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前哨戦
この夏、虹金は多忙を極めた。
大きな事業として、堰堤の新築があった。鉱滓がそのまま流れていかないよう、川には堰堤が築かれていたが、今のものは満杯近くなっていた。そのため、下流側に新しい堰堤を築き上げている真っ最中であった。新しい堰堤は石積で、高さは今までの三倍以上もあり、しかも急角度で屹立した。
虹金は工夫を凝らしていた。堰堤の両翼を伸ばし、尾根の上にまで届かせた。道が通る平場では幅をぐんと広げ、あたかも城塞のような格好にした。実際のところ、堰堤は道をふさいだので、関門となる長城を新設したようなものだった。
材料の手配や普請方の大増員など、気が遠くなるほどの費えがあった。ここで役立ったのは、飛猿が遺した莫大な横領金であった。悪事に身を助けられるとはなんたる皮肉かと、虹金は切実に悩ましく思った。
支出の急増に関しては、灰神楽も困り抜いていた。たとえ必要な支出であろうとも、資金には限りがあった。そうかといって、借金はしたくなかった。売価の高い新製品を開発しては他国に売りさばき、支出を切り詰め、さらには蓄えを取り崩すなど、ぎりぎりの均衡をもって綱渡りを続けていた。
虹金が遠国から帰ったある日、灰神楽は相談を持ちかけた。
「例の国から使者が来ておりまして、刀剣や鏃などを買い求めたいと申し込んでおります。買価は従前よりさらに上積みし、なんと相場の五倍、しかも前金で払うと息巻き、売ってくれるまで粘ると申し、本営に逗留中です。如何でしょうか。これほど高い値で売れるのであれば、今までの相手先を断っても、良い利益が出ると存じますが」
「だめだ」
有無を言わさぬ態度で、虹金は冷たく突き放した。
「商方頭として、敢えて申し上げます。ただいま資金繰りは火の車、より高い利益が出る取引には応じたいというのが本音です」
使者の物腰は金にものを言わす傲慢なもので、不快を覚えるほどいけ好かなかったが、それを忍び、さらに今までの取引先を袖にしてでも、利益はどうしても欲しかった。
「だめだ。だめだと言ったらだめだ」
ばんと机を叩き、虹金は怒鳴った。灰神楽はおびえ、はらはらと涙をこぼした。虹金は冷静さを取り戻し、灰神楽をそっと抱き寄せた。
「すまぬ。驚かせてしまったな」
「いいえ、虹金さまの心がよくわかりました。たとえ資金繰りが苦しくとも、今まで築き上げてきた相手との信頼を大事にせよ、との仰せでなのしょう」
「それもあるが、もっと大事なこともある。いずれにせよ、使者にはおれが会って断ろう」
虹金は使者を引見し、烈火の如く責め立てた。鉱山の取引は信義と信頼を重んじる。特に刀剣と鏃は人を殺めるための道具、迂闊な相手には売れない。相場の五倍の金を出すなど、ふざけるにもほどがある。我々の信頼を獲得できないがゆえに、五倍の金で購うようなものではないか。信義と信頼は金に換算できるものではない。あくまでも心のありようだ。
這々の体で使者は鉱山を辞去するしかなかった。用意した大金はなんの役にも立たなかった。虹金はさらに容赦しなかった。普請方頭となった熊吉に、秘中の指令を出したのである。
堰堤を築く工事のため、往路たどった道は塞がれていた。使者はやむなく、案内に従い、山中の間道を進むしかなかった。道は細く険しく、昼なお暗かった。進めども進めども、視界が開けなかった。道はやがて、沼地に突き当たって消えた。
使者の首筋に流れ出る汗は、ほとんど冷や汗であった。沼の水面は黒く、周囲はしんとして音もなく、殺伐とした空気に満ちていた。
「道を間違えてしまったか」
思わず出たひとりごとに、なぜか返事があった。
「いいや、この道で正しいのさ。ここは地獄の一丁目。あんたの門出の地さ」
ぎょっとして見回すと、黒装束の男たちがぐるり取り囲んでいた。男たちは既に弓を引き絞り、使者の一行に狙いをつけていた。
「射よ」
号令一閃、矢が一斉に放たれた。抵抗する間もなく、使者一行は全て殺された。
「深い穴を掘り、この者たちを丸ごと埋めよ。ただし、所持しているはずの金は、持ち帰る」
指図しているのは、普請方一の小頭、弥次郎であった。その表情は暗かった。虹金の命令とはいえ、丸腰の者を殺めるのは、気分のいいものではなかった。
「小頭、なんでこんなことをせにゃいかんのですか」
煮えきれない思いは部下も一緒だった。弥次郎は吐き捨てるように言い返した。
「知るか。俺達にとって虹金様の命令は絶対だ。黙って従っていればいいのさ」
その夜、憤怒に首筋まで染め上げ、灰神楽は虹金の部屋に駆けつけた。まさに疾風迅雷の勢いで、平手打ちを続けて三発も浴びせた。
「なんということをなさるのですか。わたしは虹金さまを見損なっておりました。信義と信頼を重んじるふりをして、盗賊の真似事をなさるとは。なんと卑劣なやり方でしょう。わたしは情けのうございます」
わなわなと震えながらも、灰神楽は虹金の胸板を叩かずにはいられなかった。涙が滝のようにあふれていた。
虹金は、自らの非を悟った。使者の後を追い、証拠が残らぬよう殺害したうえ、金を強奪せよ、と熊吉に指示したまではよかった。ここで熊吉は、強奪した金の扱いに困ったに違いなかった。金の出入りは大小問わず商方が扱う以上、いずれ灰神楽の許に持ちこまれるのだからと、熊吉は独り合点に判断したのである。どこかで金を灰神楽にまかせる以上、事前に相談しておくべきではなかったか。
驚いたのは灰神楽である。普請方に収入などあるはずがない。しかも大金。その分量は使者が見せびらかしていたものと合致するではないか。なにがあったかは自明であった。怒りが全身を突き抜けた。貧すれば鈍する、という次元でさえなかった。虹金を深く敬愛しているがゆえに、失望もまた大きかった。
「言い訳はせぬ。おれが悪かったのだ。ただ、これだけは信じてほしい。かの国は十年以上も昔から戦の準備を始めており、いずれわが国に仇をなす。敵を利することは断じて出来ぬ。たとえ大金を積まれても、刀剣や鏃を売るわけにはいかぬ。そなたに卑劣と思われようと、おれは心を鬼にして、かの国と戦うつもりだ。生きるか死ぬかの瀬戸際に、なりふり構ってはいられない」
静かに力強く、虹金は訴えた。灰神楽の涙が乾いてきた。
「そのような深いお考えがあるならば、もうなにも言いますまい。でも、お恨み申し上げます。どうしてわたしを信じ、打ち明けてくださらなかったのか」
「おれは本当に悪い男だな。昼はそなたを驚かせ、夜はそなたを怒らせ、一日に二度も泣かせてしまった」
虹金はすっかり落ちこんでいた。灰神楽の心を乱すのは、まったくもって本意ではなかった。灰神楽にとっても、平静を取り戻してみれば、虹金を支えきれない自分がもどかしかった。
「虹金さまは、口より先に手が出る女はお嫌いですか」
敢えて軽口を叩いてみる。虹金は苦笑いして肩をすくめた。
「愛と憎しみは表裏一体の感情だという。あれほど痛い平手打ちを食わせるとは、そのぶん深い愛が後ろにあるのだと、信じているよ」
灰神楽の首筋は再び真っ赤に染まった。いうまでもなく、それは怒りに基づくものではなく、照れによるものであった。
「これからも正は正、邪は邪と、遠慮なく指摘してくれ。鹿おどしのように、おれの命令に諾々と従う者ばかりでは、いつかおれは道を誤ってしまうかもしれぬから」
虹金の奥深い孤独を、灰神楽は改めて知った。鉱山を統率する絶対の主は、絶対の孤独に耐えなければならなかったのだ。その孤独、少しでも埋めてあげられるだろうか。
多福女面のまま、灰神楽は虹金に口づけしていた。虹金は目を丸くするしかなかった。なんと奇妙な感触、冷たいぬくもり。
灰神楽は、自分がした大胆な行為に気づき、慌てふためいて逃げ出した。首筋は真っ赤っ赤に染まっていた。
「灰神楽からの口づけを貰うとは」
虹金は拳を叩いて大喜びした。その虎髭は涙に濡れそぼっていた。虹金は女を抱くことにこそ熟達していたが、実のところ真に愛されるのは初めての経験なのであった。まして、将来の伴侶と思い定めた灰神楽からの愛を享けては、喜び以外のなにものも生じるはずがなかった。
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