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 ここへ行ってきました 

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26.6.10-12 神戸市〜姫路市〜朝来市〜豊岡市〜新温泉町〜香美町〜宮津市〜豊岡市

<1日目>神戸南京町・黒田官兵衛ゆかりの地・姫路大河ドラマ舘

 羽田から伊丹空港へ着き、さっそく神戸の南京町に向かった。先日(4/30)横浜の中華街に行って冷雨に見舞われたが、今回は梅雨に入ってフライトも雲の上ばかりだったが、着陸したとたんに空が明るくなった。


富士山

 南京町は横浜中華街に比べて区画は小さいが店舗数は多い。その理由は大きなレストランが少なく露店が多いからだという。区画の東に「長安門」、西に「西安門」、南に「南楼門」という門があり、北は元町商店街につながっている。中央通りの十字路広場には「あずまや」と呼ばれる建物があり、その周辺で天気のいい時にはテークアウトで気軽に食べることができる。


長安門

阪神電車三宮駅

 幕末に横浜・長崎・函館が先に開港し、2年遅れの明治元年(1868)に神戸港が開港した。その際、外国人居留地が設けられたが、清国とは通商条約を結んでいなかったために、華僑は居留地に住むことを許可されず、現在地の西隣に住み始めたのが南京町の始まりとされる。その後、昭和20年(1945)の神戸大空襲で全焼し、さらに幾多の変遷を経て現在の姿になったという。

姫路市へ移動。今回の旅行では大河ドラマの黒田官兵衛にまつわる資料やジオラマ等を特別展示している「官兵衛の歴史館」の見学と、城下町をイメージした主要通りの散策である。しかし官兵衛の歴史館はほとんどの観光客が素通りし、姫路城を興味津々で見に行った。現在、素屋根を解体中で、27年3月27日には一般公開される予定である。


ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ舘
【写真提供:姫路市】

姫路城素屋根解体工事中

姫路城は平成21年8月に訪れている。その年の10月から姫路城大天守保存修理工事のために素屋根に覆われて、見学が出来なくなる直前だった。そして現在、素屋根を解体中で、その珍しい光景を見られたのもラッキーだった。
 姫路城を最初に築城したのは、1346年の赤松貞範である。その後、戦いのたびに城主が変り、黒田官兵衛が家督を継いで姫路城主となったのは永禄10年(1567)である。そして羽柴秀吉が入城したのは天正8年(1580)である。その頃の姫路城は今のように立派なものではなく、砦のようなものだったらしい。「天下分け目の戦い」といわれる関が原の合戦後、徳川幕府は武将-池田輝政に西国の統治を命じた。その拠点としたのが姫路城で、慶長6年(1601)に入城して大改修を行ない、1609年に天守閣が竣工した。その後、引き継いだ大名らによって西の丸が整備されて現在の城閣へとつながった。
 輝政は水害の多かったこの地の治水に力を注ぐとともに、建築技師集団を組織し、城郭都市計画を開始した。その結果、天下無比の堅牢かつ優美な城郭が築かれた。標高46mの姫山に白鷺が翼を広げたような優美な姿は、別名-白鷺城(はくろじょう)と呼ばれる。築城以来、現在にいたるまで一度として戦火にさらされていない。米軍の爆撃にも遭わなかったのは、城の主要な部分を黒い網で覆い隠したためだという。

妻と二人で正面登閣口に向かって歩いて行くと、お笑い芸人『ワイルドだろぉ?』のスギちゃんがテレビカメラマンを引き連れて下ってきた。例の青いジーンズ生地のノースリーブと短パン姿だったから直ぐに分かった。スギちゃんと目があったので僕は右手を上げて互いに笑顔を交わした。彼は「言っておきますけど、中には入れませんよ。」というから、僕はすかさず「分かってます。」といった。するとカメラマンが知り合い同士と勘違いしたのか僕等にカメラを向けて撮影を始めた。これはまずいと直ぐに僕はそっぽを向いたが、妻は気がつかずにいたので、「これは、もしかしたら放映されるかも知れないな」と妻に話したが、「ま、いいか」ということにした。

この日は、ホテル姫路プラザに宿泊。

<2日目>竹田城跡・浜坂漁港・余部橋梁・宮津

竹田城跡は兵庫県の内陸中央部に位置する、朝来(あさご)市 和田山町竹田にある。同じ名前の城が大分県にもあるため、豊後(大分)に対して但馬の竹田城と呼んで区別している。近年とみに注目を集めている山城だ。
 宣伝文句は「天空の城」や「日本のマチュピチュ竹田城跡」である。秋から冬にかけて、よく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、但馬地方の風物詩となっている。ツアーのチラシに天空の城の写真が載っているが、その撮影ポイントは南東側にある立雲(りつうん)峡という山から撮影したものであり、もう一箇所の撮影ポイントは、北西側に藤和(ふじわ)峠がある。天空に浮かぶように見えることから「天空の城」と呼ばれ、あたかもペルーのインカ帝国の遺跡を思わせることから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになった。


天空の城 竹田城跡【写真提供:吉田利栄氏】

城跡への入山は先ず麓の「山城の郷」でシャトルマイクロバスに乗り換え、中腹から歩いて登る。登山道は規制テープを張り、急坂は擬木の階段を設けて埒外にはみ出さないようにしており、しかも歩道も車道も犯時計回りを旨としている。観光地保全の努力とその効果の模範と感じられた。


竹田城大手門

石垣1

竹田城は山城遺跡として完存する遺構で、国の史跡に指定されている。天守台は標高353.7mの山頂に築かれている。現存の遺構は、豊臣秀吉が但馬攻め(天正5年)の後、近世の城郭に普請するように命じたものとみられている。
 戦国時代の竹田城は、但馬の守護大名、山名宗全(やまなそうぜん)の出石城の出城として築いたと伝えられている。その後、秀吉の但馬征伐で落城した。
 その後、何人かの城主を経て慶長の初期(1600年頃)に、現在の石垣積みの城郭になったという。竹田城の石垣の積み方は野面積みで、400年を経た現在でも、当時の偉容をそのままに誇っている。


石垣2

石垣3



石垣4

 浜坂漁港に向かう。今までツアー観光地として聞いたことがない地名だったが、実は次の観光目的地である余部鉄橋に行く為の経由地であるからだ。とにかく、ここで昼食の海鮮定食と相成った。


とれとれ市場

 浜坂漁港は兵庫県美方郡新温泉町に属する。日本海に接し、西側は鳥取県である。ホタルイカとカニの漁獲量が日本一。にも関わらず知名度が低いのはどうしたわけか。これからの頑張りに期待しよう。
 新温泉町は平成大合併で、浜坂町と温泉町が合併して出来た町である。温泉の名のとおり、湯村温泉という山峡にある閑静な湯治湯がある。源泉温度98℃は日本一を誇る。
 もう一つ、三つの温泉を総称した浜坂温泉郷があり、湧出量が豊富で一般家庭にも配湯し、その戸数はこれも日本一を誇る。


温泉案内板

 前述したとおり、観光地として聞いたことがないと言ったが、一部の好事家には次のような真面目な施設がある。
 一つは「山陰海岸ジオパーク舘」だ。ジオパークとは、地球科学的見地に立つ重要な自然の遺産を含み、それに親しむための公園と定義されている。一言でいうなら「大地の公園」である。
 パネルや鉱石サンプル、あるいはジオラマ等によって山陰海岸の地質解説がされており、興味をそそられる。質問には有資格者のジオパークガイドさんが、分かりやすく解説してくれる。遊覧船で但馬海岸ジオパークの観察会も可能。大自然が創り出した神秘的かつ壮麗な海岸美を楽しむことができる。


ジオパーク舘の裏手 浜坂港
後方は観音山
左先端 鬼門崎

 もう一つは、登山の歴史に興味がある人には、「加藤文太郎記念図書館」がある。町内出身の登山家・加藤文太郎を顕彰して建てた図書館である。大正から昭和にかけて単独行で名を馳せた。しかし最後に不本意ながら二人パーティーを組んで、北アルプスで遭難死した。しかし遭難の実態は謎に包まれているらしい。新田次郎著『孤高の人』でその生涯を知ることができる。

余部橋梁へは、浜坂駅で乗車し餘部駅で下りる。そこは兵庫県美方郡香美町の余部にあるJR西日本の山陰線だ。ところで行政名は「部」だが、JR西日本は「部駅」と、当用漢字と旧字体の違いがある。(ちなみに、茨城県の鹿市と鹿神宮の違いと似ている)


女性運転士

餘部駅

初代の旧橋梁はアメリカから輸入した鋼材の橋梁で、古くから地元では「余部鉄橋」と呼んでいた。明治45年(1912)に開通し、平成22年(2010)に運用を終了し、2代目の現橋梁はPC橋で、98年後の2010年に供用開始した。旧橋梁は餘部駅側の三本を現地保存し、「空の駅」の展望施設とした。


余部鉄橋 空の駅

ジーゼルカー

駅から展望施設の先端まで行くと、金網を透かして旧橋梁のレールが延びており、余部橋梁の往時をうかがい知ることができる。旧橋梁は地上高40m。その独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンや観光客に人気があった。その一方で、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していたという。


展望施設入口

旧鉄橋モニュメント

周囲を見渡すと、直下の集落や対岸のトンネル口、それを抱く急峻な山裾が日本海に落ち込むその姿は鉄道敷設の大工事が、国家の浮沈をかけたビッグプロジェクトで有ったことを思わせる。今は負の遺産を含めて、香美町のみならず、周辺自治体にも大きな客寄せの波及効果を生んでいる。上から眺めた集落の家々はどれも立派な建物に見えるのである。


旧橋と新橋

昭和61年(1986)12月28日、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車が日本海からの突風にあおられ落下した。そして橋梁真下の水産加工場と民家を直撃したのである。工場の従業員だった主婦5名と列車の車掌1名の計6名が死亡したのである。事故現場には慰霊碑が建立されている。
 駅から土工部の歩道を下りるほどに、旧鉄橋をしだいに見上げるかたちになり、地上に達すると慰霊碑や事故で被災した加工場が有った場所には、聖観世音菩薩像がある。「道の駅あまるべ」には、餘部駅資料館のコーナーもある。


菩薩像

道の駅あまるべ

丹後半島の根元を北近畿タンゴ鉄道(KTR)宮津線に付かず離れずで移動し、宮津湾の沿岸に沿って北上する。左手に天橋立が並行するかたちだ。行く先は宮津ロイヤルホテル。京都府宮津市田井小字岩本58だ。宮津湾を見晴るかす栗田半島の西側にある。天橋立の松並木が横一線に延びている。湾岸には宮津ヨットハーバーがある。ホテルに着いて宮津湾を眺めると雨が時折激しく降って、天橋立が見えなくなったり、朧になったりする。明日の天候が気になった。

<3日目>天橋立ウォーキング・傘松公園・出石

天橋立の成り立ちは、日本海を流れる対馬海流から派生した海流が宮津湾に入り、砂を運んでくると同時に、阿蘇海(内海)に流れ出る野田川の土砂とが長い時間をかけて堆積したことによる。
 ウォーキングは、文殊から府中へ北向きに歩く。智恩寺(文殊堂)を礼拝し、廻旋橋を渡る。運が良ければ橋を90度廻旋させて船が通過するのを見ることができる。この日は直ぐに橋を渡ってウォーキングを開始した。左側に阿蘇海(内海)、右側に宮津湾(外海)を見ながら3.2kmの道程だ。


智恩寺

廻旋橋

さらに次の大天橋を渡ると、そこからは笠松側と陸続きになる。しばらく幅の狭い砂洲を歩く。随所に歌碑や記念碑がある。


大天橋を渡る

途中、海上自衛隊の新入生による清掃活動に遭遇した。白い制服の指揮官が「これはボランティアです」と一言説明した。作業服を着た若い隊員たちが、眼を合わすごとに、「おはようございます」と挨拶をしてくれるので、こちらも「ご苦労様」とか「有難う」とかの応答をする。松の落ち葉を掻き集めたり、下草の刈取り作業である。


自衛隊新入生による清掃活動

三叉路まで来ると、ここで砂洲が終わり天橋立の終点となる。ウォーキングのゴールは、元伊勢丹後一の宮・籠(この)神社である。天照大神、豊受大神が三重県伊勢神宮に祀られる以前に、ここで祀られていたことから「元伊勢」の名が付いたといわれる。


籠(この)神社

傘松公園にはケーブルカーで登る。昔きたことがあるが、よく覚えていない。股のぞきだけは覚えているが、なんか場所が違うみたいな気がする。とりあえずスカイデッキから昇龍観とやらを堪能し、隣りにある股のぞきをした。そのうちに少し離れた所に、「股のぞき発祥の地」という看板を見つけた。「傘松」という名の松がある場所で、徒歩で3分ほど登ったところらしい。そこで、行ってみたらなんと、そこが昔、股のぞきをした所であった。


昇龍観

股のぞき

ケーブルカーを下って、昼食は「橋立大丸シーサイドセンター」とやらで昼食。なんと、スタート地点にある「橋立大丸本店」の女性ガイドとゴール地点の男性ガイドは同じ系列店だったというわけ。


ケーブルカー下り

次の観光地は、但馬の小京都出石(いずし)。兵庫県豊岡市出石町である。城下町として400年近い歴史を持ち、室町時代、山陰、山陽に広大な領地を有していた山名氏の居城が置かれていた。文禄4年(1595)には、播州龍野から小出吉英が現在の場所に出石城を築き、城下町として発展した。


出石城

登城橋・大手門

碁盤の目のような昔ながらの街並みには、出石のシンボルとする辰鼓楼が時を刻み、出石城を中心に家老屋敷や史料館などが往時の出石藩を彷彿させ、伝統的建造物群保存地区に選定されている。日本中が鉄道ブームに沸き返った明治時代に、自分たちの町によそ者が入り込むことを嫌って町中に鉄道を通させず、他の土地に迂回させた。それによって開発の波に乗り遅れたが、結果的にはそれが幸いして、古い町並みが生き残ることになった。


辰鼓楼

出石史料舘



酒蔵

桂小五郎潜居跡



宗鏡寺参道

宗鏡(すきょう)寺



家老屋敷

出石はそば処としても有名で、出石のそばの歴史は今から約300年前の宝永3年(1706)、信州上田藩を治めていた仙石氏が出石に国替えとなり、その時に、そば職人を連れてきたことが出石皿そばの始まりと伝えられている。

ところで、豊岡市には「兵庫県立コウノトリの郷公園」がある。国の特別記念物で昭和46年に野生下では姿を消していた。最後の生息地となった但馬地域の豊岡市において人工飼育を開始したのは昭和40年である。しかし産卵・孵化の苦難の時代が続き、ロシアから寄贈されたつがいによって、飼育下における繁殖に成功したのは平成元年である。
 その後、平成17年に放鳥が開始され、平成19年に野生下でヒナが誕生、ついに平成24年に野生生まれの両親からヒナが誕生した。平成26年4月現在、野外の生息羽数は約70羽、野外生まれは50羽を越えた。
 実はきのう天橋立に行き、きょう出石から伊丹空港までの道程には、豊岡市を往復することになる。きのうバスガイドさんからコウノトリを見られるかも知れませんよと言われて、みんな車窓からキョロキョロ外の景色を見ていたところ、人工巣塔の巣台に2羽のコウノトリを見たというのだが、あまりにも遠すぎて誰も確信が持てなかった。
 ところが、今日、僕は遂に飛翔する1羽を発見した。ガイドさんのマイクによる説明を邪魔してはいけないと思い、皆に教えることをしなかった。出石の見学のときに発見したことをガイドさんに話したら咎められ、今度見つけたら大声で叫んで欲しいと言われたのだ。そして出石を出発して間もなく、すぐ近くの田んぼに2羽発見した。今度はすかさずいたいたと大声で叫んだ。運転士は気を利かせてスピードを緩めてくれたが、棚田の陰になってしまった。がっかりした途端、1羽のコウノトリが飛び立ち、バスの進行方向に飛翔してくれたので、全員が確認でき、僕の目撃談は立証できたのである。残念ながら写真を撮るゆとりはなかった。


コウノトリ
【写真提供:豊岡市】

今回の旅行はフライトもバスの移動中も雨に降られたが、不思議なことに見学中はやむことが多く、実にラッキーだった。余韻の多い旅行で無事、伊丹空港から羽田に戻った。

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