このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
● ここへ行ってきました ●
28.5.17-18 地獄谷野猿公苑-上田城跡-小諸城址-軽井沢雲場池-碓氷峠見晴台 <草津白根山越え>
国道292号の「日本国道最高地点(2,172m)」から噴煙の遠望を確認したかったが、雨雲に遮られて見えなかった。
群馬県から渋峠を越えて長野県に入る。熊の湯を過ぎて志賀高原に下ったころ雨は上がり景色が鮮明に見えてきた。琵琶池を過ぎると裾野は急傾斜となり、くねくねとカーブを繰り返す。山麓に下りきって農耕地が広がり、集落に入って上林温泉の駐車場に着いた。 <地獄谷野猿公苑> 今回僕達は上林温泉の駐車場に車を置いて横湯川の上流を目指した。よく整備された道で樹林帯を散策するのも気分がいい。道にはところどころぬかるみが残っているが、ズボンが汚れる程ではない。ほぼ予定どおりに到着した。幸い雨雲も上がって景色も見える。
左岸の階段を上がった所に地獄谷野猿公苑の管理棟がある。木造で室内が資料室、そして外側には回廊式のウッドデッキがある。ガラス張りの室内を見ると外国人ばかりが10数名たむろしている。女性職員の話では、サルが山から下りて来ていないので入苑券の発行が出来ないとのこと。見学通路にはチェーンが張られていた。外国人が所在無げに屯しているのは、こういうことだったのだ。
公苑には四季を通じて山からサルが下りて来る。ただし温泉に入るのは厳寒期に限られ、暖かな日はほとんど入らない。サルが下りてきたら、職員がチケットを渡して通路のチェーンを外すことになっている。30分ほど待機したが諦めて引き上げることにした。辛抱強く待機する外国人もいたが、気の毒に思った。せめてもと思い、資料室に掲げられているパネルを撮らせて貰った写真をご紹介する。パネル2は、あまり近づきすぎてスマホを奪われてしまった人がいたという警告写真である。
野猿公苑について若干述べておきたい。 冬になると雪が降り積もり、—10℃を下回ることもある。あるとき旅館「後楽館」の人間用露天風呂に一匹の仔ザルが入り、これを他のサルも真似したのだという。そうなると人間と同居では不衛生であると考え、サル専用の湯舟を造ってやった。 <大河ドラマに沸く上田市> 二の丸橋を渡って東虎口門をくぐる。石垣の石は太郎山から切り出したと伝わる真田石、
大河ドラマ館は市民会館を改装してオープンしたが、約1年間の期間限定である。
真田井戸から抜け穴があって、城北の太郎山麓との砦に通じている。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかった。
この日は小諸市に宿をとる。
<小諸市懐古園> 料金所で散策券を求め、入園。周回コースを時計周りに見学する。遊園地と動物園が連なっている。朝早いので子供達はいなかったが、動物達は給餌の時間でもあり元気がいい。雄どうしが羽を広げ、バタバタ震わせて威嚇し合うという珍しい生態を見ることが出来た。 小諸市動物園は、大正15年4月20日に開園された県下最古の動物園である。
小諸城は全国的にも珍しいことであるが、その構造は城下町より低い穴城である。浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られており、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。自然のU字溝である。
白鶴橋を渡ると富士見台。名前のとおり富士山が見える筈だが、霞んで見えない。八ヶ岳はくっきりと見えた。眼下に千曲川も見える。 右手に周回すると、島崎藤村の歌碑がある。詩面は藤村自筆の「千曲川旅情のうた」が刻まれている。その奥に進むと「水の手展望台」。北アルプスが見える。
島崎藤村は明治32年、かつての恩師木村熊二に招かれて、小諸義塾の英語と国語の教師として赴任。函館の網問屋秦慶治の三女冬子と結婚。小諸町馬場裏の士族屋敷跡に新家庭をもった。以降、小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などを執筆、大作「破戒」が起稿された。 <軽井沢雲場池>
ここにも中国語と思われる言葉を交わす若者達が多かった。周辺に点在する外人墓地や美術館等の施設とともに軽井沢の観光コースとなっている。 <軽井沢-熊野神社・見晴台> 間もなく銀座を通過して山道にかかった。充分に道幅もあり、そのまま上り詰めたところに、熊野神社と、見晴台がある。 僕達はかなり以前に来たことがあるが、様相はすっかり変っていた。昔は見晴台まで車を乗り入れたが、今は熊野神社の周辺にいくつかの店舗が出来ているので、車はそこに預ける。見晴台までは近く、小鳥の囀りと爽やかな風が心地よい。 もう一つ、変っていることがあった。「大分水嶺」を強調して売り物にしているのである。大分水嶺というのは、分水嶺から流れ下る水が、片や日本海、片や太平洋へ分かれるような尾根をいう。この論に従えば、北海道の宗谷岬から鹿児島県佐多岬までの尾根をテクテク歩くとしよう。そうすると、津軽海峡と関門海峡を渡る他は、全く川を渡らないで歩けることになる。 熊野皇大神社も昔はひっそりと佇む祠という感じであったが、現在は荘厳な神社になっている。熊野皇大神(くまのこうたいじん)の大額が掲げられた神門に迎えられた。その踏み石には記銘石が嵌め込まれ、参道と本宮の中央が県境にあたる。旧碓氷峠に跨っている神社である。
参道から峠道の相向かいに「元祖力餅しげのや」がある。店内を裏に通り抜けると急斜面に高床のウッドデッキがある。角のテーブルにつくと、なんと手摺に分水嶺の赤線が貫いているではないか。安中・旧中仙道・碓氷峠頂上と書いてある。
安中と言えば毎年5月の第2日曜日に「安政遠足(とおあし)侍マラソン」が行なわれる。江戸時代に当時の安中藩主が藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競争させた。その着順を記録したことが始まりで、日本のマラソン発祥の地と言われる。 しげのやで、力餅そばの昼食をとり、見晴台に行く。ここにも分水嶺の標識がある。
展望がよく、左手を見ると妙義山、右手に浅間山が見えた。
<下仁田町-和見峠> |
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