このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ここへ行ってきました 

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28.5.17-18 地獄谷野猿公苑-上田城跡-小諸城址-軽井沢雲場池-碓氷峠見晴台

<草津白根山越え>
 
志賀草津道路から信州に入った。所々山の斜面に残雪が張り付いていたが、快適な走行だった。27年9月24日に走った時の草津白根山の噴火警戒レベル2は今もも続いている。


雨にけぶる白根山

山田峠の中央分水嶺

 国道292号の「日本国道最高地点(2,172m)」から噴煙の遠望を確認したかったが、雨雲に遮られて見えなかった。


日本国道最高地点の石碑

 群馬県から渋峠を越えて長野県に入る。熊の湯を過ぎて志賀高原に下ったころ雨は上がり景色が鮮明に見えてきた。琵琶池を過ぎると裾野は急傾斜となり、くねくねとカーブを繰り返す。山麓に下りきって農耕地が広がり、集落に入って上林温泉の駐車場に着いた。

<地獄谷野猿公苑>
 地獄谷野猿公苑への専用駐車場は2箇所ある。一つは横湯川の左岸にある上林温泉の駐車場で無料だ。地獄谷までは約2kmで30分ほどのポピュラーコース。もう一つは横湯川の右岸にある渋温泉の地獄谷駐車場。駐車スペースが狭くしかも有料だが、地獄谷野猿公苑までは歩行15分程で済む。
 いま述べたアクセス方法は夏モード。冬モードのアクセスは、有料の「スノーモンキーホリデー観にバス」に事前予約で申し込むと、温泉に浸かるサルを見たい人には便利である。詳しくは地獄谷野猿公苑のホームページをご覧の上、問合せることをおすすめする。

地獄谷野猿公苑

 今回僕達は上林温泉の駐車場に車を置いて横湯川の上流を目指した。よく整備された道で樹林帯を散策するのも気分がいい。道にはところどころぬかるみが残っているが、ズボンが汚れる程ではない。ほぼ予定どおりに到着した。幸い雨雲も上がって景色も見える。
 対岸の建物は旅館-後楽館、橋を左岸に渡った川原には、渋の地獄谷噴泉が100℃近い蒸気を噴き上げている。


旅館ー後楽館

渋の地獄谷噴泉

 左岸の階段を上がった所に地獄谷野猿公苑の管理棟がある。木造で室内が資料室、そして外側には回廊式のウッドデッキがある。ガラス張りの室内を見ると外国人ばかりが10数名たむろしている。女性職員の話では、サルが山から下りて来ていないので入苑券の発行が出来ないとのこと。見学通路にはチェーンが張られていた。外国人が所在無げに屯しているのは、こういうことだったのだ。
 ウッドデッキから前方の山にサルが見えないかと眺めていると、何か蠢くものが居た。ニホンカモシカだった。


杉ノ木の奥に湯船がある

 公苑には四季を通じて山からサルが下りて来る。ただし温泉に入るのは厳寒期に限られ、暖かな日はほとんど入らない。サルが下りてきたら、職員がチケットを渡して通路のチェーンを外すことになっている。30分ほど待機したが諦めて引き上げることにした。辛抱強く待機する外国人もいたが、気の毒に思った。せめてもと思い、資料室に掲げられているパネルを撮らせて貰った写真をご紹介する。パネル2は、あまり近づきすぎてスマホを奪われてしまった人がいたという警告写真である。


パネル1

パネル2

 野猿公苑について若干述べておきたい。
 長野県の志賀高原を源とする、横湯川の渓谷沿いにある地獄谷。標高は約850m。外国の見学者はこの場所を「Snow Monkey Mountain」と呼ぶ。ここを一目見たいと多くの外国人が訪れる。オーストラリアからは、スキー旅行に来てニホンザルの珍しい生態を見学することが定番らしい。今では他の国にも広がっているとのこと。

 冬になると雪が降り積もり、—10℃を下回ることもある。あるとき旅館「後楽館」の人間用露天風呂に一匹の仔ザルが入り、これを他のサルも真似したのだという。そうなると人間と同居では不衛生であると考え、サル専用の湯舟を造ってやった。
 ところが戦後、奥山の樹木が伐採されて、サルの生息地を奪うことになった。サルは人里に下りて、湯田中温泉付近のリンゴ畑が被害を受けた。
 地元民は林野庁の許可を得て、有害獣としてのサル50頭を射殺する計画を立てた。これを知った原荘悟なる人物が、これに反対して行動を起こした。後楽館の上流でサルを餌付けし、3年がかりで警戒心の強いサルの群れを手なずけた。これが功を奏し、1964年、地獄谷野猿公苑を開苑した。そして原荘悟は初代苑長となる。
 サルが温泉に入るのは、体を清潔にする為ではなく、寒さをしのぐ為のものと考えられている。入浴するのはメスと子猿が多く、オスザルはほとんどいない。理由は、雄猿が群れを守るための監視行動をとるからだとか、毛が濡れて自身の体が小さく見えるのを嫌うからだとか推測の域をでない。
 公苑のサルは人間とは共生の関係を維持している。京都大学霊長類研究所によると、サルは湯冷めをしない。サルの体毛には長くて硬い毛と短くて柔らかい毛がある。温泉で濡れるのは外側の長く硬い毛で水をはじく。風呂上がりに身体をブルブルと振るわせれば水気は飛んでしまうという。
 1970年、アメリカの雑誌「ライフ」に、サルが気持ちよさそうに湯舟に浸かる写真が表紙を飾り、世界の注目を浴びた。さらに1998年、長野冬季オリンピックを機会に注目度が増した。スノーボードのハーフパイプの会場がこの近くにあり、そのときに海外のメディアが「地獄谷野猿公苑」をこぞって報道したのである。その時の認知度もあって現在も外国人の見学者が圧倒的に多い。なお、そのスキー場は今は閉鎖されている。

<大河ドラマに沸く上田市>
 信州上田市といえばNHK大河ドラマの真田丸で観光客が殺到している。町中も小奇麗に改装した新しさが各所に感じられる。案内板も小憎らしいほど豊富で適切に出来ている。散策するにも迷うことはない。千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。
 千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。奈良時代から、京都と東北地方を結ぶ「東山道」の拠点として栄えた。

 二の丸橋を渡って東虎口門をくぐる。石垣の石は太郎山から切り出したと伝わる真田石、


二の丸橋

本丸南櫓と東虎口門

 大河ドラマ館は市民会館を改装してオープンしたが、約1年間の期間限定である。


真田神社

大河ドラマ館

 真田井戸から抜け穴があって、城北の太郎山麓との砦に通じている。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかった。


真田井戸

西櫓から見た上田市街

 この日は小諸市に宿をとる。


ホテルから小諸市街地を見上げる

<小諸市懐古園>
 明治4年(1872)の廃藩置県で小諸城は役割を終え、明治13年(1880)に城郭は小諸藩旧士族へ払い下げられた。本丸跡に懐古神社を祀り、周辺に花木を植えて公園にし、小諸城跡は懐古園と名付けられた。その後、さらに近代的な公園に改装している。

 料金所で散策券を求め、入園。周回コースを時計周りに見学する。遊園地と動物園が連なっている。朝早いので子供達はいなかったが、動物達は給餌の時間でもあり元気がいい。雄どうしが羽を広げ、バタバタ震わせて威嚇し合うという珍しい生態を見ることが出来た。

 小諸市動物園は、大正15年4月20日に開園された県下最古の動物園である。


前面

後面

 小諸城は全国的にも珍しいことであるが、その構造は城下町より低い穴城である。浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られており、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。自然のU字溝である。


断崖上の木陰が崖下に延びているー白鶴橋から撮影

 白鶴橋を渡ると富士見台。名前のとおり富士山が見える筈だが、霞んで見えない。八ヶ岳はくっきりと見えた。眼下に千曲川も見える。

 右手に周回すると、島崎藤村の歌碑がある。詩面は藤村自筆の「千曲川旅情のうた」が刻まれている。その奥に進むと「水の手展望台」。北アルプスが見える。


富士見台の東屋

島崎藤村の歌碑

 島崎藤村は明治32年、かつての恩師木村熊二に招かれて、小諸義塾の英語と国語の教師として赴任。函館の網問屋秦慶治の三女冬子と結婚。小諸町馬場裏の士族屋敷跡に新家庭をもった。以降、小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などを執筆、大作「破戒」が起稿された。

<軽井沢雲場池>
 ホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く御膳水からの清冽な小川をせき止めて誕生した、六本辻近くにある静かな池である。池畔に遊歩道が廻らされ、雲場池園地として整備されており、水面に映る木々と水鳥が、落ち着いた雰囲気を漂わせている。


雲場池

 ここにも中国語と思われる言葉を交わす若者達が多かった。周辺に点在する外人墓地や美術館等の施設とともに軽井沢の観光コースとなっている。

<軽井沢-熊野神社・見晴台>
 旧軽井沢銀座に車を進入させる。商店街の道路は、カラーブロックを敷き詰めって、道路標識や白線もなく信号もない。観光客は両側の店をあっちこっちに行き来する。さしずめ、歩行者天国というところだ。しかし車両進入禁止の標識がないのだから入って構わないのだろう。実際、タクシーや宅配車も走っているので、僕達もそうした。しかし感覚的には無意識に徐行の気持ちにはなる。外国人の雑踏という光景である。

 間もなく銀座を通過して山道にかかった。充分に道幅もあり、そのまま上り詰めたところに、熊野神社と、見晴台がある。

 僕達はかなり以前に来たことがあるが、様相はすっかり変っていた。昔は見晴台まで車を乗り入れたが、今は熊野神社の周辺にいくつかの店舗が出来ているので、車はそこに預ける。見晴台までは近く、小鳥の囀りと爽やかな風が心地よい。

 もう一つ、変っていることがあった。「大分水嶺」を強調して売り物にしているのである。大分水嶺というのは、分水嶺から流れ下る水が、片や日本海、片や太平洋へ分かれるような尾根をいう。この論に従えば、北海道の宗谷岬から鹿児島県佐多岬までの尾根をテクテク歩くとしよう。そうすると、津軽海峡と関門海峡を渡る他は、全く川を渡らないで歩けることになる。

 熊野皇大神社も昔はひっそりと佇む祠という感じであったが、現在は荘厳な神社になっている。熊野皇大神(くまのこうたいじん)の大額が掲げられた神門に迎えられた。その踏み石には記銘石が嵌め込まれ、参道と本宮の中央が県境にあたる。旧碓氷峠に跨っている神社である。


熊野皇大神社

踏み石の境界標示

 参道から峠道の相向かいに「元祖力餅しげのや」がある。店内を裏に通り抜けると急斜面に高床のウッドデッキがある。角のテーブルにつくと、なんと手摺に分水嶺の赤線が貫いているではないか。安中・旧中仙道・碓氷峠頂上と書いてある。


分水嶺の赤線

 安中と言えば毎年5月の第2日曜日に「安政遠足(とおあし)侍マラソン」が行なわれる。江戸時代に当時の安中藩主が藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競争させた。その着順を記録したことが始まりで、日本のマラソン発祥の地と言われる。

 しげのやで、力餅そばの昼食をとり、見晴台に行く。ここにも分水嶺の標識がある。


分水嶺の標識

 展望がよく、左手を見ると妙義山、右手に浅間山が見えた。


妙義山-群馬県

浅間山南面-長野県

<下仁田町-和見峠>
 
今回の旅行はこれで終り。帰りは下仁田町の和見峠を下り、姫街道の本宿を目指した。宿場の面影はほとんど残っていないが、石仏などに往時を偲ぶことができる。

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