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榛名神社〜天神峠<2017.5.31記>

<はじめに>
 榛名神社はこの季節、青葉が美しい。通常は渓谷沿いの坂道を登って神社までの参道を楽しみ、本殿を参拝すればほぼ堪能する。
 たいがいの人が参拝目的であるが、沢筋を上って榛名湖まで登山するのも面白い。いくつかの史跡もあり、それなりの発見もある。


榛名神社〜天神峠遊歩道

<では行ってみよう>
 マイカーで行った場合は、門前町のドライブインに車を預けるのがお薦め。500円以上の食事なり買い物をすれば駐車料金は無料になる。

 沢筋の道は2箇所ある。一つは参道中間に、みそぎ屋という土産店があり、近くの公衆便所の脇から沢筋に下りられる。もう一つは本殿前の右手奥にある公衆便所の脇をすり抜けて沢筋に下りられる。どちらも合流して一本道になる。

 最初に随神門を潜り榛名川に架かる、みそぎ橋を渡って坂道を登って行く。鬱蒼とした森で、夏でも涼しく右手の沢の対岸は広葉樹の自然林で、野鳥の囀りが賑やかだ。運が良ければオオルリの姿と美声に出会えるかもしれない。


随神門


みそぎ橋

 綺麗な写真は撮れなかったが、鞍掛岩が見える。アーチ状のトンネル岩である。名もなき小さな滝もある。


鞍掛岩


名もなき小さな滝

 みそぎ屋近くの公衆便所から沢筋に石段を下りてすぐに瓶子の瀧がある。その先で本殿から下りてくる道と合流。


瓶子の瀧


関東ふれあいの道

 沢筋に二つの石がある。右の石が平面でなにやら竜の姿を刻み込んだらしい。札にはこう書いてある。

降雨竜祈願彫刻
相馬村(現榛東村)
陰陽学士
小野関三太夫清繁自作
祀 大正十三甲子年九月一日

 雨乞いの意味だろうか。小野関三太夫清繁なる人物は、榛東村一帯にいくつかの石碑に名前が刻まれているらしい。


道標


説明板

 さらに登ると案内板があり、榛名山へのみちと書かれている。


説明板

関東ふれあいのみち
榛名山へのみち

 このコースは、スギの大木におおわれた古社、榛名神社から榛名湖を経てヤセオネ峠に至る約7kmの自然歩道です。
 歩道周辺には、ミズナラ、モミジ、カエデなどの雑木林が続き野鳥のさえずる美しい声を聞くことができます。
 また、天神峠からは、榛名湖の美しい姿をみることができます。

 直ぐ先に榛名山番所跡がある。高崎市指定史跡になっており、寛永八年(1631)九月設置、稗史は明治二年(1869)一月。信州大戸通りの裏往還の通行を取り締まったが、直接の管理は幕命により榛名山別当職が行い、各坊の月番勤務であった。榛名山番所跡を通過。信州に向かう大戸通りの裏往還通行の取締りで1631-1869間の稼動。その手前が番屋跡である。


番所門の説明板


番所門

 さて、番所門の向うに大きな堰堤があって、さらに後方に石塔のようなものが立っている。近づくと、登録有形文化財になっている榛名川上流砂防堰堤である。
 説明板には重力式コンクリート造堰堤とあるが、石積みのようにしか見えない。堤長69m、堤高17m。昭和30年3月31日完成とある。
 その上流には奇妙な形をした「九折(つづら)岩」が見える。

榛名川上流砂防堰堤

 榛名川上流砂防堰堤は、榛名山を源とする榛名川の最上流部に位置する堤防です。
 榛名川は明治43年の水害や昭和10年の水害により甚大な土砂災害の被害を受けたため、昭和11年度より国が砂防事業を開始し、復旧工事が進められました。その1つとして「榛名川上流砂防堰堤」が昭和30年に建設されました。
 この堰堤の最大の特徴は高さ15m以上の堰堤を連石積(石と石の間にコンクリートを混ぜた積み方)により造ったことです。当時としては高度な石積技術や最先端の機械が用いられました。
 砂防堤防は、上流から流れてくる土砂を貯め貯まった土砂を下流へ少しずつ流します。砂防堰堤が土砂で満杯になると川の勾配が緩くなり、土砂の流れや水の流れる力を弱めることができます。水の流れる力が弱くなることで、川底や山すそが削られるのを防ぎます。
 また、平成18年に文部科学賞より登録有形文化財として登録されました。

国土交通省利根川水系砂防事務所

 所在地 群馬県高崎市榛名山町
 重力式コンクリート造堰堤
 堤  長  69m
 堤  高  17m
 貯砂量  68,000立法メートル
 完成年月日 昭和30年3月31日



榛名川上流砂防堰堤


砂防堰堤説明板

 同上の接近写真はそれぞれ次のとおり。


砂防堰堤

九折(つづら)岩

 道しるべがある。読み取り困難なれど「左(伊香保 吾妻)道」と読める。

 道はよく整備されており、道標も要所にあって、おおよその自分の位置が推測でき、安心して歩行を楽しめる。



快適ではあるが、少し勾配がきつくなってきた。



 所々に熊注意の札がある。この日は、地元の小学5年生が集団で登山を行なった為、僕等も追随させて貰って大いに助かった。

 少し登ると常滑の滝がある。川床が滑らかである。

 やがて、道標に 1.6km榛名神社⇔天神峠0.3km の所まで来た。

 その近くにあった解説板がこれ。先生が小学生に解説している。そして右側の沢筋を見ると、確かにずい道の出口から水が噴出していた。榛名湖から山に穿たれたトンネルを抜けて来た水である。


長野堰」の説明板

ずい道の出口

 拡大したのが次のとおり。

世界かんがい施設遺産
長野堰用水の歴史
(榛名湖から取水されたずい道の出口)

 高崎の街は一級河川烏川と井野川に挟まれていながら、台地上の地形のために「水」には恵まれていませんでした。
 この、不毛に近い高崎台地を「水」で潤し、農業生産や市民生活の基盤を築いてくれたのが、一級河川烏川を水源とする長野堰用水です。
 開削の歴史は古く、今から一千年以上前と伝えられ、戦国時代の箕輪城主長野業政(なりまさ)公が現在の形を作ったといわれています。
 その後、開田が進むにつれ長野堰用水が必要とする「水」を確保することはたいへん難しくなってきました。
時として、壮絶な水の奪い合いに発展したこともありました。
 このため明治36年に榛名湖から烏川へ水を引くことを計画しました。
 翌年には榛名湖から天神峠の下を通るずい道(トンネル)が完成し、今でもその「水」は高崎の台地を潤しています。
 榛名湖より取水された水は榛名川から烏川に注ぎ、本郷町の頭首工で堰き止められ長野堰幹線水路へと進みます。
  (長野堰を語りつぐ会)
  長野堰土地改良区
  高崎市教育委員会

 急斜面が終り、小広い場所についた。ここが天神峠であろうか。峠の隅に道しるべがある。右いかほ 左(あがつま 善光寺)道とある。


 天神峠のT字路を左に折れて下って行くと、大きな石燈籠がある。文化12年(1815)に江戸本所の豪商塩原太助が寄進したもので、高さ5.5mもある。昭和57年(1982)11月に別の場所から現在の場所に移設されたという。
 製作者は信州高遠の石工-藤澤政吉である。江戸時代の信州高遠藩は財政に貧しく、石工を育成して中部地方や関東地方に出稼ぎに出したのである。群馬県は特に高遠石工の石造物が多い。現在、高遠は平成大合併によって、長野県伊那市高遠町になっている。旅行誌には、高遠城址公園のサクラで有名になっている。太助と政吉のコンビは、榛名神社の石段・玉垣にもその名が刻まれている(みそぎ屋の先)。

 石燈籠から下って行くと、県道33号に天神峠バス亭がある。神社にマイカーを置いている場合は復路を路線バスで帰っても良い。

 さて、足を延ばして榛名湖の湖畔商店街に下りてみよう。湖畔亭の隣りに榛名湖水門がある。道路側には赤白の車止めと、防護柵に囲まれていて、隙間から湖水が透けて見える。今度は湖水側に廻って水門の状況を見る。


道路側から見た水門

湖水側から見た水門

 柵の上から撮ったのが水門の機械。管理者は長野堰土地改良区。連絡先は高崎市請地街13水土里(みどり)ネット長野堰とある。水土里(みどり)ネットとは土地改良区のことで、全国に約4,700組織ある。農地の整備や農業水路の維持管理を行なっているほか、住民と連携した地域づくりや地域農業振興の活動を行なっている。


 上の説明板を拡大して次に示す。違う箇所は3行目の(榛名湖からの取水口)書きだけである。先程の説明板は、(榛名湖から取水されたずい道の出口)となっていた。

世界かんがい施設遺産
長野堰用水の歴史
(榛名湖からの取水口)

 高崎の街は一級河川烏川と井野川に挟まれていながら、台地上の地形のために「水」には恵まれていませんでした。
 この、不毛に近い高崎台地を「水」で潤し、農業生産や市民生活の基盤を築いてくれたのが、一級河川烏川を水源とする長野堰用水です。
 開削の歴史は古く、今から一千年以上前と伝えられ、戦国時代の箕輪城主長野業政(なりまさ)公が現在の形を作ったといわれています。
 その後、開田が進むにつれ長野堰用水が必要とする「水」を確保することはたいへん難しくなってきました。
時として、壮絶な水の奪い合いに発展したこともありました。
 このため明治36年に榛名湖から烏川へ水を引くことを計画しました。
 翌年には榛名湖から天神峠の下を通るずい道(トンネル)が完成し、今でもその「水」は高崎の台地を潤しています。
 榛名湖より取水された水は榛名川から烏川に注ぎ、本郷町の頭首工で堰き止められ長野堰幹線水路へと進みます。

  (長野堰を語りつぐ会)
  長野堰土地改良区
  高崎市教育委員会

 その隣りに長野堰疏水紀功碑の解説板が掲示されている。全て漢文になっているので、書き下ろし文と併記させている。


長野堰疏水紀功碑の説明板

 榛名湖の水を使いたいと思い始めたのは江戸時代より前からあった。烏川の水量が少ないために時の為政者にとっては垂涎の的であった。
 歴史を語る碑と改修の記念碑が湖畔亭駐車場の崖上に建っている。残念ながら、危険な場所でとても動きがとれない。左側の石碑には篆額(てんがく)の「榛名湖用水改修祈念」しか読めず、右側の石碑は全く読めない。


記念碑

 調査を終えて湖畔から離れ、伊香保温泉へ向かう道はヤマツツジが満開で、大いに疲れを癒してくれた。緑の斜面は相馬山の西麓、遠くのアンテナが見える丸い山は、二ツ岳の雄岳である。手前の原は県道33号のメロディーライン(静かな湖畔)と呼ばれる湿地帯である。


ヤマツツジの群落

<おわりに>
 長野堰については、地域的にも歴史的にもスケールが大きく、その全てを紹介することは難しい。専門書が多数あるので、それをご覧いただきたい。榛名湖から水を引いていることは知らなかったので、今回は僕自身の新発見で感動一入である。

<参考文献>
1.長野堰の水と光 H19年9月

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