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転落





 輝きがあふれ出さんばかりの姫の成長ぶりに、父は目を細めていた。姫は既に童形から卒し、おとなとしての名を得ていた。しかしながら、その名で呼ばれた時はあまりにも短く、また多くの歴史書に刻まれ、民間にも広く伝承され親しまれた通り名の方が、この姫を尊称するにはよりふさわしいであろう。姫は、のちに灰神楽という名で知られることになる。

 灰神楽は、幼時より舞いに通じることが深かった。その舞いには高貴な趣があり、奥深い精神が感じられ、幼女であるはずの灰神楽が大きく見えるほどだった、といわれている。それゆえに灰神楽は舞神女とも呼ばれ、幼い頃から既に国中の高名を博していた。

 まだ齢十六、若いというよりむしろまだ幼さの残る灰神楽は、舞いにおいてもはや師範であり、多くの弟子を育てるようになっていた。今日もまた、庭にしつらえた舞殿にて、五名ほどの弟子に稽古をつけている最中である。灰神楽は控えめでおとなしく優しい気質で、誰からも好かれるような姫であるが、こと舞いに関しては妥協がなく、厳しい稽古をつけることでも知られていた。

 勿論、たかが十六の小娘が居丈高に振る舞うだけであれば、弟子は離反していったのであろう。そうではなく、全ての弟子がその厳しさに服したと伝えられているから、灰神楽の人格にはどこか神韻を帯びたものが秘められていたのかもしれない。

 稽古が終わり、弟子が三々五々引き上げていくのを見届けて、父は灰神楽に声をかけた。

「今日も素晴らしい舞いであったな」

「父上にお褒め頂くと嬉しうございます」

 灰神楽の笑顔はまこと嬉しそうで、父ならずとも強く魅かれるだけのものがあった。才能にも恵まれているから、世に出れば一廉以上の人物になることは間違いなかったろう。とはいえ、父にとって子はこの灰神楽ただ一人。このままでは家が断絶してしまう。世に出すよりもまず先に、なんとしても婿を迎えて家名をつながなくてはならない。幸いにも、灰神楽は舞神女として城中の覚えもめでたい。父と同格の奉行家からはもとよりのこと、格上の大臣家を継げない次男以下からの申し出さえ期待できそうなのだ。そうなれば、家格がより上がっていくこともありえると、期待は膨らむばかりである。

 ただし、婿を迎えるためには灰神楽の同意を得なければならない。灰神楽は、たとえ父の言うことでも、妥協せず自分の信念を貫き通す強さを持っていた。父はそれをよく熟知していたので、まずは問いかけてみることにする。

「おまえは十六になり、もう成名を名乗っている。どうだ、少々早いが、婿を取る気はないか。おまえほどの器量よしであれば、引く手あまたの申し出があろう。その中には必ずや良縁もあると思うが」

「父上の御苦衷はお察し申し上げますが……」

 灰神楽の表情は、ひどく暗い影を帯びてしまった。

「わたしは舞い一筋に生きてきたところであり、これからも生涯をかけ舞いを極めようと思っている女です。そのような女を、世の殿方は良縁の相手として選ぶものでしょうか」

 婉曲ながら明確な拒絶の意志表示であった。このような言い方をする時、灰神楽は決して退かないことを、父は痛いほどよく知っていた。

「わかった。おまえがそう言うならば、無理強いはすまい。家名を残すには、別の道を探ることにしよう」

 父は灰神楽の返答に失望したものの、決して落胆はしなかった。なぜならば、既に“別の道”の目算が立っていたからである。

 実はこの時、灰神楽は父の内心をうっすらと感じとっていた。自分の結婚と“別の道”を天秤にかけるとはなんたること、という怒りの感情を覚えたほどであった。ところが、灰神楽の少女らしい羞恥が、それをはっきりと口に出すことを押しとどめてしまった。父に逆らいたくないという思いも邪魔をした。

 思うことを言わずにおいたのは、灰神楽の不幸といえるのか、どうか。これがきっかけとなり、灰神楽は荊棘の道を歩むことになるのだが、舞神女と呼ばれているとはいえ神ならぬ身の灰神楽は、まだ気づいてもいなかった。



 およそ一年後、灰神楽に年離れた弟が生まれた。灰神楽が襁褓に包まれていた頃、疫痢で妻を失って以来潔癖を守り続けてきた父が、目端の利く下女に手をつけた結果である。“別の道”とは、要するにそういうことであった。

 男子を生んだ下女は、即日正妻に挙げられている。亡き母を思慕し続ける灰神楽は猛反対したものの、父は断固として聞き届けようとしなかった。灰神楽が婿取りを拒んだ以上は当然の結果だと、強い決意をにじませ、敢えて断行したのである。家名が存続する喜びを、過剰に表現したともいえよう。

 ところがその後、すぐ不幸に見舞われたのは、運命のいたずらと呼ぶには過酷すぎるであろうか。もっとも、それは必ずしも運命ではなかったのだが。

 異母弟が立ち歩きを始めた時、父は急逝してしまった。享年四十二。まだまだ将来ある若さだというのに、父はあっけなく死を迎えたのである。

 灰神楽は、ただただ号泣するのみであった。近頃含むところができたとはいえ、長年の恩愛を享けた思い出は決して色褪せてはいないのだ。父を突然失った悲しみは、灰神楽の心をふかぶかと切り裂いた。

 ところが、灰神楽は父の喪に服すことさえ許されなかったのである。こともあろうか、まるで異なる人生に放りこまれることになる。

 父の葬儀が終わった翌日、灰神楽は拉致されて、郊外の茅屋に監禁された。悲嘆に暮れていたところに、身の危険を感じ、灰神楽は不安におそれおののくしかなかった。深更になって、茅屋に意外な人物が現れた。それは父の後妻、灰神楽にとっての継母であった。灰神楽の心の中に、父の死の真因が浮かび上がった。父は病死したのではなく、継母に殺されたに違いない。

「おまえは私らにとっては邪魔者、本来はさっさと殺して始末をつけなければならないところだが、それでは面白くないゆえ、もっと苦しい目に遭わせてつかわす。おまえは死ぬまで苦しさにとらわれ、悩み、恥じながら、悶え続けるがよい」

 なんという非道であろうか。継母は酷薄な笑みを浮かべると、灰神楽の顔に毒液を浴びせたのであった。灰神楽の顔は、じゅうじゅうと厭な音をたてて焼け爛れていく。舞神女とうたわれた美貌が、雪のように白い肌が、見る見るうちに醜く変化していく。灰神楽は絹を裂くような悲鳴を絞り出しながら、のたうち回り苦しんだ。なんたる残酷。なんたる無惨。人が人にする仕打ちとは思えぬ、悪魔のような行いであった。

 茅屋には、継母が呼んだ人買いが待っていた。

「この女を、二度と都に出てこられないような山奥に売り飛ばしておくれ」

「承りました」

 人買いといえども仁義や慈悲はあり、継母の仕打ちに強い憤りを覚えたものだが、既に巨額の礼金を受け取っていては逆らうこともできず、淡々と応じるしかなかった。

 山奥へと運ばれていく道中で、苦しさに喘ぎながらも、灰神楽は固く決心していた。

「父上、この恨みは必ず雪ぎ、父上の仇はきっと討ちますぞ」



 遠い遠いまた遠い道のりを経て灰神楽が着いたのは、深山にある木樵の飯場であった。灰神楽を受け取った木樵の頭たる熊吉は、おおいに驚いた。飯場を手伝う女を所望したことは確かだが、まさかこれほどまでの醜女とは。焼け爛れた灰神楽の顔には、目を背けたくなるほどの凄絶さがあった。熊吉はしかたなく、灰神楽に多福女面をかぶせることにした。そうでもしないと正視に耐えられなかったからである。

「おまえ、名はなんという」

 熊吉の問いかけに、灰神楽は思慮深く応えた。

「灰神楽と申します」

 継母に毒液をかけられ、美貌を失った身を恥じつつも、舞いへの愛着を示す名を掲げたことは、灰神楽の強い意気ごみのあらわれといえた。事実、灰神楽は、まさしく灰神楽が舞うが如き活躍を始めるのである。





次章に続く

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