このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

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ギャラリー>カンボジア>道端で出会った娘さん

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▲カンボジア風コンビニ店の売り子さん、1998年4月撮影。

 

 1998年3月、念願のタイ・カンボジアの陸路国境が外国人にも開放されるという大ニュースがバンコクに到達した。アランヤプラテート・ポイペットというタイ側がクロンルック・ポイントと呼ぶルートが何の前触れもなく突然に開いたのである。

 それまで両国は外国人にとって空路でしか結ばれていない近くて遠い国だった。しかし、これで気軽に往復できるようになるかも知れないと期待がふくらんだ(ビザ代1000バーツはそんなに気軽でないとすぐに思い知ったけれど)。

 そこで私と友人のモー大佐は、早々にカンボジア探検に出ることにした。行き先はプノムペンである。アンコールワットのような軟弱な観光地は我々の求めるものではなかった。よりハードな世界に挑戦したかったのだ(若さ故の勘違いがあった)。

 出発は4月となった。当時はまだ国境でビザは取れなかったのでバンコクのカンボジア大使館で事前に取得した。でも担当官と変な話になった。どうやら、クロンルック・ポイントはカンボジア外務省が正式に承認したものでなく、軍が小遣い風気で無理矢理開けてしまったもの・・・らしい。大丈夫かよ、をい?

 でまあ、私と友人のモー大佐は問題なくポイペットからシーソーポンまで進んだのだが問題はそこで起きた。何とプノムペン行きの乗り合いタクシーは早朝にしか出ていないという。仕方なくシーソーポンで行き先を突如、アンコールワットに変更することに! 翌朝にアンコールワットからプノムペンへ超高速特攻船で移動することにしたのだ。

 で、乗り合いタクシーの前方の車窓から何故か青空や地面が見える旅が始まった。だが、なかなか進まない。当時は公設、私設の検問所が多数あった。すべて通行車両からの金銭の巻き上げが目的である。それらに全部停車するので時間がかかる。

 とどめに、小川を渡る小さな橋の真ん中でエンコしているトラックに道を塞がれた。そこでぎゅーぎゅー詰めで弱った乗り合いタクシー乗客が全員降りて休憩となった。

 そんな時に出会ったがこの娘さんである。当時、完全に消費社会と切り離されていたシーソーポン〜アンコールワット間の村々では、ビニールのゴミ一つ落ちていない状態。さらにペンキもないので家々もけばけばしい文化色に染められていない。本当に人口的な色がない世界だった(次に行ったときはもう文明のゴミでまみれていたけれど)。

 ある意味、見ていて違和感=異次元に飛ばされた気分になっていた。そんな世界で唯一輝くものが・・・この娘さんである!

 彼女は売店の売り子さん。きっと日本の感覚ではコンビニの店員さん。煙草(ARA)、ウイスキーの便入りのガソリン、ベットボトル詰め替えの飲料水、パンなどを販売していた。

 ARAは・・・今はどうか知らないけれど、煙草の茎とかが沢山混じっていて点火しても気がつくと消えてるなんてこともあったなあ。酷いクオリティーだった。

 当時、超ド貧乏であった私は、愛機ニコンF50+AFニッコール35-80mF4.5-5.6という激安コンビで撮影させていただいた。思えば最初で最後のニコンだった。しかしも、ニコンF50Pではない。タイ仕様のパノラマモード無しモデルだった(ない方が良かったわけだが)。値段だけで選んだ。操作系は最悪、機能の出し惜しみは超一流だった。たいたい、秒1コマ連写すらさせてくれない潔さに脱帽。オートブラケットが欲しかったなんてとても言えない。リモート撮影はもう望むべくもなく! 取り柄は唯一・・・フルマニュアル露出で撮れたこと。思えばAFを使用することはほとんどなかった。

 その前に使っていたのが頂き物のキヤノンEOS750QDというフルオート機だったので、それを一式下取りにして・・・(今考えればそれが最初のキヤノンSLRだった)。それでもニコンF50は1998年を丸ごと=初期のタイ国鉄友の会を支えててくれた立役者だったことに間違いない。その後、このカメラはペンタックスの相棒の不調に悩んだケール師がお引き取り人られた。

 EOS750QDの特徴、プリワインド方式って知ってる? フィルムを一度巻き上げて撮影した分からパトローネの中にしまっていく方式。フィルムカバーが開いてしまってもパトローネに収まった分だけは感光しないと言うシステム。マジで使ってたんだよ。

 フィルムはコダック・エリートISO100である。そうそう、この時はカメラ内にコダック・エリートISO100、予備に富士プロビアISO100と富士ベルビアISO50をそれぞれ1本しか持っていなかった。ね、貧乏でしょ!




▲迫撃砲弾と突撃銃、1998年4月撮影。

 

 彼女を撮影した後で振り返ると・・・なんか凄い武器だ何気なくぶら下がってるじゃん! 前年にフンシンペック党とカンボジア人民党の軍隊が衝突・・・じゃないね。第一首相であったラナリットを追い出すフンシンペック党のクーデターが起こったばかりだったを思い出す。当時の在カンボジア日本大使館が在住日本人に伝説のFAXを送り付けたあの事件である(知る人ぞ知るFAXの内容は秘密)。

 写真を撮り終わるとやっとエンコしていたトラックが橋の上から退いてくれた。売り子さんの背後の木製の橋が通行止めになっていた。トラックの往来妨害は迷惑だったけれど、おかげでこの少女と出会えた。怪我の功名。

 その後、私と友人のモー大佐は軟弱なアンコールワット見学を楽しみ、翌日正午にヤマハ製船外機3連装備の魚雷艇でプノムペンに到達した。帰りは乗り合いタクシー早朝便で無情報地帯だったプノムペン〜バッタムバン〜アランヤプラテートのルートで直帰した。日没前には国境を越えてタイ領内に入れた。当然、バンコクにその日の夜に到達。若かったなあ、とマジで思う。無限の体力<笑

 今思えばカンボジア映画『UN SOIR APRES LA GUERRE』そのままの風景がまだ残されていた。今はもうない。あれは切ない映画だったなあ。



 

 

 

 


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