このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

破  思い出

 

 

■昭和40年代半ばまで

 昭和40年代半ばまでの7300・7800系は、主に急行運用に就いていた。旧型車が急行、という点を幼い私は訝しく思ったものだ。今から考えると、加減速性能の関係で、各停運用には新型の8000系を充てないとダイヤを構成できなかったのであろう。川越−志木間を、鈍重な釣掛モーターの音を響かせながらすっ飛ばしていく様子は、幼な心に面白かった。当時は駅数が少なく(朝霞台・柳瀬川・みずほ台・ふじみ野・若葉・北坂戸などが未開業)、宅地開発も駅周辺に限られていた。駅間には田畑や雑木林が広がっていた。まだのどかな時代ではあった。

 なお、私は東上線沿線の生まれのため、伊勢崎線での事情には詳しくない。伊勢崎線ではどうだったか、興味のあるところだ。

 祖父母宅に行く際には、越生線を利用した。乗る電車といえば、たいてい7300・7800系であった。8000系も走っていたが、当たることは滅多になかった。夏の暑い日に乗ると、扇風機の風だけでは物足りず、窓を全開にして風を受けたものである。停車中には抵抗器から凄まじい熱を発し、陽炎が立っていた。風景が揺れているのが面白く、暑さを忘れて見入っていた。

 私は、7300・7800系が好きであった。それと比べ、8000系の「のっぺらぼー」な外観はあまり好きではなかった。サービス水準の差は、まったく気にならなかった。冷房はないのがまだ当たり前だったし、木の床だって雨の日に滑らなくていいと思っていた。

 当時のわが家には、エアコンもなく、マイカーもなかった。そして、それは決して例外とはいえない状況だった。電車に乗れば窓を開けるというのが常識だった。8000系でさえ、冷房がない車両はあった。こどもとしては、だから、好き嫌いだけで車両を判断できた。

写真−1 7300系もしくは7800系(池袋−−昭和53(1978)年頃)

 筆者の手許に唯一現存する7300系もしくは7800系の写真。手前に写っているのは中学校までの同級生K君だが、現在は疎遠であるので顔をマスクした。アイボリーホワイト一色塗装、ブタ鼻2灯のライト、Hゴム支持の前面窓等々、原型はかなり損なわれているが、それでも野武士然とした風貌は失われていない。こども心に「格好いい!」と思える車両ではあった。なお、行先表示が板をめくる方式であること、しかも行先が寄居である点にも注目したい。

 

■昭和50年代後半

 時代は下がって昭和50年代後半、私は高校生になっていた。この頃には、7300・7800系の勢力範囲は大幅に縮小されていた。自分自身が利用していなかったので聞いた話になるが、どうやらラッシュ時対応の運用に充てられていた様子である。東上線で通う同級生は、「今日は『カステラ』に当たっちまった」とぼやくことがあった。エアコンは必須の設備という時代になりつつあったから、彼のぼやきは至極もっともではあった。しかし、私はその変化をまだ理解できなかった。

 なお「カステラ」とは、私の周囲での7300・7800系の愛称(あるいは蔑称か)である。屋根が茶色、胴回りがクリーム色、床には油がひいてある、との由来があり、言い得て妙ではあった。

 当時のエポックは、9000系の登場であった。営団有楽町線との相互直通を前に、9000系が投入された時には、驚きが伴った。ステンレス車体・1段下降窓・折妻非対称貫通前面は、それまでの東武電車の印象を根底から覆した。東武にもこんな電車が走るのかと思うと、妙にうれしくなったものだ。

 ただし、現段階では私の9000系に対する評価は低い。特に初期車においては、スポット溶接の技術が成熟しておらず、車体鋼板の歪みが目立つ。細工が上手な車両とは、とてもいえない。もっともこれは、鉄道の事情に通じるようになった今だからこそいえることであって、当時の9000系が輝かしく見えたことは確かである。

 もう一つのエポックは、8000系が3桁番台に突入したことである。8000系の車号表記は、例えば8123の場合、 8が系列名、 1が形式名、23が車号を表す。当然のことながら、この車号は2桁にしか対応しない。1形式で 100両を超えてしまうと、表記しきれなくなる。そこで東武は、 81103といったように、車号を3桁に改めた。古の9600・8620のように、 18103となるよう秘かに期待していたが、常識的な線で落ち着いた。

   

写真−2 8000系原型車(大師前)  写真−3 8000系3桁番台車(塚田)

 東武鉄道8000系は、私鉄車両のなかで最大多数を誇る形式である。「私鉄の 103系」と揶揄されることもあるが、空気バネを装備したミンデン型台車の乗り心地は素晴らしく、本家の 103系とはまったく比較にならない水準にある。 2〜10両編成の組成が可能という、際立った柔軟性をも有する。写真−1は大師線で運行されているもので、これは2両編成である。写真−2は野田線の3桁番台車で、行先表字幕がLEDに置換されている。自然発生的に車号表記が5桁になったのは、この形式が初めてである。

 

 ともあれ、8000系の増備が続き、さらに9000系が登場するという状況において、7300・7800系は逼塞するようになった。日中の東上線では、その姿が見られなくなった。

 部活動で長瀞まで合宿に行った際の話である。乗り継ぎは、下記のとおりであった。

   川越市→森林公園   9000系(ステンレス車)
   森林公園→小川町   8000系(全鋼製車)
   小川町→寄居  7300・7800系(半鋼製/床のみ木張り)
   寄居→上長瀞      100系(半鋼製/内装全て木張り)

 この時は、タイム・スリップを経験したような心地がした。そして、内装のあまりの格差に失望を感じもした。同じ日に乗り比べれば、さすがに違いを認識せざるをえなかった。いうまでもなく、最も旧いのは秩父鉄道 100系であるが、7300・7800系も充分に時代遅れの車両と化していた。

 7300・7800系は、ようやく過去の存在になりつつあった。ラッシュ時の出番も、徐々に減っていった。活動範囲は小川町−寄居間と越生線に限られるようになり、これらとても将来は見えはじめていた。

 

■5000系への改造

 陳腐化が目立つ7300・7800系であったが、それよりもさらに旧い車両群が東武鉄道には存在していた。野田線などで働いていた更新車(3000系)がそれである。雑多な超旧型車の車体のみを更新した系列で、なかには4両編成全ての車両の台車が別形式という、極端なものさえあった。外観こそ8000系に似ていたが、車体長は18mと短く、しかも3扉で、その点でも異端だった。

 これを置換するにしても、7300・7800系をそのまま使うわけにはいかない。他の路線でも運行することを考えれば、せめて内装を近代化する必要があった。そこで行われたのが、車体更新である。7800系の台車や電装を流用し、8000系の車体を載せ、近代化を図った。この更新車は5000系と名づけられ、支線区に投入された。冷房を搭載した5050系、さらに6両固定編成にマイナーチェンジした5070系とバリエーションは増えたが、基本線は同じである。5000系は後に冷房改造を受けたから、本質的な差はほとんどない。

 なお、7300系は更新改造の種車とはならなかった。台車の経年劣化か、あるいは性能の不足か、詳しく承知していないが、ともあれ東武オリジナルの7800系しか生き残ることができなかった。

写真−4 5070系(馬込沢)

 5000系一統のうち、野田線には6両固定編成で冷房付の5070系が充てられている。さらに世代の旧い3000系を一掃するという功績はあったが、現状では東武鉄道で最旧型車両となってしまった。冷房を搭載しているため、サービス水準は表面上平均的なものといえるが、乗り心地の悪さや車内騒音は、利用者にどのように受け止められているだろうか。

 

 とはいえ、東武鉄道における車両の近代化はごく急速に進んだ。 10000系以降の新系列車が大量投入されるに及び、8000系でさえ旧式化しつつあった。5000系一統の居場所は、次第に狭まってきた。

 野田線は5070系の牙城であった。6両固定編成とは、野田線のために設けられた形式といえる。この路線は、路線そのものは長いものの、実質的には支線であり、平均乗車距離が短い。そのため、本線ほどの車両性能を要求されないという特色がある。5000系が生き残れる余地はこの点につきた。ちょっと加速してすぐノッチオフ、というダイヤのおかげで、5070系はしぶとく長らえた。

 5000・5050系は、2・4両編成が基本である。そのため、関東北部の支線に今なお残存している。前時代の車両3000系を駆逐するまでにかなりの時を要した、という事情もあるのだろう。小回りのきく編成ではあるが、8000系とて同様の編成は組める。車両としての優位性があるわけではない。

 今年度(平成12(2000)年度)初頭まで、5000系の一統は全車が残存していた。5000系が12両、5050系が72両、5070系が78両、なんとも奇跡的なしぶとさである。しかし、これから先となると厳しい。実際のところ、最近の野田線では本線系統から転属してきた8000系が勢力を増し、5070系はすっかり影が薄くなった。今後は、関東北部の支線でも同様の現象が起こるだろう。

写真−5 5070系の台車(元7800系のウイングバネ台車)

 

 

先に進む

元に戻る

 

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください