日付変わったばかりの青森駅、最終<はつかり>と<白鳥>継走の1便出航。
タラップを操る桟橋職員が見守る中、ゆっくりと深夜の海峡へ。
連絡船は海峡から雪雲を連れて来る・・・。
そんな気障なセリフもやがて平気で言えるようになってしまうのだろうか。
桟橋あってこその函館だし、駅前模様・・・・・・だった。
黄色は八甲田丸、オレンジの十和田丸、青い摩周丸、濃緑の大雪丸・・・
津軽丸型フリート7隻に刻んだ思い出は鮮明、そして永遠。
午後、「津軽海峡線」の試運転列車を撮りに江差線の釜谷まで足を伸ばす。
本当にこの汽車は鈍く光るこの海の向こうからやって来たのだろうか。
まったく信じられない思い。寒風吹きすさぶ中、数写。
貨車を転用した釜谷駅の待合室で函館行きをひとり待っていると、ジャンパーの襟を立てたひとりの男性が加わった。
連絡船「檜山丸」甲板長、Yさんだった。
江差線のボックスシートでも話は尽きず、そして・・・。
Y甲板長に導かれるままに1時間後には「檜山丸」の車両甲板に立っていた。
油と潮にぬめる足元を揺さぶってコンテナライナーが北海道へ引き出され、入れ違いに本州へ押し込まれる作業を眼前にする。
Y甲板長ら「檜山丸A組」にクルーも交替し、すべての作業が完了し出航するまでの所要時間は入港後、わずか55分だった。
2月28日日曜日、今夕帰らねばならない。青森からの<ゆうづる>の寝台券はおさえてある。
曇り時々吹雪、一瞬の晴れ間・・・・・・。
めくるめく空模様の中、ぼくにとっての連絡船と過ごす最後の一日。朝からカメラを向け続ける。
正確無比の列車ダイヤに組み込まれた連絡船は当然ながら実に正確だ。
海に隔てられて線路が敷けないから船が代行しているだけで、乗換えを強いられてはいても
大阪発札幌行き、あるいは網走発上野行きという直通サービスが提供されている。
だから連絡船には船という言葉からイメージされるのんびり感を感じることはあまりない。
波にも風にもまかせることなく、吹雪も衝いてきょうも津軽海峡を疾走する。
お疲れ様、おかえりなさい。
檜山丸A組の2往復行路の終わりを岸壁で迎える。
「あした、ここで待ってな」と言われていた場所で乗務の明けたY甲板長と再会。
折り返しはちょうど<ゆうづる4号>継走の便になって青森へ折り返す檜山丸。
なんと交代で乗り込むB組の船長に私のことを引き継いでくれた。
改札を通らず、乗船名簿すら函館に残さないまま14時35分、154便出航。
函館港内を進む。時折船長の発する指示とそれに誰かが復唱する声が響くのみ。
緊張の時間が流れる。
「こちらは龍飛・・・」で始まる気象通報も、行き交う船からの通信も
海上を飛び交う船舶無線はみな「さようなら」で交信の最後はしめくくられる。
あと2週間と思っているからせつなく聞こえるだけだ。
これからもずうっと走り続けてゆくようないつも「さようなら」がまた、無線室から聞こえてきた。
ブリッジの照明がすべて消される。いつのまにか近づいていた青森の灯が窓一杯に輝き出した。
船長が中央に立ち、入港のための総員配置、発令。
船長の矢継ぎ早の指示に航海士が、運転掛が、船首と船尾の甲板員はトークバックを介して復唱する。桟橋からの指示も無線室に飛び込んできた。補助汽船とよばれるタグボートも寄って来る・・・。
1988年2月28日18時25分、青森駅第一桟橋、定時着岸!
「ぼくの最終航海」はこうして終わった。
・・・・・・・・・
貨物専用便ゆえ船内売店は開いておらず、フィルムの補充ができない中での文字通り最後の1枚。フィルムカウンターは「36」を過ぎていたからこの1枚が残せるかどうか本当に不安だった。巻き上げレバーがきっちり回り安堵したことをいまでもよく憶えている。
なぜ、Y甲板長はじめ檜山丸クルーの方々が私ごときにここまで便宜を図ってくださったのか・・・。
20年近い時間が経過した今でも不思議でなりません。
もうすぐなくなる自分たちの城を見せておきたかったのでしょうか。
ぼくにとっては北海道の代名詞あるいは枕詞だった青函連絡船。
その消え去る寸前の一連の邂逅は、ぼくの撮影歴の中でいまでも最高の思い出として輝いています。
帰京後、これらの写真を大伸ばしにして廃止4日前頃に函館駅に電話で問い合わせて
「函館市JR函館駅気付 『檜山丸』A組 Y甲板長様」
と宛ててお送りしました。
お礼状がわりですから返礼などとんでもありませんでしたが、ちゃんと届いたかどうかが今でも気がかりです。
ブリッジ特製コーヒー、ご馳走様でした。
そして20年も経ちましたがあのときのご厚意に厚くお礼申し上げます。