このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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28.11.6 東吾妻町 岩櫃城址

 NHK大河ドラマも最終章に入ったが、岩櫃城もそれなりに注目を浴びることができた。所在地は群馬県東吾妻町である。恥ずかしながら僕は岩櫃山には2度登ったことはあるが、城址の存在は知らなかった。登山ルートがJR吾妻線の郷原駅だったこともある。従って今回が初めての訪問である。

 今回はマイカーで行ったので、そのルートを紹介する。JR吾妻線の群馬原町駅から国道145号線を南下して約500mの位置が入山口である。乗用車なら旧道を走ると便利である。ハイツリバーサイドを右に見て、橋を渡り右折する。鉄道と国道のカルバートを潜ってそのまま道なりに進めばよい。あとは案内看板に従って走れば程なく「岩櫃山登山口専用駐車場」に着く。県外車が多い。
 少し上に観光案内所と便所と登山口休憩所がある。広場には入山者が準備体操をしていた。 


岩櫃山登山口専用駐車場


観光案内所

 ここから山へ登る者・城址のみの者とが入り乱れている。案内板をよく見て歩いた方が良い。今回は城址のみをご紹介したい。

 岩櫃山(802.6m)東麓面の中腹に岩櫃城(593m)の本丸がある。その下方に二の丸・中城と続く。これらの場所を中心に、北東側に柳沢城、南に郷原城など、城郭の規模は136haと上州最大規模を誇る。


岩櫃城の本丸

 本丸址には、岩櫃城由来記があり、それを読む人で混込みいっている。縦書きであるが、ここでは横書きで紹介したい。

岩櫃城由来記

 吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は1.4k㎡と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斉藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城後略を命じました。ときの城主は斉藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔1615〕)により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。

東吾妻町観光協会

 敷地の一角に櫓台があり、説明版にはこうある。

 「主郭の中で一段高くなっている場所で、幅12m、高さ2.5mほどの高台となっている。周囲を観察する櫓台と考えられ、ここから周囲の展望・状況を確認し城内外に指揮連絡系統を結んだとされる。」


東吾妻町(城下町)眺望


櫓台の説明版

 腰曲輪というのもある。説明板には「南枡形虎口と二の丸から本丸に上る通路で、本丸南面を守る郭」とあるが、どのようなものかイメージできない。


腰曲輪

 観光案内所に戻って岩櫃神社に行く。由来は書いてない。鳥居には額もない。社も貧弱で、賽銭箱もない。窓格子の小さな一つの枠穴から屋内にコインを放り込む。盗人に持ち去られない工夫とみた。


鳥居をくぐる


目の前に社

 全部をつぶさにみることは出来なかった。竪堀・堀切などは残っているが、遺構がほとんどないので、消化不良の感が否めない。資料で復習するのが良いだろう。
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岩櫃城址

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