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不正の尾
金を横領する手口は、突き詰めれば二つしかなかった。支出をより多く見せるか、収入をより少なく見せるか。周囲の目を欺くために、複雑な操作を加えることはあっても、基本はこの二つしかありえないのであった。
不正が露顕するのは裏帳面をつけているからだ、と飛猿は見ていた。ばかばかしい、わざわざ証拠をつくっておいて、自ら墓穴を掘っていれば世話がない。過去に不正を働いてきた者たちが、最後には必ず動かぬ証拠を押さえられてきた失敗を、飛猿は侮蔑しきっていた。
飛猿は、人間離れした記憶力の持ち主だった。裏帳面をつける必要など、飛猿にはなかった。どこでどのような操作をしたか、過去の全てをいちいち覚えているため、表の帳面だけで辻褄を合わせられたのであった。
虹金の敵は手強かった。不正の確たる証拠を押さえようにも、証拠などなかったのだから。
鉱山に冬がきた。雪がちらちら降り、山なみはうっすら白銀に包まれた。
灰神楽は鍋組小頭の一人として、野菜果物の類を扱う商人、喜八と取り引きしていた。この冬は全般に不作で、あらゆるものの値が上がっていた。だからといって買うものを渋ると、鉱山で働く者たちの健康を損ねるおそれがあった。まず良いものを買いつけ、粘り強く値引き交渉するのが、灰神楽のやり方だった。
「参った参った、灰神楽さんにはかなわないよ」
とうとう喜八は音を上げた。
「そうかしら、良い商いだと思うけど」
しれっとして灰神楽は切り返した。
「こんな取引を続けていたら、俺っちの手許にゃ薄皮しか残りませんって。たまには饅頭の餡こも食わせてくださいってなもんだ」
苦笑いを浮かべつつ、喜八は灰神楽には負けてもいいと思っていた。商人である以上、利益を上げることが生業なのだが、灰神楽との取引はいつも後味がよく、損さえ出なければ充分という気にさせられるのであった。
取引がまとまった値段を書きつけ、灰神楽は喜八に手渡した。
「では、いつものとおり、商方でお金を受け取ってください」
その値段を帳面に書きとめながら、喜八はつぶやいた。
「この鉱山は、どうしてこんなしち面倒くさいやり方をするんですかね。現金で決済するなら、普通はその場で支払いますよ。わざわざ商方に行くなんて、よほど大きな商いか、つけのまとめ払いってのが、よそさんのやり方ですがね」
喜八の帳面は、剽げた口ぶりとは裏腹に、細かい字で丁寧に書かれていた。灰神楽は興味津々、中身にじっくり目を通したくなってきた。今では帳面つけは商方にまかせきりだが、奥山の飯場で帳面つけをやってきた経験は、灰神楽のなかではまだ新しかった。
「喜八さん、もし良ければ、あなたの帳面を見せてくれないかしら。わたし、見様見真似で帳面つけしていたものだから、ほかの人のやり方を学びたいのです」
「ああ、かまいやせんよ」
灰神楽の勉強熱心を、喜八は好ましく思っていた。喜八の帳面を、灰神楽はわくわくしながら読み進めた。良い勉強になった。文字が小さいのは一枚に書きこめる量を増やすため、字が綺麗なのは後から読みやすくするため。随所にさまざまな工夫が凝らされていた。
ところが、帳面をめくるにつれて、灰神楽に悪寒が湧いてきた。おかしい、どこかおかしい。この奇妙な感触はなんだろう。
「ああーっ」
思わず叫び声をあげていた。悪寒の正体がはっきりわかってしまった。喜八の帳面に記された今年前半の商いの合計金額は、商方から回ってくる総括帳面とまるで合わないではないか。
「どうかしやしたかい」
訝しむ喜八に、灰神楽は猛然と食いついた。
「喜八さん、この帳面のこの部分、わたしに頂けないかしら。写しを今つくって渡すから」
多福女面が般若面に見えた。灰神楽の気迫に喜八は負けた。帳面の原本を渡すという、決してやらぬはずのことに、簡単に応じてしまっていた。
灰神楽は何名もの商人から帳面原本を集めた。その理由を説明しなかったため、応じない商人も多かったが、鉱山商方のやり方に胡散臭さを覚えていた商人たちは、敏感に事情を察し、快く灰神楽に協力した。
もはや疑う余地はなかった。商方では不正が行われていた。台所方に回ってくる総括帳面には個別の取引が記されていないため、半期毎の合計を比べるしかなかったが、商人たちに支払った金額は二割から六割も高く記されていた。
おかしなことは山ほどあった。喜八の言う“しち面倒くさいやり方”をするのは、不正の露顕を防ぐ目隠しに違いなかった。商方ではおそらく全員が心を合わせ、帳面を偽装し、資金を横領していると考えなければならなかった。
商人たちの帳面原本と鉱山の総括帳面を並べ、比較対照表をつくると、持ち重りがするほどの分量になった。不正の存在を示す証拠はあまた出揃った。あとはどう告発するかだった。灰神楽は、小頭にすぎない自分の軽格が恨めしかった。虹金に訴え出るのが最善だとわかりきっていても、それは許されていなかったのだ。
正面から進めなければ、抜け道を探すしかなかった。しかし、信頼を置ける者がいなかった。相手が巨額の資金を横領しているからには、虹金の側近にも買収の手が伸びていると考えるべきであった。誰に相談することも危険な賭けに思われてならなかった。
信じられるのは薄野ただ一人であった。ところが、薄野を頼れるかといえば、必ずしもそうでない点が苦しかった。舞いの師匠として厳しい目を持つ灰神楽は、薄野はものごとを深く考えず、軽率に動きすぎる癖があると見抜いていた。そして、灰神楽の人格と才能に対し、妬心を抱いていることをも察していた。危うい渦中に巻きこみ、一緒にたたかうためには、どうにも心許ない相手であった。
どれほど考えあぐねても、同じ壁にぶつかるしかなかった。たとえ危険な隘路であろうとも、薄野を通じて虹金に近づく以外の道は見つからなかった。
「とにかく、前に行こう」
ひとりごちて、灰神楽は自らに気合を入れた。
年の瀬が押し迫ったある日、舞いの稽古を終え、灰神楽と薄野は香茶を喫していた。四方山話をしながら、つとめて気軽に灰神楽は切り出した。
「ときに薄野さま、お願いがあるのですが」
灰神楽が薄野に“さま”をつけて呼ぶ時は、舞いの師匠であることをやめ、側仕えに戻ることを示していた。師匠対弟子の関係は下女対主人に逆転し、灰神楽は薄野に従わなければならない立場に戻ったのである。灰神楽の内面に秘められた気高さを知っている薄野は、不思議を覚えた。なぜ敢えて、師匠の偉さを捨て、主にかしずく身に戻らなければならぬのか。
「なにか、あったのかい」
それでも薄野は気軽に応えていた。真相を告げず巻きこむのは、灰神楽にとって心苦しかった。だが、余計なことを言えば、薄野は余計なことをするに違いない。
「なにも仰らずに、これを虹金さまに渡してほしいのです」
厳重に封緘された大きな紙包みを、灰神楽は差し出した。贈物にしては無粋すぎる品だった。こんなものを渡したところで、毛ほどの影響もあるまいと、薄野は高を括っていた。
「ああ、いいともさ」
簡単に薄野は請け合っていた。この紙包み一つで、自分の人生が大きく変わってしまうとは、薄野には想像もつかなかった。
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