このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
* I am afraid I might handle all Railways on our planet! |
Returned! with 地球の鉄道 |
タイ国鉄の蒸気機関車 | file: //Thai Railways' steam engines/ |
Japanese steam engines SRT953 & 824 run ahead for Krungthep Sta. |
タイでの鉄道組織は初期の段階で技術・運用面でドイツより大きな影響を受けた。設計思想がトンガリ過ぎててかっこいいイメージだよね。中2病全開っぽいデザインとかスペックとかは文明開化したばかりの人々にはキラキラしすぎていてまぶしかった! 英国製とかフランス製より琴線に触れる魅力に溢れていたんだろうことは何となく解る。 そのせいか第二次世界大戦直前までのタイのレールの上では、ドイツ製のイカしてイカれた蒸気機関車が幅を利かせていた。 微笑ましいね。 でも我らが祖先だって同じだった。反対勢力を押し切った中2病罹患者の横車で・・・最後はドイツと同盟→アクシスな一蓮托生までしちゃったんだから。 日本の旧陸軍がドイツ陸軍をモデルにして誕生した弊害とも言えます。ドイツの切れ具合って良くも悪くも意識が高い系の人をしびれさせてしまうヤバサがあるんでしょう。 まあ、仕方ない。遅れてデビューした日本から見ればドイツはあらゆる技術が先行されていたわけだから、あのセンパイの切れ具合すげーカッコイイ!ってなっちゃうんだよね。でも、黄禍=Yellow Perilとか一番騒いでたのもドイツなんだから一方的な片思いだったと思うよ。 しかし、その内に技術先進国の謳い文句がハッタリまみれだったり、とても限定された環境の中でしか実現できていないことが判明してくるものだ。 タイにとってそれはドイツ製のガーラットの採用で思い知らされた様だ。 今でこそ植民地主義の汚さの象徴みたいに言われるガーラットだが技術的にはすごかった。いろいろ進歩的な知識人とやらに嫌われているのは植民地ばかりでガーラットが活躍したからだ。 脱線した。ともかくガーラットの出力は素敵だ。いろんな問題をどうでもよいことにしてしまえそうなくらいにパワーがある。タイはドイツから虎の子としてガーラットを仕入れて、最大の難所であるクンターン峠へと投入することにした。 ガーラットは高い買い物だったのだから、払った金額に見合うだけの効果を見込んでいたはずだ。ゆくゆくは平均運行速度も上げて、列車の到着時間も繰り上げられるかも! という淡い期待もあったかも知れない。しかし、その甘い見込みは無惨に砕かれた。 最初の関門はガーラットの設計上のミスだった。それがきちんと解決できかったのだ。アフターサービスとかまあ、うまくいかなかった。製品の完成度を煮詰めていくには、受取手にもそれなり能力が要求されるのは仕方ない。 さらにドイツ規格で作られたガチガチの設計のため、ドイツと比べて技術の低い国=世界のほとんどの現場でも完璧な整備は困難だった。日常的に交換する補修部品とか自分で作ろうにもドイツ相応の技術水準が要求される・・・そう考えると大変だ。基礎的な工業力というものを持ち合わせていなかったタイには無茶な挑戦になってしまった。 つまりタイ相応の実力では過分→出力や耐久性が確保できなかった。 ドイツも人が悪いというか、消費者への配慮が無さ過ぎる。タイが取り扱えるレベルの製品を選んだり調整して輸出してあげればよかったのに。いや、それだとスペック大好きなタイ人が憤慨するかな? でも結果、ドイツが作ってタイが受け取ったガーラットは、残念なことに鉄道運用の現場では手に負えない代物となった。 そういう意味でドイツ製機械は繊細。ちょっと出力を落とせば取り扱いがもう少し楽になるのだろうけれど、それではドイツ製ガーラットを買った意味がなくなってしまう。 あーもう背伸びしすぎた! 自分たちの整備能力の限界を思い知らされて、列強先進国の第一線への到達へは道半ば自覚させられてしまった。そういう高級品を取り扱うには未熟過ぎたのだ。 タイは一応独立国として、独自に各国から新技術の機関車を輸入していた。植民地政府と違って本国からの支援とか指導はなかった。だから、隣国のマレーシアとかビルマと違って早い段階で多くの失敗を経験する機会に恵まれた(だからと言ってそれを活かす指導者に恵まれたとは言ってない)。同じ様な経緯であきらめた機関はガーラットだけではなかった。ここでガーラットを取り上げたのは設計ミスという信頼性の高い資料が残されているから。象徴として書いただけで他国の機関車がドイツと違って親切設計と親切指導してくれたかといと、断じてそんなことはなかった。 しょーがない。みんな商売で、すぐに売った機械をつぶしてくれればまた新しいの買って貰えるという下心があるわけだし。発展途上国へ売られた精密機械が寿命短いのは、保守点検が不得手で消耗が激しくてどんどん潰れていくからなんだ。クラッシャブルゾーンの消耗材を交換しきれないからすぐにフレームなどのコアを歪めたりヒビを入れたり・・・良く分からないまま規格限界を越えた圧力かけちゃったり、熱くしちゃったり、それらが致命傷に。 まあ、気にすんな。青春に到達する前の少年期にも挫折は付きものさ。夢の挫折や価値観などの哲学的な思想の産みの苦しみを経験することなく、先駆者の配慮だけに頼って大人になってしまうと・・・永遠に配慮を恐喝し続けるどこかの情けない国みたいになってしまうから。タイはまあ、そういう見苦しい国へはならずに済むに足りる経験を積めたんだ。 |
▲チュラロンコーン大王生誕記念列車がクルンテープ駅を出発する. 独自路線で頑張る独立国家タイは困った。幹線の顔となるべき標準蒸気機関車を確立できない。どいつもこいつもタスキに長し帯に短し! 南北(上下)を英国に挟まれてプレッシャーがすごい。東からはフランスがガツガツと迫ってくる。だからドイツを選んだのにうまくいかない。そうだ、スイスにお願いしよう! ドイツ語が使える国だし。と未来技術ぽかったディーゼル機関車とかも試すけれどうまくいかない。 そんな所に割れ鍋に綴じ蓋的な話の分かるヤツラがやってきた。その頃、アジアで独自の蒸気機関車製造能力を保有する日本が営業を掛けたのだ。 勢力圏を絶賛拡大中の日本はタイへの蒸気機関車の輸出にも前向きで、設計チームがタイまで出向いて使用環境の調査まで行った。後の新幹線の生みの親もタイを訪れたという話し。 「そんじゃあ、日本式の蒸気機関車をタイの1000mmゲージに合わせてスケールダウンしてみましょう」という結論になった。そうやって生み出された蒸機が、21世紀まで動態保存が続けられている日本製のパシフィックとミカドの原型(=前期形)である。 結果は大当たり。タイにおける事実上の標準機関車にまで上り詰める。 この2種の蒸気機関車の成功の要因は無理のない設計。さらにおおらかな精度で工作されていたために、生産国とは異なる(=比較的困難の伴う)環境でも運用の維持が可能であったことが幸いした。 その結果、時代背景という追い風もあって追加発注を出してしまったと伝えられている(毎度おおきに)。 |
2010年現在、タイ国鉄の保有する稼働可能、またはそれに準ずる状態の蒸気機関車は6両を数える。その中の5両は日本製で、内3両は太平洋戦争直後にタイへ輸出された車両の生き残りである。残りの2両は太平洋戦争中に旧日本陸軍が内地からタイへと持ち込んだ車両、旧国鉄C56形蒸気機関車の生き残りである。 太平洋戦争直後にタイやってきたグループが担当する最大の仕事は、タイ国鉄が企画する各種記念列車を牽引すること。かつてはカンチャナブリーやナコン・ラーッチャシーマー方面へ出かけることもあった。しかし、最近ではバンコク〜アユッタヤー間のみと運用区間がかなり限定的となっている。 | ▲蒸機機関車の運転台 ▲蒸機機関車の運転士達 |
第二次世界大戦後、連合国(この場合英国)は日本から接収したC56形蒸機などをタイに買い取らせ、また連合国(この場合米国)は自国製造の中古蒸気機関車をタイに輸出した(余剰車両の販売ビジネスです)。 英国のそれはタイにかせたペナルティー、事実上の戦時賠償と考えて良いと思う。戦時国債とかいろいろ干上がってただけに英国、やることがすげえ。泰緬鉄道買い取らせたのもその流れ。 そんな事情で、その時代のタイ国鉄の蒸気機関車の種類は百花涼蘭であった。しかし部品供給の困難もさることながら、整備にそれぞれ特有の技術が要求されるため保守部門が悲鳴を上げた。やがてディーゼル機関車の運用に見込みが付くと、めんどくさい欧米製の蒸気機関車は優先的に廃車されたり、クメール共和国(カンボジア)への援助物資として放出されてしまった(日本製は一両も放出されなかった)。 米国に頼まれた援助だけど、タイはカンボジアをバカにしてたからゴミ機関車しか送らなかったと個人的に推測してる。だって英国NBL製の機関車が中心だったから。 ありがたいことにタイ国鉄がその後もきちんと使い続けてくれたのは、戦前に買ってくれたパシフィックとミカドの新型(=後期形)だった。おかげで今でも牽引能力があるレベルで動態保存されている機種はすべて日本製のパシフィックとミカドなんだ。それでもディーゼル機関車が幅をきかせ始めると、それらの蒸気機関車もウッタディット機関区とかの敷地の端っこでじょじょに眠りにつき始めていた。彼らもさすがに命運は尽きたと思っていたことだろう。 でもさ、歴史の皮肉と幸運はまた繰り返すことになるんだ。 第四次中東戦争が始まった。世界的なパニックを引き起こした石油ショックの到来である。ディーゼル燃料が高いよ。貯蔵なんて無いよ。ディーゼル機関車をろくに動かせないよ。 これによってウッドバーニング化も可能な蒸気機関車が再び脚光を浴びる異なった。 オイルバーニングの蒸気機関車をウッドバーニングへ改装するなどの大きな仕様変更して、タイは戦果に荒れるインドシナ半島を横目で見ながら輸送力の維持に努めた。共産勢力にタイする絶対防衛戦となるウボン・ラチャターニーの基地への物資の輸送だって穴を開ける訳にいかない。優先度の低いスジに薪を燃やして走る蒸気機関車を回して、そうでない方に温存したディーゼル燃料を融通して国防に努めていた。 1979年のイラン革命が次の石油ショックを引き起こしもした。二回の石油ショックが蒸気機関車の命運にささやかな影響を与えて今に至る。 紆余曲折を得たが、それでもタイは意外と早い時期に完全な無煙化を実現することとなる。1980年代にはすでにディーゼル全盛期が到来した。寂しいことに。 |
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