このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


* I am afraid I might handle all Railways on our planet!

with 地球の鉄道

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歴01)DHRを取り囲む現在の状況
歴02)DHRの蒸気機関車について
歴03)英国植民時代のDHRの様子
歴04)インドとパキスタンの分離独立
歴05)アッサム鉄道結合計画I
歴06)犠牲になったキシャンガンジ支線
歴07)中華人民共和国の誕生と印パ戦争
歴08)中国人民解放軍のチベット侵略
歴09)インド・中国国境紛争
歴10)二本目の近郊連絡線、ティスタ川渓谷支線
歴11)カリンポンとティスタ渓谷支線
歴12)ティスタ川渓谷支線概要
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○ ダージリン・ヒマラヤン鉄道、歴史 
file: //Darjeeling Himarayan Railways' history/

DHR steam engine Type B in sunsset beam.


 ダージリン・ヒマラヤン鉄道は、19世紀に起業された会社組織『ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社』が運営する地方鉄道を前身としている。同地域で唯一の大量輸送手段であったため、貨物輸送や旅客輸送などのシェアのほぼすべてを手中に収めていた。

 なお、ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社も何の前触れもなく突然に現れたわけではない。19世紀に起業された『ダージリン馬車鉄道会社』を前身としているので、政府だけでなく地元でも認知度は低くなかった。

 ダージリンはインド帝国の主要産業の1つであった紅茶の産地であった。筆者は世界に流通する紅茶の4〜5割はダーリン茶であったと推測している。ともかく、世界市場を支えるに足りる量の紅茶の輸送を一手に引き受けていたため、ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社は潤沢な資金を運用可能な優良企業であったことは間違いない。それらを証明する資料は豊富に残されてる。

 記録をちょっと拾うだけで、独自規格のディーゼル機関車、ディーゼル特急列車、ガソリンカー、二期に及ぶガーラット形蒸気機関車に関する資料が出てくる。現在の状態から想像も出来ないほど資金力があったわけだ。ついでにパイオニア精神もだが。

 ▲ダージリンから眺めた聖山カンチェンジュンガ。手前はチベット系の寺院.

 ダージリンは地理的にチベットとインドの中継地点だった。過去形なのは中華人民共和国によるチベットの占領が継続中だからだ。インド・チベット国境が封鎖される前がシルクロードの支流として、ダージリン〜チベット間は商業キャラバンで賑わっていた。

 チベットが戦禍に包まれる遙か以前から、ダージリンにはチベット人が棲み着いていた。だから、チベット侵略戦争が始まると多くのチベット人がダージリンに難民として流れ込んできた。その結果、チベットのラサや亡命政府のダラムサラーよりも宗教的に貴重な宝物が、今でもダージリンに集まっている。

 残念なのはチベット商業ルートが壊滅してしまたため、ダージリン・ヒマラヤン鉄道はチベット方面の輸送業務の継続の意義を疑問視しはじめたことだ。ともかく、こんな辺境のオモチャの様な鉄道であっても歴史の波を被らずにはいられなかった。

 さて、続きは下記のコラムをどうぞ。

■世界最高品質と言われるダージリン・ティーについて
 ダージリンティーの中でも最良と呼ばれているものの多くは、ダージリンではなくカルシャンで産出されている。もちろん、カルシャンのダージリンの一部ではあるが、それはダージリン区の中の一つの地方でしかない。

 ダージリン区のダージリンは多くの観光客が滞在する標高2000mの避暑地だ。一方、ダージリン区のカルシャンは観光客が立ち寄ることもなく通過してしまう標高1300mのローカル用の市場街だ。

 実際、カルシャンの方が茶木の栽培に適しているので、ダージリンのティープランターとしては多少の不利がある。しかも、観光地に隣接していることから質を問わずに高値で買ってくれる観光客も多いので、品質向上に切実な努力をしていないという印象がある。ちょっと酷いな、とう言う所があるのだ。溜息。
 ▲お茶の花(チャイナ種)



 ▲蒸機が茶園を横切る
 もちろん、ダージリンでも観光客が絶対に訪れない標高1200m域のアーリア茶園などの本気度は疑う余地はないのだが。あくまで標高の高い所にある茶園、一般論として。

 個人的にはナムリンとかの方がコストパフォーマンスは優れているんじゃないかな、と思っている。カルシャのキャッスルトンの高級品はとても直で小売りして貰える感じではない。

 なお、ダージリンが世界最大の紅茶の産地となったのはアヘン戦争以降のこと(大英帝国がアホム支援でビルマと戦った時代の後のことだ。アホムからアッサムの主権を奪った頃は茶園栽培など念頭にもなかった)。清帝国が大量な需要を誇るお茶の市場への供給を絶ったことから、英国が自給体制を作ろうとしたことに起因する。この頃、アッサムなどのヒマラヤ山脈の麓で大量に自生する茶木群が発見される。これらは後に「アッサム」と名付けられる品種である。

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歴01)DHRを取り囲む現在の状況
インド洋を囲むタライ平原の端に位置する「シリグリー」とヒマラヤ山脈の尾根に広がるヒルステーション「ダージリン」を結ぶ山岳鉄道。


歴02)DHRの蒸気機関車について
DHR-B形蒸機は同鉄道史に登場する唯一成功した機関車とも言える。あまりに優秀だったために、実はDHR以外の鉄道組織でも数両を購入するに至っている。


歴03)英国植民時代のDHRの様子
DHRは数え切れないほど多くの機関車の運用に挑戦していた。蒸気機関車、ガーラット、ディーゼル機関車、ガソリンカーなどあらゆる可能性を試していた。それも潤沢な資金があればこその贅沢だった。


歴04)インドとパキスタンの分離独立
インド帝国は烈しい独立運動によって英国支配から抜け出した。しかし、その先にあったのは巨大国家の瓦解=分離独立だった。その結果、広大な連絡網を誇った巨大鉄路も分断されてしまった。


歴05)アッサム鉄道結合計画I
インドは東パキスタンの成立によって分断された鉄道網の再結合を通じて国家の再構成を決断した。しかし、その計画の骨子はDHRの路線を没収することで工期を短縮するという過激なものだった。


歴06)犠牲になったキシャンガンジ支線
インドは初期の指導者達の時代の読み間違いによって東西から敵性国家に包囲されるという危機に見舞われた。DHRは国家の存続を掛けて祖のみを犠牲にして貢献するという棘の道を選んだ。


歴07)中華人民共和国の誕生と印パ戦争
印パ戦争が勃発。西パキスタン方面では烈しい戦闘が繰り返された。一方、東パキスタン方面では不気味な緊張状態が続く。インドはその隙にアッサム鉄道結合計画を急いだ。


歴08)中国人民解放軍のチベット侵略
中華人民共和国はインドの隣国チベットの侵略を開始した。若いインドはチベットからの支援要請に戸惑い、決断を保留したまま無為な時間を過ごしてしまう。


歴09)インド・中国国境紛争
チベットの征服を完了した中国人民解放軍の次の攻撃目標はインドだった。中国と国境を接するインド北西部と北東部で戦闘が始まる。北東部戦線ではDHRの犠牲の上に成り立った新アッサム鉄道結合線による兵站作戦が実施された。


歴10)二本目の近郊連絡線、ティスタ川渓谷支線
ティスタ川渓谷支線は大チベット圏とインドを結ぶ商業路線となるべく誕生したが、時代の急激な変化は商人たちの夢の実現を許さなかった。


歴11)カリンポンとティスタ渓谷支線
インドとチベットの商人たちが出会う街カリンポン。何故、インドは鉄路による大量輸送を欲したのだろうか? その秘密はシルクロードにあった。


歴12)ティスタ川渓谷支線概要
謎の多いティスタ川渓谷支線の全貌に迫る。遺跡の発見が困難なため、資料を発掘しても証明が困難な研究者泣かせな廃線の調査報告。


 

 

 

 

 ▲平地の密林区間を走行するB形蒸機

 

 ▲最初期の終着駅となったカルシャン

 

 ▲スクールトレイン

 

 ▲初代ダージリン駅長の部屋(再現)

 

 ▲コールマンが石炭の形状を整える

 

 ▲水蒸気を避けて帰宅を急ぐ女生徒

 

 ▲現在のキシャンガンジ線

 

 ▲列車をチンダリア駅から見下ろす

 

 ▲闇の中を走行する蒸機牽引列車

   

   


 

 

 







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