地は、道の駅小豆島オリーブ公園。地中海をイメージした建物が多い。1989年にエーゲ海に浮かぶミロス島と姉妹島の調印をしている。
 明治末、初めてオリーブの栽培に成功した。園内には約2,000本のオリーブが栽培されている。売店に、自家農家より収穫したオリーブを製造販売している。


オリーブ記念館

南にオリーブビーチ

オリーブ広場

 近くには企業の経営によるオリーブ園がある。

 オリーブ公園から東へ向かい、内海に沿って南下すると坂手港に着く。神戸と結ぶ小豆島ジャンボフェリーの乗場場の壁に描かれた壁画に圧倒されえる。いったいこれはなんなのだ?そういえば昨日の高松港もそうであったが、あちこちに幟旗もあって、瀬戸内国際芸術祭2013と書いてある。


フェリー乗船待合室

壁画作品

小豆島ジャンボフェリーの航路

 フェリー乗船待合室の屋外にも現代アートのオブジェが展示されていた。


埠頭広場の作品

 結局帰宅後インターネットで調べて見ると、結構な御仁が壮大なコンセプトのもとに、ビッグプロジェクトを挙行するに至ったらしい。開催の実行委員長には香川県知事、総合プロデューサーには公益財団法人福武財団のの福武總一郎理事長が就任している。
 瀬戸内海の魅力を世界に発信するためにアートをテーマにして、12の島と香川県の高松港、岡山県の宇野港を巡ろうというものである。先ほどの壁画もその一つであった。

 埠頭駐車場のすぐ脇に平和の女神像があったので、これもそうなのかと思って見ると、どうも違うらしい。これは以前からあるもので、立札を見てびっくりした。北村西望の作品ではないか。長崎平和公園の平和記念像の作家である。


平和の女神像

 2日目の宿は草壁港に近いベイリゾートホテル小豆島である。明日の行程に有利な場所にある。恵まれた自然環境にあり、部屋から穏やかな内海がきれいに見える。眼下にファミリープールが見える。12階の展望大浴場も好評だ。

<3日目>

 ホテルからバスに乗ったと思ったらあっという間に今日の目的地に着いてしまった。そう今朝出発前に僕は運動を兼ねて歩いて醤の郷(ひしおのさと)に来ていたのである。ちなみに醤(ひしお)とは、塩を加えて発酵させた塩蔵品の総称のことで、米や豆を発酵させた「穀醤」が醤油の原型といわれている。  醤油の臭いが強烈でしかも黒塗りの工場群を始めとする黒い街並みに圧倒されていたのである。とにかく異次元の世界だ。小豆島にある近代以前の醤油蔵建築は日本で最も集積する醤油蔵が多い。


佃煮発祥の地

創業者武部吉次翁

御佃煮處京宝亭

店内風景

 小豆島で醤油作りが始まったのは江戸時代、400年ほど前のことである。そもそも小豆島では弥生時代から塩作りが盛んに行われていた。質の良さで知られるこの島塩。そして酵母の育成と熟成に適した暖かな瀬戸内気候。発達した海上交通によって運び込まれる肥前・肥後(九州)の大豆や小麦。時間のかかる熟成をじっくり待てる心穏やかな島の人たち。これらすべてが一つになって、小豆島の醤油は生まれた。


マルキンの醤油蔵

醤油の熟成蔵

 しかし醸造期間が長いためコスト高ゆえに衰退の一途をたどった。やがて時は移り、終戦後の食糧難が起こったときに、それを救ったのが佃煮への活用だった。おいしい醤油を使って、保存や運搬にも適した佃煮を製造したのである。島の風土はこの時にも支えになった。開かれた海が材料の入荷と製品の出荷を助けてくれたのである。こうした数々の恵みのおかげで 小豆島佃煮は発達し、特に昆布佃煮は特産地になっている。

 醤の郷(ひしおのさと)を離れ、内海に沿って南下し、今度は反転して半島の先端まで行くと二十四の瞳(にじゅうしのひとみ)映画村である。

 1954年、壺井栄の小説二十四の瞳を原作を、松竹大船撮影所が映画化した。監督は木下惠介、。ヒロイン大石先を演じたのは高峰秀子。反戦のメッセージを女教師と教え子のふれあいの中に描いた日本映画の傑作である。1987年には朝間義隆監督によってリメイクされ、ヒロインは田中裕子であった。そのときのオープンセットを活用して、テーマパーク二十四の瞳映画村が造られた。


映画村入口

分教場とボンネットバス

先生と生徒の像

土産店

 再び道を戻ってバスは土庄町(とのしょうちょう)へ戻る。行程が行ったり来たりの繰り返しが今度の旅の特徴である。鳴門の渦潮のときも今度のエンジェルロードも引き潮でないと見られないからだ。そのタイミングをねらうために行ったり来たりになるのもやむを得ない。県道254の脇に小豆島国際ホテルの駐車場に車を停めて、ホテルの1階ロビーを抜けると目の前にエンジェルロードが広がっている。レンガ色の砂州が沖の方に延びて先客の姿が最初の島を越えたさきにも散策している。
 ホテルの南側にある小さな島を“弁天島”といい、そこから砂浜で繋がった4つの島を総称して“余島”と呼ぶ。1日2回の引き潮の時だけあらわれる砂浜の道を歩いて渡るのだが、姿を見せては消える不思議な場所として、いつからかエンジェルロードと呼ばれるようになったという。
 エンジェルロードで手をつないだ二人は将来結ばれる・・・。そんなロマンティックな噂でここを訪れる若者が多いらしい。願いを書いた絵馬や貝殻を中余島の木々などに取り付けられていた。一番遠くの島大余島は、YMCA専用のキャンプ場となっているので、無断では立ち入れない。


小豆島国際ホテル

エンジェルロード

 小豆島の有名人には壺井栄・石倉三郎・正司敏江・中田ボタンなどがいる。

 さて、小豆島の旅は終わった。来たときとは逆のコースで草壁港から高松港に渡った。すでに景色は見終わっているので、ひたすら空いているソファーで長々と身体を伸ばして睡眠をむさぼった。

 高松市の栗林公園を訪れるのは30年位前の出張のとき以来だろうか。殆ど記憶がないので今回が初めてのようなものだ。
 栗林公園は国の特別名勝に指定されている。江戸時代、讃岐高松藩の歴代藩主により百年余りの歳月をかけて完成、下屋敷として利用されていた。2009年のミシュラン観光ガイドに「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価のつ星に選定された。また2012年には、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の「2011年日本庭園ランキング」で、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に続く3位を獲得した。
 紫雲山を借景として池と築山を巧妙に配した大名庭園。回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっている。名は栗林であるが当初から松を中心とした庭園である。名の由来となった栗林は、かつて北門付近にあったが、鴨猟の邪魔になると言われて伐採されたっという。


景観1

景観2

景観3

景観4

景観5

景観6

 見終わる頃ポツリポツリと雨が降ってきた。天気予報が当たったようだ。最後の観光地は屋島である。

 屋島は瀬戸内海国立公園にある海抜293mの半島形溶岩台地である。頂上部が平坦で、その形状が屋根に似ている所から屋島と名づけられたという。その展望は瀬戸内海随一といわれ、山上の各所にある展望台からは、行き交う船舶や讃岐平野が一望でき、眼下には檀ノ浦の古戦場が広がる。この戦いで源氏方の武者那須与一が、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした故事は特に著名である。
 屋島東町には檀ノ浦があり、山口県の壇ノ浦とは漢字が別だが、どちらも源平の古戦場である。 屋島は南北5km東西2kmの島であり、台地である。谷底に溜まった溶岩流が、差別浸食によって柔らかい周りの土砂が削られて残ったとされるメサの一種であるという。わが群馬県と長野県に跨る荒船山と同類らしい。
 標高南嶺292.1m、北嶺281m。かつては狭い海峡で四国本土から隔てられていたが、江戸時代の新田開発によりほぼ陸続きにされた。地図上からは元々が島であったことを認識することは困難であるが、それらしき痕跡はある。


島であったことの痕跡

 四国八十八箇所第84番札所の屋島寺や、展望台からの高松市を眺望。バスの車窓から源平古戦場を眼下に眺め、五剣山も雨雲のかなたに見た。


八十四番札所屋島寺

展望台からの高松市

 屋島ドライブウェイには、実際は上っているのに、下っているように見える不思議な坂があり、「屋島ミステリー坂」と書かれた看板が立てられていた。専門的にはこの現象を「縦断勾配錯視」というそうだ。

 三日間の旅は終わり、徳島空港から羽田空港へのフライト。前橋市の自宅には明日を迎えようとする深夜に帰宅。

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