このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
心待ちにしていた儀式、乗船名簿の配布は盛岡を出た後に始まったこと・・・・。
暗黒の窓外には雪煙が流れ、時折上野へ急ぐ寝台列車がかすめて行ったこと・・・・。
583系独特の折り戸の僅かな隙間から吹き込んだ雪でデッキの床が白くなっていたこと・・・・。
まだ終着まで15分余もあるのに、気の早い人がコートを掴んで立ち上がったのを合図のように一斉に身支度が始まり、デッキから通路へと降車待ちの列が伸びていったこと・・・・。
「あおもーりっ、あおもーりっ、あおもーりっ」。
独特な節回しのアナウンスが降る中、横になれる桟敷席めざして老いも若きも長いホーム先端の階段からさらにその先へ伸びる桟橋通路を小走りに急いでいたこと・・・・。
給水所に立ち寄るランナーのように乗船口の木箱に名簿を投げ入れ・・・・、
気がつけば船の中だったのが惜しくて、こんど乗るときはもっとゆったりした接続の旅程で行こう、と早速反省したこと。
30年以上も経ったのに鮮明に思い出す初めての北海道への序奏。
1976.3.27札幌駅
運転士氏の制帽には「団結」のハチマキ。春闘の季節だった。
1978.3.23 宗谷本線車窓
1978.3.25 天北線 小石
小石-曲渕の約18キロは在来線最長の駅間距離だった。だから撮ったのだと思う。
向かいのシートでご機嫌ななめの少年とは興浜南・北線の間の未成部分にある
音標(オトシベ)まで一緒だった。ぼくになついてくれた「よねやまやすゆき君 5歳」、元気ですか?
1983.3.7 北見神威岬
電線のあるところを興浜北線が通っていた。
灯台の下を回りこむ単行キハの写真も撮ったのだが寒さでカメラがダウン・・・。
1978.4.1 釧網本線 細岡-糖路
釧路湿原を見渡したくて登ったら列車がやってきた。
1978.3.5 紋別
異国の街角にいるような錯覚に陥るのは何故だろう?
1982.3.4 宗谷本線 多寄
蒸気暖房のスチームが列車を包む。なんとも癒される景色だった
1982.3.6 浜頓別
最北をめざす旅の途上、西からの深名線と東のオホーツク海から名寄本線が集まる名寄駅に列車が停まるとまさに鉄路の十字路という趣を感じたものだ。
さらに北へ進むうちに美深では日本一の赤字で名高い美幸線、音威子府では天北線、幌延で羽幌線、と支線群を従えた宗谷本線はこんにちの時刻表の線路図での頼りなげな一本道とは違ってまさに君臨していた。
時刻表の北海道の路線図がまだ賑やかだったその頃、リュック背負ってユースホステルの会員証とワイド周遊券をポケットに旅する若い群像があった。
関東からなら「八甲田」、関西からは「きたぐに」と相場が決まっていて、たまに「『日本海』で来ました♪」なんて女子大生と出会おうものなら「お嬢様」という印象を抱いたものだった。
夕食後のユースホステルでは、ギターかき鳴らしてカレッジフォークの大合唱、あるいは他愛のないゲーム、少人数なら夜更けまでドボン(いわゆる『ページワン』ですな)・・・・。こうして挙げていくだけてあのときの若さ、というか純粋素朴さというかに赤面してしまう。でも見知らぬ人々とあたたかな時間を共有できたことは事実。
そして路線図では堂々たる君臨ぶりでも実態はローカル線だったから、ひとり旅であろうと移動はおのずと団体行動になってしまうのだった。稚内から浜頓別、さらに紋別、サロマ、浜小清水あるいは斜里・・・。ときには何日も一緒に旅して、ユースのある駅、或いは分岐駅で別れの手を振った彼らはいまごろどんな人生の旅を歩んでいるのだろう。
1983.3.3 根室本線 厚床
みんな私の名前を指差してくれています。良い旅を!!
1982.3.9 サロマ湖を見渡す丘へ
クロスカントリースキーに汗を流したこともあった
1982.3.6 羽幌線車窓
1982.3.8 遠軽
このくるまはキハ82-14。 1961年7月帝国車両製 新製配置は尾久。1984年2月廃車。
1982.3.11 斜里
最盛期には北海道の15倍もの面積になってオホーツクを埋め尽くす氷塊
1978.3.5 名寄本線興部
北海道じゃ当たり前だった駅風景、何故撮ったのかは謎。
1982.3.3 長万部
函館からの序盤戦で早くも雪塊と化した青い車列をじっくり眺める。前方では補機の連結作業がすすむ。
カニめしを仕入れ、さて戻るとするか青い急行<ニセコ>に
1978.3.29 霧多布
白い世界ばかり旅してくると物足りないようだし、ホッともするし・・・。
1983.3.9 コムケトー
ここで朽ち果ててゆくもの。何度流氷の季節を過ごしてきたのだろう
良い旅を!!
1982.3 釧網本線 浜小清水駅
1982.3.10 中富良野駅から歩き続けて1時間後の風景
こうして昔のネガを見返してみると相当な小駅にも鉄道員が働き、日々列車を見守ってくれていたことに気づく。
たしかに動力近代化は成されたものの、変わったのは列車の動力源というソフトだけで
鉄路を司るオペレーティングシステムは何も変わっていなかった昭和50年代。
タブレット、硬券、郵便車、荷物車、全ての車両に付いていた吸殻入れ、長距離列車、儲からない盲腸線・・・
蒸気機関車を除いてはまだ皆健在だった。
けして懐かしむわけではないけれどワンマンカー用の大きな鏡だけがぽつねんと佇む現代は本当にあの頃の発展形なのだろうか
(上:函館本線銀山 下:宗谷本線)
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