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ギャラリー>カンボジア>バッタムバンの少女達

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▲バッタムバンの少女達、1998年12月撮影。

 

 懐かしいねえ。これは1998年、二回目のカンボジア訪問時に撮った写真。アランヤプラテートから入国してバッタムバンまでたどり着いた初日の夕方だったと思う。

 訪問目的はもちろんカンボジア鉄道の調査だ。考えてみれば・・・そう、それ以外の理由でカンボジア国境を跨いだことは一度もないことに今気づいた。

 そこはカンボジア鉄道の数少ない基幹駅であり、2つしかに中継駅の1つでるバッタムバン駅で記憶に残るカンボジアの少女達に出会った。いや、正直に告白すれば記憶の残ったのは少女1人だけ、だな。

 プノムペンから到着する筈の貨客混成列車を撮影しようと、時刻表の通りに参上していたのだが・・・案の定大幅に遅れていた。夕日に包まれてオレンジ一色にぬったくられた駅の構内でヒマを持て余していると・・・女の子の一団がプラスチック製のイスを右手に、大きなザルを頭の上に乗せてプラットホーム端に到着したのに気づいた。

「ねえ、何時頃にロット・プルーンは来るの?」と彼女たちに聞いてみた。私の奇妙なカンボジア語が大受けして、さっきまで多々緊張して構えていた表情が一瞬で崩れた。破顔一笑ってこんな感じかな。

 どうやら悪いタイ人が近づいてきたと、誤解を与えていたようで。その後いろいろ話して分かったんだけれど。その頃にはお話の言語は片言の英語を経由してタイ語に落ち着いていた。

 学校で英語は習っているみたいので使い多けれど、難しいって言ってた。そしてバッタムバンはタイ国境に近いことから、まだ何とかタイ語が通じる。

 ちょっとお話して見るととても可愛い。タイのバンコクで擦れた女の子を当たり前の様に受け入れるようになってしまうと、不意に心臓をわしづかみにされるほどに可愛い。そうやって絆されてカンボジアに棲み着く日本人も多いことだろう。なるほどね。

 この時の私の場合は、目を吊り上げた監視員が真横で動向を見守ってくれてたから奈落の底へ落ちる心配はなかったんだけれどね。もっとも、この監視員がいたから気を許してくれたんじゃないかな、とも思ったりするけれど。

 そこで当時の愛機、ミノルタα707SiとAF24-85mmF3.5-4.5で撮らせて貰った。フィルムはコダック・エリートISO100。この頃は金の周りが今ひとつでフィルム一枚でも必死で撮ったのを覚えている。本当はコダックE100が使いたかったんだけれど諸事情で見送ったのを覚えている。

 ミノルタα707Siは実は1998年6月に手元に届いたんだけれど、直後にアイスタートシステムなどの不調で日本のミノルタ新宿へ旅立ってしまった。おかげでメイン機材として使い始めたのは日本に一時帰国して回収した9月になってからである。このカメラは1999年5月にα-9を入手してからサブ機に回った。で、2003年に御世話になっていたHルタ師に献上されるまで頑張った。

 Hルタ師はソニー・スキーだったのである意味適材適所だった筈。当時、彼は奥さんにDLRの購入を禁止されながらも、タッキー☆命の奥様の判断でヲリンパスのμデジタルの購入は特赦されていた。既婚者は辛いですね。AF24-85mmF3.5-4.5、AF APO 100-300mmF4.5-5.6、トキナーの28-70mmF2.8、テレコンなどが一式引き渡された。Gレンズを入手した後だったので、第一線を退いた英雄達の第二の人生。

 当時は未だ外国人が珍しく、その他の二人は恥ずかしがっている。お話中はそうでもないのに、写真を撮るときは照れくさい様だ。

 ところで彼女たちは列車の乗客を狙って店を構えているわけでなない。実は暇に任せて駅周辺をウロウロしている地元民が主なお客さんなのだ。

 今はどうか知らない。しかし当時、カンボジアの国土は多大な暇人に覆い尽くされていた。とにかくすること=義務がなくて日がな一日ただ時過ぎるのを退屈しながら待っているのだ。

 だから、駅への鉄道列車の入線という大イベントを見逃す筈もなく、到着1時間以上前からご近所お誘いの上家族総出でお出迎えに来ていた。まあ、それをネタに集まって井戸端会議というのが目的だろう。

 人間が集まるということはそこで商売が成り立つ。そこで飴、ガム、お菓子などを売る少女達が集まって来ているというわけだ。

 彼女たちの話では毎夕、ここでお菓子を売るそうだ。当時のカンボジア鉄道では列車の到着は夕方〜深夜、列車の発車は早朝〜昼頃だった。彼女たちは発車時には来ないと言った。

 周辺はどんどん暗くなってくる。そこら辺に腰を下ろした人たちは世間話に熱中している。女の子達のところにたまにオッサンや子供がお買い物に来る。手元を眺めていると動く金額がリエルの小額紙幣だ。慎ましい商売だと関心しながらも、アランヤプラテートのタイ人を含む外人向けプライスの高さに苦笑する。

 監視員にガムを買って良いかと尋ねると許可が出た。一番右の黄緑色のシャツの女の子が恥ずかしそうに「10バーツか1000リエルです」と言うので10バーツ硬貨を渡してタイでも売っている黄緑色のガムを購入。国境を越えて運んできたと思えば素晴らしく妥当な価格だ。

 彼女たちと二時間くらい過ごした後に、二時間遅れでプノムペン発の貨客混成列車がバッタムバン駅に入線して来た。列車が停車すると彼女たちも店じまいだ。だいぶ暗くなってきていたので、帰宅は大丈夫かなあ・・・と少し心配になるけれど、危ないのはこっちも同じか。

 それじゃまたね、と手を振って別れたけれどその後に彼女と再会出来ていない。

 あれから10年以上も経っているのにそれでも良い経験だったなあ、と忘れることができない。

 私の一番のお気に入りはガムを買った一番右の黄緑色のシャツの女の子。クメールっぽくない、他の女子と比べるとやや小さな目スジなどのせいか、落ち着いた感じだった。

 他の二人はよくコロコロと笑っていたけれど、彼女だけは興味の対象として我々をまっすぐと眺めていた(滞在中唯一に他の外国人が皆無であった事情を考慮すると、我々を稀少動物の様に珍しく思われていたに違いない。当時は未だイエン・サリが絶好調でパイリン周辺も危なかったし)。

 でも、ごめんね。黄緑色のシャツの女の子、名前はもう覚えていなんだ。でもキミがバッタムバンにいたことは生涯忘れることはないと思うよ。

 きっと今頃・・・良いお母さんになっていることだろう。あれから14年くらい経っているんだから。もしかしたらキミの娘さんに出会えるかも知れないね。きっとソックリに決まっているから直ぐ分かるよ。


▲バッタムバン駅の朝、1998年12月撮影。

 

 そしたら・・・翌朝に撮影したポジの中から黄緑色のシャツの女の子を発見した。長い時を超えて再会できた感じがする。あの時、あの朝、来てたんだ。残念だったなあ。でも、なんだろう・・・写真に写っている姿は記憶にある彼女のイメージと少し違う、少し心細そうな表情がかいま見える。昨夕はあんなに生き生きとしていたのに、群衆に完全に飲み込まれている。

 重ねてごめんね、あの時に気づかなくて。気づいて上げられなくて。

 ところで、少女達の背後にある巨大なは鉄道車庫。昔は中に蒸機機関車131形106番が放置されていた。そして2002年に同じ番号の蒸機機関車がプノムペン駅で静態保存、展示されていた。あれは変だと思う。バッタムバンで目にした車両は各部がボロボロに錆びていた、とてもプノムペンまでの牽引に堪えられたとは思えない。

 番号だけパクって塗装したんじゃないかと思っている。 〜お終い。



 

 

 

 


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