このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

東武佐野線 渡瀬・佐野・葛生 その3

東武佐野線は、伊勢崎線館林駅から葛生駅までの路線です。

かつて、終点の葛生から石灰石輸送が行われていて、貨物列車が多数運行されていましたが
葛生〜北館林荷扱所までの区間は1997年までに廃止されてしまいました。
その後、北館林信号所〜久喜間の石油輸送は残りましたが、
結局こちらも2003年9月に廃止となりました。

その3では、老いて27000様が撮影された葛生の専用線の写真をお届いたします。

以下全ての撮影・文章とも老いて27000様 無断複製厳禁

住友セメント栃木工場
 
東武佐野線の終点「葛生」は、石灰石の産地として知られております。
採取した石灰石を運搬するために葛生には、かつて多数の貨物線があり、1970年代、ナローゲージの貨物線が幾つか残っておりました。
その内の「住友セメント栃木工場」のナローゲージをご紹介致します。
 
この路線は、軌間762mm、非電化、単線で、唐沢鉱山と住友セメント栃木工場との間3.3kmを結んでおりました。
1968(昭和43)年08月号の『鉄道模型趣味』誌第242号に『762mm軌間の採石軌道 住友セメント栃木工場』として紹介されており、ナローゲージに興味のある方は、当時から既にご存じだったかもしれません。
軌間762mmとはいえ、我が探訪時には、近代的な機関車がおり、
しかも列車本数も多く(前記『鉄道模型趣味』誌によれば、1日の運転回数は最高の時期には50往復に達したそうです)、
「ヒョロヒョロとした線路」、「ノンビリした運転」と言うイメージからは、ほど遠いものがありました。
いや、「ヒョロヒョロとした線路」「ノンビリした運転」と言うのは私が勝手に作ったナローに対するイメージで、活気ある鉄道となれば、ナローといえども、このような雰囲気となるのでしょう。
考えてみれば、「ナロー」と言っても、「国鉄のものよりも軌間が小さい」だけにすぎません。
 
葛生には、1975年から1976年にかけて3回訪れております。残念ながら、メモ類を殆ど紛失したため、撮影場所等詳細不明な点が多々ありますが、ご了承下さい。
 
前記『鉄道模型趣味』誌によれば、交換設備は2個所ありましたが、写真が残っているのは、此処のみ。1975年04月の交換風景です。
工場へ向かう左側の列車は、No. 18と言う機関車が牽引。一方、空荷の右側の列車は、No. 11+No. 12が牽引しております。
この写真を見ると、交換所では右側通行だったようです。
上掲の交換所の写真に写っていたNo. 18と同タイプのNo. 16。近代的でスマートな車両です。「よれよれのナロー」とは、全く異なりますね。
この車両は、前記『鉄道模型趣味』誌には紹介されておりません。多分、1968年より後に製造されたのではないかと思われます。
『ナローの散歩道 岩堀春夫写真集』(1991年07月20日発行プレスアイゼンバーン)によれば、東洋工機製の15t機だったようです。
尚、『とれいん』誌1991年06月号(201号)には「くずうのいま昔・駒形石灰工業・羽鶴の蒸機たち」と言う特集が組まれていたようですが、残念ながら、この雑誌は未読です。
 
上掲の交換所の写真に写っていたNo. 11+No. 12と同タイプのNo. 14。
先程の「東洋工機製15t機」よりも一つ前の世代のもののようです。
1975年当時、背中合わせの重連の形で使われておりました。
前記『鉄道模型趣味』誌によれば、日立製作所製の10t機との由。
また、「国立科学博物館」の「産業技術の歴史」データベース( http://sts.kahaku.go.jp/sts/set_top.html )によれば、No. 13が保存との由。ネットによれば、2005年以降、葛生町役場に保存されているようです。
更に、同データベースによれば、No. 13は、1962(昭和37)年に、日立製作所の笠戸工場で製造されたそうです。
 
KATOの機関車。模型化されておりますので、実物はご存じなくとも、模型店でご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
キャブは、トタン板製だったようで、味のある非常に好ましい車両でした。
1975年08月の時点では見られましたが、1976年02月に訪れた時にはその姿は無く、この間に解体されてしまったのでしょうか。
前記『鉄道模型趣味』誌によれば、3t機との由。また、同書によれば「工場内での鉱車修理などのため」にこのKATOがあったようです。
 
上掲のKATOと同様、トタン板で作られた客車。
前記「国立科学博物館」の「産業技術の歴史」データベースによれば、製造年は1945(昭和20)〜1965(昭和40)年とのことで、正確な製造年は特定できていないようです。
また、同データベースによれば、鉱山関係者の連絡用に製造された小型客車であり、下周りは鉱車のものを使用、座席も板張りとの由。
あくまでも私の推測ですが、下まわりや材料を考慮すると、この路線の工場で作られたものではないのでしょうか?
そうだとすると、KATOのキャブもこの客車と同様の造りですので、もしかしたら、KATOのキャブもこの路線の工場で作られたのかもしれません。
 
前記『鉄道模型趣味』誌では、「人車」として紹介されており、
同書掲載の図面によれば、幅が1637mmに対して長さが僅か1956mm。サイコロみたいな車両でした。
ネットによりますと、この車両は最後まで残り、2005年以降、No. 13と共に葛生町役場に保存されているようです。
鉱車No. 34。
この車両は、探訪当時、既に使われていなかったタイプ。当時現役の鉱車は、上掲の交換所の写真をご参照下さい。
実を申し上げますと、この古い鉱車だけ撮影して、新しい鉱車は撮影しておりませんでした。
現役の方の鉱車は大型で、ナローの車両としての魅力が感じられず、撮影しなかったものと思われます。
当時の気持ちは理解できますが、古いものだけ撮影し現役を撮影していないと言うことは、その当時の姿を現していることになりませんね(^_^;
 
「3トン積みの鉱車(現場の人はこう読んでいる)」と上記『鉄道模型趣味』誌では紹介されており、
1968年当時は、この3t鉱車22両と日立製10tDL1両とで1編成となっていたようです。
前記「国立科学博物館」の「産業技術の歴史」データベースによれば、製造年は1945(昭和20)〜1965(昭和40)年とのことで、正確な製造年は特定できていないようです。車輪径は350mmとの由。
 
葛生には、軌間1067mmの貨物線が多数もあって、途中、この762mmの非電化ナローゲージと、1067mmの電化貨物線とが併走する場所がありました。
このように隣接すると、1067mmよりも狭いことが分かりますが、単独で見ますと、結構立派な鉄道でした。
日立10t機重連の鉱山方面列車。
小さな切り通しを行く、日立10t機重連の鉱山方面列車。
東洋工機製15t機が牽引する鉱山方面列車。このような角度から見ると、結構山奥のような印象を受けます。
 
唐沢鉱山の風景。
左側の線路には、「日立製10t機」が見えます。
左隅には詰所があったのですが、残念ながら切れてしまいました。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください